恋を忘れた私たち

琴波 新 (水)

恋を忘れた私たち

 鈍色にびいろの高いフェンスに囲まれた屋上を、地平の陰に潜ろうとする太陽がじっとりと照らしている。僕の前に立っている少女は、つっぱった笑顔を浮かべて頷いた。

「だよね。わかってたんだ、たぶん」

 どう答えるのが正しいかはわからない。

 僕は、僕たちはきっと恋を忘れてしまったから。

 新庄の気持ちに共感できない。その解釈は真理かどうかわからない。

 恋は、きっと存在しない。それは、何かしらの生体現象の、誤った自己分析結果に過ぎないから。

 だから僕は新庄の下した自己評価に相応しい返事を返すことができない。

 腕時計型スマートデバイスWatchealthウォッチェルスに搭載されているMoodOrgnSystemムードオルガンシステムが、計測された僕の心音と体温から、ごく単純な僕の精神分析結果を表示する。

 うん、ひどく悪い気分。

 僕は新庄が僕に出した手紙をポケットに突っ込んで屋上を後にした。

 中学最後の年。成人前の最後の春。LLキューピッドと出会う前の最後の日に僕は新庄の告白を受け入れることができなかった。





 十六歳で成人となり、生府せいふとの社会契約ソーシャルコントラクトを結んだ。世界政府、第七号条約、七条の七項で成人は十六歳であることと、十六歳以上になって初めて自らの自由意志による社会契約ソーシャルコントラクトが可能になることが記されている。契約から一週間後、家にスクナビコナ生府仕様のeyePhoneアイ・フォーンが届けられた。

 僕は自室でeyePhoneアイ・フォーンのセットアップを終わらせて、生府生活のガイダンスを聴き始めた。

『みなさんは当生府との社会契約ソーシャルコントラクトにより生府市民となられました。

 当生府は保険と医療ウェルフェアを提供する定額福祉配信産業リミテッド・ポリシー・ステートです。

 生府から皆さんには、Watchealthウォッチェルスに加えて、HMCAOオーガンeyePhoneアイ・フォーンが支給されます。事前に説明された通り、オーガンはすでにみなさんの体内に埋め込まれ、所定の効果を発揮しています』

 ガイダンスの述べる通り、僕は三日前にオーガンの入植手術インプラントを終えていた。HMCAOというのは恒常性維持機構統括人工器官こうじょうせいいじきこうとうかつじんこうきかんの略である。この機械は体に異常がないかを監視しつつ、主に免疫機能などの体を正常に保つ働きをサポートする。彼はちょうど胸膜と腹膜の間に埋まっていて常に僕の体を監督しているのだ。

eyePhoneアイ・フォーンはブレイン・マシン・インターフェースによって脳に電波によって接続し、視野をディスプレイ化することをはじめとした諸々の機能を発揮します。

 またWatchealthウォッチェルスと同期することにより脳などの状態の把握にも役立ちます。

 このガイダンスで説明するのは、オーガンとeyePhoneアイ・フォーンによる精神監督システム、通称MoodOrgnSystemMOS(ムードオルガン)と、それを用いたカップリングアプリケーション、通称LOVEandLIESLL(キューピッド)です。

 MOSムードオルガンはみなさんの感情の状態を、継続的な様相である気分ムードと一時的な感情の変動である情動エモーションに分けて計測し、特に情動エモーションについては、その感情の対象も推定します。

 みなさんはこれまでに心音と体温を利用した簡易版MOSムードオルガンで、MOSムードオルガンの働きを体験されていると思いますが、完全版MOSムードオルガンは簡易版の何倍も正確です。

 そしてLLキューピッドMOSムードオルガンから得られたデータを中心に、いくつかのデータを参考にして、みなさんに最適なパートナーを提示するアプリです。

 当アプリが提示するパートナー同士は交際、結婚することが推奨されますが、結婚における最終の決定権はみなさんにあります。

 ただし、提示したパートナー同士の結婚生活には政府からBIPベーシックインカムポイントの支給額増加などのいくつかの社会手当があります。ぜひアプリを参考にしてみてください』






 高校に進学して最初の現代史の授業で、担当の老先生は、黒板灯の光を頭のてっぺんで跳ね返しながら、授業内容の流れを説明していた。

「現代史の転換点は二つある。企業による定額福祉配信産業ていがくふくしはいしんさんぎょうの増加、世界政府ワールドガバメントという最小国家成立による二層国家制ダブルステートと、精神計測器による感情の克服である。

 前者は、市場経済の拡大によって、国家の機能が縮小し、保険、医療、教育、治安維持などの多くの仕事が民営化されたことによる。特に福祉は最初に企業が、保険と細やかな医療提供のセットを定額配信サービス形式で売り出したことが発端となって、真っ先に政府の仕事ではなくなった。これを代行しているのが、多くの人が契約している生府だ。

 後者については、MOSムードオルガン開発以降、視覚化された感情は意識的、理性的な自己評価によって、コントロールされるようになった。私たちは自分の感情をWatchealthウォッチェルスの画面に表示し、悪性の感情を自己暗示セルフカウンセリングによって有意味に解釈して解消できるようになった」

 先生はそこで少し息をついて、ため息をひとつこぼした。そして、ここからはテストには出ないと言った。

 高校でも同じクラスの新庄は、先生の話を少し熱心に聞いているようだった。以前は知らなかったけれど、彼女は真面目で、歴史が好きらしい。世界がかくある理由を知りたいそうだ。新庄は興味津々で前傾姿勢になって、顔にかかった長い髪を鬱陶しそうに耳にかけた。

「昔、感情は意識すること自体が困難な、不確かな存在だった。しかし今はMOSムードオルガンが常に感情を監視し、逐一私たちにその状態を報告している。かつては、自身が抱く特定の個人を対象とした複雑な感情を肯定的に自己評価して「恋」などと形容していた。が、それも今では非合理的な幻想とされ、忘れられている。「恋」を構成していた感情群はMOSムードオルガンによって、必要な友愛や普段は不必要な性欲、嫉妬などに分析、分解され、個別に自己暗示セルフカウンセリングで処理されるようになっているわけだ」

 と、先生は懐古するようにそう語った。新庄はテスト範囲でもない内容を一生懸命ノートにメモしている。僕は、先生の言うような昔の恋が本物だとは思えなかった。





 夏になった。厳しい日差しが窓から差し込む中、新庄の濁りのない夏服姿は中学と少し違うデザインで、しかし相変わらず綺麗だった。

 僕は休み時間に友人と談笑している新庄をじっと見つめて、そしてWatchealthウォッチェルスMOSムードオルガンの結果を表示した。

 気分ムードは数分前の結果より概ね良い方向に変化している。

 情動エモーションは新庄を対象として、僕がいくつかの強力な感情を抱いていることを示していた。

 僕は自己暗示セルフカウンセリングを行なって、性欲や嫉妬などの悪性の感情を不必要な分だけ排除していく。これらの感情は不純で、きっとそれは本物ではない。そして、排除されずに残った感情をMOSムードオルガンで確認した。

 そこにはまだ、彼女を対象とするいくつもの強い感情が表示されている。それは純化された僕の想いで、それこそがたぶん本物なのだろう。

 きっとそれらが表すものは、前に現代史の先生が言っていた昔の恋ではない。

 でもそれは適切な恋なのだろう、と僕は自分の感情を自己評価した。





 下校前の新庄の下駄箱に手紙を出して、僕は屋上に向かった。

 Watchealthウォッチェルスと同期しているeyePhoneアイ・フォーンが、脳内にLLキューピッドのカップリング決定時の通知音を鳴らす。

 見るまでもない。僕の想いが本物なのはわかっている。

 僕は左手首のディスプレイを見て通知内容を確認した。

 うん、やっぱり思った通りだ。

 僕は一人で頷いて、LLキューピッドに別れを告げる。

 僕は少し錆びて堅くなった屋上の扉を開いた。

 その先には爽やかな紅碧べにみどりの景色が広がっていた。

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