第2話 突然のイケメン化

「仕事が本当に立て込んでてさ」

 そら見ろ、何がいい夫だ。それから一ヶ月の間、あの男は日曜日さえもまともに家に帰って来ず娘にさえもまともに顔を合わせていない。仕事にかまけて私の事を置き去りにして、私を家政婦だとでも思っているんじゃないだろうか。力が伴わないのに出世した物だからあちらこちらで苦労しているのだろう。そして出世したから当然部下に財布の紐を開いてやらねばならない。私にも体面と言う物があるから小遣いは一万円増やしてやったが、たかがその程度でどうにかなるものでもないだろう。調子に乗って浮かれ上がっている人間の頭は誰かが叩いてやらなければいけない。そうしないと転んだ時に立ち直れなくなる。これは私の最後に近い愛情。こんな情けない男に注いでやるのも惜しいぐらいだけど、まあ一応情の一つや二つはある所を見せるに越した事はないだろう。

 今はちょうど夏休みで娘は家にいる。幼稚園児だって夏休みの宿題が何もない訳ではない。いや本当に何もない所もあるようだが、娘が通っている幼稚園には宿題があった。たった一つだけだったが、そのたった一つが問題だった。家族の似顔絵だと言うのだ。

「まだ七月だろ、何を慌ててるんだ」

 まさかいきなり父親を描かないなんて事ができる訳がない。そんな事をさせれば家族の不仲が知れ渡ってしまう。正直まだ離婚して娘を養いながらやっていけるほど自分のスキルは高くない。でもだからと言ってあの男に父親面をさせるのは正直不愉快であり、あの男の顔を描かせたくない。肝心の本人もまだ一ヶ月以上あるんだろと言わんばかりの有様で全く協力する気がない。挙句その事を娘に告げてもそれはそうだよねとあっさり返しただけでまるで不服に思っていない様子だった。

「それじゃママははやくかいてほしいの?わたしはきれいなのをかきたいんだけど」

 伸ばし伸ばしにし続けて八月下旬になって慌てふためく様な真似はしないでもらいたい。娘だって嫌だろうし私も面倒だ。本来ならば誇るべき娘のプロ意識が正直うっとうしかった。いやまだ五歳の娘にプロ意識なんていう物はあるまい、あるとすればよりいい物を他の園児に見せたいと言う見栄か、いやごく普通の純粋なる愛情だろう、とりわけ父親に対しての。そしてそのどう考えても一番可能性が高い理由が、今の私にとっては一番考えたくない理由だった。娘の物憂げな表情はここ二、三ヶ月ずっと変わっていない。娘が笑う時と言えば、好きなアニメが流れている時とご飯を食べている時、そして父親と会っている時だけだ。こんな状態で離婚して娘を引き取った所で私に娘がなついてくれるのだろうか、ましてやいずれ新たに出会うであろう次の夫に。娘を失いたくはない、娘の心を繋ぎ止めたい。その為にはいい母親でなければならない。離婚などして今の父親を奪うなど問題外の措置だ。

 いくら娘が大事とは言え、娘が一人前になるまであと何年我慢すればいいのだろうか。成人式だとしてもあと十五年、その時には私も五十歳近くになってしまっている。この十年間に加えそれだけの時間を取り戻すなど不可能だ。自分の人生を取り戻せるとすればここ数年が最後のチャンスであり、本音としては一日も早く別れたい。相手のエラーに期待するのは人間として間違っているのはわかっているが、今のままでは相手がエラーしない限りこっちが勝てる気がしない。自分が地道に送りバントを重ねた所で、相手はホームランを放って来る、全くずるい話だ。

「パパかっこいい!」

 例えばこういう風に。およそひと月ぶりに娘が起きている時間に家に帰って来たあの男は随分と引き締まっていた。聞けば連日の得意先回りで毎日炎天下の中で一万歩を越える歩数を重ねており、その結果腹はへこみ顔は黒く焼け随分と健康的になっていた。娘がかっこいいと言ったのもむべなるかなだろう。一方で私はまた得点を挙げられてしまったと心の中で切歯扼腕した。




 私の子どもの頃のあだ名はお嬢さんだった。何でも私の五代ぐらい前までは江戸住まいの旗本のお殿様で、明治になっても何らかの勲功によって爵位をもらってたって言うけど、そのせいか知らないがうちの母親は古風と言うか何と言うか、一度夫婦となったからにはその家に骨を埋める覚悟で務めろと言う人間だ。もう別れてしまった後ならば開き直って言えるだろうが今こんな状態で母親に向かって離婚云々など言い出せるはずがない。あんたの努力が足りないのよでおしまいだろう。いずれ母親に話が回って来ると考えると他の親類縁者にも相談などできず、かと言って近所の主婦仲間に話した所で上手い言葉が返って来る保証はない。現時点で理に適わない事を考えているのは明らかに私の方だとわかっている。それでも誰かにこの状況を打破する方法を教えてもらいたい。

「もしもし、ラジオ人生相談です」

 頼れる伝手はここぐらいしかなかった。昼間の憂鬱な気分を和らげるラジオから流れる人生相談、いつも正確かつ人情味あふれるアドバイスをくれる彼らにこの現実を伝え、そしてどうすればいいかアドバイスをもらいたい。藁をもつかむつもりで私は受話器を握った。

「それで今日はどんなご相談で?………ふむふむ、だんなさんと別れたいと。一体結婚して何年経ってるんですか?九年ねえ、でお子さんは?五歳の娘さんが一人…………それでいつから別れたいなって思うようになったんです?えーと………」

 娘も幼稚園にいて一人っきりなのをいい事に、私は洪水の如く夫の非道を吐き出した。多少の脚色があった事は否定しないが、実際そう思わされるだけの真似をあの男はして来たのだ。少しぐらい罰を受けるべきだと思う。

「それで……ふんふん……………はい、えー……………そうですか、まあ……なるほどねえ、はい、わかりました」

 ここまで真摯に愚痴を聞いてくれるなんて実にありがたい、うちの母もこれぐらい聞き上手であればいいのに。このラジオ人生相談が数年間に亘って長続きするのもお説ごもっともと言う物である。

「奥さん、あなた少し冷静になった方がよろしいと思いますよ。あなた少し拗ねていらっしゃるんじゃありませんかね」

 ………その最後の返答がこれでなければなおよかったのだが。確かに気持ちが高ぶってかなり誇張した事を口にしていたのは認めるが、だからと言って拗ねているとはどういう事だろうか。一日や二日ではなく都合九年間も置き去りにされて来たのだ、それで拗ねなければむしろそっちの方がおかしい。

「……で奥さん、あなたは旦那さんに何を求めてるんですか?いや今のじゃなくて理想のパートナーとして、どういうパートナーがよろしいのかと」

 あの、もしもし。私は離婚すべきか否か聞いているのであって、私の理想のパートナーと言われても……。

「あなたねえ、人生何もかもうまく行くもんじゃないんですよ?今の話を聞いていると奥さんは離婚したと言う結果を早く出したくて仕方がないように聞こえますよ。で、離婚したい旨旦那さんには申し述べたんですか?」

 そう、早く出したい。あんな男の為に使っている時間がもったいない。返せる物ならばその時間を返してもらいたい。しかし今のままでは自分と娘二人で暮らしていける生活の基盤はない、慰謝料を取った所で高が知れている。

「それで資格をお取りになり就職先を見つけるまでは我慢なさっていると…それで奥さん、あなたその先の一生再婚もせずにお過ごしになるおつもりですか?厳しい事を申し上げるようですがね、今の奥さんの要求全てにお答えになれる男性を探すのは正直難しいと思いますよ。ずっと自分たち家族の事を第一に考えてくれ、それでいて仕事もできる男性、そんな男性はそうそういませんよ。仮にいたとしてもそんな優秀な男性は既に押さえられていると考えた方が賢明です。

 そりゃ世界中を探し回ればまだ手が付いていない男性もいるかもしれませんがね……先程娘さんは旦那さんを嫌がってらっしゃるとおっしゃいましたが、どうにも私にはさほど嫌がっていないように聞こえます。それからここ数ヶ月無表情で自分たちを見つめる事が多いとおっしゃいましたけど、それは奥さんの中にある旦那さんへの悪意を感じとって悲しんでらっしゃるんじゃないんですか?こんな状況で離婚しても娘さんは絶対に幸せにならないと思いますよ。余り勧められた方法じゃありませんけどね、いっぺんよそ様の家庭をじっくりご覧になってみたらいかがですか?奥さんの家より恵まれた家庭なんてそんなに多くないと思いますよ」

 贅沢をしているとでも言うのか。このまま叶わぬ高望みを続けそれによって身を滅ぼし娘まで不幸にするような真似をしてはならないとでも言うのか。

「ええ、今のままでもあなた十分に幸せですから。離婚したいと言う考えはお捨てになった方が賢明だと考えますよ」

 ああそうですかわかりました努力してみます、と口では言ったものの正直失望を禁じ得なかった。長々と言葉を並べられたが、詰まる所お前が我慢しろ夫は悪くないと言われたと言う事なのだ。身勝手だとわかってはいるが、どうしてもこのまま関係を続けていく気になって来ない。こんな生活を続けていてはおかしくなってしまう。

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