ある人生の終末

@wizard-T

第1話 突然の出世

 なんでこんな男と、そう思った事は一度や二度ではない。

「……」

 一人娘は物憂げに私を見つめる。気付いているのだろう、この幼い魂は。とうに昔に二人が父母であっても夫婦などではない事を。表情に乏しい目で何も言わずにこちらを見つめながら両腕を胸の前で回し、腕を伸ばして目の前の私に手の平を見せて来る。娘はその謎のポーズを幾度も繰り返した。幼稚園で流行っているのかと聞くと、娘は少しの間を経て首を縦に振った。

 正直、本当に流行っているのか怪しい。問い詰めようかと思ったが、娘の黒く揺らめく目を見て思い留まった。だいたい、本当に流行っているのか知った所で何の得があると言うのだろうか。大体、今私は忙しい。


 今の所夫である男には見つからないようにしているたくさんの資格獲得のための教材。まあどうせあの男は家庭の事は私に丸投げなんだから見つかりはしないだろうけど、この教材をあの男に読まれた時こそ、導火線に点火される時。口では私もいろいろスキルアップしたいしとか適当な事を言ってはぐらかし、そして資格を獲得した時こそ爆発の時。さぞ驚くのでしょうね、あの無神経な鈍感男は。

 どんな恋愛をしたんだっけ、気が付けばそんな事は忘れていた。いや忘れないと精神衛生的に良くない、あんな男とあんな事をしていたのかと思うと正直恥ずかしくて情けなくなって来る。十幾年前、占いに凝っていた会社の同僚を笑った事などは特に忘れたい。あの時男運を上げる占いを教えてもらうべきだったと後悔している。あの時結婚するんですか羨ましいとか言っていた連中にどんな顔をすればいいかわからない。同じように結婚しているのならまだ気持ちも落ち着くが、正直未だに結婚できないで会社にいられるのが一番むかつく。ざまあ見ろと上から目線で見られても、結婚生活って大変なんですねと哀れみの目で見られても不快極まりない。退社して何年経ってるんだ?そんなの関係ない。

「今日も仕事でさ」

 聞きたくもない言葉。仕事仕事って言うならもう少し昇進して来なさいっての。大学卒業して十二年も会社に務めて未だに係長代理止まり、平社員に産毛が生えた程度の地位でしかない。夫としても父親としても三流なんだから、せめてビジネスマンとしては一流であってもらいたいのに。しかも最近腹まで出て来ている。去年までならばこの時期になると人事異動が近いんでしょとか言って尻を蹴飛ばしてやったけど、正直そんな気にもなって来ない。こんな男の為に労力を費やすなどもったいない。私の視線はもう次に向かっていた。その事を余所でおくびにも出さないのは私なりの意地、復讐。何にも楽しみのない日常に爆弾をしかけて吹っ飛ばしてやるための下準備。誰も彼もみんな驚かせてやる、そうでもしなければあの男に奪われた時間がもったいない。隣の奥さんの親しげな声、快活そうな顔。

「最近不景気だからねえ、どこもかしこも…」

 中身がありふれた普段の生活の愚痴だって言うのに、嫌味に聞こえて来る。一応ああそうですよねったく給料が安くってと気のない返事を返してみたものの、正直うちの家族が崩壊しかかっているのを見透かされている気分になって来る。

「あら奥さんのお嬢さん、なんか面白い動きなさってますね。それって何かの必殺技の真似ですか」

 ここで隣に立っていた娘がまた腕を胸の前で回し私に手の平を向けて来た。必殺技、なるほど考えてみればその様な物なのかもしれない。振り返ってみると、私がネガティブな事を言ったり言おうとしたりすると娘はこの動きをしている。娘が腕を回した後に両手を私に向けているのは、私の中の腹の立つ気持ちやとげとげしい言葉を吹き飛ばして、優しいママになってもらいたいと言う願望があるのかもしれない。そしておそらく、私とあの男が別れる事も望んでいないだろう。そう思うと心が痛まない訳ではない。でも、私はもう耐えられなかった。あんな家の中であとどれだけ、あんなうだつの上がらない駄目な亭主と一緒に過ごして時間を無駄にしなければならないのか。こんな生活を続けていては頭がおかしくなるかもしれない。これは予防注射の様な物だ、最初は痛い思いをするかもしれないが後になって重要さが身に染みてわかって来るはずだ。




 午後七時。夕暮れが消えて夜の闇が我こそは支配者であると名乗り出してくる頃。私はまるでやる気なく鍋を洗っていた。そんな中鳴り響く呼び鈴、ほどなく顔を見なくて済むであろう男がずけずけと入り込んでくる合図だ。私が暗い感情を抱きながら作り笑いを浮かべてドアを開けてやると、その男は浮かれ上がっていた。

「実は今日さ!」

 昨日まで係長代理だった人間が、いきなり課長に昇格したらしい。本当なのと問い返すと浮かれながらも俺も三回聞き返したと陽気そうに言い放った。話を聞くと課の上の方にいた人間が揃って別のプロジェクトに注ぎ込まれる事になったため、残った人間の中で一応一番地位が上だったこの男が一挙に繰り上がったらしい。

…………ありえなくはなかったが無茶な話である。繰り上がりと言うのはいいとしても一体何段跳びの出世だと言うのだろうか。この調子だと下に就く部下もおそらくは平社員としての経験しかないような人間ばかりのはずだ。会社の見識を疑いたくなった。

ただ確かな事が一つある、この結果給料は確実に上がるであろうと言う事だ。どれだけかはわからないが少なくとも平社員より多くもらうことは間違いない。これからは迂闊に安月給と言えば相手によっては嫌味にしかならない、詰まる所愚痴を言える幅が一つ狭まったのだ。

「パパえらくなったの、パパかっこいい!」

娘がこうやって喜ぶのは当たり前だ。親の幸福を喜ばないような子どもがどこにいると言うのか、ましてや五歳の子どもが。これで娘の心はこの男に傾いてしまう。安っぽいポリゴンでできたような作り笑いを浮かべ、口からおめでとうと言う機械音声を吐き出しながら私は内心のいら立ちを押さえられなかった。




 …………果たせるかな、月給は七万円近く上がっていた。とりあえず財布が潤った事だけは間違いない。だがそんな事はもうどうでも良かった。冷静に考えれば離婚後の慰謝料を高く取れそうなので喜ぶべきであるが、出世できない甲斐性なしだから離婚すると言う理由は使えなくなった。どうせ別れて他人になるなら一分でもこちらが得をした方がいいに決まっている。もちろん一人娘の親権だって手放したくない。

 あれとこれとそれと……欠点を数え上げればきりがない。その欠点を一つずつ攻めて行けばこちらの方が有利のはずだ。だが実際、こうして相手の欠点を上げ連ねている姿は我ながら醜いと思う。こんな姿を娘に見られたらそれこそこちらが危ない。だからまずあの男の前では良き妻を演じ、子どもの前では朗らかな母親をやり、世間一般にはそこらへんの奥様の役を務め、そして一人の時には離婚後の生計を立てるべく勉強しながら敵となる男の欠点を書き連ねていた。一人で四役をこなすなど、女優でもいけるのではないか。そんな空想が思わず頭をかすめた。まあ既に三十代半ば、こんなくたびれ果てた顔と肌ではもはや無理なのは分かり切っているのだが。請求できる物ならばその費用も請求してやりたいぐらいだ。

「奥様ったら随分お肌がおきれいですね」

 幼稚園の保護者会で自分より明らかに肌がきれいな女性にそんな事を言われた。つまらないお世辞はやめてもらいたい、逆にお世辞でないとすると見る目を疑いたくなる。家庭の事情云々を差し引いても年齢相応に肌は荒れているはずだ。それとも自分の肌の綺麗さに気付いてないとでも言うのか。

「二十四歳です」

 悪い予感を覚えつつ年齢を聞いてみたら、案の定だった。若さに嫉妬する気はないが、だからこそ嫌になって来る。肌が荒れていると思ってるのは貴方ご自身だけじゃないんですかもっと自信をもっていいですよと言いたいのだろうが、正直今の私にとっては荒れている方が好都合だ。ダメな男のせいでこんなにボロボロになってしまったのだと強調し、離婚後自分の立場を有利に持って行きたい、だから保護者会と言う場にすっぴんで出て行ったのだ。お世辞だと思いたいが、それにしては目が綺麗すぎる。あの目でお世辞を言えるのだとしたらそれは一種の才能であり、はっきり言って羨ましい。そしてその十代で母になった女性は綺麗な目のまま私に先輩主婦としての心がけを訪ねて来た。彼女は純粋に人生の先輩を尊敬しているのだ。年長者だから偉いなんてそんな盲目的な考えを持たないでもらいたい、日本の政治を考えればその事は明白だろう。

歩きスマホは危険ですと書かれた紙が貼り付けられた横を、私は本を読みながら歩いていた。我ながら全くもって手本にならない大人だ。確かに読んでいるのは介護の資格を取得するための教本と言う有意義な書物であったが、読む姿勢がこれでは説得力がない。スマホでなくて本であったとしても、その本がどんな有意義な物であったとしても歩きながら他の事をするなど迷惑だ。

 今の私にそんな事をさせているのは、あの男に対しての怨念だった。娘が生まれてからはまだともかく、結婚してから子供が生まれるまでの五年間、あの男は私に何の餌もやらなかった。いや、娘が生まれてからもあの男が餌をやっていたのは娘ばかりで私は完全に置き去りだった。都合九年間も私は置き去りにされていたのだ。少しぐらい得をして、いや自分の醜態の責任を押し付けて何が悪いって言うのか。そしてそんな事を考えていながら、突然鳴り出した携帯電話に対しては律儀に本をしまい立ち止まってから出た。

「今度の日曜日時間あるか?」

 …………全く、こんな時に限ってあの男は。折角の大事な時間に割り込んで来ないでもらいたい。

「得意先の部長さんがさ、お前にってエステの体験チケットくれたんだよ。娘は俺が見るからお前行って綺麗になって来い」

九年間ほったらかしの中いきなり一枚の紙っぺらを押し付けてそれで歓心を得られると思っているあの男の浅薄さ、いやまるで私の頭の中でちょうどぴったりそういう不満が頭をもたげて来ているのを察するかのような餌、そして他人に向かって肌荒れを嘆いた日の帰りにその悩みを解決するような物を送って来られたと言う事実。はっきり言って薄気味悪い。

 そしてそれ以上に不愉快なのは、この電話の内容をほとんどそのまま叫んでしまった事である。いくら唐突な話で驚かされたとはいえ、こんな街中で大声を上げるなどはっきり言って近所迷惑であり、まず体面がよくない。更に内容が内容だけに耳にした人間から嫉妬を買いかねない。そして、亭主からの贈り物であったと言う事を叫んでしまったのが最大の問題である。そこだけ聞けば、実にいい夫だ。一方でそんな人間と別れた私の心証は夫に比して悪くなる。私は申し訳ありませんついびっくりしてしまいましてと平謝りを繰り返しながら家路を急ぐしかなかった。エステを有り難くないなんて全く思っていない。すっかり心の離れている人間からもたらされた物だと言う事が問題なのだ。贈り物は何をもらうかより誰からもらうかが重要と言う言葉は素晴らしい真理だと思う。

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