She's walking, World's spinning

@kasparov0202

カレンダー・ガール

 僕がカレンダーの中の彼女と出会ったのは2月の終わり、京都の街で底冷えが続く時期だった。大学は春休みで、同期達はアルバイトやサークルに精を出しているようだったが、僕は下宿したアパートで無為に日々を過ごしていた。

 京都の冬は暗く、寒い。それは僕が生まれ育った関東地方の冬とは全く異なるものだった。晴天、とはっきり言える日を、年初以降見ていない気がする。空は常に雲に覆われ、基本的に雨、たまに霙が降る。高校生の頃「古都」という言葉で憧れたこの街は、その寒空の下、ひどく陰鬱に見えた。また、その年は寒波の影響で例年以上に冷え込みが厳しく、僕は身をもって「底冷え」という言葉の意味を知ることになる。(僕はその年に越して来たばかりなので、「例年」というのはニュースの受け売りだ)

 外に出てしばらく経つと、スニーカーに包まれた足先がジンジンと痛みはじめ、足元から這い上がった寒さは、高校時代に痛めた腰に響いた。自然と背筋は曲がり、僕は冬の間に自分が老人になったかのように感じていた。

 下宿に引きこもった理由は天候のせいだけではない。僕には休暇中に遊べる、友人と言える存在が殆ど大学にいなかった。1年間通ったが、高校までとは異なる人間関係に馴染むことが出来なかったのだ。高校までは、どの生徒に対しても「クラス」と「席」という物理的な居場所が自動的に割り当てられる。「欠席」という言葉の通り、学校を休めば席は空くし、それが何日も続けば周囲は当人の体調を心配する。しかし大学はそうではない。決まった席はなく、同じ学科の同期であっても、それぞれ出席する講義は異なる。僕には、大学の人間関係がひどく流動的で表面的なものに感じられた。僕が欠席したところで、それに気づく人間は稀だし、気づいたところで「サボりかな」と思うだけだ。

 「自分がここに居ようが居まいが何も変わらない」こんな言葉が頭の中で回り始めたのが昨年の10月あたりで、それから僕は徐々に講義に出なくなった。大学に行くのを完全にやめる度胸はなかったので、講義には出席せずに大学図書館で勉強し、単位取得に必要な課題のみを提出した。野球サークルに所属していたものの、メンバは学部・学科バラバラで、週一の練習以外に会う機会は少なかった。また、遊びの延長にあるようなサークルだったので、春休み中には練習もなかった。(そもそもこの天気では練習は不可能だ)中高では猛練習で有名な野球部に入っていた。大学くらいは遊びたいと思って、緩めのサークルを選んだのが間違いだったのだろうか。サークルではなく運動部に所属していれば、しっかりとした友人関係も作れていたのではないか、少なくとも現在のような状態にはなっていなかったのでは。

 そんなことを考えながら、何もする気が起きないので、実家から送られてきた半纏を着込み、二人がけのソファに横たわる。赤く光る電気ヒーターに当たりながら映画を見て、気づいた時には眠りに落ちる、そんな自堕落な生活がひたすら続く。春休みも最初の内は、近所のスーパーに買い出しに行き、3食自炊をしていたものだったが、「仮に自分が栄養失調で倒れたとしても、誰も気づかないんだろうな」と思うと、それすらも寒さで億劫になってしまった。1日に1回、買いだめしたパスタを茹で、レトルトソースをかけてもしゃもしゃと食べる。

 曇天の下、6畳の部屋は昼夜問わず暗い。そのせいもあってか、時間が凄まじい速度で過ぎ去っていく。1日の大半を寝ているため、過ぎ去っていくというよりも、消失していく、という表現の方が正確だ。1日が終わる頃になって初めてその日の日付に気づく。自分の住む部屋だけが他の世界とは切り離され、地球の自転に取り残される感覚に襲われる。

 そんな生活を二週間ほど送った頃、流石にまずいと思い、ソファ裏の押入れで眠っているカレンダーを引っ張りだした。まずは曜日感覚を取りもどさなくてはならない。そのカレンダーは実家を出るときに父からもらったものだった。一年の間に積もった埃をカレンダーの表紙から払いながら、笑顔で実家を送り出してくれた父親を思い出す。こんな怠惰な生活を送っている自分を見たら父はどんな顔をするだろうか。そう思うと胸の奥がチクリと痛んだ。

 そのカレンダーは、各月のページの上半分に絵や写真が描かれ、下半分に暦が書かれているタイプのものだ。表紙には今年の西暦とともに英語の格言らしき “ Time flies over us, but leaves its shadow behind” という文章が印刷されている。時間が消えていくこの部屋には影さえ残らないな、自嘲的にそう思いつつ表紙をめくった所で、あれっと思った。そのページは、絵や写真が描かれる筈の枠内が空白で、4月の暦しか印刷されていないのだ。5月、6月とめくっていってもそれは同じだった。元々こういったものなのか、それとも乱丁の類だろうか。11月、12月、1月とめくっていって、今月、2月のページになって初めて枠内に風景が現れた。住宅地を女性が歩いている姿を真横から撮った写真だった。

 それは日常の、どこにでもある風景を切り取ったもので、カレンダーに入るような写真には見えなかった。女性の背景にはコンクリートマンションと茶色の雑居ビルが見え、雑居ビル入り口には赤い自販機が設置してある。写っている女性もどちらかというと地味な痩せた女性で、女優やモデルには見えない。下にデニムパンツ、上に黒いダウンジャケットを着て、登山にも使えそうな少し大きめのバックパックを背負っている。黒い髪の長さはボブ程の微妙な長さで、目は細く、少し垂れ気味に見えた。化粧っ気のない横顔は、僕と同じくらいの年齢に見える。

 その時、進行方向を見つめていた女性の顔がこちらを向いた。ギャッ、と僕は声をあげ、座っているソファから飛び上がる。その女性はすぐに顔を元の方向にもどし、言った。


「今年は何もないまま終わるかと思ってたんだけど」


 女性の声はカレンダーの写真から聞こえてくる。さらに、声が聞こえるのとほぼ同じタイミングで、写真の中の彼女は動き始めた。まるで、ポーズした動画の再生ボタンを押したかのようだった。彼女は僕から見て右方向に歩き出し、後ろの風景も横スクロールをし始める。紙の中に液晶やスピーカーでも入っているのかと思ってページをめくり、裏から透かそうとしたり、曲げたりしてみるが、どう見ても、ただのロール紙にしか見えない。

 僕が呆然とカレンダーを眺める間も、彼女は歩き続けている。

「これはどういう」

「たまにあるんだよ」

 彼女は僕の質問を途中で遮って答える。今度はこちらを向くことなく、前を見つめたままだ。

「多分ね、チャンネルか何かが繋がるんだよ。そっちの世界では確か、何もしなくても時間が進むんだって、前会った子から聞いたけど」


 その後、カレンダーを通して彼女と話した。彼女のいる世界は、どうやら僕たちの住む世界とは違う世界らしい。彼女曰く、最も大きな違いが、「時の流れ」だ。そこでは、時計の針が自ら進むのを止めてしまったらしい。その世界の住人はそれぞれが独自の時間を持ち、何らかの行為によってそれを進めなくてはならない。彼女自身が日々の「歩く」という行為によって時を進めるように。彼女曰く、時を進める方法は人によって異なるのだという。何らかの労働行為を続けることにによって時を進める者もいれば、特に意味のない行為を繰り返すことでそれを進める者もいると言う。

「ちなみに、もし立ち止まると、どうなるんですか?」

 僕は興味本意で尋ねて、すぐに後悔することになる。

「それが私たちの世界における「死」だね」

 彼女たちは基本的に年を取らないし、その行為を続けている限り肉体的な死を迎えることもない。しかし行為を止めることは、自身の時計の針も止まるということであり、周囲の時の流れから取り残されることを意味する。

「時間にも慣性があるから、しばらく休む程度であれば問題ないんだけど」

しばらくを超えて止まってしまうと、その人の存在は世界から消えてしまうのだと言う。

「ある日、ふっといなくなっちゃうんだよ」

 僕は小学校の頃の遠足で、自分が山の中で一瞬迷子になった時のことを思い出した。当時は体が小さく、足も遅かったので集団に遅れがちだった。積もった落ち葉に足を取られて転んでしまい、立ち上がった時には視界に誰もいなくなっていた。幸い引率の先生がすぐに気づいてくれて集団に戻れたが、その時の絶望感を思い出すと今でもぞっとする。

 この話をしている間も彼女は歩き続け、話し終えると「ごめん、ちょっとペースが落ちてるからしばらく黙るよ」と言って無言に戻った。彼女はカレンダーを通じて、僕から見られることに対し、特に気にしていない様子だ。

 歩く彼女を見ながら、僕はこのカレンダーをどうすべきかしばらく迷っていたが、結局ベッド横の壁にかけることにした。ベッドの横の壁のなるべく高い位置に画鋲でカレンダーを固定する。その位置からなら、ベッドやソファーで寝ている自分は死角になるはずなので、自堕落な生活を彼女に見られずに済むと考えた。(後から聞いたところ、彼女がこちらの世界から受け取ることのできる感覚は音のみだったので、杞憂だった)カレンダーを閉じ、押入れに戻すことも考えたが、自分以外の人間が部屋にいるのは悪くないと思ったのだ。彼女はよく喋るタイプには見えないし(歩くのに忙しいからかもしれないが)、こちらのプライバシーに首を突っ込むこともないように思われた。何よりその時の僕は孤独に倦んでいた。

 その後も、残念ながらと言うべきか、大きく生活は変わらなかった。相変わらず僕はソファに寝転がり、1日の多くの時間を映画の鑑賞に費やした。(おかげで映画には詳しくなった。後でカウントしたところ、この春休みで観た映画の本数は150本を超えていた)唯一変わったのは、歩く彼女の邪魔をしないようにヘッドフォンをつけて映画を観るようになったことと、定期的にスーパーに行って毎日3食自炊するようになったことくらいだ。カレンダーの中の彼女とも、特に会話はしなかった。僕が昼近くにベッドで目を覚ますと、音でそれに気づいた彼女がこちらをちらっと見る。僕は「おはようございます」と言い、彼女は「そんなに早くはないけどね」と答える。僕たちの間のコミュニケーションはせいぜいそれくらいだった。

 50cm四方の枠の中、こちらが声をかけるのをためらう真剣さで、彼女は歩き続ける。目は常に前方をまっすぐに見つめ、口は不機嫌にも見えるほど固く結ばれている。足取りには、小走りのような焦りもなければ、散歩のようなふわつきもなかった。彼女の痩せた、細い手足は常にキビキビと動かされ、履いたスニーカーは迷いなく地面を踏みしめる。あちらの世界でも地面のほとんどは舗装されており、街並みや風景もこちらの世界の、日本の街並みとあまり変わらないように見えた。

「疲れたり、眠くなったりはしないんですか」

 彼女が山間の道路を歩いている時に訊いてみたことがある。彼女は昼夜問わず歩いているようだったし、見た限り睡眠や長時間の休憩をとっているようには思えなかった。

「特にしないね」

 僕たちの会話における彼女の応答はいつも簡潔で素っ気ないものだったので、僕はそれでこの会話は終わりかと思っていた。が、彼女は少し考えるように俯いた後こう答えた。

「君が仮に誰かから、『心臓を動かすのに疲れたりしないんですか』って質問されても答えに困るでしょ。それと同じだよ」

「その…肉体的なキツさというより、精神的に辛くないですか、ずっと歩き続けるのって」

 彼女は、今度はほとんど考える素ぶりをみせなかった。

「歩く以外に選択肢はないし、みんな何かやってわけだからね、特に辛くはないかな」

 彼女は明日を迎えるのに必要なことを淡々と実行している。ただただ怠惰に暮らしているだけの自分が情けなくなった。


 歩くという行為については、さらにこんな会話もあったことを僕は覚えている。それはある映画を観た後のことだった。その映画は、タイムリープ能力を手に入れた主人公が友人を助けるために現在と過去を行き来する話だ。彼女は限られた回数ではあるが、走りながらジャンプすることで、時間軸を超えることができる。その映画があまりに面白く、誰かに感想を話したかった僕は、そのあらすじを彼女に説明した。おそらくそれは、僕が彼女とした会話の中で最も長いものだったと思う。彼女はいつものように歩きながら僕の感想を聞いた後、

「1回ジャンプするだけで時間を超えられるなんて、随分とイージーな舞台設定に聞こえるよ」

彼女の言葉には珍しく、僅かな皮肉の響きがあった。彼女自身もそれに気づいたらしく、

「話自体は好きだけどね」

 とすぐに付け加えた。

「仮に、ジャンプすることで多くの時間を進められるとしたら」

 それでも、あなたは歩き続けるんですか。質問が口から出かかったが、さすがにそれは失礼だと思って僕は口を閉じた。

ただ彼女には質問の意図が伝わってしまったようで、少しの間逡巡した後、

「歩く方を選ぶかな、うん」

 そう彼女は答えた。

「全く疲れや辛さがないって言ったら嘘になるけど、それでも、そんなに嫌いじゃないんだよね、歩くこと自体」

 一見淡々と歩き続ける彼女にも、時間や歩くという行為について考えたことがあったんじゃないか、と僕は思った。それと同時に、質問した自分の卑屈さに気づき、少し落ち込む。


 3月に入り、彼女が写るページが2月から3月へ移っても、京都の寒さは変わらなかった。ある夜、昼から降り続ける霙の音が聞こえなくなったので、曇りガラスから外を見ると、白い雪が舞い落ちている。こういうのを牡丹雪と言うんだろうか。曇りガラスのせいもあるかも知れないが、雪の一粒一粒がとても大きく見える。僕が京都に来て始めての雪だった。

 ヒーターのつまみは最大になっているはずなのに、それでも足先が冷える。夜遅くまで起きている理由もないので、その日は早めにベッドに入ることにした。ベッド横の壁のカレンダーに目を向けると、彼女の街でも、こちら程大粒ではないが雪が降っている様子だった。彼女が歩く街並みや風景は、時に住宅地であったり、山道であったりしたが、その夜はどこかの工業地帯だった。彼女は長く続くフェンス沿いの道を歩いている。フェンスの向こうに見える建物は何かの工場だろうか。建物自体は消灯しており、建物を取り巻くパイプに取り付けられた赤いランプだけが点滅している。さらにその向こう側には、黒くそびえる煙突のようなものが見える。彼女はダウンジャケットのフードをかぶっていて顔は見えなかったが、うっすら雪が積もったフェンス沿いの歩道をいつもと変わらぬペースで歩き続けていた。

 寝支度を整え、部屋の電気を消すと、真っ黒な部屋の中で、彼女がフードの中から吐き出す白い息が浮かび上がる。僕はベッドに敷いた毛布に潜り込み、天井を見上げる。

「寒さは大丈夫ですか」

「確かに寒いけど、まあ冬だしね」

足元に気をつけて、とか何か声をかけるべきだろうか。少しの間迷ったが、結局何も言えないまま僕はまぶたを閉じた。枕の位置から、彼女が積もった雪を踏みしめて進む音が聞こえる。


 ザク、ザク、ザク、ザク、ザク…


 それは聞いているとどこか安心できるリズムだった。不思議なことに、その足音で、地球の自転から切り離されたこの部屋が、再び地球に正しく接地するような気がした。まぶたの裏に、雪で白んだ暗闇に向かって彼女がまっすぐ向かって行く光景が浮かぶ。

 その夜少し変わった夢を見た。小説「星の王子様」に出てくるような小さな惑星の上を彼女が歩いている。その惑星は、彼女の身長と同じくらいの直径しかないが、よく見ると僕たちの住む地球だということが分かる。回っている地球の上を歩いている、というよりも彼女が歩いているおかげで地球が自転しているという感じだ。彼女は夢の中でも現実同様、真剣な顔つきのまま歩き続け、地球を回し続ける。


 雪が降った日から、徐々に京都の街は春に向かい始めていた。太陽が雲に覆われる割合は減って行き、時には青い空が1日続く日もあった。12月から出しっぱなしになっていた電気ヒーターにもそろそろ御役御免を言い渡す時期が来そうだ。彼女の世界にも春は来ているようで、彼女の歩く道にもちらほらと緑が見え始めている。彼女のスニーカーも、それまで履いていた黒から、いつのまにか明るい、黄色に変わっていた。

 3月の最終週に入った頃、僕は以前から持っていた疑問を口にした。

「このカレンダー、3月31日までなんですけど、その後ってどうなるんですか」

「どうなるものでもないよ」

 彼女は答える。

「私は歩き続ける、君とは話できなくなるわけだけど」

 やっぱりそうか。彼女が先月から今月のページに移った時から予想していたことではあった。

「再びチャンネルが繋がることってあるんでしょうか」

「今までの経験上、同じ人と再び繋がるってことはないね。繋がること自体数年に一回あるかないかの割合だし」

 それを聞いて、全く寂しくないと言ったら嘘になる。そしてそれ以上に、一週間後に始まる大学の講義が、春の到来で一瞬明るくなった僕の心を憂鬱にした。

 僕のそんな気持ちに反して、3月最後の一週間は一瞬で過ぎ去り、僕は3月最後の日を迎えた。満開の桜と大学への期待に満ちた新入生で溢れるキャンパスで、一人図書館に向かう自分を想像すると気分が重くなる。そもそも、大学前の長い坂道を登りきり、キャンパスにたどり着く気力が今の自分にあるのかも不安だった。唯一の救いは明日4月1日が休日のため、講義開始が4月2日からであることだけだ。

 僕はその日、いつもと同じく映画を観て過ごした。最後の日に挨拶くらいはしなくては、と思っていたものの、夕方から観始めた長編映画が期待以上に面白く、気付いた時には日付が変わる5分前になっていた。急いでカレンダーの前のベッドに座り、彼女に声をかける。

「そろそろ3月も終わりなので、挨拶をと思って」

 一ヶ月以上空間を共有していたにもかかわらず、僕の口調は若干の硬さを含んだままだった。

「あ、そうか。もうそんな時間か」

 彼女はどこか川沿いの道を歩いていた。道は綺麗に舗装され、道沿いには桜並木が植えられている。短い間隔で街灯が設置されているので、夜中のこの時間でも彼女の姿ははっきり見ることが出来た。先週会話した時に着ていたダウンジャケットはもう脱いでしまったようで、長袖のTシャツ姿だった。挨拶といっても、特に話すべき二人の思い出話もなかったので、今後の行き先について尋ねてみる。

「このところずっと町の中を歩いてたから、今度は海を見たいと思って」

「海」

 僕は鸚鵡返しに聞き返す。

「そう、海」

 海から離れた京都の街でその言葉を聞くのは久しぶりで、僕にはとても新鮮に響いた。

「砂浜を歩き回る、みたいな?」

「それもいいな」

「海が綺麗だったらいいですね」

「うん、きっと」

 そこまで言ったところで彼女は腕の時計をちらっと見て、こちらに顔を向けた。

「今年も、もう終わりだ。またね」

 そう言いながら、彼女はわずかに微笑んだ。彼女の細い目がさらに細まり、糸目になる。口からは少し白い歯が見えた気がした。僕が言葉を返そうとした時には、既にカレンダーの50cm四方の空間は空っぽになっていた。他のページに移ってたりしないだろうかと思い、カレンダーをパラパラとめくって見るが、やはり彼女はいなくなっていた。

 映画が終わった後の、エンドロールを見ている時の気分だった。映画を観終わった後、僕はいつも登場人物達のその後を想像する。登場人物の人生は続くが、自分はそれに関わることができない、寂しさと不思議な孤独感。良い映画を観た後は、余韻が冷めないうちに寝るに限る。壁にかけたカレンダーはそのままにして、僕は眠った。


 翌4月1日の朝、珍しく朝早くに目が覚めた。朝日が窓から部屋に差し込んだせいだ。改めて春を感じるのとともに、4月が来てしまった事実を思い出し、少し気分が落ち込む。壁にかけたカレンダーを見ても、先月の写真枠の中は白いままだった。僕は少し迷った末、カレンダーを壁から外し、押入れに戻すことにした。もう誰もいないとは言え、ゴミ箱に捨ててしまうのはためらわれた。

 洗面所で顔を洗い、服を着替える。部屋に戻ってきた時、僕は昨晩気づかなかった自分の部屋の静けさに気付いた。カレンダーの中の彼女の足音が、それまではわずかに、しかし常に部屋の中に響いていたことに今更ながら気付いたのだ。


 ザッ、ザッ、ザッ、ザッ

 ザク、ザク、ザク、ザク

 ヒタ、ヒタ、ヒタ、ヒタ


 それは彼女が歩く場所や天候で変化したが、どれも規則的で迷いのない足音だった。速くも、遅くもない適度な速さ。海に向かって川沿いの道を歩く彼女を想像すると、その音が聞こえてくるようだった。


 トッ、トッ、トッ、トッ


 自分がそばで見て居ても、居なくても彼女は歩き続けるのだろう。耳の奥から聴こえてくるその音を感じながら、僕はそう思った。


「自分が居ても、居なくても」


この半年間、自分を苦しめて来た言葉が、その時はなぜかそう悪くはないように思えた。前を向いて、淡々と歩き続ける彼女の姿は、僕の中にある明日への憂鬱をほんの少し軽くし、安心感さえ与えてくれる。海まではさすがに無理だけど、鴨川のほとりを少し散歩してもいいかもしれない。大学前の坂道を登るには、少し運動しなくては。今年のカレンダーを買いに行っても良い。

 僕はソファから立ち上がり、机の上にある財布をポケットに入れる。玄関に置きっぱなしになったスニーカーを履き、ドアノブを回し、外に出る。アパートの廊下からは京都の北の空が見えた。空は雲ひとつなく、抜ける様に青い。僕は、彼女が見る海がこの空と同じくらい綺麗であることを祈った。

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