水虎の誘引

茅田真尋

水虎の誘引

この子の七つの お祝いに

 お札を納めに まいります

 行きはよいよい 帰りはこわい

 こわいながらも

 通りゃんせ 通りゃんせ


 寂れた古寺の一間で、ひたきは姉に教わった童唄を幽けき声で口ずさんだ。ひとたび歌い終えてしまうと、耳が痛くなるほどの沈黙が再び周囲に立ち込めた。一旦は紛れた緊張が、一瞬にして蘇る。

 ここへは寺の小僧が案内してくれたが、役目を果たすと、さっさとどこかへ行ってしまった。ひたきは一人ぼっちだった。

けれど、ひたきはずっと正座をしていた。脚が完全にしびれてしまっている。人の来る気配は未だにない。いいかげん、足を崩してしまおうと片膝をつくと、いきなり目の前の障子が音もなく開かれた。慌ててひたきは元の姿勢に戻った。

「待たせてしまって申し訳ない」

 柔和な笑みを浮かべて現れたのは、正装用の袈裟を纏った初老の男だった。彼はひたきの前にかしこまった様子で座り、挨拶の言葉を丁寧に述べた。

「ひたきさんですね。淡園寺にようこそいらっしゃいました。当寺の住職をつとめております慶道と申します」

 慶道と名乗った住職は恭しく頭を下げた。慌てて、ひたきも額をつく。もう少し邪険な応対をされると思っていたからどぎまぎしてしまう。

「こんにちは。ふもとの農村から奉公に参りました、ひたきと申します。至らない面も多々ありますが、よろしくお願いします」

 あらかじめ準備していた文言を一言一句違えずに伝える。

職をいただくことも、自分の村以外の場所へ足を踏み入れることすらも、ひたきにとっては未知の体験だった。村では大概姉と一緒に草刈りや俵編みを手伝っていたから、村の外へ出向く機会はなかったし、今のように一人で初対面の大人と話をすることもなかった。

「今の時代、寺はどこも風当たりが強いもので。働こうと思う人なんてめったにいないのです。ここらは、中央から幾分離れていて鄙びている分、いくらかましなのでしょうけれど」

 頭を上げた慶道は何の脈絡もなくそう言って、困ったように笑った。

「お寺で奉公させていただくのは珍しいことなのですか?」

「昔はそうでもなかったでしょう。ですが、今は先の太政官布告のせいで寺社は劣勢に立たされていますからね。人々も寺で働くような真似、大っぴらにはできないんでしょう」

「だじょうかんふこく?」

 耳慣れない言葉だった。少なくとも村では聞いたことがない。慶道は少し楽しそうに笑った。

「ちょっと話が難しくなってしまったかな。だからまぁ、とにかく今回はひたきさんに来ていただけて本当にありがたいです」

「いえ、感謝しなければならないのはわたしのほうです。こんな年端もいかない娘を雇ってくださるなんて……」

「確かにあなたは若い。年のほどは?」

「数え年で十三になります」

「そうでしたか。ですが、こうしてお話してますと、ずっと大人びた印象を受けますよ。仕事のほうもきちんとこなしてくれそうだ」

「ありがとうございます」

 ひたきはにやけそうになる頬をひきしめて、なんとか無表情を保った。

「では、挨拶はこのくらいにして本題に移りましょう。……入りなさい」

 住職の呼びかけに応じて障子の陰から現れたのは、静謐な雰囲気の少女だった。暗い色調の紬に袖を通し、漆黒の髪を後ろへ流したその姿は、ひたきよりもいくらか年上に見えた。

けれど、何よりひたきの目を惹きつけたのは、入室の際の所作や座る姿勢の美しさであった。農村育ちの自分とはまるで違う。一目見ただけでも、ひそかに羨望のような感情を抱かずにいられなかった。

「初めまして。綴と申します」

 少女は冷やかな声で名乗り、そっと会釈した。ひたきも改めて自分の名を伝えて、礼を返した。

「ひたき、君にお願いしたいのは娘の綴の世話役なんだ。でも、雑用を全て押し付けようなんてわけじゃない。できる範囲でやってくれれば十分だ」

「わたしのできること……ですか?」

 慶道はうなずいた。

「それで、時折この子の話し相手になってやるだけでもいいさ」

 慶道の喋りから敬語が取れている。なんだかひたきはほっとした。大人から敬語を使われるなんて落ち着かない。しかし、ほっとしたのもつかの間、ひたきはあることに気付いた。

 綴はちっともひたきと目を合わせようとしない。瞼を伏せて、部屋の畳を冷たくにらんでいる。そんな彼女の振る舞いからは、はっきりと拒絶が感じられた。話し相手になどなれそうにない。ひたきはすでに幾何かの不安を感じていた。

「ひたき、大体の仕事内容はわかってもらえたかな?」

 慶道の呼びかけに、ひたきは我に返って慌ただしく返事をした。

「では綴、彼女を部屋に案内してやりなさい。ひたき、すまないが庫裏は部屋数が少なくて君の部屋を用意してやれなかった。綴と寝食を共にしてもらうが構わないかな」

 気は進まないが、断れるはずもない。ひたきは大丈夫です、とだけ答えておいた。



 綴の部屋は庫裏の最奥にあり、先の応接間からはずいぶんと離れていた。綴は自室の前まで来ると、背後のひたきを振り返りもせずに中へ入っていった。彼女は書棚から適当な本を取り出すと、それを読み始めた。自分も部屋に上がり込んでよいのかわからず、ひたきは入口で立ち尽くしてしまった。

「何をしているの。さっさと入ったら」

 本から目を離さず綴が言った。ひたきは張り詰めた声で返事をして、綴の言葉に従った。

 綴の部屋は、和紙と糊のにおいに満ちていた。壁に並んだ書棚には大量の折本が詰め込まれている。満足に字の読めないひたきには、どれも難解そうに見えた。お寺の娘さんって賢いんだなぁ、と思わず感心してしまう。

部屋はあまりに静かだったので、耳鳴りが激しく、かえってうるさいくらいだった。綴が本をめくった時だけ、一瞬それがおさまる。

「綴さま、どのような本をお読みになっているのですか? よろしければ、少しばかりお話を聞かせていただけませんか」

 ひたきは遠慮気味に話を向けてみた。けれど、綴は呆れたようにため息をついて

「綴、でいいわ。あなたに敬われる筋合いなんてないのだもの」

 抑揚のない台詞を返してきただけだった。敬われる筋合いはない。それは決してお前を自分の世話係とは認めていないという意思表示であろうか。

「申し訳ありません」

 ひたきは一言、詫びの言葉を述べてそれ以上は何も言わなかった。

 再び書物を繰る音が時々聞こえるだけになった。ひたきは夕餉の時刻が訪れるまで、この重々しい沈黙に耐えなければならなかった。



 夕餉の配膳にやってきたのは、住職の慶道その人だった。てっきり、給仕の人間がいると思っていたひたきは少々驚いた。これも人手不足による影響なのだろうか。

 しかし、ひたきが最も驚いたのは、運ばれてきた御膳料理の豪勢さであった。少なくとも農村の暮らしでは、一生口にすることはないだろう。

「わたしなどが、このように立派な食事にありついてよいはずがありません。もっと粗末なもので結構です」

 手際よく夕餉の準備を進める慶道に、ひたきはきっぱりと申し出た。慶道は支度の手を止めて、ひたきの方へ向き直った。

「いいえ。今後、当寺で奉公していただくあなたに粗末な食事など出せるはずがありません。我々に気遣いなどせず、召し上がって下さい」

 慶道は生真面目な口調で丁寧に説明してきた。彼の言葉に嘘偽りがあるようには思えなかった。

「ですが……」

 なお、ひたきが食い下がろうとすると、向かいに座っていた綴が身じろぎ一つせずに淡々と言葉を向けてきた。

「気に病む必要などないわ。食べてくれないと、困るのはこっちだから」

「綴、言葉を慎みなさい」

 綴の言動に慶道が声を荒げた。けれど、なぜ綴が叱られたのかよくわからない。つっけんどんな言い方だったが、叱責されるほどだろうか。

それはともかく、食べろ、と綴が直接言ってきたことで、ひたきはこれ以上御馳走を拒否するわけにもいかなくなった。

「あの、やっぱりいただくことにします。わざわざ用意してくださったのですからね。それに――」

 綴も勧めてくれていますから、と言いかけて、ひたきは口をつぐんだ。一つには父親の前で娘を呼び捨てにするのは憚られたからだ。だが敬称を付けたところで、今度は綴の視線が怖い。それに、取って付けたような発言を媚び売りのようにとらえられるのも嫌だった。迂闊な発言は慎んだほうが良いだろう。

「そうか、食べてもらえるか。良かった、良かった」

 慶道は心底ほっとしたようにほおを緩めて、すぐさま夕餉の準備に戻った。本当に親切な人だなぁ、とひたきは素直にありがたく思った。奉公の身でこれだけの待遇が受けられるなんて。この恩は誠心誠意働くことで返そうと心に決めた。

夕食後には風呂をいただいた。一緒に寝る綴に不潔に思われないよう、体は念入りに洗った。

村から用意してきた半着に着替えて部屋に戻ると、桜色の小奇麗な小紋が丁寧に折りたたまれていた。綴の紬と比べても遜色ないように思われる。これも自分にくれるというのだろうか。あっけにとられていると、縁側に座っていた綴が独り言のように言った。

「それもあなたの物よ。身なりが汚いと、困るのは私なの」

 この言い方には、さすがにひたきもむっとした。今着てる半着だって、村にいる姉と一緒に丁寧に洗濯してきたのだ。汚くなんかない。けれど、それを口に出すつもりはなかった。これ以上、この冷たい少女との間に溝を作りたくはない。

「ありがたく頂戴します」

 綴の機嫌を損ねないように、ひたきは一言そう伝えて、畳まれた着物を受け取った。



 その晩、ひたきは厭な夢を見た。

森を静かに小川が流れている。木漏れ日に煌めくそこで、女の子が一人水遊びをしている。ひたきと同い年くらいの、顔立ちの整ったきれいな子だった。仕立てのよさそうな浅葱色の小袖を着ていて、少なくとも農村の子ではないと察せられた。

 女の子が水を蹴るたびに透明な飛沫が跳ねる。水浴び、気持ちよさそうだなぁ、などと、呑気に彼女を見つめていると、突如としてその体が音もなく水に沈んだ。恐らく川底に隠れていた穴に落ちたのだ。躊躇することなく、ひたきは駆けだしていた。

 女の子の消えた位置に来ると、助けを求めるように、水面から小さな手が突き出ていた。ひたきはすぐにその手をつかんで力いっぱい引っ張った。水底から徐々に体が浮かんできて、女の子の頭が水の外に出る。

彼女と目が合った。その瞬間、ひたきは声にならない悲鳴を上げ、握っていた手を放してしまった。女の子の身体はそのまま真っ暗な水の底へ沈んでいった。

乱れた呼吸を整えて、ひたきはたった今、目にしたものを思い出す。川から浮かび上がった少女の顔には、可愛らしさなど少しも残されていなかった。顔色は血の気が抜けたように真っ白で、大きく腫れあがった、ガラス玉のような眼球が眼窩から飛び出していた。青黒い唇は血を吸った蛭のように肥大化していた。顔全体の印象は火男の面のようであったが、そんなものよりもずっとおぞましく感じられた。

ひたきはしばらく川中に座り込んで、女の子の沈んでいった川底の暗闇を呆然と見つめていた。



 目を覚ますと、部屋は薄暗かった。陽が昇り始めたばかりで十分に日光が届かないのだろう。ひたきは夢の光景が忘れられなかった。隅の暗闇に目を向けてると、醜くゆがんだあの少女の顔が浮かび上がってくるように感じられて、ぞわりと鳥肌が立った。

これ以上、薄闇に覆われたこの部屋に留まりたくなくて、ひたきは逃げるように縁側へ向かう。そうして初めて、こちらに背を向けて座る綴の姿に気が付いた。

なんて朝の早い人なんだろう。この時間は農村の百姓でもまだ寝ているだろうに。

ひたきはふと気持ちが暗くなる。使用人たるもの、主よりも先に起床するべきだったのではないだろうか。のうのうと惰眠をむさぼった自分を、綴は不愉快に感じているのではないだろうか。

「あら、起きていたのね」

 突然、声をかけられてひたきはびくりと背筋を伸ばした。後ろも向かずに、どうしてわかったんだろう。

「お、おはようございます。寝過ごしてしまい申し訳ありません」

 口をついて出た台詞は、情けないほどに裏返っていた。けれど、綴は首をゆっくりと横に振った。

「……私はほとんど眠ることがないの。だから、私より先に起きるなんて無理な話よ」

 儚げな朝日を背にして綴は言う。眠らない人間がいるなんて、ひたきは想像もしたことがなかった。

 振り返った綴の手には、細かな文様の刻まれた蘇芳色の鏡が握られていた。花をかたどった文様は蓮のようでも百合のようでもあった。これにきっとひたきの姿が映り込んでいたのだろう。

「きれいな手鏡ですね」

「……これを持っていると、たまに寝られることがあるの。今晩はだめだったみたいだけど」

 眠りに誘う鏡。そんなものが村の外にはあるのかと感心してしまう反面、単にからかわれているだけではないかという疑念も生じた。本当のことなんてひたきには知る由もない。

 手鏡が美しいのは文様だけでなく、本体の鏡面も一点の曇りなく光っていた。

「本当に美しい手鏡ですね。清水の張った池みたいです」

 きっと夢の川の情景が抜けきってなかったから、そんなことを言ってしまったんだろう。けれど、これを聞いた綴の顔色が急に陰った。

「水……ね。あなたにはそう見えるの」

 返ってきた言葉には、もの悲しげな響きが含まれていた。例え方が気に入らなかったのだろうか。

「申し訳ありません。おしゃべりが過ぎました」

 ひたきは反射的に謝罪していた。自分の言動のすべてが、綴の癇に障るように感じてならない。

綴は大きくため息をついた。

「あなたって謝ってばかりね。私なんかを気遣う必要はないというのに」

 思いがけない綴の反応に、ひたきは戸惑った。口をついて再び出そうになる詫び言を必死に飲み込む。

返すべき言葉を探しているうちに、綴は部屋を出ていってしまった。

 ようやく、ひたきは落ち着きを取り戻した。綴と交代するように濡れ縁に腰を下ろす。

 綴は意気地のないわたしに苛立ちを募らせていたのだろうか。それとも言葉通り、気遣いなど不要だと伝えたかっただけなのだろうか。彼女の真意がわからない。

 根拠はないけど、ひたきは後者だと思うことにした。少しでも前向きにとらえないと、これ以上ここにいられそうもない。まだ初日だけど、もう村の暮らしが恋しくなっていた。けれど、帰れないことくらいひたきにも分かっている。

なら、せめてもう少し、綴との距離を縮めたい。この先ずっと、こんな風に息の詰まる関係でありつづけるのは耐えられそうにない。

あの人は確かにちょっと怖い感じがする。けれど、わたしから積極的に声をかけつづければ、だんだん彼女も心を開いてくれるかもしれない。



 朝食を食べ終えた綴は、わき目もふらず一心に書棚をあさっていた。

やっぱり声をかけづらい。だが、一度本を開いてしまったら、こっちの声はもう届かないだろう。

「綴さん、何という題名の本をお読みになりたいのですか? わたしも手伝います」

 ひたきはなるべく丁寧な口調で話しかけてみた。けれど案の定、綴は返事はおろか、振り返りもしなかった。宙ぶらりんになってしまった自分の声がいつまでも耳に残る。ばつの悪さを感じ出したころ、いきなり返事が返ってきた。

「特に読みたいものはないの。暇をつぶせればなんでもいいから」

「そう……ですか」

 もっと気の利いたことを言えないものかと、ひたきは自分を責めた。早くも会話が終わってしまったではないか。

 やっぱり、人のぬくもりにあふれていた村の暮らしが恋しい。

日々の生活は困窮していたし、だからこそ出稼ぎに出されたのだが、あそこには常に村人どうしのつながりがあった。ゆえにいつも会話が絶えず、貧しいながらも活気に満ちた場所だった。

 淡園寺では、生活に困ることはなさそうだった。住職の慶道も使用人風情のひたきを手厚くもてなしてくれている。それはありがたいことだ。だがそれでも、寂しさは紛らわせなかった。ここに来てから、ひたきはずっと一人ぼっちだった。

「あなたは私の世話係なのよね?」

 独り言ともつかない調子で綴が言った。ぼんやりしていたひたきはその声に慌てて返事をした。

「この部屋の掃除をお願いできる? 私、不精者で怠けてばかりだから散らかってしまって」

 どういう風の吹き回しだろうか。けれど、ともかく綴が仕事を頼んでくれた。それだけでも嬉しかった。

「もちろんです。やらせてください」

 ひたきはすぐに快諾した。断る理由などなかった。

「……書物の扱いには慣れてないだろうから、それ以外の部分をやってくれれば構わないわ。私はここを出てるから、終わったら教えてちょうだい」

 それだけ言うと、書棚から何冊かの本を手にして部屋を出て行ってしまった。



 廊下の突き当たりには僧侶たちの詰所がある。ひたきはその引き戸を小さく鳴らしてみた。慶道に掃除具の置き場所を訊くためだ。

詰所には数人の僧侶の姿が見えた。庫裏はいつも静かだったので、人の多さにやや驚かされた。

「どうしたんだ、ひたき」

 ひたきに気付いた慶道が声をかけてきた。

「あ、あの、お掃除の道具はどこにありますか?」

「掃除?」

 慶道が怪訝そうな声で問い返す。

「あ、はい。綴様に部屋のお掃除を頼まれまして。はたきと乾き布を貸していただけませんか?」

 しかし、慶道はすぐに答えてはくれなかった。虚空を見つめて、何かを考え込んでいるみたいだった。無礼な訊き方をしてしまっただろうか。口に異様な渇きを感じる。

ようやく、慶道はひたきに向きなおり口を開いた。

「ひたき、部屋の掃除はやらなくていい」

「え、……でもせっかくお願いしてもらったのに……」

「最初に言ったはずだぞ? 君に雑用を押し付ける気はないと。綴もそれはわかっていると思うんだが」

「いえ、わたしが仕事をくれるように頼んだんです……。だから……」

 とっさにひたきは嘘をついた。いや、仕事が欲しいのは本心だったから、あながち嘘ではないかもしれない。けれど、慶道はひたきの主張を聞き入れる様子はなかった。

「それよりも、ひたき。綴を呼んできてくれないか?」

 その声色には、微かに怒りの色がにじんでいた。前に、姉が家の仕事を放り出して、どこかへ姿をくらましてしまったときのことを思い出す。その時も、ひたきは母親に姉を探して呼んでくるように言われた。今の慶道は、あの時の母に雰囲気が似ている。

 ひたきは息を呑んだ。ここで綴を呼びに行けば、彼女は自分のせいで怒られることになるかもしれない。それで、もっと綴から嫌われてしまうのは困る。

 そんなひたきの気持ちを察してか、慶道が穏やかに言葉を向けてきた。

「……大丈夫だ、別にあの子をきつく𠮟るつもりはないさ。約束しよう」

 それでもまだ、ひたきの足は動かない。

「安心しなさい。嘘はつかんよ。ひたき、仏教において嘘は妄語という罪過の一つなんだよ。私は僧侶、それもこの淡園寺の住職だ。もし仮に私が嘘つきなら、死後は地獄行きになってしまうよ」

 そんなことは初めて聞いた。気づけば、ひたきは過去についた嘘を振り返っていた。もしかしたら、既に地獄行きが決まっているのでは? たわいもない嘘なら何度もついている。

「だから、ひたき。綴を連れてきてくれないか?」

 重ねて、慶道が頼んでくる。なんとなく断ってはいけない気がした。

「……わかりました。綴様を呼んでまいります。……でも、あの人は悪くないです」

 慶道はしかとうなずいた。



 庫裏に、部屋は五つしかなかった。僧侶の詰所に、昨日通された応接間。調理場と浴室。そして綴の部屋。

庫裏には、彼女の行きそうな場所がない気がしたから、ひたきは庭を探してみることにした。

 淡園寺の庭は荒れ果てていた。高く伸びる楠や樫は無尽蔵にその枝を伸ばし、不気味なほどに葉を茂らせている。枝葉の重みで垂れ下がった樹木は力尽きた動物の死骸のようだった。

 ひたきは伸び放題となった雑草をかき分け、綴を探した。足元に気を付けないと、地面を這う蔓草に足を取られそうになる。

 このありさまも、太政官布告とやらのあおりなのだろうか。そう思うと、なんでこんな意地悪をするのかと厭な気持ちがした。

敷地の中央には共同墓地があった。墓石のずらりと並んだそこも、庭と同様に朽ちている。きっと今は墓参りに来る人も少ないのだろう。墓参者を失った墓石はみな、ひび割れたり、苔に覆われたりしていた。

だから、その中に一つだけあった小奇麗な墓石はひたきの目を引いた。白くまっすぐそびえる墓標の傍らには、きちんと花が活けてある。他のお墓もこうだったらよかったのに、とひっそりひたきは思う。

その時、墓地の隅にひっそり建つ木造の蔵に気付いた。長年、風雨に晒されてきたせいか、木目の色は赤黒く変色している。見るからに気味悪く、思わずひたきは唾を呑んだ。

だが、綴の居場所はそこしかなさそうだった。ひたきは嫌々ながらも、蔵へ重い足を向けた。



蔵の鍵は開いていた。

ぎぃぃっ、と蝶番のきしむ音が鳴って、扉が開く。

内部は暗くて、数歩先はほとんど見えなかった。少しでもましになるように、扉は開け放しておいた。

中には背板のない木製の棚が列をなすように置かれていて、そのどれにも多種多様な人形が並べられていた。

ここはなんなんだろう。

急に気温が下がった気がした。でも、ここに綴はいないと確認するまで、帰れそうにない。

ぎぃ、ぎぃ、と床のきしむ音が鳴る。

自分の足音だとはわかっているけれど、どうしても厭な想像が脳裏に浮かんでしまう。

人形がつけてきている。こちらをじっと見据えて。

ひたきは頭を振って、気味の悪い妄想を払った。

人形が動けるわけない。早く用を済ませれば大丈夫。

そう自分に言い聞かせて、人形棚の間に目を向けていくと、視界の隅にちらと朱色の灯りが見えた気がした。おそらく行燈の灯である。きっと綴だ。

思わずほおが緩んだとき、耳慣れない音がした。

がたっ、こっとん、かちゃ、こっとん、かちゃ……。

何かが階段を下りている。そんな印象を受けた。でも、蔵に二階はなかったはずだ。

音は鳴りやまない。

かちゃ、こっとん……。

音は前から聞こえる。突き当たりに真っ赤なひな壇がぼんやりと見えた。

そこを、唐人形がとんぼ返りしていた。

かちゃ、と下段に手をついて、でんぐり返って、こっとん、と着地。

あと数段で、人形はひな壇を下りきる。そのあとは……。

ひたきは絶叫とともに逃げ出した。無我夢中で走り、出口を目指した。周囲の人形まで、一斉に追いかけてきそうな気がして、背中がぴくぴくとこわばる。

出口の光が見えてきた。おのずと全身に力が入る。けれど、その光は突然、人の形をした影に遮られる。

追いかけてきたんだ!

ひたきは、頭の先まで恐怖に包まれ、泣き喚いた。


「どうしてこんなところに。部屋の掃除を頼んだはずよ」


 人影は、行燈を持った綴だった。期待が外れたように、苛立ちを募らせた目をひたきに向ける。けれど、それに気が付く余裕は、今のひたきにはなかった。

 綴は号泣する少女に背を向けた。自分には関係がないと言わんばかりだった。けれど、蔵の奥へ戻ろうとしてなぜか彼女は途中で足を止めた。大きくため息をつき、ひたきの元へ踵を返した。

「落ち着きなさい。何があったというの?」

 錯乱するひたきの肩に手を置いて、綴が言い聞かせる。それでやっと、ひたきも目の前の綴に気が付けた。

「綴さん!」

 ひたきは叫んで、綴に抱きついた。彼女に疎まれていることはすっかり頭から抜けていた。

 綴はいきなり抱きつかれて、困惑したようだったが、泣きじゃくるひたきを引きはがすことはしなかった。

「何があったの。言ってごらんなさい」

 綴は再び問いかけた。聞いた人をほっとさせるような優しい声音だった。なぜだか年少者の扱いには慣れているみたいだった。

「人形が……、人形が動いて……」

「どこで見たの?」

 ひたきは震える指で、背後の棚の陰を指した。ああ、と綴は声を漏らした。

「あれは怖くなんかないわ。普通の人形よ。一緒に確認してみましょうか?」

 ひたきは綴の胸の中でうなずいた。二度と見たくなかったが、正体を知らずにいるのも怖かったからだ。

 ひな壇の前に戻ると、さっきの唐人形がうつぶせになっていた。

「これでしょ?」

 綴が足元の人形を指さして言った。ひたきはこくこくと何度もうなずく。

「これは、段返り人形っていうのよ。高い所に置くと、体重が不均等なせいでどんどん下に降りていくの」

 そう言って、綴は人形を拾い上げ、ひな壇の頂上に置いた。すると、人形はたちまちひな壇を下り始めた。

 軽業師のように段を進む人形を見て、ひたきは拍子抜けしてしまった。ただのからくり人形だったのだ。発狂するほどおびえていた自分が恥ずかしい。

 落ち着きを取り戻したところで、ひたきはずっと抱えていた疑問をぶつけてみた。

「綴さん、この蔵の人形はなんなのですか? どうしてこんなにたくさん……」

 黒々とした綴の眼が向けられる。

「憑坐加持を知ってる?」

聞いたこともない言葉だった。ひたきは黙って首を振った。

「憑き物、はわかる?」

「……人に憑いて悪さをする、もののけのことですか」

 綴はうなずいた。

「憑き物を払う方法は、直接調伏したり、成仏させるのが一般的かもしれない。でも、それだけではないの。別の依り代を用意して、憑き物をそちらに移し替えて封印することもできる。それが憑坐加持よ」

「それでは、この人形たちは……」

「誰かの身代わりとなる、もしくはなった依り代よ。この寺は昔から、憑坐加持の依頼をよく引き受けているらしいから」

 改めて周囲を見渡してみる。整然と並んだ人形達がじっとこちらを見つめていた。もののけなんてものが実在するかどうかは知らない。けれど、人形一体一体に憑き物が封印されていると考えると、どうにも落ち着かない。

「綴さんはどうしてこんなところに一人で。……怖くないんですか?」

「怖い……か。あまりそうは思わないわ。元々、人形は悪さをするものじゃないと思うし」

 そう言って、綴は手近にいた市松人形の頭を撫でた。

「でも、もののけが憑いているんですよ? 彼らは悪しきものです」

「あなたの言うとおりね。でも……可哀そうじゃない」

「可哀そう?」

「ええ、人形がね。この子たちは本来なら誰かの元で、大切に飾られるはずだった。でも、依り代となったら最後、忌み疎まれて真っ暗な蔵に奉納されて、誰にも目を向けられなくなっちゃう。憑坐となって、誰かの命を救ったのにあんまりじゃないかしら」

 納得できないこともなかった。

「だから、たまに遊びに来るのよ。一人でも目をかける人間がいれば、この子たちも少しは報われるのかなって」

「そうだったのですか。綴さんは優しいのですね。わたしはそんなこと、これっぽっちも考えませんでした」

「ううん、私はやっぱり変わり者なのよ。この蔵を見た反応としては、あなたのほうがよっぽどまともよ」

 綴はやわらかく微笑む。言わないでほしかった。さっきまでの自分を思い出して、ひたきは顔を赤らめる。やっぱりこの人は意地悪だ。

けれどそれで、宥めてくれたことへのお礼をまだ伝えていないことを思い出した。

「あの、さっきはありがとうございました。優しく声をかけてくれて……」

「別にいいわ。慣れてるからああいうの」

「慣れてる?」

「ええ、だって私には――」

 突如、ガチャン、と陶器が割れたような音が蔵に響いた。ひたきは微かに声を上げ、綴は黙って音のしたほうへ視線を向けた。

「い、今のもからくり人形ですか?」

 綴は何も答えない。

「まさか、泥棒でも入ったんでしょうか――」

 さらに質問を重ねようとして、ひたきは咄嗟に鼻をつまんだ。どこからともなく強烈な異臭が漂ってきたのだ。泥田の臭いに似ている気がした。

「こっちに来なさい」

 呼びかけに応じて、ひたきは綴にしがみつく。見ると、綴は蘇芳色の鏡を握っていた。眠りを誘うと言っていたあの手鏡だ。

「こんな時に寝てしまうんですか?」

 顔を袖に押し付けたまま、ひたきは聞く。

「馬鹿ね。寝ないわよ。……この手鏡は父がくれた魔よけなのよ」

「……厭なこと言わないでくださいよ。それじゃまるで相手が人じゃないみたいに聞こえます」

 びたっ、びたっ、と妙な音が迫る。濡れ雑巾を叩きつけるような音だ。悪臭はさっきより濃くなっていた。

「かつて人だったもの、としか言えないわ。少なくとも生きた人間じゃない」

「綴さんは、あれが何なのか知っているんですか」

「たぶんね。そして、あれを呼び込んでしまったのは私」

「それは一体――」

 目前の棚の裏で人形の転げ落ち、けたたましい音が鳴った。それは間近に迫っていた。怖いけれど、衝動を抑えきれなかった。ひたきは棚の向こうを覗いてしまった。

 白い人のようだった。けれど、ぶよぶよと膨れ上がったそれは蝦蟇蛙の肌のようにぬらぬらと光っていて、動くたびに、びたっ、びたっ、と湿った音が床を揺らした。そして、ひたきはそのままそれの頭部に目を遣ってしまった。そこに張り付いた顔は――。

思わず上げそうになった悲鳴を必死にこらえた。今更ながらに後悔の念が押し寄せて来る。綴の言った通り、あれは動いてこそいるが断じて生き物などではなかった。この世のものですらない。

 おぉ……え……ん。

 おぞましい声と共に、あれがこちら側へ回り込んできたのが分かった。

びたっ、びたっ。果実が潰れるような気色の悪い音を立てて、あれが一歩、また一歩と近づく。

 綴がひたきの腕を引っ張って背に隠し、前に立ちふさがる形になった。ひたきには彼女の真意がわからなかった。自分は綴に厭まれていたのではなかったのか。なぜわたしを庇おうとするんだろう。

 いぃ……こぉぉぉ……。

 真後ろであれのうなり声が地鳴りのように響いた。

 強烈な悪臭が鼻をつく。肥溜めに沈められたような感覚だった。

 背後の綴は微動だにしない。なすすべもないのだろう。ひたきは自らの死を悟った。



 その時、遠くで蔵の戸が開け放たれた。数人の足音がそれに続く。

「綴様、ご無事ですか」

 若い男の声が蔵に響く。寺の僧の一人だと思われた。

「もう大丈夫よ」

 男の呼びかけには答えず、綴はそっとひたきの手を握った。体中の緊張がほぐれていくのがわかる。気づけば、あの泥田のような臭いも、湿った足音も消えていた。

 灯りを持った僧侶たちがこちらにやってくる。先頭には憮然とした様子の慶道がいた。

「……来たんだな」

 何も話していないが、なぜか慶道はここまでの事情を把握しているみたいだった。綴はうつむいたままで何も言わなかった。

「時間がないな。今日の夜にも祈祷を始めよう」

「待って」

 早々に踵を返した慶道を呼び止めたのは綴だった。

「やっぱり私、気が進まないわ。祈祷は中止にして」

 慶道が息をのむのが分かった。大仰な身振りとともに綴に言う。

「何を言い出すんだ。助かるにはこれしかないと、お前も賛成していただろうに」

「だけど……」

 言葉に詰まった綴が、すがるような目つきでひたきを見る。

「お祓い、してもらいましょう。あんなのさっさと払ったほうがいいに決まってます」

 その時、慶道が忌まわしそうにひたきを睨んだ。けれど、それはほんの一瞬だった。

「……とにかく急いだほうがいい」

 重々しい様子でそう言って、慶道は蔵を出て行った。残った僧侶たちが二人にも蔵を出るように促す。

「綴さん、大丈夫ですよ。きっと慶道さんならどうにかしてくれますよ」

 祈祷の儀式に不安を抱えているのだ、と思ったひたきは、彼女を励ますつもりでそう言った。けれど、綴はため息まじりに、苛立たしげに首を振るだけだった。

「あなたは何も知らないのよ……」

 自分がいったい何を知らないというのだろう。綴の言葉の意味が、ひたきにはさっぱりわからなかった。



 蔵で目にしたあの顔。それは間違いなく夢で会った、あの少女の物だった。綴と少女。二人の間には何かしらの関係があるのだろうか。綴の部屋に戻ったひたきはその疑問をぶつけるべく、昨晩の夢のことを綴に話した。すると綴の顔色がみるみると変わった。

「どうして、都があなたのところにまで……」

「あの子を知っているんですね。……いったい誰なんですか? 都って」

「……妹よ。一月前、水難事故で死んだはずの、ね」

 妹だと言われても、にわかには信じられなかった。けれど、同時に最初に見た少女の可憐な顔を思い出す。きっとあの夢は彼女の死に際だったのだ。真っ暗な川底に浮かび上がったおぞましい顔は、おそらくあの子の死に顔。

「……成仏されていない?」

 綴は首を振った。

「それ以前に、あの子の亡骸は見つかっていない。一緒に川へ遊びに行った日。ちょっとはぐれてる間に、都はどこかへ消えてしまった」

「すぐに探さなかったんですか?」

 ひたきの指摘を受けて、綴の顔が陰る。

「泳げないの、私……。怖くて何もできなかった。その日も水遊びが好きだった都のただの付き添いだった。……だから、あの子は私にとり憑いているのよ。見殺しにした私を恨んでいる。当然のことよね」

 綴の声は震えていた。しばらく会話が途切れる。

妹に恨まれる姉。そんな関係がひたきには胸が痛いほどにつらく感じられた。自分にもいつか姉を殺したいほどに憎む時が来るのだろうか。本当に、都は綴のことを憎んでいるのだろうか。

重たい空気が部屋を支配するなか、唐突に綴がその沈黙を破った。


「……出ていきなさい。今すぐに。あなたはこの寺にいてはいけないわ」


 忌々し気に、綴は深く息を吐いた。突然の暇に頭が混乱してついていかない。

少しは心が通じ合えたと思っていたのに。結局自分は厄介者だったのか。だけど、もしそうなら、なぜさっきは助けてくれようとしたのだろう? 綴の真意が分からない。

「……どうしてですか? ……もしかして妹さんのことを知ってしまったからですか?」

「何も聞かないで。早くしなさい……」

 有無を言わせぬ口調だった。これ以上食い下がれば彼女の逆鱗に触れてしまうような気がした。けれど、暇を受けてしまえば二人は赤の他人になる。それならいっそのこと最後にわがままを言ってもいいのではないか。

「ちゃんと説明してくれるまで、わたし出て行きませんから」

 強情なひたきを見かねて、綴は静かに語り出した。

「……人形の蔵でした憑坐加持の話を覚えてる?」

「はい、お人形に憑き物の身代わりになってもらうという……」

「その憑坐加持の中に、阿尾捨法と呼ばれる呪法があるの。憑き物を、身代わりに移して払う点は同じ。でも阿尾捨法では、身代わりの役目を果たすのは人形ではなく、人間なのよ」

「それじゃ……」

「そう。あなたは都を払うための憑坐。最初からそのために呼ばれたのよ。僧侶たちの手厚い待遇も全て、阿尾捨法の儀式の下準備。憑坐は清く保たれねばならないから」

 蔵の人形にまじって自分の死体が安置される光景が脳裏に浮かんだ。暗く、冷たく、寂しい人形の蔵。

鼓動が早くなっていく。最初から殺される運命だったのだ。その事実だけでも、魂が抜けていってしまいそうだった。

「……だから、出てけと言ってるのよ」

言われずとも、すぐにここを逃げ出したい。まだまだ生きていたい。その一心だった。だけれども、一つの懸念がひたきをその場に引き留めた。

「でも、わたしが逃げたら、今度は綴さんが……」

「気にすることないわ。私はあの子に恨まれて当然の人間」

――それに、と綴は続ける。

「あなたが都の犠牲になったら、一番つらいのは私。二度も人を殺すことになるんだから」

 さも平然と綴は言う。けれど、それはひたきを説得するためのお芝居。死に対する恐怖を必死に押し隠した、精一杯のお芝居だとひたきにはわかってしまった。

だから、次に言うべき言葉が見つからない。殺されるのは怖い。でも、自分が助かったあとで、人知れず死を迎える綴の姿を想像すると、とてもいたたまれない。

「……一緒に助かる方法はないんですか?」

 やっと絞り出た声は、叶うはずもないわがままだった。憐れんだ目をひたきに向けて、綴が首を振る。

 綴は立ち上がり、ひたきを縁側のほうへ促す。

「早く行きなさい。寺の人に見つかる前に」

「嫌です。わたし、綴さんを見殺しにしたくはありません」

 焦りといら立ちが綴の顔に浮かぶ。

「意地張ってないで早くしなさい! 死にたいの?」

「死にたくなんかないです! でも――」

その時、背後で障子の開く音がした。

「お父さん……」

「……全てを話したんだな。なぜだ、お前もこの計画には賛同しただろうに」

「……ごめんなさい。でも、やっぱりこんなことはだめよ。……都が死んだのは私のせい。なのに、それを人に押し付けるような真似――」

「都のことはお前のせいなんかじゃない! 一体何度言わせるんだ」

 慶道は激しい剣幕で綴を怒鳴りつけたが、そこに力強さは感じられなかった。小心者が恐怖心をごまかすために叫んでるみたいだった。

「何を言われても、私自身が納得できないの。私がちゃんとそばにいてあげられれば、きっと……」

「綴、あれは事故だ。お前が一人で責任を負うようなことじゃない」

「じゃあ、どうして都は私に憑いているの?」

 それは――、と反論しかけた慶道の口が途中で固まる。綴の考えを全力で否定したかったが、それにふさわしい言葉は見つからなかったようだ。

「……だが、このままでどうするつもりなんだ」

 体中の空気を絞り出すように慶道は言う。さっきまでの勢いはすでに死んでいた。

「都と一緒に行くわ」

 慶道の顔が恐怖にゆがむ。

「そんなことは断じて許さん!」

「私の命よ。好きにさせて」

 有無を言わせぬ綴の口調に、慶道は黙り込んでしまった。後に続く言葉はなく、庫裏全体が静まり返る。しばらくして、綴が朗らかな笑顔を浮かべて、慶道のほうへ一歩近づいた。

「――ごめんなさい。せっかく助けてくれようとしてるのに。……でも、こんなことは間違ってるのよ」

 慶道は呼吸するのも忘れたみたいに立ち尽くしていた。綴はひたきに向きなおった。

「祈祷は中止よ」

 柔らかな声で綴が告げる。それを聞いて、するすると肩の力が抜けた。まだ何も解決されてないけど、ひとまず自分の安全が保障されてほっとした。しかし、

「……中止などにはしない」

 慶道の、声だった。

「こいつらを連れて行け!」

 蔵での様子から、綴が祈祷を拒否すると予想していたのだろう。慶道が叫ぶと、すぐに縁側から数人の僧侶がなだれ込んできた。逃げ出す余裕など微塵もなかった。



ごめんなさい。綴は心の中でつぶやいた。他人に災いを押し付けるなんて、いけないと最初からわかっていたはずなのに。

都が行方不明になって、しばらくたったある日。あの子が夢に現れた。自分に会いに来てくれたみたいで嬉しかったけれど、すぐにそうじゃないとわかった。

言葉にもならない、不気味なうめき声をあげて、水死体と化した都が向かってきたのだ。逃げたいけれど、金縛りにあったように足が動かなかった。

都は綴を川へ引き込もうとする。どれだけ声を上げても、都は文字通り、聞く耳を持たなかった。

都は三日三晩夢に出てきて、同じように綴を水へ引きずり込もうとした。そのうちに、綴は悟った。あの子は、見殺しにした私を今も恨んでいるのだと。眠ること自体が怖くなり、気づけば綴は慢性的に不眠になっていた。

綴に、都の霊が憑いていると最初に気付いたのは慶道だった。彼はすぐにその事実を綴に伝え、加持祈祷の儀式を執り行った。けれど、都の霊は人形の坐憑で封じ込められるほど弱くはなかった。

そこで、慶道は阿尾捨法という祈祷形式を提案してきた。それはいわゆる人身御供だとはわかっていた。けれど、綴は身を守る一心でそれを受け入れた。

そして、ひたきがやってきた。

できることなら、顔も合わせたくなかった。自分の犠牲になる人間となんか関わりたくなかった。

けれど、ふもとの村から奉公に来たという少女は、やたらにその距離を縮めようとしてきた。父の言葉を真に受けたのだろう。内心ではびくついてるくせに、必死に期待に応えようとする健気さが鬱陶しかった。

だから、掃除を頼んで部屋に置き去りにしたのに、人形の蔵にまで、ひたきがやってきたときは心底うんざりだった。けれど、泣きじゃくるあの子に抱きつかれたとき、生前、自分をよく慕ってくれていた都の姿と重なった。一度そうなると、もう赤の他人とは思えなくなっていた。私は一度ならず二度までも、あの子を死なそうとしているのかもしれない。そう考えるようになってしまった。



 祈祷の舞台となる祭壇に、ひたきは転がされた。縄で縛られてしまって身動きが取れない。これから死ぬというのに、涙も出てこないのが不思議だった。

向かいには、足を縛られた綴が座らされた。彼女は瞼を伏せ、決してひたきを見ようとしなかった。

 祈祷を開始するべく、慶道が祭壇に上がる。彼の足取りは重々しく、緊張が見て取れた。この儀式が成功するか否か、それは彼自身にもわからなかった。だが、必ず成功させる、させなくてはならない、と彼は気合を入れなおした。

 中央政府の発した太政官布告は、全国の寺社のあらゆる権利を剥奪し、窮地に陥れた。もちろん、淡園寺も例外ではなかったが、慶道は必ずしもそれを不幸だとは思っていなかった。

確かに寺の経営は右肩下がりで、暮らし向きは決して良くなかったが、太政官布告があったからこそ、僧侶の身でも妻帯が許され、二人の子宝にも恵まれたのだった。だから、今が満足だと言っても、まんざら嘘でもなかった。

 だが、五年前に妻が他界した。あまりに突然の出来事だった。だが、悲しみに暮れている余裕はなかった。彼にはまだ二人の娘が残されていた。

 彼は、自らの手で妻を供養し、寺の敷地に墓を建てた。庫裏からでも、彼女の居場所が分かるように、墓石には白色の御影石を使って他の墓と区別した。たとえ廃寺になろうと、妻の墓だけは守り通そうと心に誓った。

 だが、彼の不幸は終わらなかった。ある日、川遊びに行っていたはずの綴が血相を変えて、寺に戻ってきた。嫌な予感がした。一緒のはずの都の姿が見えなかった。

 報せを受けて、慶道はすぐに川へと走った。

水辺の岩の隙間から水草の陰まで、血眼になって探すが都の姿はない。急流に飲まれたのか。そう思った慶道は下流に向かってどこまでも、どこまでも走り続けた。けれど、都は一向に見つからなかった。

もしかしたら、都は川で溺れたのではなくて、森で迷子になってるのかもしれない。だから、その辺の木陰から今にもひょっこりと姿を現すんじゃないか。そんな淡い期待を抱いたりもした。けれど、結局都の遺体すら見つけられなかった。弔ってやることすらもできなかった。

 数日がたち、慶道は綴に憑いた都の姿を見た。綴自身はその存在に気付いていないようだった。最初はかすかに見える程度だったその姿は、日増しに克明になっていき、慶道は底知れぬ不安に駆られた。

 綴を問い詰めると、毎夜都が夢に立つと白状した。

「都は、助けてあげられなかった私を恨んでいるのかな」

 そう言って、綴は静かに泣いた。

 なぜ私ではなく綴なんだ。助けてやれなかったのは私も同じではないか。自分の娘が、もう一人の娘を呪っている。それがどうしようもなく慶道には悲しかった。

 妻に先立たれ、都も失った慶道には、もう綴しかいなかった。絶対にこの子を守り通そう。どんな手を使ってでも。たとえそれで誰かを犠牲にすることになっても。



 呪文を唱える声が反響する。抑揚に乏しいそれは、聞いているだけで意識が遠くへ離れていくような気がした。魂が抜けて行ってるのかな、とぼんやりとひたきは考える。

 綴には、ひたきの変化がはっきり見て取れた。縛られた体が小刻みに痙攣している。双眸は赤く血走り、鬼面のようであった。

 呪文を詠唱する声が語気を増す。それを受けて、ひたきの体が麻痺したかのように硬直した。

 お願い、都。その子を連れて行かないで。私の元へ戻ってきて。無駄だとわかっていても、綴はすがるように懇願する。綴の気持ちをはねつけるように、ひたきはみるみる恐ろしい形相になっていく。ひたきの体へ、都が封じられようとしているのだ。

 ごめんなさい、ともう一度綴はつぶやいた。私はみんなを不幸にしてばかりだ。

 その時、縄のちぎれる音がして慶道の呪文が一瞬途切れた。綴が顔を上げると、ひたきの黒い目が、しかと綴を見据えていた。赤く、まがまがしい瞳ではなく強固な意志の感じられる澄み切った眼だった。気づけば、綴はひたきの元へ這い寄っていた。



 ひたきの意識は都が死んだ、あの河原へ飛んでいた。川中で水遊びをする都がいる。昨夜の夢と同じ光景だ。ひたきの存在に気が付いた都がゆっくりと顔を向ける。その相貌は真っ暗な水に沈んでいったときのおぞましい顔。

 嗚咽のような呻き声をあげて、白く膨れ上がった肉体が迫る。距離が縮まるにつれ、あの泥田のような異臭が鼻を衝く。今なら、これがヘドロの臭いだとわかる。

 もう逃げられないんだ。呆然とひたきは考える。格好なんかつけないで、素直に逃げればよかった。今更ながらに後悔の念が襲ってくる。けれど、これで綴は助かる。わたしが死んだら、あの人は蔵の人形と同じように、わたしのことも見舞ってくれるのだろうか。そうしてもらえたら、少しは慰みになるような気がした。

 都がひたきの肩をつかんだ。強烈な腐敗臭で失神しそうだった。耳元で都の声が地鳴りのように響く。彼女の顔が間近に迫り、ひたきはそれをまっすぐに見据える形になった。唇の隙間から、ほかの体の部位と同様に膨れ上がった舌が覗いている。それを見てひたきははっとした。

 都は喋れないのだ。巨大な舌が邪魔をして、その言葉はすべて唸声に変えられてしまうのだ。今もずっと都は声を上げ続けている。都には伝えたい思いがあるのではないか。

「都さん、話を聞いてください!」

 都の力に抗いつつ、ひたきは声を張り上げる。しかし、都はそれを意に介さない。きっと耳も聞こえないのだ。

 どうにか、こちらの声を届ける方法はないだろうか。焦燥にかられた頭で必死に考える。何とか自分の思いを伝えたい。

 そのとき、ふと思った。そもそもなぜ今、わたしは都さんに襲われているのか。それは彼女がわたしのなかに入り込んできたからだ。いわば、今のわたしと都さんは一心同体。心で強く念じた気持ちは、彼女にも届くかもしれない。

(都さん、わたしの声が聞こえますか?)

 困惑したように、都の動きが止まった。

(聞こえる……。でもいったい誰なの?)

 夢で一回会ってるんだけどな、と思ったけれど、顔を合わせたのはほんの一瞬。まして、ひたきの声なんて、都は知る由もなかっただろう。

(初めまして。都さん。ひたきと言います――)

 少し言葉に詰まる。わたしと都さん、どういう関係なんだろう。最初から憑坐となるために呼ばれたのだから、奉公人というのはなんか違う。

 少し考えて、結局こう伝えておいた。

(綴さんの、お友達です)

 都がまた少し呻いた。

(お姉ちゃんのお友達?)

(はい、都さんとも、実は昨日会ってるんですよ?)

(えっ? 私、お姉ちゃんの夢にしか行ってないはずなのに……)

(あ、もしかして間違えてしまったんでしょうか? 昨晩、綴さんは眠っていませんよ)

 きっと部屋で一人眠っていたひたきを、綴と勘違いしてしまったんだろう。

(それじゃ、あの時、いったん私を引き上げてくれたのは……)

(わたしです。でもすぐに手を放してしまいました。……ごめんなさい)

(謝らないで。……一瞬でも手を握ってくれた時、すごく嬉しかった)

(嬉しかったんですか?)

 かすかな驚きとともにひたきは言う。

(うん。だって、もしかしたらやっと私の居場所をわかってもらえるんじゃないかって)

 そうだったんだ、とひたきは納得する。都は、見つけてほしかったのだ。冷たい水の底に沈んでいる自分の遺体を。

(それじゃ……最初からあなたは綴さんのことを恨んでなんかいなかったんですね)

 都がひときわ大きな声で唸る。都の本当の思いがひたきの中に流れ込んできた。

(恨んでるわけないよ! ただ、寂しかったの! 早くこの暗くて冷たい水の底から、私を連れ出してほしくて……。お姉ちゃんをそこに案内しようとしたんだけど、わかってもらえなかった……)

(もしかして、今みたいに引っ張っていこうとしました?)

 都の返事が途切れる。図星なのだろう。

(……ひたきさんの夢では引っ張ったりしなかったでしょう? 怖がらせちゃったかと思って私なりに考えてみたの。今度お姉ちゃんのところに行ったらもっと違うやり方で思いを伝えようって。……だけど、お姉ちゃんの元には二度と行けなかった。夢が見つからなくなっちゃって……)

 眠ることがなければ夢も見ない。たとえ眠っていたとしても、魔よけの鏡が都の侵入を妨げていたのだろう。そのせいで都の気持ちは誤解されたままになってしまったのだ。

(それがすごく悔しくて、そのせいかわからないけど、一度だけ直接会いに行けたときがあった。けど、それでも結局何にも伝えられなかった……)

 人形の蔵でのことだろう。あの時も都は必死に自分の思いを伝えようとしていたのだ。

(ごめんなさい。少しも気が付いてあげられませんでした。でも、今はこうしてあなたの思いは届きました。必ず綴さんにも伝えます。だから待っていてください。必ず綴さんと迎えに行きますから)

 気が付けば、都は泣いていた。その顔はもう、水死体のそれではなかった。最初に夢で見た可憐な少女の表情がそこにあった。こうして見ると、その面立ちは綴によく似ていた。

「約束してね。必ず迎えに来て」

嗚咽を漏らしながら都が言う。

「はい、すぐに行きますから。信じてください」

 都の首に腕を回して、ひたきは優しい声で答えた。



 目を覚ますと、綴の顔が目の前にあった。頬に涙の跡がついている。自分のために泣いてくれたのだろうか。そう思うと、なんだか嬉しかった。

「おかえり、ひたき」

「ただいま、綴さん」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

水虎の誘引 茅田真尋 @tasogaredaru

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ