酔いに和らぎ月を読む

矢野窮

酔いに和らぎ月を読む

 学名、Oenothera stricta。アカバナ科マツヨイグサ属の二年生植物。

 和名をマツヨイグサという。宵を待つ草。江戸時代に日本に入ってきたらしいが、もしも日本に古くから自生していたら、数多くの和歌に詠まれていただろう。万葉の歌人たちがこの小さな植物を見逃すはずがない。なにしろ宵を待って、つまり夜になって初めてその花を咲かせる、そんな風雅な植物なのだから。四枚の花弁は黄色く、小さな月の欠片を思わせる。

 ……いや、そんなことを考えている場合ではない。大学の講義で、好きな植物をひとつ取り上げてその生態についてまとめるべしというレポート作成の課題が出ているのだ。この課題はとりあえず文字数を稼げば単位がもらえる緩さと聞いた。こういうところで単位を確保していかねばならないのに、頭は夜の草原である。

 私、秋月ゆみえは生物学を学んでいるのであって、まかり間違ってもレポートに和歌を書くわけにはいかないのである。もっとも、和歌など詠んだこともないから、書こうとしても書けないのだけれど。

 大学の図書館で植物の百科事典をぱらぱらめくって、どの植物にしようかと見繕っていたところで、マツヨイグサに目が留まったのだった。

 夜に花を咲かせるメリットは何だろう、と一応生物学っぽいことを考えてみる。光合成のできない夜に花を咲かせるためのエネルギーを使ってしまうのはリスクがあるようにも感じる。もちろんそのように進化した結果なのだから、花を咲かせるエネルギーを見込んだやりくりができているはずではある。

 答えは百科事典の記載から簡単に見つかった。虫媒だ。夜行性の虫に花粉を運んでもらうのだ。一方で自家和合性を持つため、虫による受粉が行われなかった場合は自家受粉を行うことで結実する。夜に開花を行うことのリスクヘッジといったところか。

 レポートの提出期限はまだ先だ。また今度にしよう。百科事典を静かに閉じた。人と会う約束がある。


 大学構内にはいくつかカフェがある。私が利用するのはひょんなことから知り合った、一年先輩の結城さんとお茶をするときくらいだ。結城さんは文学部で日本の文化について勉強をしている女性だ。

「しかし記紀神話で月って影薄いですよね」

「そう?」

「えっ?」

 グラスを口に運ぶ途中で手が止まった。同意の言葉が返ってくるとばかり思っていたので、意表を突かれたのだった。

「薄くないですか……? だって、名前だけ紹介されてそのままいなくなって終わりで。天照大御神と大違い」

「本当に名前が出てくるだけの神様はほかに大量にいるからね。それに比べたら月の神は結構描写されていると思うよ。……と言うよりも」

 はい、と結城さんの言葉の続きを待つ。

「秋月さんのそのイメージは、たぶん古事記が元になってるよね。日本書紀だとまた内容が違うから……うん、そういう意味では、秋月さんでも記紀ってまとめて言っちゃうんだなって、ちょっと意外だなあ」

「おう……」絶句してしまった。そうか、ああ、しまった。

「……大丈夫?」

 結城さんの言葉に、唸り声で応える。

「うう、おっしゃる通りですね……」

 なんとなく仕入れた情報だけで喋ってしまっていたが、考えてみれば古事記はともかく日本書紀のことを全然知らないことに気づかされて、内心頭を抱えてしまう。

「日本神話を解説するような本も古事記がほとんどだからね。もし日本書紀を読むなら、秋月さんなら原文の読み下し文でも楽しめるんじゃないかな」


 いても立ってもいられなくなり、結城さんと別れて図書館に舞い戻った。途中で知り合いの顔を見た気がするが、気にする余裕もなかった。



 ――既にして伊弉諾尊いざなき伊弉冉尊いざなみ、共にはかりて曰はく、あれすで大八洲国おおやしまのくに及び山川草木を生めり。何ぞ天下あめのした主者きみたるものを生まざらむとのたまふ。ここおいて、共に日の神を生みまつります。大日孁貴おおひるめのむちもうす。(大日孁貴おおひるめのむち、此をば於保比屢咩能武智おおひるめのむちふ。一書あるふみに云はく、天照大神あまてらすおおみかみといふ。一書あるふみはく、天照大日孁尊あまてらすおおひるめむちのみことといふ。)此のみこ光華明彩ひかりうるわしくて、六合くにの内に照りとおる。かれ二の神ふたはしらのかみ喜びて曰はく、さわありと雖も、未だ若此かくくしびあやしき有らず。久しく此の国に留めまつるべからず。自ずから當にすみやかに天に送りて、授くるに天上あめの事を以てすべしとのたまふ。是の時に、天地あめつち、相去ること未だ遠からず。かれ天柱あめのみはしらを以て、天上に舉ぐ。次に月の神を生みまつります。(一書あるふみに云はく、月弓尊つくゆみのみこと月夜見尊つきよみのみこと月讀尊つきよみのみことといふ。)其の光彩ひかりうるわしきこと日にげり。以て日にならべてしらすべし。かれまた天に送りまつる。次に蛭兒ひるこを生む。すで三歳みとせになると雖も、脚なおし立たず。かれ天磐櫲樟船あめのいわくすふねに載せて、風のまにまに放ち棄つ。次に素戔鳴尊すさのおのみことを生みまつります。(一書あるふみに云はく、神素戔鳴尊かむすさのおのみこと速素戔鳴尊はやすさのおのみことといふ)――。



 図書館を出ると右手側、西の空に微かな明るさだけを残して、日はその姿を消していた。思い立って空を探してみたが、月は見あたらない。建物の陰に隠れているのか、新月なのか……。それすら分からない。神話のことばかり気にしていたが、折角なら天文学的な知見も増やしたいところだ。

 しかし日本書紀をざっと読んでいて、いろいろ発見があった。情報を無理矢理詰め込んだので、頭が忙しい。ちょっとした刺激で覚えたことが四散しそうだ。

「ちょっと時間いいですか~」

 自分に話しかけられているのかと思い身構えて振り返ると、すぐそばで男子学生が女子学生に話しかけられていた。サークルの活動なんですけど、アンケートに協力してもらえませんか~、と女性が話している。話しかけられた男子学生は逡巡する様子を見せ、それを察した女子学生が、強引に話を進めるように本題らしき話をし始めた。人見知りをする私としては、アンケートの次のターゲットになるのは避けたく、その場を離れようとそっと身を翻した。

「やあ秋月さん」

 身を翻した先にいた人は、今度は間違いなく私に声をかけていた。

「あ、千里さん。こんばんは」

 千里さんは学食で働く男性だ。この人も結城さんと同様、ひょんなことで知り合った。学食は図書館を出て右前の方向に見える建物だ。先ほど太陽の行方を確かめた方向に位置している。先ほどの微かな明かりはさらに淡いものになっていた。つるべ落としだ。

「あれ? さっきカフェにいました?」

「うん。野暮用でね。しかしこんな時間に学校にいるとは珍しいね」

「ちょっと自らの不明を恥じて日本の歴史について勉強してました」

 いや、歴史じゃないかという私の言葉を聞いているのかどうか、千里さんは、へえ、と気のない返答をする。

「空を見上げて何をやっていたの……と言っても大体想像つくけど」

「そ、そうですか?」

「先月中秋の名月だったからね、月でも探してたんでしょ」

「……話が早くて助かります」

 中秋の名月、お月見か。そういえば少し前にスーパーやらコンビにやらで月見団子を見たような気がする。

「ここだと図書館が邪魔で見えないけどあっちに出てるよ」

 千里さんが学食と反対の方向を指差した。少し図書館から離れてみると、半月が少し膨らんだ形の月が出ていた。こんなにまじまじと月を見るのはいつ振りだろう。淡く光を放っていて、想像よりも明るい。

「あー、あれは……。欠けていくところですか? 満ちていくところ?」

「月は右から光り始めて右から欠け始めるので、満ちていくところだね」

「じゃあ今日は、月齢九か十といったところですかね。来月なら、と言うか旧暦十月なら十日夜だ。来週は満月が見られますね」

 あ、先月が中秋の名月なら。

「来週は十三夜だ」

「十三夜?」

「旧暦九月十三日、満月のちょっと手前ですけど、その昔平安の貴族が宴をしたとか何とかで、旧暦八月十五日に次ぐ月見日和の夜です」

 もちろん私自身は特に十三夜に月を愛でるということをしたことはない。十五夜だって子供のころだけだ。

 首が痛くなったと千里さんが呟いて、学食の方へ歩き出した。私の帰り道も概ね同じ方向なので、ついて行く。

「お月見するなら、もっと低い位置にあってほしいですね」

 今の月も決して高い位置ではないが、ずっと見上げているのは大変だ。

「ああ、だから十五夜はちょうどいいのか。うまくできてるね」

「ん? 何がですか?」

「だって、同じ時刻なら満月に近づくにつれて、月の位置は低くなるでしょ。だから夕方から酒盛りをするなら満月の方が首に優しい」

「そうなんですか……。さっきからそうですけど、千里さん、天体に詳しいんですか?」

「そういうわけじゃないけど、中学校で習うよね」 

 習ったような気もする。「ですね」

「そうでなくてもだ、少なくとも満月は、地球から見た月が正面から太陽の光を受けている状態というのは分かるよね。つまり大雑把に言うなら、月、地球、太陽の順に一列に並んでいて、地球の夜側から月を眺めている状態。だから、太陽とちょうど正反対の方向に月がある。これまた大雑把に言うと、ちょうど今の時間帯、太陽が地平に沈んだとき、ちょうど反対側の地平から満月は登り始める」

「はあ、なるほど……」

 今日の満月前の月は日没時にすでに地平線より高い位置にあるらしい。そことの関係は頭の中で整理できていないが、満月はなるほど、言われてみればそうだ。

「ちょっと待ってて。秋月さんの都合がよければご飯食べに行こう」

 言うだけ言って私の返答も待たずに千里さんは学食に入って行った。まあ夕食どきではあるし、どうせ用事もない。そして私に用事などないことは千里さんにとっては月の満ち欠けと同じくらい自明のことなのだろう。


 お店は適当で良いかと聞かれたので適当でよいと答える。そして入ったのは学校からほど近い、少しお洒落な感じの居酒屋だった。千里さんが奢ってくれるというので、おとなしくお言葉に甘えることにする。

「お酒飲んでいい?」

 千里さんがぱらぱらとメニューのページを繰っていく。月見の話してたら飲みたくなったよと言う。別に断ってもらう必要も感じず、頷く。

「ちなみに私も今年二十歳になったんですよ」

「ふうん。お酒飲んでみた?」

「家で缶のお酒飲んでみたんですけど、とりあえずアルコールもアルデヒドもそれなりに分解できるみたいです」

「それはよかった、かどうかはわからないか」

 何か飲むかいとメニューを差し出された。お酒の名前が列挙されているが、概ね何がなにやら分からない。

「……甘くて炭酸じゃないのってありますか?」

 これかなと千里さんが指したお酒を注文することにした。

「こういうところ初めて入りましたけど、なかなか居心地が良いですね」

 千里さんに聞くと、ダイニングバーという種類のお店らしい。照明が少し落としてあり、席と席の間は少し高めのしきりで区切られている。周りからの視線がうまい具合に遮られて、落ち着く。と

 はいえ他の席が全く見えないわけではなく、例えば通路を挟んだ真横の席などは遮るものなく普通に見える。

 料理の選択も千里さんにお任せし、運ばれてくるのを待つ。

「それで、秋月さんが恥じた不明とは何だったの」

「えーとですね――」

 マツヨイグサ、そして、結城さんとの会話からあらましを千里さんに話す。

「月見草、とは違うの?」

「ツキミソウもマツヨイグサ属の種だったと思いますよ。夜に咲くのは同じで。花びらは白だそうです。マツヨイグサは黄色だから、月が黄色いからマツヨイグサは誤ってツキミソウと呼ばれがちみたいですね。

 逆だったら間違えられにくかったでしょうね。ネーミングセンスはすごいけど、江戸時代の人ももう少しややこしくないようにしたらよかったのに」

「ん、それはさ……」

 千里さんが何かを言いかけたところでお店の人がお酒や料理を持ってきた。私の前にはオレンジ色のお酒が置かれる。

「あ、甘い。おいしい」

 千里さんに教えてもらったファジーネーブルというこのお酒は、ジュースみたいでおいしい。言うまでもないがお酒がおいしいということではなく、ジュースがおいしいのと同じ意味でおいしいだけだ。

「でもびっくりしましたよ。これ」

 図書館で借りてきた日本書紀を書き下した文庫本。これを鞄から出し、付箋をつけたページを千里さんに開いて見せる。神代第五段本文。

「なになに……すでにしていざなきのみこと・いざなみのみこと、ともにはかりていわく。ルビがないと読めないな、これ」

「問題はその少し後です……ここに、ともにひのかみをうみまつります。おおひるめのむちとまうす。あるふみにいわく――」

「あるふみ?」

「そうです。通は一書と書いてあるふみと読みます。で、驚くなかれ、あるふみにいわく、あまてらすおおみかみといふ、ですよこれ! さらに、ここです」同じページの少し先の部分を指さす。

「つぎにつきのかみをうみまつります。あるふみにいわく、つくゆみのみこと、つきよみのみこと、つきよみのみことといふ。ですよ! どうですかこれ!」

「どうですかと言われても、秋月さんのそのテンションの高さが新鮮で面白いよ、僕は」

「人を酔っぱらいみたいに言わないでください。大発見に興奮してるだけですからね。

 ……話を戻しますが、わたしが太陽の神、月の神と信じて疑っていなかった天照大御神や月読命は、日本書紀においては本文にその名前はなく、あくまで一書扱いだったんですよ。日の神は日の神、ただし名前は大日孁貴。そして月の神は月の神でしかない」

 ふうん、と言いながら千里さんがサラダや揚げ物を取り分けてくれ、私はありがとうございますとお礼を言う。

 ふと見れば先ほどまで空いていた通路を挟んだ向かいの席では、学生らしき三人組が酒盛りをしていた。うち二人はやけに熱っぽく語っている様子だ。結構大きな声なのに今まで全然気づかなかった。

「つまりやっぱり私は酔っているのでしょうね」

「えっ何?」

 それどころかお店全体にお客さんが入って活気づいている。

「お酒を飲んだら運転しちゃいけないということがよく分かりました」


 さて日本書紀の基本的な構成は、ひとかたまりのお話が段として別れており、各段ごとに本文と複数の異説が併記されている。その異説は「一書曰」で書き始められる。ただ、先ほどの日の神の名前のように、本文中にも異説が挿入されていることがある。

「それで、この第五段十一番目の一書」

 開いたページを千里さんに見せる。

「月夜見尊のエピソードが載っているんです」

 このエピソードでは、伊弉諾尊は天照大神と月夜見尊に天を治めさせ、素戔鳴尊には海を治めさせる。

 そして天上にて、天照大神が月夜見尊に命じる。その内容は地上にいる保食神の様子を見て来いというものだ。月夜見尊の訪問を受けた保食神は、月夜見尊をもてなすためにその口から様々な食物を出す。国を向いてはご飯を出し、海を向いては魚を出し、山を向いては獣肉を出すという具合である。

 月夜見尊は口から出したものを食べさせられることに対して汚ないと怒り、剣を抜き保食神を切り殺す――。

「その一部始終を月夜見尊は天照大神に喜々として報告するわけですが、その所行は天照大神の意に沿わなかったようで、今度は天照大神が月夜見尊に対して腹を立てて、お前の顔はもう見たくないと、それ以来お日様とお月様は別々に、つまりお日様は昼に出て、お月様は夜に出るようになったという、そういうお話です」

「途中から脚色入ってない? 大丈夫?」

「だから酔ぱらって……ますけど。まあちょっと原文に忠実ではないかもしれませんが……」

「なんか急に海外の神話っぽくなったね。何と言うか、そこだけ自然現象の起源を説明をしてる感じがする」

「そうですねえ。だから異説なんでしょうね。結論を言っちゃうと、結局天皇家の正当性を遡って天照大神に求めるのが編纂の目的みたいなので。旧来あった神話はそのほとんどが失われて、こういう断片が残ってるのみ、って感じかなーと思います」

 そんなこんなでお店を出るころには月はもう振りあおがないと見られないほど高い位置にあった。

「常住の燈火だ」

 とぼそ落ちては月常住じょうじゅうともしびかかぐ、と呟く。平家物語の一節だ。

「月の顔見るは忌むことってのもあるね」

「何でしたっけ、それ」

 竹取物語、と千里さんが答えた。

「ほお……また中学校ですか? 冒頭しか覚えてないや。なんで忌むべきなんだろう」

 さあ、と千里さんが言う。

 ふうむ。

「私が思うに、生と死を……つまり死を連想させるからじゃないでしょうか。さっきの神話でも保食神を殺してるし。竹取物語の最後のほうには不死の薬が出てきましたよね。万葉集で歌われる変若水も若返りだし。

 その辺り、裏を返せば死を強く意識しているがゆえですよね。

 そして月がそういう扱いをされる理由は言うまでもなく……言うまでもないので言うのはやめときます」


 翌日、空き時間に再び大学の図書館に足を向けた。日本書紀の続きを見たかったのだ。神生みも興味深いが、他にも私がこれまでに仕入れてきた断片的な知識の出所に、日本書紀が大きく関わっていることに気づいたからだ。

 雄略天皇と一言主神のエピソード然り、常世の神を巡る秦河勝のエピソード然り……。他にも様々なことが日本書紀に書いてあるのだ。

 それに、書いてあるばかりではない。日本書紀に”書いてないこと“も原文を見ることで初めてわかる。例えば八咫烏が三本足だなんて日本書紀には書いていない、といったことだ。

 そんなことを考えながら図書館の前についたとき、今時間ありますかと、突然話しかけられた。どこかで見た人だが思い出せず、反応が遅くなる。

「あ、えーと……どちらさまでしたっけ」

「えっ、いや、アンケート。あの、サークルで協力を……」

 相手もしどろもどろである。この感じは人見知りの私と同類だ。そしてアンケートで思い出した。昨日図書館前でアンケートに答えていた側の人だ。さらにもう一つ、その顔を見て思い出した。昨晩のお店で、気づいたら隣の席に座っていた三人組。そのうちの一人だ。熱く語っていた様子だった二人と、それを聞いていた一人。聞いていた一人がこの人だ。

「すいません、急いでいるので……」

 ここまでぼーっと歩いていたのはなかったことにして、ささっと図書館の前を通り過ぎてしまった。これじゃ日本書紀の続きが見られない。少し苛立っていると、今度はそこに立っていた人の肩にぶつかった。

「わわ、すみません……」

 しかしその人は私の方を一顧だにせず、私の元来た方を厳しい顔で見ている。なんだかよく分からないけど、まあいいや。行こう。

 歩きながらふと思い出す。今ぶつかった人はまた、昨晩お店で熱く語っていたうちの一人だった。


 その夜はまた少し月が膨らんでいた。一日単位で目に見えて分かるものだと感心する。

 これなら古代人も観察のし甲斐が――月の読み甲斐があったことだろう。


 後日、カフェで結城さんに発見を報告した。この前と同じ、大学構内のカフェである。

「おっしゃる通り私の不勉強でしたあ」

「そこまで言ってないよ」と結城さんが笑った。「でも面白かったでしょ」

 はい、と頷く。

「場所によりますけど、古事記と全然違いますね。月夜見尊……呼び方がいろいろあって面倒なのでこう呼んじゃいますけど、月夜見尊のエピソードもあったし。それに一書が十一も並んでいると、月夜見尊もこれでもかと何度も登場するように見えたし」

 お待たせしましたーと、店員さんが飲み物を持ってきた。団体客が入っているようで、慌ただしそうにしている。団体と言っても十人いるかどうかというところだけれど。

「あ」

「どうかした?」

「見知った顔が……。知り合いではないですけど」

 この前図書館前でアンケートどうこうと私に声をかけてきた人だ。その前には声をかけられた側の人でもある。その二回見かけたときとは打って変わってリラックスした様子である。たくさんの人と談笑していて、どうやら私の同類ではなかったようだ。

 カフェの小さなテーブルに所狭しと本やノートが広げられている。誰々先生の新しい本が出たからどうこうという声が聞こえ、その人たちが財布を取り出したり鞄に手を入れたりし始めた。

「いずれにしても」結城さんの方に顔を戻す。

「日本の神話で月の影が薄いっていうのは、撤回する必要がありそうです」

 そうだね、と結城さんがほほえんだ後、言葉を続ける。

「と、そんな風に仕向けておいてなんだけど、こんなエピソードもあるの。

 時代をぐっと下って顕宗天皇。日本書紀の十五巻ね。ここには日の神と月の神が登場するのだけど、それぞれ天照大神や月夜見尊などと名乗ることはない。

 そして二十二巻の推古天皇。彼女が崩御する少し前に日食があったという記載があるのだけど、それは本当に日食があったという記載だけ。日の神がどうしたという記載もない」

「日食!? 天岩戸神話以外にそんな話があったんですか」

「そうそう。それでね、神代の記載との温度差がすごいよね」

 だから、と結城さんが言う。

「だから、月夜見尊の影も薄ければ天照大神の影さえも薄い、とも思えるよね」

 ちょっとした衝撃で周囲の喧騒が一瞬遠のく。

 秋月さんも聞いたことがあると思うけど、という結城さんの声で我に返る。

「大日孁貴の孁は巫女という意味で、太陽神は本来蛭子の方であり、天照大神はその蛭子に仕える巫女だったという見解もあるよね。

 それから、日本書紀冒頭が中国の淮南子という書物からの引用というのは聞いたことあるかな。その淮南子に出てくる羲和という神様が天照大神モデルという説もあってね。その羲和は太陽の運行を司る役目を持っているの。太陽神そのものではない」

「おお……衝撃的です」

「でしょ? 他にもね――」


 まだまだ知らないことはあるものだと、結城さんとの会話を思い出しながら歩いていた。今日は十三夜。十八時頃から千里さんと月見の約束をしている。大学の運動場の近くに、ベンチとテーブルのセットがいくつかあるらしい。そこで軽く一杯と言われている。運動場なら周りが開けていて、月もよく見えるだろうということだ。

 積極的に体を動かすようなところには縁遠く、構内の端にあることもあり、運動場にはあまり近づいたことがない。

 そばを通ったことはあるが、キャンパス内の道からは階段で上がるようになっているので、運動場自体を目にしたこともない。ちょっとした丘に登るような感じだ。

 まだ少し時間がある。やはり図書館で時間をつぶすしかないかと思う。先ほど結城さんから聞いた話も、本で見てみたいし。


 十八時ちょっと過ぎに図書館を出た。折角だから月を見るのは後にしよう。左手側の空を見ないようにすればよいのだ。

「あの~」

「うわっ」

 例の人である。数日見かけなかったので油断していた。

「あの、充実した生活を送れてますか?」

 あれ、アンケートではないのか。戸惑って何も言えないでいる私に、言葉を重ねてくる。

「その、例えば世の中で矛盾を感じることとかありませんか?」

 矛盾……。

「天照大神を祖神に据えた割には、その後の扱いがひどいなとか……」

「え?」

「あ、いや……」

 そりゃそうだ。そういう話じゃない。じゃなくて、どうしよう。千里さんとの待ち合わせ場所はすぐそこの学食前である。逃げてもすぐ戻ってこないといけない。

「はい、そこまで」

 千里さんが登場した。

「君の所属している団体の名前は? それから、学生証出して」

 千里さんが有無を言わさぬ口調でその人に迫る。その人は、もごもごと文句を言っている様子だったが、千里さんが無言のままさらにずいと迫ると、ひるんだ様子で言いなりになっていた。

 千里さんは学生証を見ながらおそらくは名前等の情報をメモし、もう行っていいよとその人に返却した。

 じゃあ行こうかと、千里さんが何事もなかったかのようににこやかに言った。手元にはお酒やおつまみが入っているであろうビニール袋を下げている。

「何だったんですかね」

 運動場に向かいながら聞いてみる。

「たぶんカルトの勧誘だね」

「カルト? じゃあ私危なかったですね」

「ん、秋月さんは大丈夫でしょ」

「えっ。なんでですか」

「ああいうのはだいたいこう、不明確な認識に基づいた不充足感を抱いているような人がのめり込むからね」

 わかるようなわからないような……。

「秋月さんは大体過不足なく自分とその周囲を認識しているように見えるから。

 あとあれだ。酔ってないと言ったと思ったら酔っていると言ったり、ぼーっと歩いていると思ったら急いでいると言ったりする、そういう前後の整合性を無視できる柔軟さだね」

「……誉められてると受け取っておけばいいですか?」

「いや、別に誉めてないよ」

「えー、何ですかそれ」

「良い悪いの話じゃないからね。ただ秋月さんがそういう人だという話をしただけ」

 はあ、さようですか、と言葉を返す。

 運動場へ続く階段のそばに着いた。北西向きの階段を登りながら見える空に月はない。

 階段を上りきると急に視界が開けた。ベンチに向かって歩きながら、東の空を見てみる。

「おー、出てますね」

 遮るもののない空にきれいな月が浮かんでいた。あと少しで満月になる、月齢十三の月。

「さっきの人の名前とかメモしてたみたいですけど、どうするんですか? あ、そうそう、あの人、この前行ったお店にもいたんですよ。その後何度か見かけたし」

 アンケート云々で話しかけられたことやカフェにいたことなど、私の話をほーとかへーとか言いながら千里さんは聞いていた。

「彼については学生課に連絡して、あとは学校にお任せ。つい先日、この手の話でいろいろ協力依頼が来てたからね。まあ彼の場合は日が浅そうだから大丈夫でしょ」

「日が浅い?」

 ベンチに千里さんと向かい合って座った。私が座った方からは月がよく見える。手際よくお酒とおつまみを並べながら、千里さんが喋り出す。

「この前一緒に飲んだ日、図書館前で声をかけられる側だった彼を秋月さんは見かけた訳だ。それが彼が勧誘された第一歩。相手はアンケートと称して彼に話しかけて、お店に連れ込んだ。

 彼からすると想定外なことに、そこには別のメンバーもいて、多対一で囲まれる。あのとき隣で何を話していたかまでは聞こえなかったけど、おそらくは一生懸命勧誘していたんだろうね」

 手渡された缶を開けて、軽く乾杯のような仕草をした。一口飲んで、千里さんが続きを話す。

「最初はその強引さに違和感を覚えるものの、そこで躊躇うから君は駄目なんだとか、ここで勇気を出して飛び込まないと君は一生そのままだとか言われるわけだよ。

 そしてその団体に入ってしまうと、仲間とともに精神的向上を目指している連帯感を抱く。カフェで仲間と談笑する彼はきっと、とても居心地がよかっただろう」

「ふうん。……その居心地の良さは、偽物ですか? 本人がそう感じていたら、それはそれで良いような気もしてしまいますが」

「そうだなあ。その居心地の良さは、他者の明確な意志による餌でしかないと思うから……つまり金儲けのために利用されているだけだと思うから、僕はあまり良いとは思えないね」

 カフェで聞こえた誰々先生の新刊、あれがまさにその集金の場面だったのだろうか。

「そうこうしているうちに世の中の向上心のない人間が馬鹿に見えてくる。あるいは可哀想に見えてくる」

「何だか耳が痛いんですけど……」

「耳が痛い可哀想な人を救ってあげよう、そう思って彼は秋月さんに声をかけた」

「私、そんな風に見えたんですかね。向上心云々を否定はできないけど」

「実際のところは手当たり次第もあったと思うよ。ちゃんと勧誘しているか監視されてたのだろうし」

「監視?」

「秋月さんが声をかけられて逃げたときにぶつかった人。アンケートと称して彼に最初に声をかけた人」

 ああ、そうだったのか。

「学校からは、最近こういう勧誘が盛んになってきているからと、チラシの掲示や、何か気づくことがあったら教えてほしいという依頼が来てたんだ。カフェや学食がたまり場になることもあるかもしれないしね。それでこの前はカフェにちょっと情報交換のために行ったりもした」

「まるで秦河勝と常世の神だ」

 日本書紀に曰く、皇極天皇の即位三年、常世の神を信仰する新興宗教が流行ったことがあったという。大生部多おおふべのおおという人物が人々に虫を見せ、これは常世の神であり、これを祭れば富や若さが得られると煽ったのだ。人々は虫を神と仰ぎ、財を捨て、結局得られるものはなかったという……。その新興宗教は最終的に秦河勝はたのかわかつという豪族が大生部多を討つことで沈静化した。

「なおその虫とは、蚕に似た黒い斑点を持つ緑色の、つまりは芋虫の類らしいです」

「それはまた……」狂気的だルナシー、と千里さんが言った。

 二人で月を眺める。先日より膨らんだその月は、ますます白く輝いている。

「ああ、白いんだ、月は」

「そうそう。黄色く見えるのは地平に近いとき。詳しい原理は知らないけど光が散乱するとかしないとかの関係でしょ。夕日が赤いのと同じだね。

 空気がきれいだと光の散乱が抑えられて、地平に近くても白に近くなるらしい」

「へえ……」

 だから白い花弁を持つ方が月見草なんだ。そんなことを思った。

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