第5話 ・・・運命の分岐点だったの?

設定57


【【空間機械――マトリクスマシンについてのロザリ・アン様の説明:始め】】

空間機械。私たちの住む宇宙は、この見えない機械でびっしりと覆い尽くされている。ここにも、そこにもね。

この宇宙に閉じられた小さな時空、パラレルワールドとも言うべき異質な世界が常に、すぐ隣に、存在している。マトリクスマシンとはその空間に作られた巨大な機械。それは世界の壁を越えてこちら側に作用を及ぼせる。だからシリンジが届く範囲の空間はそれによって変質する。マトリクスマシンにアクセスする情報伝達システムはシリンジのみ。なのでこれは私たちギーメが独占している技術。

ただそれ以上のことは私たちにもどうしようもないの。なぜそのレベルまでの情報を私たちが知ってるのかも分からない。その由来は知られていない。そこから先はまったくの不明の領域なのよ。

【【説明終わり】】


ぶぅん、と音が聞こえた気がする。

私は音に呼ばれて窓の外を見た。

猫間理湖の母親。すでに死亡している娘がひとり。私がシリンジで死んだその娘だと思わせて寄生していた家庭。シリンジは傷つけること。私が傷つけた人。利用した人。いつか殺す予定だった人。

生きている人として歩く私の罪の証拠。


ふわふわした歩き方は、誰かに強制して歩かされている証拠。

連れ去られた。言うまでもなく、私をまねきよせる餌として。


その人を見た途端、私は外に飛び出した。


「どこに行くの!」

後ろでオクファさんの悲鳴が聞こえる。

外に出た。

いない。

右? それとも左?

「あれ、どっか行っちゃったぞ」シスカさん。

「待ちなさい、勝手な行動をとらないで!」オクファさん。

悲鳴は後ろに置いていく。今は前にだけ。


曲がり角。

左に進んだ。もうお母さんの姿は見えない。どちらに進めばいいのか。

なぜだかわかった。こちらだ。

家と家と建物と迷路のような奇跡のような路地裏を進んで。

進む。

進む。

進む。

先刻からずっとささやき声みたいのが聞こえるだが。いやこれは呼ばれているのだ。

ちいさなささやき声が。

これはシリンジだ。

私がお母さんに使ったのと同じ。

大通りまで出て、

左の最初の建物、

廃業した家具デパートのエントランスホール。

少なくともたどり着けるはずだ。

お母さんを引きずり出した相手のところへは。

そいつと話をつけないといけない。

人質に取られているということなのだ。

ふしぎとオクファさんたちは追いついてこなかった。

でも疑問に思っても仕方ない。逃げられないのだ。逃げるつもりもなく。

廃業したにも関わらず商品が運び出されていない。

高価な家具の間にいる。

豪奢なその空間は彼女にふさわしく、

夢遊病者のように歩いてたどり着いたそこには、

たぶん、こうなることを最初から知っていた、

予期していた、

こうなってしかるべきだと。

「久しぶりというべきかしら。今朝会ったのがまるで遠い夢のようね」

従者の方たちを連れたロザリ・アン様。


視界の隅になにか見える。

それは虫のようなもの。蜂のようなもの。でも見ようとするとそれは見ることができない。目の端に映る何か。光の切れはし。


遅ればせながら、オクファさんとシスカさんが駆けつけてくる。

「はぁはぁ」「え、なんで?」

2人とも息を切らしている。私と違って息を切らしている。

ついさっきまで、その強靭な体力を見せつけて私の手を無理やり引っ張ているくらいだったのに。

これは何かが作用している。

「邪魔な登場人物たちには少しだけお暇してもらいましょう」

ぶぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉんんんんんんんん。

蜂の唸り声としか思えないその響きが本当はささやき声でしかないのに、耳を抑えるほどの轟音になって鳴り響いたのだった。

見ようとすると見ることのできない蜂たちが光の筋になって流れていく。


%%%%%

ホーニットコーラス。

蜂の唸り声。

恐怖は知識に由来する基本的な性質。

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それは言葉でありイメージだった。彼女の頭の中で紡がれた言葉が私の頭の中にも流れ込んでくる。光の筋が流されていく中で、オクファさんとシスカさんが薄れていく。やがて光の線だけを残して消えていく。そのまま見ようとしても見ることはできない存在に。完全に消えた。そう、胸に鳴り響くこの感情は恐怖なのだ。これが恐怖になるとは新鮮な驚愕。

「大丈夫。猫間さんもあの2人もどこか邪魔にならない場所に移動してもらっただけだから。無事よ」ロザリ・アン様の説明。

従者2人が椅子を抱えてこちらに運んでくる。テーブルをはさんで両側に置いて。言われるまでもなくロザリ・アン様がその片方に座り、従者の人たちは両側に並ぶ。

「座ったら? 立ち話は疲れるわ」


ロザリ・アン様の説明。

「数多あるシリンジの中には特殊効果付きのものもあってね。メソッドと呼んでいるの。以前にも説明したかしら」

私が理解できるよう、時間を置いてから続きを話す。

「これはその1つよ。まあ他人を瞬間移動させる魔法といったところ」

私は、自分が守るものとて絶えてない孤立状態になったことを、すぐには悟らなかった。

「ただのシリンジや、エリアティッシュを発動させるブートキーメモリーはたくさんある。なのに、こういうのは大抵の場合1つのブートキーメモリーしか対応してない。不思議だと思わないかしら。いったいブートキーメモリーの数はいくつあるのかしら。疑問に思ったことはないかしら。この向こう側には何があるのだろうって」

立ち話は疲れると言いながら決して座ることのない2人の従者さん。

「ブートキーメモリーはシリンジを使うことで他人に譲渡することができる。そうすると1つの疑問が湧いてこないかしら。すべてのブートキーメモリーを集めるとどうなるのだろう。そう、これは記憶なのだから、すべての記憶が集まれば何を思い出すことになるのだろう?」

従者さんたちの1人は奇妙な瞳の色をしてる。白目が青くて、黒目はより黒い。笑ってもいないし怒ってもいない。青色強膜という生まれつきの特徴らしいと後で知りました。

「誰がこれを作ったのだろう。何のために? 私たちはブートキーメモリーをシリンジという超能力を使うための装置として扱っているけれど、これは本当は逆なのではないだろうか?」

もう1人の従者さんは常に笑顔を崩さずに直視してくる。

「繭の間というのを聞いたことがあるかしら?」

ロザリ・アン様の質問。


目の前で語れている疑問はすべて私の知らないものばかりだった。

まゆの間?


「この世のどこかにあると言われる1つの部屋の名前よ」

ロザリ・アン様の説明。

「だけど誰もそれを見つけられない。その部屋を見つけることができればどんな望みでも必ず叶えることができると」

「……叶えたい望みが何かあるの?」

話の腰を折る私の質問。

「特に何も。ただそれを知ることが私にとって利益となるということ。それを他のメソッドホルダーたちに知られる前に私だけが知ることができれば」

ロザリ・アン様の答え。

嘘だと思った。この人には絶対に叶えたい願い事が何かあるのだ。

「メソッドホルダーというのはメソッド持ちのギーメのことです。言わばギーメの貴族」

白目の青い従者さんの説明。

「あなたもメソッドホルダーなのでしょう? 我々が訊いているのはつまりそういうことです」

白目の青い従者さんの丁寧な尋問。

私が特殊効果付きのシリンジ? しいてあげるとすれば、私に心当たりがあるとすれば“抗毒素”だけなのだが。ルージュを置き去りにしてきた今、“抗毒素”の所有者は私になっている。でもあれは。

「誰よりも先にそれを手に入れること。そうすることで他者の生殺与奪をこの掌中に握ることになる。ほかの誰かにそれを握られるのではなく。それこそが私の望みよ」

ロザリ・アン様の理由。


「あなたは知ってるかしら? それともひょっとしてその部屋に行ったことがある?」

ロザリ・アン様の声が温水プールの中の声のようにくぐもって聞こえる。


部屋の壁に長く伸びる子供の影。

今日もいつもと同じ。変わりなく。


「……知らない」

私は否定する。

「……持ってない」

従者さん2人がそれぞれ左と右に展開する。

この人たちは最初から実力行使するつもりなのだと遅まきながら気づく。

そのために私をあそこから追い出したのだ。他のメソッドホルダー、他のギーメ貴族に邪魔をされないために。

「残念。交渉で手に入れたかったんだけど。そういう態度では仕方がないわね」

ロザリ・アン様の最後通告。

「やりなさい」

戦闘開始。言語道断。


といっても私は一方的に叩きのめされるだけの配役です。


向かって左側。白目の青い冷たい笑顔の従者さん。

ぃぃぃぃいぃぃぃぃいぃぅぅぅぅぅぅぅぅぅ。


ヴァイトブラスト。生命付与。あらゆる物質が新しくかりそめの命を持つ。

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絶望。呪い。ゆえに他者への盲目的な憎悪。

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その音を聴いた刹那、私の心の中で何かが砕け散る。




向かって右側。いつもニコニコ笑顔を絶やさぬ優しそうな従者さん。

りりりりりぃぃぃぃぃぃぃぃぃいぃぃいぃぃぃるるうるぅぅぅうぅ。


ビオマグネトー。生体磁力場。生体である限り力場の影響下に置かれる。

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裏切りと罪悪感。自分だけが知っていればいい自分の罪。

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その声に触れた瞬間、自分の肉体に不均一で不愉快な張力がかかる。




私は自分の背の高さだけ罪に向かって墜落した。

ざりっ。

その結果。私の深奥で何かが牙をむいた。


設定58


「ひょっとして毬村さんが助けに来てくれると思ってる? あなたはあの子の何を知ってるのかしら。あの子は人前で水着姿になれない体なのよ」

シリンジの二重嬌声の向こう側でロザリ・アン様らしき誰かの声が聞こえる。



【【***の視点:L+1:始め】】

…………………………………………。

…………………………………………。

……。


「目を覚ましなさい」

俺はその声にまるで肉体が撥ね起きるような衝撃を受けた。

「あなた、誰なの。ノワールではないようね」

眼前に立つは朱毛の女性。いや少女。

笑みを浮かべるとも苦り切っているとも判断できぬ微笑を浮かべている。

「とりあえず適当に名前でもつけるか。ブラウという名前にしよう、今日からお前はブラウだ」

「わ、私はそんな名前ではない」

咄嗟に抗議した。そうだ、そんな名前ではないのだ。

「では自分の名前が思い出せるとでも?」

「いや、それは……そう言われると」

名前など既に忘却の地平線の彼方に置き忘れてきたのはこの肉体を同居する少女と同じだ。ただ違う点があるとすれば、この少女は俺のことを知らない。おそらく。でも俺は彼女のことを知っている。寄生者に取り付く更なる寄生者、ハイパーパラサイトとして。滅多に表に出てくることとてないが、これまでは人界の肌触りや、たまさかの食事の匂いを遠くから体験するだけで充分としてきた。

もうひとつ、俺の役割があるとすればそれは彼女を守ることだ。

それだけははっきりしてる。

「ノワールのやつ、いつ頃からこんなのを取り憑かせてきたのかしら。それともまさかただの解離とかじゃないわよね」

解離とは病的な多重人格の事である。

朱毛の女性は俺のほっぺたをつかんで、そんなところをつかむのは存外難しいのだが、それを上にやっては下に引っ張りしてる。

「ほほぅなほほお、ひあへへうぉ、あひおへへひはへんほ」そんなとこを調べても何も出てきませんよ。

俺がこの奇妙な共同体に受けいられるまでは数日かかった。

この肉体を共有する少女―――少女自身の人格―――にはノワールと名前がつけられていた。

それで区別するために俺の名前をブラウとしたのか。

すべて色の名前であるな。

「人格のひとつヒトツに名前をつけとかないと不便でしょう?」

この朱毛少女―――ルージュという名前らしい―――がここでの支配者、というか状況の総責任者、把握者であるらしい。彼女が知らないことはここでは存在できない。知られるか排除されるかのふたつにひとつだ。俺はそれを心に刻みつけた。気をつけねばならない。

しばらく俺の話すことを分析した結果、俺が外部からの重寄生者であると判断できたらしい。ある役割を果たすためにここにいることを許可された。

彼女に許可されるいわれはないのだが。

もうひとつ、俺がやるべきことは。

窓から小鳥が入ってきた。部屋の中の残飯を漁りに来たのだ。最近の小鳥は大胆だ。人間から危害を加えられないと知ってる。

ぐしゃり。

「なぜ踏み潰したの?」彼女は訊いた。

「なぜって、害鳥でしょ?」俺は答えた。


もうひとつ、この時点で俺が見誤っていることがあった。

朱毛少女―――ルージュは俺と同じように、この『楠本生糸という肉体』に多重寄生してきた。普段の朱毛少女の肉体は仮りそめのものであるらしく。

「むしろこっちが私の本体なんだけど」

つまり最大で『楠本生糸という肉体』の中に3人の人格が存在してるわけだ。

「これって重荷なのよね」

ルージュの発言、言外に出て行けと言われても困る。

一方で俺は―――ルージュがいない時の朱毛少女―――朱毛少女の真の人格を見たことは、無論ない。当然話したこともない。

「まさか美少女なら誰でもいいから会話したいとか? なんていやらしい。そういうのを馬脚を現すとか言うのよね」

そうではなく―――ルージュが朱毛少女の側にいるときは、常に俺から見えているのはルージュである。そしてルージュがこちら側にいるとき、俺の人格は眠っているので、眼を覚ますことはない。ゆえに会うことがない。それが理由だ。

「お前はこの子とことさら会う必要などないのだから、もう少し分をわきまえなさい」またしてもルージュの命令。

以上、俺が把握した限りでの4人の関係はそんな感じだ。


っと、まだ更にもうひとつ。

どうやら少年の同志もいるらしい。まだ会ったことはない。普段は別行動なのか。

「悪いこと言わないから、あんたが会うのは止めておきなさい」

ルージュの忠告なのか、脅しなのか、命令なのか、なんとも判断できない。


いつだったか、目を覚ましたら巨大なフクロウだかオウムだかの大鳥を眼前に見たことがある。でかい! 一抱えもあった。しかもこれまでの害鳥に輪をかけて人間を恐れない。いや、恐れないのではない、これは危険だ。そう思った。

俺は猛然とその肉塊につかみかかった。

ブラックアウト。


ライトアップ。

俺はなぜだかひどく泣きじゃくっていた。それは厳密に言うと俺が泣いていたわけじゃなくて。俺が眠っている間にノワールが泣いていたのだ。泣くようなことがあったのだ。俺は自分の無力さを恥じた。

また守ってやれなかった。つまり、そういうことなんだ。


設定59


ある時、見慣れない青い小瓶をふりふりしてるルージュを見た。

「これは薬よ」

それを見つめる視線が気に障ったのか、そう教えてくれた。つまり教えてやるからそっぽを向けということだ。

「しかし何の薬なんだ」

「妖精病の薬。何の価値もなかったということ」

何の価値もないとはなんのことだ?

よくわからんが、彼女はそれを定期的に服用している。そうせざるを得ない状態らしい。

「まあノワールが目覚めれば必要ないんだけどね。まだ目覚めさせたくないから。ああ、それとあんたにはまったく必要ない薬だから」

トゲをさすのも忘れないルージュである。

ブラックアウト。


ライトアップ。

「前から思っていたのだけど、あなたはどうしてそう明るいのかしら」

ルージュにはかねてからの疑問だったらしい。

「相当に悲惨な体験を重ねてきたように感じるんだけど」

俺の記憶のことか。それは今の私には思い出せない。いや、記憶自体が摩耗してすり切れていた。

「別に悲惨な体験をしたやつが明るかったらおかしいかな?」

それに、俺の悲しみはあったとしても、失った悲しみではない。

そんなことより重要なのは、守るべき相手のことだった。それさえ無事であれば。つまりまだ失ってはいないのだ。それはどんなにか、嬉しいことだろう。世界がバラ色に包まれてみえる。

「私は、あんたのそういうまじめな所は評価してないから」ルージュの感想。

またしても散々な言われようだった。

ブラックアウト。


タイムエレベータ。

ルージュが目指している場所である。

ひらたく言えば、そこに戻ればこの崩壊目前の世界を逃れて過去世界に脱出できるというわけだ。「ただ逃げ出すわけではないのよ。やることがあるの」

そうなのか。俺はノワールを守るのが仕事だ。『楠本生糸の肉体』がそこに行くというのなら、俺はついていくだけだ。

ところでルージュの様子が少し変だ。何か心配事でもあるのだろうか。

「何でもない。さあ。行こう」

この時、ルージュの笑顔を初めて見た気がする。

どこか無理してる風情。理由が俺には分からなかった。


場所。

カカポ農場の直下だった。最悪だ。

その場所まで行くので、乗り物に乗車する必要があったが、俺はそんな時にかぎって眠っていて表に出ていなかった。だから気づかなかったのだ。

同乗者の正体に。

彼こそが、ルージュがかつて言うところの同志、例の少年だった。


ライトアップ。

俺は暗闇の中にいた。

「様子を見てくる。少しここで待っていろ」

その声を聞いて、俺は――思い出した。

振り向きざま、俺は本能の忠告に従って右腕を突き出す。そこに最凶の武器が詰めこまれてることを何故か知っているのだ。だが、それはそもそも俺の武器ではなかった。経験の足りなさ。それが災いする。

スクイドケーブルと呼ばれし光の剣が青い蛍光の海の中、鮮やかに燃え輝く、だが。

中途半端な突きは相手を貫くことはなく、ただ命中するだけで撫でるようにあさっての方向に向けて流れていった。

「何をする!?」

もう奇襲は通用しない。愕然として構える相手に俺は――思い出した。

お前がこれから何をするのかを。

お前は、ノワールのそばにいてはいけない!

よりにもよって、お前が。

ブラックアウト。


どうか頼むから自分から消えてしまおうなんて思わないで欲しい。俺は夢の中でもがいた。祈りのように。


それっきり、俺は眠ったままだった。

でもそれはいいことなのだ。

俺を必要としないのは彼女が安全である証拠だから。

それに俺は大量の記憶を失い続けていた、継続して。

それは裏側の人格としても機能を維持するのが不可能なほど俺を摩耗させる、すなわち。

ほどなく目覚めることもなくなるはずだ。それが寿命なのだ。それでいいのだ。

だが、まだ立ち上がる力がわずかに残っていてくれさえすれば、彼女の命の危機には立ち上がり続ける。立ち上がる力が残っていれば。

その先はもう、分からない。

でもきっと彼女は俺がいなくなっても大丈夫なはず。根拠はないが楽観的にそう信じている。もう彼女が本当は誰だったかも覚えてないというのに。今でも希望を信じる程度には充分すぎるほど俺は愚かなのだ。

すべては俺の思い込みなのかもしれない。

剥がれおちていく記憶の中で、彼女が彼女であることをもういちど確認しようとするが、それが果たされることはない。

何か壊れやすいものをまたひとつ握りつぶした。

まだだ。まだ戦える。

そして間もなく。

そのときが来た。


何も考えるな。ただ―――闘え。


………………。

こうして悪夢はシリンジの二重嬌声のこちら側で目を覚ました。

【【視点終わり】】



設定60


【【余(あまり) 二那(にな) の視点:1:始め】】

フェザープリント。

メソッド―――つまり特殊効果付きシリンジのことだ―――発動時にごくまれに周囲空間にときおり薄く現れるとされる翼状の紋様。

頭部を中心に透き通るように浮かび上がると言われる。マトリクスマシンに由来する性質のためか、それは物理的に触ることは不可。この世界の物質と反応することはありえない。

しかしそれが観測者に鳥類や昆虫類の翼のように観測されるのは、実はそれを観察する側がシリンジによる影響を受けているために、自己の中の翼の概念と一致したものが見えているだけだとされる。

空を飛ぶ生き物が存在しない世界で育った人間ならば、それは翼として認識されないはずだ、と言及されているが、それを確認したものはいない。

―――要出典?―――。

フェザープリントによって個々のメソッドを識別できると言われるが、当然ながら証明されたことはない。

―――中略―――。

楠本生糸のフェザープリントは朱く暗く濃く湾曲して下方から上方に歪曲して延伸する異常なまでに細くゆがんだ、線状の飛行することなど出来るはずもないほどのいびつな翼に、見えると記録されている。

彼女の翼は史上もっとも明確に見えるフェザープリントのひとつであり、それを見る他者に恐怖と嘔吐感を植え付ける。

[1]


参考文献

1、アリス・S・スタイン「実在するヴァンパイアのインシグニアについて」黒兎社、2198年 pp101,102


だがそもそもフェザープリントなんて見えないものだ。ギーメによってはそんなものはないと断言するくらいあやふやで不確かな出現率しかない者だっている。私のフェザープリントなどは、ほとんど出現しないか、首の周りに薄く申し訳程度に出るくらいだ。私の同僚の 静(しずか) 二音(にね) は、それはリボンフユシャクという昆虫のメスの羽だなどと私に信じさせようとしている。どうでもいいが。

特殊な天候や自然現象と同じような目的のない曖昧な存在。浮かび上がる翼の形でメソッドを特定できるなどというのは、血液型で性格やあまつさえ未来予知までできると言い放つようなものだ。

そもそも二音は知らないようだが、この翼のようなホログラフは自分の意思である程度変えることができるのだ。自分でそのことに気づき、誰にも教えたことはないから誰も知らないが、そんなものが血液型より信用できるはずがない。

だが目前のこれは認めざるを得なかった。

おどろいた。綺麗に歪んだ朱い羽根だった。

気分が悪くなる。

というよりこれは明らかに肉体にダメージが出ている。

朱い針のような印象のフェザープリントが誤解しようもなく周囲に浮き出る様子を瞳に収めることで、同時に視界が回転するような気分の悪さを感じ始める、これは間違いない。

このメソッドホルダーは、

強い。


もちろんまだ戦いが始まってもいないのなら、どちらが勝者になるかも知れたわけではない。私が勝てないと決めつけたものでもない。ただ言えることは、これはもう抵抗不可能な相手を一方的に殲滅して虜囚にするだけの安楽な任務ではなくなったということだ。この時点で。

さて。

どうするべきだろう。

私は、死を賭してまで、このお方、ロザリ・アン様の側で戦うべきなのだろうか。死のリスクをあえて引き受けることは、忠誠心を抱く者なら当然のことなのだろうが、そこで問題なのは、私は彼女に忠誠を捧げることが果たしてできるのか、ということ。

ロザリ・アンは、忠誠に値する人物だろうか。

私がギーメの社会でどのような存在として見られているかはよく知っている。このやんごとなきお方は、噂雀どもが話す私についての、もとい私と二音の、後ろめたい話を権力で取り消してくださる方なのだろうか。

否。

そういうことはしない。

この人は、

そういう人だ。

悪い噂というものが、もしそれが何の罪もない濡れ衣ならば、かばい立てることもあるかもしれないが、火のない所に噂が立たないような相手を好き好んで弁護したりはしない。

それは、

それほどおかしなことではない。

むしろそういう反応は、普通の人が見せる普通の反応だと言えよう。だからといって非難する余地はないだろう。当然ながら。

しかし。

私はそれでは不足なのだ。

私の立ち位置では、それでは困るのだ。


もちろん、こうして仲間であるべき相手を陥れて、手の中に納める、というのも後ろめたい話ではある。それに協力することは弱みを握るということでもある。だから喜ぶべきことなのだ。この命令を受けた時はそう考えた。

でも、本当は。

これが失敗したときの方が。

私にとっては、もっとも利益になるのだ。

これは、そういう話だ。


私は、ものの数秒で、その計算をして、それから。

ヴァイトブラストの圧力をほんの少し、いや、かなり露骨に、

停止させたのだった。

相手が立場を逆転できるように。

【【視点終わり】】


設定61


【【***の視点:L+2:始め】】

……………………。

目覚めた。

翼を大きく広げる。ひろくうすく血が滴るくらい。

周りを取り囲む3人が愕然としてどうしようかと惑うのを確認できた。

自分の中で想い出してはいけない事をつらつらと想い出す。

ブートキーメモリーが自分の中で重力の水溜まりみたく固まり集結し、そして爆発する準備を整える。


でも俺の体には依然として不快な力が同時に掛けられていた。

心の中をかき乱す力と、俺の体を押さえつける力と。

しかし心の集中を破壊する力がなぜだか突然止んだのだ。

肉体の内部から感じる違和感も消滅した。今は外部から押さえつけようとする力のみ。

おかげで間違えることなく記憶を映像として蘇らせることに成功する。


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疑問。抱いてはならない理由。考えてはいけないことを考えた罪。すべてが無為に帰し、何事も叶わなかったこと。同じことを永遠に繰り返す。

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血晶析出。

ガラスの割れる音が。

【【視点終わり】】


【【余二那の視点:2:始め】】

楠本生糸の真紅の剣先のようなプリントフェザーがまたたくのを観察してから数秒。

ふと違和感に気がつくと、指の先の感覚が無くなっていたが、誰にも気づかれないようにステップバックしてかろうじてその範囲から逃れた。予想通りヴァイトブラストの停止が影響を及ぼしている。だが充分なだけ予備的な距離を取ったので自分はこの反撃から逃れられるはずだ。そう楽観。いや、まだ自分も囚われてしまう可能性は無くなっていない。

二音はというともろに巻き込まれたようだ。

私とて同僚を気にかけるくらいはする。死ななければいいが。


知識の調べ。


となりではロザリ・アン様が早くも戦線離脱のご様子。蜃気楼のごとく自分の存在確率をゼロにしていく。大気の中に歪んでその御姿は消えていった。とりあえずはこれでよし。

死なれては困る。これを手に入れることに失敗してくれればそれでいいのだ。

それが、私にとってのいちばんだ。

二音の方を見て片腕が危険範囲を飛び出しているのを見た。私はそれをつかんで、引きずって後退していく。戦場を離脱。二音の筋肉は動くことを既に止めていたが、ビオマグネトーの力を自分に作用させて、相手メソッドの攻撃圏外になんとか出ることは出来たようだ。

もし彼女がギーメでなければ確実に窒息死していただろう。その血液はほぼ完全に固化していたから。もっともしばらくするとその状況は回復され、蘇生した。すぐに解除されるようなものであるのか。それとも彼女が止めを刺さなかったのか。ここは楽観的に前者であることを期待しよう。2度とこいつとはやりあうまい。

私も右手の感覚が完全に失われた。しばらく不自由する。

見ると右手の指先がまだガラスのように冷たく光を反射している。

これで良かったのだろうか。だがもはや事は為してしまった、この結果を最大限に生かしていくしかない。いつも砕けそうなバランスの刃の上を慎重に、しかし焦って駆け抜けていく。

取り敢えずは我々の敗北だ。いや、厳密に言うとまだそうでもない。

我がヴァイトブラストが恐ろしいのはこれからだ。

生命付与の影響は既に消えているはずだが、これには記憶汚染をもたらす付加効果がある。

【【視点終わり】】


【【***の視点:L+3:始め】】

……………………。

歩き続けた。

彼らが姿を消したあと、俺も速やかにその場所から離れた。

歩く景色が奇妙に歪む。

おかしい。

現実感がない。いやこれが現実だったか。自分がどこにいるのか一瞬わからない。いや、そのような気がしただけか。

これはまだ人間だった頃に初めてシリンジを受けたとき、あるいは妙な鎮静剤か幻覚剤を打たれた時のような症状だ。

さっきの戦闘か。

光が眩しい。

真っ直ぐに歩くことがだんだんと厳しくなってくる。


ギーメはもともと多重人格だった。ただ病的な多重人格と違うのは記憶の同期を定期的に実施すること。それによって破壊的な思考に感染した時のセキュリティとしている。

ファウストラ器官―――血管から進化した管状の器官だ―――の1本づつがそれぞれチャネルパターンが違うので、ひとつを攻略されても、あるいはエラーが蓄積しても、異常を検知してリセットすれば、エラーもしくはウイルスは排除される。

一方でノンギーメにはそんなものはないので、なので人間がシリンジを受けるとエラーが排除されず蓄積して精神が不可逆的に変化してしまう。


俺の意識も当然に多重化されていると考えるが、どうやら先ほどのシリンジ攻撃が、通常より少しばかりタチが悪い攻撃のバリエーションだったとは推測できる。

それに俺は何より、ひとつの人格としてもかなり中途半端な存在だ。普通のギーメより記憶汚染に弱いのかもしれない。

しかし、俺にもまだ打つ手が残っている。

自分に出来ることと出来ないことを重ね合わせて得た究極の結論。

俺は消えても問題ないのだ。

俺の意識にダメージがあるのは実はラッキーなのだ。

記憶汚染から回復するには汚染された部位をパージしてしまえばいい。俺が消えてもノワールは死なない。いや、ノワールを生き残らせるためにこそ、俺は速やかに消えなければならないのだ。

それを死と呼ぶにはリアリティーがなさすぎる。今の俺はある種の仮定的存在でしかないからだ。

そうと決めれば少しでも早いほうがいい。

こうして俺は生の世界からあっさりと退場した。

最後に俺はもしかしたら祈ったのかもしれない。

祈りの内容を君が知ることはない。

さよならだ。

【【視点終わり】】


設定62



……………………。

目覚めた。


設定63


彼が消滅したあと、彼の記憶が私の中になだれ込んできた。燃え残った記憶のほんの一部だけ。足りない場所を想像で埋め合わせるに足りるだけの量は残された。

時間をかけて。

私は舞台裏の事情を知った。


まず考えたのは、いつも考えてること。

口には出さない魔法の言葉。

弱ってる人が、いつも吐き出すあきらめの言葉。

世界中の人が、冗談任せにつぶやいたりすることまでふくめれば、言わなかった人はいないはずの絶対の言葉。

世界の終わりを示す言葉。

自分の終わりが、いつも世界の終わりだから。

人はいつも、自分からしか世界を見れないし、触れないから。


あの人は、私を助けるために消滅を選んだので、当然ながら私は健全である。このときに不快感をきれいさっぱり消えて、気分もよろしいはずなのだ。ただ、それは彼のミスだったかもしれない。私が、感じる部分までは考えなかった。


私は座り込んでそのまま長いこと動かなかった。手で顔を覆い、静かになる。

ちょっと心が重力に負けすぎているな。動かないぞ。

せっかく生き残らせてもらったのだから。

もっと元気にならないと。

でも、動けなかった。

私の代わりに消えた誰かはなぜそんな無駄なことをしたのだろうか。助けるべきじゃなかったんだ。


ポケットの中からお財布を、お財布の中から例のカードを取り出した。


それは、相変わらず電話番号だけが赤く印字されている。浮かび上がっていると言うべきか。それ以外のいかなる文字も数字も文章もない。本当は電話番号かどうかもわからない。ただそれはこの国で携帯電話の連絡先としては一般的な数字配列。


私は、ノイエたちに持たされていた携帯をおずおずと取り出した。私は、こういうのをあんまり使い慣れてない。数字を打ち込んで送信を押します。


相手への接続中。

もし電話が繋がらなければ、ある意味でリスクもひとつ消滅したと言える。

「もしもし」

つながった。

あの男性の声だ。死んでなかった?

「楠本生糸さんだね。切らないで。いま君のいる場所を確認している」

沈黙が一瞬だけその場を支配した。

「うん、確認した。その街には町立図書館があるね。そこまで来てもらえるかな。そこで君をピックアップする。いまその端末で地図を見れるようにするから」

すぐに携帯電話から女性の声によるナビゲーションが響く。

『新しいプログラムを受信しました。このプログラムは製造元により認証されていません。このプログラムにこの端末への変更を許可しますか?』

「それ、認証して」電話の声。

言われたとおりOKボタンを押す。

どうせもらいものだ。

『新しいプログラム、地図、が使えるようになりました』

シンプルすぎるアプリケーション名は自作の証拠。

ナビゲーションが宣言し、早速とばかりに地図が表示される。正規版じゃなく私家版で特定の場所に誘導するシステムとかそんなところ。


その地図は現在地と目的地と移動方向を指し示した。

「そこまで来てくれる? じゃあいったん切るね」

電話が切られたので、私はなにも考えないようにして指示に従った。

私は携帯電話の地図に誘導されながら、ゴーストタウンと化した街を渡り歩いた。

もし電話が繋がるならばそれはある意味で、リスクがまだ危険性を残したまま輝いてるという意味になる。現に繋がった。

ノイエの虐殺を許す気もないけど、それはそれとして彼女の用心は正しい。

あの人は私を保護すると言っていた。保護されたらどういうことになるだろう。保護とはどういう意味だろう?

通常とは違う妄想をしてみる。

これは妄想だ。

私はギーメだ。生きているだけで他者に危害をくわえる。可能性としていちばん妥当な措置は――――――やはり抹殺すること。

そうでなくてもせめて――――――永久に閉じ込めておくこと。

それは私の人生の終わりを意味するのではないだろうか?

それでいい。それでよかった。

もう叶わない希望に身をついばまれ、ものに八つ当たりして自分を惨めにすることもない。もう青い芝生を夢見て発作のように憎悪に駆られて、誰かに嫌がらせをすることもない。なんて幸せ。

ついに私は幸せになりました。

これが本当の幸せというものだよ。

ほら、足取りも軽い軽い。スキップだって踏めそうだよ。もう少しで出口だよ。よく頑張ったね。自分で自分を誉めてあげよう。あともう少しだ。

もう少しで御終いです。御芽出度う。

夏休みの宿題がようやく終わったみたいな感じ。

でももし私がポケットならその内側で、嘘だ、そんなの嘘だ、と激しく叫んでいる、そんな誰かがいた。もちろん別人格とかじゃない。

まだいるのか。

ちょこざいな。

おとなしくつぶれたカエル状にひしゃげていればいいものを。

まだ発言力を残しているそんな心の中の誰かをどうやって殺したものかと、考えてみる。自分で自分にシリンジすることはできないのだ。というよりギーメは常に自分で自分をシリンジしなおすことで生きていると言える。それが基本的生理的な状態なので自分にシリンジすることは意志の力で心臓を任意に動かそう的なものなので、そういうのは無理だ。

ではどうやって殺してやろうとか考えてると、気がつくとポケットの中の私は異常に大きくなり、私になって、気がつくと、涙をこぼしている。

おかしいな。

これは強さが足りないからだよ。

強くないと生きてはいけないんだよ。

だから。

もっとしっかりしないと。


設定64


永遠に孤独であること。それは最悪のこと。

本当は人を殺せるよ。人を殺してはいけないというのはその人が人だから。人でない私にはその禁忌がない。それはここが最悪の場所だということの証明。私が永遠に幸せになどなれるはずもないことの当たり前の証明。なぜなら私のほかに誰もいないから。

ノイエだって許してはくれるけど理解はできないだろう。お母さんだって憎みこそしても理解はしてくれないだろう。

1人ぼっちでは私は幸福になれない。わかりきってる。でも私しかいない。

私は人にはなれないかもしれない。

なれないだろう。

なれるはずがない。

でもヒトと一緒に生きたい。所詮は叶わない望みなのかもしれないけど、そうやって短い世界を生きていきたい。

そう思うことはだから罪なのだ、きっと。もし罪というものがあるならば。

そして私には罪を犯す以外の選択肢がない。

行き止まり。

ほら、どこにも行けない。


設定65


町立図書館は一見すると2階建てのペンション風の建物に見えるが、実は斜面に建てられている建物なので地下1階がある。かなり複雑な建物だ。地下1階の窓から荒川の支流に流れ込む池と庭が広がる。

私は1階の自動ドアを抜けて、そのまま図書室へのゲートをくぐらずにミーティングルームの方に向かった。

ミーティングルームは言ってみれば建物はつながっているけど、空間的には離れの別棟だ。2階はお座敷の会議室がひとつとダンスルームのような部屋がひとつ。

1階と地下1階は吹き抜けの展示室。

「やあ」

彼は地下1階の床から1階の私を見上げて見つけた。

私は地下1階に降りた。


目の前には行き止まりの何処にも続かない庭があった。そんな庭にも春咲きの花が建物の光源を受けて夜闇の中で白く輝いているのを見た。質素なシャンデリアが1階の天井から釣らさがっていた。地下1階に降りてくるにはいま私が降りてきた階段しかない。もしくは「関係者以外立ち入り禁止」とかかれたスタッフ専用の通り道が通れるならば話は別だが。

この裏は図書室側の地下1階につながっているから業務用抜け道は可能性がある。いや、なぜ逃げ口を確認してるんだろう。そんなの必要ないのに。

ここは展示室になっているらしく周囲に絵が展示されていた。


それはかわいらしい生き物を描いた絵だ。でもその生き物は不気味だ。

どこかしら欠損していたり、血を流していたり、みな、何かおかしなところがある。

「世界の真相について描かれた作品群だそうだよ。君はどう思うかね」

解説してくれた。

見たところ、世界の真相について描かれているようにはとても見えない。

描いた人でないと、絵の意味を理解するのは無理そうな気がした。

誰もいなかった。図書室にも。人はみな避難しているのだから当然だ。

私は尋ねた。


「……あの、本当はアクリタイスのひとなんですか?」


答え。

「そうだよ」


「君は僕が2052人目と言ったら信じてくれるかな?

大量生産品の人間というのがあの世界にはあってね。それはもう、本当に何から何まで同じだ。遺伝子の影響力とは恐ろしいものだなと実感するよ。人間のどれほど多くの部分が化学的なメカニズムに由来しているかということを、思い知らされる。

ただ価値観だけを別にして。それは別だった。確かめたからね。

君はこう考えたことはないだろうか。

もし僕に僕にしかない希少価値が存在しないのなら、すぐに量産品に取って替えられる程度の存在でしかないなら、この世界にこの僕は必要ないのではないかと。

そしてもしこの世界に僕が必要ないなら、こんな世界はそもそも必要ないじゃないか。

ならば壊してしまうべきではないか。そうするべきではないのか。

かつてまだ1人だった時に、そう思った。

魂の類縁者よ。

君をみてすぐに分かったよ。

我らは同志だと」


【【ポイズンリバースの視点:4:始め】】

「クロウリー・クロウラー指揮官の所在を確認しました。やはり単独行動のようです」

よし。

ポイズンリバースは即断する。

「タバコ、仕事だ」

「あん?」

「お前の嫌いだった元上司を粛清する。やる気があるか?」

タバコの顔が睡魔から不快と快楽の入り交じった表情に切り替わる。

「そりゃひでえ話だな」

しかし少し考えてから。

「まあ、奴もここまでか。意外と運のない男だったなあ」

同情しているようでいて、実は何も考えていないというような空気。

「それにしても、こっちは本当にきれいな空だよな。空なんて見たのは初めてだぜ。向こうには空とか無かったからなあ。

ひょっとして、奴もこの空の下で死ねて幸せということかな?」

タバコは同情しなかった。それだけは確かだ。

【【視点終わり】】


【【桜緒カノカの視点:7:始め】】

こっそり乗ったタクシーにのって水青町まで行く。

シリンジするまでもなく通常の営業活動として某所まで近づいてくれる。やがて。

「お嬢さん。悪いけど、こっから先は立入禁止と出てるが。どうするね?」

「もう家には近いので、こっから先はあれで行きます。ありがとう」

家に近いというのはもちろん嘘だ。

私は料金を払い、トランクの折りたたみ式原付を出してもらう。

ちょっと奮発して高価格帯のものを手に入れた。電気式で機能美に満ちたデザイン。驚くべき軽さと予想外のパワー。ただ電源は出先で手に入る保証はない。

これくらいの距離ならば。たどり着ければなんとかなる。組み立てて、あとちょっとの距離だ。

ここまでは予定どおりだ。さて。

【【視点終わり】】


設定66


予想外の提案だった。私の希望とはそれは真逆。

魂の類縁者って。何を言ってるんだろう。この大人は。

いやそれよりも。

「……猫間リコという人のお母さんを探して欲しいのです」

そうだよ、お母さんを助けないといけない。ここに来たのはまずそれが重要だ。

「この世界の人だね。それは難しいかなあ。僕たちはこの世界の支配者じゃないんだ」

「……ギーメに捕まっているのかもしれないのです。捕虜交換とかお願いできませんか?」

アクリタイスにしてみれば、守るべき人類のはずだ。

我ながら知恵を絞った。逆転の発想だ。えらい、私。

「ふむ。その代わり君は積極的にこちら側に協力してくれるというわけか。条件としては適当だろうかね。しかし」

彼はそこで言葉を切った。


「ところで君は彼女の娘だ。だれのことを言っているか分かっているかね?」

こく。私はうなづく。

私が助けたいと思ってるお母さんの方ではない。

ルージュの母親の方だ。この肉体はルージュのもの、だったから。

「私の目的は彼女なんだ」

意味がちょっと分からない。

「つまり彼女とのパワーバランスで私が優位に立つのが目的だ。君がそれに協力してくれるのなら、私としても考えなくはない。私が単独で君に接触を図ったのはそれが目的だ。はっきり言おう」

私は嫌悪感を感じた目で彼を見た。かもしれない。


「あきれたかな。随分とくだらない目的で行動していると君は思うかも知れないね」

少女らしい潔癖さだと思った。くだらないと。


「私には君の苦痛が分かる。

言っただろう。似たもの同士だとね。


君は、いまこう思っている。


生きることは苦しい。


なぜ苦しいのか。

意味が感じ取れないからだ。

私たちは、ふだんこう思っている。

生きることには意味がなくてはならない。

何か、自分にとって、世界にとって、肯定的な意味が。

何の意味もないことには耐えられない。

だから、意味を、理由を必要とする。

しかし現実問題として人生に意味などない。

人間は、いや生物というのはただの自動機械だからだ。

ただの物理的仕組みであって、それ以上のものではない。

我々の喜びや希望には意味がない。それは生命体として死なないための条件付け、ただのプログラムでしかない。私たちがいつも感じている、未来や喜びや使命や理由や善は、そうプログラムしておけば死なないだろうという生命側の偽善的なプログラムでしかない。

プログラムには目的である理由、ただ生物を生かしておき、子孫を残させる、というひとつの目的があるだけで、そのために過程として作られた嘘はどこまで言ってもやはり嘘なのだ。


そうだ。人生には何の意味もない。そしてそのことだけには、人類は気づいてはならない。全力で目をそらさなければならない。どうやって目をそらすか。


それが人間性のすべてだ。

目をそらすためにありとあらゆる文化を生み出した。

価値観も。哲学も。宗教も。神も」


指揮官はさらに言う。

「あるいは社会にとっては、こうも言える。

生きる価値とは社会の役に立つ才能だ。人間の価値は才能にしかない。人間は才能がすべてだ。部品だからね。生物として。才能のない人間には生きる価値がない。だから排除してきた。我々の社会には余裕はまったくないのだ。

生きる希望とか言っていい人間は、最低限の才能がある人間だけだ。

まあ、それは社会にとっての意味で、私にとっては割とどうでもいいことだがね。私に言わせれば、私に価値がないのなら、全人類に価値などないからだ。私に才能があったのはお互いにとって良かったと言える。運が良かった」


指揮官はかぶりをふった。

「だが、それも虚しい。

生きることは苦しみだ。生は地獄だ。この世界には本当に価値のあるものなど、ひとつもない。ひとつすらない。たったひとつでもあったら、こうは考えなかっただろうからね。

それに気づいてしまった。

どうすればいい?


私は思う。

刹那の欲望を否定する必要はないのだ。その欲望に酔うことだけが、プログラムが人間に許した優しさのすべてなのだから。酔えばよい。酔ってすべてを忘れれば良い。

望むものを手に入れ、自分のしたいことをして、あたかもそれが人生の真実であるかのように誤解し続ければいい。

君に生きる技術を教えよう。それは苦しみから目をそらすことだ。

それしかないのだよ。

欲望はそのために与えられた。

もし大人がばかげた夢を持たぬよう子供に教えたとしたなら、一時の快楽を否定することもないはずだ。むしろ肯定する。

虚しさから目をそらすことこそが、人生の意味だからだ」


言語空間がだんだんと狭められていく。迷い子になるみたく。

指揮官は言う。

「自分の感情の赴くままに他人に優しくして、自分の感情が命ずるままに人を憎みたまえ。深い意味など最初からないのだから、罪悪感を感じる必要はない。生には意味がないのだから、首尾一貫する必要もない」


読者の方々に謝罪する。

私は、その言葉を聞いても腹も立たなかったし、イラだったりもしなかった。

ただ冷たく、あきらめただけ。

あきらめは、最初から私の中にある。

この男の言うとおり、ただ見ようとしなかっただけ。


指揮官は言う。

「私はクローン(ミス)同位体(キス)なのだ。

ゆえに別の私が猫間理湖の母親を助けよう。

その代わりに君を人質に取らせてほしい」


指揮官は指を指した。床の一部を。

「優しい私は君に教えよう。そこの床の下に爆弾がある。

そう、そこの床の上に立ちたまえ。

そうして私に生殺与奪の権を委ねたまえ。

別におかしなことじゃない。

君は生きることに価値などないことに気づいているのだから。

自分の命を犠牲にすることは、そんなに考え込むことじゃない。

自分の命は自分のものだ。

ただのくだらない機械が壊れるだけだ。君はもうそれに気づいている。

君の命に価値なんてないと。およそ命に価値なんてないと。

それはどう使い捨てても良い消耗品なのだ。

何より、そうすれば君の刹那的な欲望は、叶えられる。

私の刹那的な目的も叶えられる。

お互いにハッピーな結末ではないかね。


これが私の語る真実であり、提案だ。

どうかね?」


私は彼の指し示した場所を見て。ためらった。

あと数歩。おしまいまであとちょっと。

ほら、救済の糸がいま垂らされた。


でも。

無駄なのだ。

ダメなのだ。

そんなことをしても無駄なのだ。

それに。


私はいつもそこにたどりつくと、いつも目をそらす。


自分で死を選べたとしても、それを目の前にすると、生の方を選んでしまう。

なぜかというと。

なんでだかは、わからない。でも、いつもそうする。

まるで。

そうしないと、いけないみたいに。



設定67


「どうしたのかね? なぜ歩かないのかね?」

指揮官は疑問を呈してきた。


「君はまだ自分に希望を抱けるのかね? 偽りの希望を。

それとも単に条件に納得がいかないのかな。おそらくそうだろう。

でもこれが最良の条件なんだよ。

まもなくあの女も来る」


あからさまに嘘だ。普通の人ならそう考える。

しかし私ならそう考えない。

本当はこの身なんて、どうでもいいと思っているから。

だって、なんでここに来たの。来れば後戻りできないと分かっていたでしょ。

リコのお母さんなんて言い訳だ。私はいつも自分のことしか考えてない。

いつも終わりにしたいと思ってた。

でもいつもしなかった。


ほら、さすがにもうおしまいじゃない?


でも、私がどんだけ自分に三下り半を突きつけても、私の方はいつもそう思ってくれない。いつもいつも。最後のキップが無駄になるって思うから。


だから、おしまいなんだって。

どうして分かんないの、あんたはっ。

早く終われよ。なんでそうガムシャラに抵抗するんだよっ。


「まあ、君も全力で目をそらしているんだな。

仕方ない。私がやろう」

指揮官が交渉をあきらめかけた、その時。

最後のページになりかけた・・・





「待ちなさい」

振り返るとそこには、 廻(めぐ)谷(りや)ミツメ こと委員長のお仲間。

いや、もうこの人が委員長だという感じしかしない。

喋り方や雰囲気が、同じ以上に似ている。

ノイエのいない世界では、なぜか彼女が、今度の救いの手だった。

・・・まだページは続いている。


でもこの委員長こと廻谷ミツメは、別の意味で私が知る彼女ではない。

なぜなら。


「あからさまな嘘を言わないでください。どこからどう聞いても詭弁でしょうが。

あなたもいちいち相手の言うことを真に受けないで。見ているこっちが我慢できないわ」


私まで叱られた。理不尽だ。

だからいま、私が苦しんでいたのはそういうことじゃなくて。


しかし委員長も少しは見ていてくれたのか、言い訳を述べます。


「見ていて少し考えを変えたわ。

あなたそういえば本気で死にたい人とかだったのよね。

だったらこのまま死なれたら私自身の復讐にならない。

勘違いしないでね。

ここはやる気を出してもらってから、改めてそれを奪うなりしないと仕返しにならないじゃない。私たち(・・)が命を失う原因になった人には、誰であれ報いを受けてもらわないといけないんだから」


言い訳述べるついでに更に理不尽なことを言う人なんです。


「だから、はっきり言うわ。

それは嘘よ。

その男の言うことは最初から最後まですべて嘘。でたらめ。

耳を貸してはダメよ。

あなた自身に同意できる部分があったとしてもやっぱり嘘よ」

指をさしてはっきりと相手を非難する委員長。


そう、なんだかいつもの彼女らしくない。いつも冷たく意地悪してくる人だったのに。今はなんだか熱い。でも、最近に同じことを経験したような気がする。

彼女はいま、熱く激怒しているみたい。


「生きることに意味がないですって?

当たり前でしょう。そんなのは。


無いとおもったらないわよ。


だって、それに意味を与えるのがそもそも人のやることなんだから。

意味は自分が与えるの。作るの。

そうしないとないに決まってる。

生きる意味がないとおもうのは、あんたがそう思ったからでしょ。

それ以外の理由があるかっ」


あれよという間に、明確な強風が暗闇を一瞬で吹き払い、そこにはっきりした方角が見える世界が現れる。


「それに、機械だから価値が低いとか、機械なめるのもいい加減にしろ。

ものに価値があって何が悪い。ただの道具に命を救われたことはないの?

ものに心はないけれど、なくたってこう言うわ。ありがとうって。

私はメソッドホルダーとかじゃないからね。

道具がないと生き残れない。感謝してもしたりない。この消耗品があるから生きてこれたと。泣き言吐いてるだけの奴よりよほど」


「これは強力な理由を持つお嬢さんだ。だが、それは子供の浅知恵なのだ。それこそ詭弁なのだよ。なぜなら、それはどこまで言っても主観に過ぎないのだから」


「こういうことを言うのは私らしくないわ。

いつもはこんな感情的にならない自信がある。ましてや他人事で。

でも、これは聞かなかったふりができない。

主観ですって。それを言ったらあなたの言ったことこそ最初から最後まで完全に主観じゃないの。自分の絶望を勝手に他人に当てはめるなよ。お前と他の人は違うんだ。お前を基準にしてものを語るな。大人のくせにその程度のことも分からないのか」


誰であろうと相手が一方的に間違っているといつも決めつける、それが委員長だ。


そしてそれ以上、相手に何かを言わせず、指をぱちんとする。

「ブレイクっ」

突然に、例のクモイト爆弾が炸裂。今度は委員長が使う側である。

指揮官を糸が散開して包み込む。そしてキャッチホールドすると自動的に締め上げる。

「くっ。愚かな」

捨てセリフ、何がどう愚かなのか分かりません。とにかく動けなくなった相手を尻目に、委員長は私の手をつかんでまっしぐらに逃げた。

外へ。


設定68


「勘違いしないでよね。

私って、見ていて赦せないと思った相手は、どうしても赦せないのよ」


いいんちょは基本的に間違いを認めない人です。

どうして私の周囲にはこう極端な人格の人物しかいないんだろう。

それともこれは私のせいなのだろうか?


「失敗だったわ。

死にたい人間に死ねと言っても嫌がらせにならない。

喜んで死ぬというのは計算外だったわ」


嫌がらせだったのは認めるんですね?

やっぱり苦手感が否めないけど、それにこの調子だと私を赦したり優しくしたりする気にもやはりならないだろうし。


しかも息が切れるまで走ったあとに、「あなたって意外と息が切れてないわね。しゃくにさわるから少しバテなさい」とまた無理難題を申しつけてくる。

それはこれはルージュの体ですから。ルージュは自分の肉体を鍛え上げてる。

私が少しくらい手抜きをしても、基礎はなくならない。

しかしいいんちょは走り慣れていない。息を切らしている。

戦闘向きの人では無いのだ。


もちろん危機を脱することができたわけではなかった。

指揮官はすぐに追いついてきた。

隠し持っていた相手を圧倒する切り札をもって。


「無益なことは止めたまえ」

委員長は、いくわよ、と言わんばかりに反対側に私を引っ張って走ろうとする。胸はとっくに息が切れてる。でも気を失おうと何だろうと走らなければ行けないときがある。さあ今がその時だ。


でも反対側にはもっと恐ろしいものがいたから、実際には走れなかった。


その姿はかつての委員長そのもの。

しかしもちろん、あのときの委員長はあいつに食われてしまった。

そしてあの場で惨殺されてしまった。

しかし目の前にいるのは、やはり廻谷ミツメとしか思えない姿。

「16体目か」本物のミツメさんの方が吐き捨てた。


「残念でした。私は必要とあれば必要な限りにおいて、誰とでもどんな相手とも平然と手を組めるギメロットなのです。

あなたたち、もう成長することはないわ。

良かったね。

本当はいろいろ辛かったでしょ?」


ルゥリィ・エンスリン。

他にもミツメシリーズを手に入れているらしい。


はさみうち。


「あなた、銃は?」話しかけてくるいいんちょ。

???何のことでしょう。

「私があげたやつがあるでしょう。私はもう武装ないのよ」

「……あ、あれ、ノイエに取り上げられた」

「うっ」

最悪だ。

でもあきらめない。

委員長はあきらめない。なぜなら委員長だから。

すぐに頭を切り換えたみたい。

「でも、どうかしら?」

無理をして大きな声。

ずぶとく、平静をよそおって、むしろこっちから逆に提案してやる委員長。まだあきらめてない。間違いを認めない人は、あきらめることも絶対に認めないのだ。視界の落ちる最後の瞬間まで。

「重要な点を指摘しておくけど、肝心の楠本生糸さんの扱いにおいて、あなたと彼とでは意見がくいちがっているようだけど。その点はどうするのかしら?」

それには指揮官が答えた。

「そんなのは決まっている。私が利用した後、彼女に渡すさ。私にとって楠本くんの命を奪う必要はないのだから、わずかな間だけ生存を保証するよ。もう片方の子は残念だが」

合理的な計画だ。

しかし、ことはつむじ曲がりにおいて右に出る者のいないルゥリィなのである。

それに対して、

「それはどうかなー」

という返答が返ってきてしまった、しまったことで、またしても流れが変わるのである。

食いついたっ。


「ど。ど。ど。どーしよっかなー」

この期に及んでハミングつけて、どーしよっかなーダンスを踊り始めるルゥリィ。

ああ、こいつ頭があれだから。なんでかってそれは。


とにかく唖然としてそれを見つめるそれ以外の人たち。

「ばかな。この程度の約束も守れないなど、聞いたことがないよ。確かに取り決めをしたじゃないか。この期に及んでくつがえすのかね?」

当然抗議やんわり。私たちにとって好ましくない抗議だけど、人として当然である。

でもそれの返答がこれ。

「でも私、約束はしたけど、それを守るとまでは言わなかったわ」

もうどうしようもないくらい致命的。そもそも、それこの段階でばらしたら意味ないだろ、なんて常識は最初から通じない。


信じられん、という表情をする指揮官だけど、そんなことはともかく、

「でも。ただじゃ嫌だなー。そっちの生糸じゃない方のひと」

委員長を指名した。ルゥリィにとって世界は生糸(わたし)か生糸(わたし)以外なのだ。

「あなたが私に謝ってくれたらいいけど。なんだっけ? そう、謝罪よ。私に謝罪して誠意を見せましょう」

「なんですって?」

委員長が目を剥いた。当然である。委員長の数多の肉体の1人を殺してもう1人を奪ったのはルゥリィの方なのである。

委員長がルゥリィに謝れと言うことはあっても、逆などありえない。ただでさえ、間違いを認めない人なのだ。怒りで肌が白くなってるような気がする。人ごととはいえ、気をもまずにはいられない。

「だって常識的なことを見ても心が和まないじゃない? だから、普通とは違うものを見せてもらわないと、私的には気持ちが動かないかなー」

ルゥリィのとどめ刺すどうにも発言。

もうだめだこれ。早く誰か殺してあげて。頭の中で頭を抱える自分をイメージする私。

しかし。

「分かったわ。この通り。わたくしが悪うございました。これまでの非を重ねてお詫びいたします。どうか私どもは一時でかまいませんので、この男の魔手から守ってくださいませ。ルゥリィ様」

ぎゃあ。

気が狂ったかいいんちょ。

世界が逆さまになってしまったのですっ。

しかも、

「それどころか、わたくし、ルゥリィ様に身も心も捧げましょう。それともお体3人分では、まだ不足ですか?」

きらり美少女の輝くような笑顔いいんちょ。

どうしちゃったんだー。絶対に間違いを認めない人なのにー。もうどうにかしてー。

青くなる私。


一方、

「そうね。そこまで言われるとおねーさん心が動いちゃったわ」

などとろくでもないことを言うイカレポンチ。

どうして私のまわりには、以下略。

呉越同舟にも程がある。というかもう何もかも目茶苦茶だ。

ともあれ、こうして指揮官とそれ以外の構図になったのである。

こうなっては余程の事がない限り、指揮官には勝ち目がない。

「分かった。こうなっては仕方ない。潔くあきらめよう」

指揮官はさすがに冷静に撤退決断。

でも本当はちっとも冷静ではなかったのである。

すぐに分かる。


【【ある男の視点:9:始め】】

クロウリー・クロウラー指揮官はポイズンリバースに復讐することを考えていた。

そのためには彼女の娘であり、抹殺の対象であるこの楠本生糸を目の前で先に殺してやるのがいいと考えた。もし彼女が冷酷な性格で自分の任務達成を第1にするタイプなら、これは彼女の達成感を奪い取る効果がある。

そうではなく母親としての愛情がどこかにあるのなら、それはそれで苦痛を与えることになる。―――そちらの可能性は低いと指揮官は考えてはいたが。

いずれにせよこれは任務の一環であり、自分が非難される要素は本質的にない。自分の階級でこの程度の自由裁量権は保証されている。

この段階で復讐と愛着の区別が彼にはまったくついていない。

しかしこの段階で早くもこのカードを切ってしまうのはためらわれた。ポイズンリバースの目の前でやらなければ意味がないのだ。

しかし目の前の相手にも偶然にもいちばん通用するカードだ。

脅しとしては。

実際に切ってしまったらもう意味はない。

しかし切らない脅しに意味はない。

予想外の展開にクロウリー・クロウラー指揮官は激しい焦操感を感じたが、しかしそれでも、実行すると決めたことはためらわなかった。


楠本生糸はまだあのカードをもっている。

そしてそれは高度な破片爆弾になるように作られている。

さすがにまだ身につけているだろう。たかが知れた殺傷力ではあるが、身につけているのだからそれなりは期待できるはずだ。

彼は、臓器の深部に内蔵されたスイッチをオンにした。

手の内のカードはこうして切ってしまった。

最大の武器を失った指揮官は、戦いの興奮から覚め、冷ややかな死を感じ始める。

【【視点終わり】】


ぱきり。

私のウエストの辺りで、軽い音がした。

でもそれはひどく重い衝撃がした。気持ち悪くなった。



設定69


**

***

****

*****

******


目が覚めた。

「だいじょうぶ?」

ルゥリィが上から心配そうにのぞき込んでる。

なにが起こったんだっけ?

「カードが爆発したのよ」

説明してくれた。

カードなくせに人を殺すような仕掛けがあったらしい。

だけど死ななかったようだ。

下を見ると、服の表がカードの形に焦げて黒くなっている。

下の肉体の方はもう治ってしまったらしい。ギーメの治癒力は我ながらすさまじい。

「サッシュをつけなさい」

ルゥリィが布を渡してくれたのでそれを巻いておく。


委員長と指揮官はいない。どこかへ行ったのか、それとももう死んだのか。


「私が思っていたとおり、あなたは永遠を生きるギーメなんだわ。良かった」

ルゥリィが微笑む。

ちょっと、話が違う。

ギーメは、元来、そんなに長生きする生き物ではないのだ。

この生き物の寿命は速ければ30歳。

ブラッドプロセッサの回復能力を酷使すればするほど、ある日、最後の日が訪れるのが速くなる。それはブラッドプロセッサの最悪の暴走、全身が液状化するまで、灰色の水に成り果てるまで溶け尽くす。

そうしてギーメは最後を迎える。

普通は、そうなのだが。だが私は。

「ほとんどはそうね。でもまれに永遠の寿命を持つギーメが現れるのよ」

ルゥリィの説明。そんな話はこれまでに聞いたことがない。

「だって、私は実際にそれを見たんですもの」

なるほど。

でも実際に見たから、と言われると、そうなのですか、と答えるしかない。

よく考えたら、そんなにこだわる必要のない話だ。

別に私の知ってることが間違っていたとしても、試験に出るわけでもないのだし。

そういう話ならそうなんだろう。

でもその話の続きが「私たち、ずっと一緒にいられるんだわ」とのことだった。


ルゥリィにはこの前までのことが、無かったことになってるみたいなのだ。

もう仲直り・・・・・・・してないしっ。


「……ちょっと、待って」

釘を刺す私です。

「……なんであなたと一緒にいないと、いけないの?」

私は怒っています。


これに、ぽかんとするルゥリィは、なんと秘密の暴露をおこなったのです。

「ねえ、まだ分からないの。前はずっと一緒にいたじゃない?」

「……ちょこっとしか一緒にいたことないし」

「そうじゃなくて。ノワール。私よ。覚えてる?」

考え中。

私のことをノワールと呼べるのは。


ルージュ。


いや。ちがう。ルージュとはまとっている空気が違う。

「……あの、あの時代にあなたと会ったことない、と思うけど」

「それはそうね。私たち、お互いに会話したこととかなかったから。

だって、いつも私が話すのはルージュで、ノワールが話すのもルージュ。いつも入れ替わりだから、お互いにおしゃべりをするのは、この前にあったときが最初よ。さ、もう分かったでしょ。私は」


分かった。朱毛の髪の少女か。


「正解っ」

ルゥリィはとても喜んだ。

「私たち、似たもの同士になれるよね。これで一緒にいられるね。心配することなかったかも」

いいえ。あなたとは一緒にはいられません。

だってあなたは、ギメロットだから。


それを告げると、ほんの少しだけ暗い顔をしたけど、すぐにまた笑顔に戻る。

「まだ妖精病の正体を知らないの? あれはメソッドだよ。当然、メソッドで治せる」

なんということか世界の秘密ネタばれルゥリィ。

じゃあ。あれは能力による被害だったのだろうか。あの世界は。

「当然、ギメロットも元に戻れるはずよ。聞いた話ではそう、たしかそうだった」

語尾を濁したのは、ルゥリィにとっても聞いた話であり、真実味が不充分だからだろう。

でもその肝心のメソッドを誰が持っているのかが、そもそも分からない。

「まあ、でもどうでもいいわ。ギメロットのままでも」

しかもルゥリィにとっては、割とどうでもいいことらしい。最悪。

いずれにせよ知ってる人物がいるとすれば、私に分かる範囲ではただ1人。

「……ルージュはどこにいるの?」

「ルージュは来なかったよ。来なくてもいいんだって。私たちがいれば」

私の質問にめずらしく答えが返ってきた。

考え中。

ルージュはなにを考えていたのだろう。

「ルージュは怖いからあんまり好きじゃない。でもノワールは好きよ」

ルゥリィが一方的に語りかけてくる。

返事せず。

「あんまり嬉しそうじゃないね」ちょっとがっかりルゥリィ。

ルゥリィには外見相応の少女らしいところがあった。

どこか幼いところが残ってる。

私はどこかでこの子と同じような子を見たことがある。

遠い思い出として。


世界は2つに分けられる。

まだ大切な人が生きていた昼の時間。

重要なことは聞けばいいし、何かしてあげることだってできる。一緒に時間を紡いでいくことができる。

もうひとつは永遠に続く夜時間で。

そこでは過去に放たれた言葉を参照することしかできないし、基本的になにもしてあげることはできない。ただ自分で自分をごまかし続けることしか。真実ではなく真実のまがい物。そこに落ちる光りは決して光りではないのだ。光りの形したまがいもの。

さて、重要な課題がここにはあって、果たして私は去った方なのだろうか、残った方なのだろうか、今となっては区別する意味が無いという点にこそ、根源的に重要な意味があるのだ。

世界の意味だ。


あの指揮官の言うことは、私にも理解できた。

ただ開き直ることはどうしてもできなかった。

私は最後の命綱を切ることがどうしてもできない。遠い昔にあきらめた。

切る理由は山のようにあり、切らない理由はカケラひとつ無いのに。

真なる絶望とはこのようなものかもしれない。しかし、私はそれに慣れた。

その状態に慣れた。だから異常に思うことはない。


「……そういえば、他の2人はどうなったの?」

私は訊いてみた。

ルゥリィはきょとんとした。

「ああ、彼ね」

すぐに思いつかなかったらしい。

「狂ったわ」

「え?」

「シリンジで発狂するまでかき混ぜてから捨ててきたわ」


それじゃあ、もう1人の方は。その答えはすぐに分かる。


「リリスさま!」

後ろで委員長のこれまで聞いたことがない明るい声が聞こえてきたからだ。


設定70


「リリスさま。敵のいない道を見つけてきました。ただ敵といってもアクリタイスの雑魚ならリリス様にとっては蹴散らせますよね?」

「あなた、とても可愛いわ。もっと可愛くなれるわ」意味:よくできました。

「えへへ、ありがとうございますっ」

委員長がとんでもない媚をうってルゥリィのご機嫌を取っている。

なんか、見てるとやはりおかしな気分になってくる。気持ち悪い。

なんだってこんなに人格を簡単に替えられるのか。怖い。

しかも、なぜかルゥリィのことをリリス様と呼んでいた。

理由は不明です。

そもそもこうなったのは、

「ノワールが仲間になったからには、用はないわ。撤退しましょう」

とルゥリィが言い出したのだ。そして委員長が様子を見てきたわけ。

「そうそう。ノワール。私たち、もっと同じような存在になりましょうね。そうすればまるで双子の姉妹みたいになれるわ」

例の相手を傷つけると同じになれる理論だ。

狂った価値観。まだ放棄してない。

私がノワールであったことは、例外事項にはどうやらならないらしい。

朱毛の少女に同情する必要はなかったのだ。

彼女はとうの昔に怪物に成り果てていたんだから。

他人のことは言えないけど。

私はなんとかして逃げ出すと心に決めた。

しかし。


「リリス様。替えの服が図書館の中にあったので、楠本様のお服を替えてきますね」

「あら。私も行くわ」

どこにでもついてくるルゥリィ。逃走を恐れているというより元からこういう人なのだ。

一緒について行きたがり。

「リリス様にはこちらを」

さりげなく委員長がなんかの薄い本を渡す。

「こ、これはっ」

絶句するルゥリィ。なんなんだ?

結果として「ちょっと2人で行ってきて。私はこれを読んでるから」と出ました。

いったい何の本でしょう。

それはともかく、ルゥリィから離れることができた。

でもまだ委員長がいる。


いいんちょと2人ぼっちになった。

彼女は言う。


「先に謝っておくわ。ごめんなさいね」

あれ?

間違いを認めないだけの人じゃなかったのでした。

「私があなたにしていたことは、弱いものイジメよ。でもそれは仕方のないことだったのよ」

いつもの委員長の言い訳だった。でももう、これが最後だ。


「抑圧というものはいつも強い側から弱い側に向かって流れるわ。水のように。だから自分のところでとどめてはダメ。より下を探しなさい。そうすればより底の方にむかって抑圧は流れていくから。そうすれば楽になれる。考えるのを止めて機能に依存しなさい。みんな生まれつきそのようにできているから、抵抗してもやがてはそういう結論に落ち着く。世界なんてそんなものなのよ。随分と残念にできているでしょう?」

それは絶望的なまでに悲観的な世界だった。

「それが弱者の定めなの。それは誰だってそんなことはしたくないし、だからやっている連中は無自覚か、さもなくば平然とそれをできる悪魔のような冷たい心を持っている人なんでしょうけど。でも私はそれを自覚してやっているの。努力して冷たい人になろうとしているの。ばかばかしいと思う?

でも他にどうしろっていうの?

暴力には黒も白もない。ただ、強いか弱いか、もしくは頭が良くて要領がいいか、さもなくば生まれつき要領が悪くていつも悪いカードを引くか、ただそれだけの話なのよ。

私は弱くて要領が悪い方。だから必死になって努力しないといけない。

かわいそうとか、やりたくないとか、そんな優しい感情は最初から入る余地がないって、あなたならよく知ってるでしょう?」

うん、とてもよく知ってるよ。

「そ。私の話はこれでおしまい。あの女が来ているわ。きっと来ている。彼女に保護してもらいなさい。ここは私が時間を稼いでおくから」


「勘違いしないでね。私があなたを助けるのは、何よりも残りの私たちが生き残るために必要だからよ。私の好き嫌いとは関係ない。

ルゥリィ・エンスリンはもう1人の私を内側でちゃんと生かしてあると言っていたけど、嘘でしょ。どう考えても」

私はなにも言わない。


彼女は裏口の扉を開けて、私を逃してくれた。

たった1人で死地にとどまって。


設定71


裏口は大きな川の側道へと続いている。そこから脱出するのだった。

とぼとぼと川への道を歩いていると、自分はいったい何をしているのだろうと思えてくる。どうしてまだここにいるのだろう。もういいんじゃない? 答えは、まだだめ。

あそこには戻れない。あそこというのはもちろんこの道を戻ったところにある逃げてきた場所のことではない。もっと別の場所。

いちばん最初に逃げ出した場所。

どうしても戻らない。

でもそのための方法論を私は持たない。私はただ痛めつけてくる事実に対して、身を固くして我慢することだけ。危険が身に迫ったら逃げるだけ。

それしか知らない。だから、それをするだけ。


「やあ」

道を歩いていると、知らない人が唐突に出てきた。

いや、知らない人ではない。

この人は、確か・・・

「会ったのはこれで3回目だね」

最初のルゥリィの死をしらべてくれた刑事さんだ。

そして事情聴取の時にも立ち会ってくれた人でもある。

奥寺刑事の隣にいた。

いつも親切にしてくれそうな雰囲気を持った人だった。

喜んでいいのだろうか。

もちろん。良くない。

その人はこう言ったのだ。

「君が1人で降りてきたということは、もう1人の僕はどうやら死んだようだな」


「クローン同位体の特徴は同期を取るのに時間がかかることだ。おかげで全滅するリスクが少なくなる。だが記憶の共有に時間がかかる。そういうシステムなんだ。私たちはまったき同じ人格として意識していても、本当は少しずつ細部にズレを生じさせてしまう生き物なのだよ。

いや、実をいうと、普通の人々も本当はその度ごとに違う人格であると言える。考えてみて欲しい。5歳の時の君と15歳の時の君と、同じ人格であると思うかね。実のところ、まったく違う。そこには記憶の連続があるから同じ人格だと思い込んでいるだけの、まったく違う2つの人格があるだけだ。逆に言えば、記憶の連続があれば、まったく異質な2つの人格は、自分たちを同じ1人だと見なすようになる」


指揮官だった。

最初からこの人は。


「もちろん、僕との約束を忘れてはいないだろう?」

指揮官は言った。


私は後ずさることしかできない。


「私は君を助けようとしている。

それは信じてくれて良い。


信じられないかね?


人とは利害を求める機械である。

自分に利益をもたらす相手に対してのみ、愛や友情や信頼といった感情が芽生えるのだ。その逆ではない。

目の見える人が目の見えない人に対して、冷たい行動を取ったとしよう。なぜなら目の見える人にとって目の見えない人は邪魔で役に立たないからだ。だから冷たくする。そしてそれは正しい。人というのはその程度の存在なのだ。君がいう他者への優しさなどというものは、本当はどこにも存在しないものだ。

愛もそうだ。女が男を愛するのは、いざというときに盾にできるから、男が女を愛するのは我が子を産んで欲しいから。それ以上の感情などありえない。その程度の利害関係を愛と呼んで、褒めそやしているのだ。

愛は勝つ、という言葉が正しいと言えるのなら、同じ程度の確信でもって、利害は勝つ、とも言い換えることができるのだよ。それは当然だ。利益をもたらす相手だけを愛するのが、愛の本質だからだ。そうでなければ種が滅んでいる。

そもそも純粋な善意など、相手に対する強制以外の何物でもないのだ。善意とは悪意よりも始末が悪い。

この世界では、純粋な善意とは、すなわち純粋な悪意に等しい。だからあえて言おう。

悪意こそが真の愛なのだと。利用しようと思う気持ちこそが優しさなのだと。

だから私が君に手を差し伸べているのは、善意ゆえなのだよ。

これが善なのだ」


またしてもうそぶく指揮官。

これが彼の攻撃方法なのだ。首尾一貫した。相手を殺すときにまず相手の希望をへし折ってから殺すタイプだ。いや、それこそが彼の殺害行為の本番なのかもしれない。

そしてまたしても陥落の危機が私に訪れ、

なんでならば、私にはもう色んなことがグチャグチャになって中身がすっかり腐ってしまっているから。普通に信じられるはずのものが、信じられなくなってからとても長い年月が過ぎたから。

そして、でも、2度あることは3度あると言わんばかりに、また邪魔が入る。

なんどでも繰り返す。


「でも、悪は存在しないよ」

どこかで聞いたことのある言葉。

足音のしない足音と共にヒロインが帰還する。

もちろん、それは、彼女だ。

ノイエが現れた。

まだ生きていたんだ!


設定72


でも、その姿はどこかが奇妙だった。

彼女は頭を包帯で覆っているのだ。

ただ、包帯をグルグル巻きにしているだけではない。

その頭部は奇妙に欠損している。

球形の頭蓋が明らかにいびつになっていた。

それでも動けるのか。動けるのだ。

これがギーメだ。

「血液知性だからね。全身の血管系が思考制御をつかさどるから。神経脳は私たちにとって痕跡器官としてしか意味を持たない」

ノイエのさらり説明。

だから、だいじょうぶ。

もちろん私も知っている事をわざわざ説明して安堵させる。あるいは私がそういう基本的なことしか知らないと思ったのかもしれないけど。

もちろんぜんぜん大丈夫ではない。はずだ。

致命傷ではないとはいえ、重傷ではある。

それに出血。

血液知性であるということは、頭部は弱点ではなくなるかもしれないが、逆に言えば出血による知性への損傷があるということでもある。

耐えられるのか。

それにファウストラ器官というものもある。あれは物理的な器官であり、当然それは、この短期間で充分な回復はできない。

「私は快復力に優れた肉体の持ち主なの。私のブラッドプロセッサの特性なのでしょう。その代わりに代償があるけど」

その代わりに。

ノイエはその先を自分からは言わなかった。


指揮官がその先を答えた。

「知っているとも。ギーメは思ってるよりもずっと短命なのだ。まれに長命の個体もいるが、戦場にいるギーメはおおむね長くはない」


指揮官は言った。

「待て。そんなことより、おかしなことを言ったな。

悪は存在しない、だったか?


では、悪が本当に存在しないとでも、君は言うのかね?

戦士である者はすべて、少なくとも敵が絶対の悪だと信じているからこそ、戦っていられるのだ。それが戦士だ。最低限その確信がなければ、戦うことなどできない。相手が悪でなければ、それはただの人殺しになるからだ。ただの人殺しは罪である。罪を犯すことは恐ろしい。戦士と言えども。

それとも、君は、ただの人殺しだったかね?」


指揮官は言う。

「いまさらだが、私は未来人でね。

古い都市伝説を聞いたことがある。

ある少女がいて、彼女は親を殺され、人さらいに売り飛ばされて、幼くして過酷な運命に遭い、そしてありふれた死を迎えようとしていた。どこにでも、いつの時代にもある悲劇だ。

しかし、その少女だけは違った。

彼女は、とある夕方、ギーメであることに唐突に目覚めた。

そして、その狭い都市の住民を、次の夜明けまでには皆殺しにしたのだ。

彼女を虐げた者たちだけではない。ただそこに住んでいただけの者まで含めて、生き残る資格なし、と見做して虐殺したのだ。

悪魔の誕生である。

確か、この時代の話だったはずだ。

冷酷娘(れいこくじょう)ノイエ、あるいは皆殺しのノイエだった、かな?」


ノイエ回答。

「別に冷酷なつもりはないんだが、2つ名というのは実態から乖離してつけられることが多くてね」


指揮官はさらに言う。

「別に責めるつもりはない。勘違いしないでほしい。

君は恥じる必要はない。

君の立場なら、それは当然のことだ。

その街の住民は、君にとってソドムとゴモラの住人でしかなかった。

悪を滅ぼすのは、人として当たり前のことだ。

ソドムとゴモラの住民とは、すなわち悪魔なのだから。

だから殺せる。

周りの人間にとっては、君こそが悪魔だろうが、そんなことは気にする必要はない。

しかしそれと同じように、

君にとってソドムとゴモラの住民が悪魔であることも、我々が気にするべきことじゃない。

我々にとっては、君こそがまぎれもなく負の都市伝説。生きる邪悪そのものなのだから。

我々にとって、君が悪魔になった理由など、もちろん気にすることではない。

君は恐怖なのだから。

さて、これでも悪が存在しないなどと言えるかね?」


指揮官の口撃は続く。

「君はいったいどう思っているんだ?

君が滅ぼしたあの街は、悪ではなかったとでも言うつもりなのかい?

まさか、いまさらあんなことをしたことを後悔しているんじゃないだろうね。

そんなことをしても。もう手遅れだ。

もし後悔しているというのなら、悪はつまり君そのもの。

ほら、いずれにせよ悪は確かに存在しているのだよ。

悪は実在する」


そして砲火は私にまで飛んでくる。

「さて。

君は知らないだろうが、彼女、この楠本生糸こそは、無自覚な悪そのものなのだよ。

彼女に悪意があるわけではない。

ただ無自覚に、人を不幸にする。

意図せずに、幸福を破壊する。

そのような運命に生まれついたのだ。

もちろん彼女にとっては、彼女自身が悪であるはずがない。元来はそうだ。

しかし周りの者にとっては悪なのだ。彼女の事情など知ったことではない。

そして彼女は、それを認めた。

周囲が彼女を悪だと見做すことを、彼女自身が認めたのだ。

ここが違う点だ。

つまり、彼女は悪なのだ。

彼女自身にとっても彼女は悪だ。

他の誰でもない彼女自身がそれを認めているのだよ」


「だから、私がやろうとしていることは、彼女を救おうとしているだけだ。

彼女という悪を滅ぼすことが、彼女にとっての善なのだよ。

それを助けているだけだ。

これが、善である」






でもヒロインは反撃する。

「お前の詭弁につきあってあげよう」


ヒロインは語る。

「お前の言っていることで、たったひとつだけ私に共感できる部分がある。

それは、

私にとっては、ソドムとゴモラが悪であっても、

周りの人類にとっては、私こそが悪であるということ。


その通りだ。

人類にとって、私は悪だ。

私の理由など、他のやつらにはそれこそ、死ぬほどどうでもいいことだ。

その通りだ。

そこは共感しよう。


だからこそ。

お前の意見は間違っている」


設定73


ここで語られることは、彼女の価値観のおさらいだ。


「人はなにを食べて生きている?

動物の肉はかわいそうだから食べないって人がいるよね。

でも植物だって悲鳴を上げるのに。人の耳に聞こえないだけで。

人にとっての善は、食べられる生き物にとっての悪。

人を食べる生き物がいれば、その生き物は人にとっての悪。

虎とかワニとかだけじゃない。伝染病やウイルスも人を食う生き物だ。

人にとって肉を食べることが人にとっての善であるなら、

ウイルスが人を食うのもウイルスにとっての善であるはず。

何より、そうしなければ生きていくことができない。

つまり善と悪は、その主観によってころころと立場を変えるものに過ぎない」


「世界には主観的な善しかない。普遍的な善などはありえない。

ありとあらゆる善も別の側面からみたら悪なのである。

ゆえに悪もまた、別の側面からみたら善になる。

善や悪は、人々が生存するために作られた架空の決まり事に過ぎない。

もともと、この宇宙の絶対的な決まり事でもなんでもなかったということだ」


「ある存在が正当であるかどうかは、それがまさに存在することによってのみ、根拠を持つべきだ。

つまり、生きることは良いことだ。

存在することは良いことだ。

なぜなら、それが存在しているからである。

すでに存在していることが、それが存在していることが正当である証明になる。

理由のないものはこの世界にはないのよ」


指揮官は反撃する。

「おどろいたよ。

まさに瞠目に値する価値観だ。

それならもしかして、君にとってのソドムとゴモラの住民も、良いものだったと言えるのかね? それが存在しているのだから。

まさか、そのようなことまで言えるものかね?」


「私にとっては、残念ながら、それが現実として認めざるをえないでしょうね。

お前たちにとっては残念ながら、私がいる現実を認めざるをえないように」


続けて。

「共存しろとはいいません。

ある主観から見て、認められなければ、殺しあえばいい。

殺しあいは別に悪いことじゃない。殺し合いを肯定する。

生あるものは常に全力で殺しあっているのだから」


続けて。

「生きることは、暴力だから」


「生命の本質としての暴力性。

ただ生きようとすることが、他者にとっての暴力になる。

それが生命。

すなわち、生命とは暴力であり、

生が良いものであるなら、暴力も良いものであるはずだ。


ゆえに、悪は肯定されなければならない」


設定74


それがノイエの価値観だった。そうだった。

それにしては暴力を肯定しすぎだと思うけど。

もちろん、彼女もまた狂った世界の住人であろう。そしてそこに適応した。

そうか。彼女の狂気のような行動律と、穏やかな感情の共存はそのせいか。


「それがどうしたというのかね?」

指揮官は言う。

「それは私を論破したことにならない。

君の言い方をするなら、私の主観も正当なものになるではないか。

つまり、私の言い分は論破されてないのだ」

「お前を論破するつもりは最初からないっ。

私は彼女に言っている」

といって、私を指さすノイエ。

相手を論破するつもりがないなら、何をする気なのか。そんなのは最初から決まっている。


「この子が気にするから、お前を殺すのは止めておこうかね。その代わり」

怪物が正体をあらわす。


「わ、私はクローン同位体だ。私を殺しても次の私に切り替わるだけだ、無駄だ」


「そうだね。殺すのは生ぬるい。


だから、わざと生かして痛めつけておいてあげよう。ずっと遠く長い先まで鏡を見ればここでのことを思い出せるように。その痛みに感謝しろ。醜い傷跡に感謝しろ。私に感謝しろ。それがお前という存在に私が贈る罰だ。いや祝福だ。生きている限りその痛みを感じ続けるんだ。それが、お前が選択した行動の意味だ。それが慈悲だ。

お前、生まれてきて、ほんとに良かったな。一生痛いぜ。

私はいまあんたが私の目の前にいてくれて、ほんっとーに嬉しいよっ。

お前、ほんとバカだな。指揮官なら指揮官らしく、後ろに下がっていればいいものを」


閑話休題。

削られた指揮官さんは崖道を急いで降りていきました。

私はもう知りません。

野獣同士の戦いに口を挟むほど愚かではないつもりです。

こうやっていつも見過ごしてきました。これまでどおり。


さて。


私は時間が空いたときに、ノイエに訊いてみるのだ。

「……どうして、いつもオレを助けてくれるの?」

あっさり答え。

「うーん、それはだね。わたしは昔、きいちゃんみたいな人格だったんだ。そっくり」

「……絶対うそだ」

そもそも自分の血やら返り血やらどろやら、それに今し方の血まで含めて、結構な惨状を見せている彼女だが、でも魂の血の気が落ちるともう、明るい、ありえないほど。

女の子の気分が変わる早さは自分でもよく知ってるつもりです。

「ほんとだよ」


「いつも嫌なことばかり考えていたんだ。あんなこととか、こんなこととか。

でも、周りの誰かが、そんなことないよって言ってくれたから。言ってくれたのかな?まあ、そういうことにしておこう。で、その子たちはみんな死んじゃった。それで私だけがまだ生きてる。

だから、同じことをしているわけ。

今度は私が誰かを助ける番。

そしていつか、あなたが誰かを助ける番になる。

いつか私が死んでも、その時にはまだ、あなたがいるの」


一区切り。瞳がぱちくり。


「なんてね。押しつける気はないけど。

これは私がそう思ってるだけの私の保険。

ごめんね」


や、別に。謝らなくても。人助けは謝ることではないわけで。


「でも、助けられる方って嫌でしょ。知ってる。だから、感謝しなくてもいいし、むしろしないでね。誰かを助けるってのも、暴力だからさ」


「みんな暴力なんだよ。優しさも愛しさも、やっぱり相手への暴力。勝手に気持ちを押しつけている訳だから。決めつけてるわけだから。

助けることも暴力。

愛することも暴力。

殺すことも暴力。

守ることも暴力。

ただ優しく話しかけることも場合によっては暴力。

正しいことをやるのは無論の暴力。

間違っていることを正そうとするのは当然の暴力。

そして。食べることも暴力。

産むことも、暴力。

ただすれ違うことも。

ただ生きていることも。

ただ生まれてきただけのことも。

暴力。


生きるってことは、暴力なんだよ」


私は、少しだけ、相手の価値観に圧倒された。

そう、圧倒されたんだ。何か得体のしれない、見たことのないものがいるって。

こういうのを見たのは、さすがに生まれてはじめてだった。


設定75


今度はノイエの質問ターン。

「さて。今度はこっちが質問だ。いったい何だってあいつと一緒に歩いてたの? これまで何があった?」

私は事情を説明した。

「あちゃ。いいんちょが助けてくれたのか。意外だなー」

あ。やっぱりノイエも意外だと思うんだ。

「よっしゃ。ちょっと時すでに遅いと思うけど助けに行くか。いまだったらあいつにも勝てるかもだし」

ルゥリィ・エンスリンに勝てる?

「こっちから仕掛けるんなら勝てると思う。ただしチャンスは最初の1回だけ。切り札はやっぱり最後まで伏せておくもんだ」

こんな状況でも秘策があるらしい。

ところで。

なぜ私は助けるのに、ルゥリィは助けないのだろう?

私は訊いてみた。

「あいつは助けて欲しいって言ってないと思うけど」

「……でも、それだったらオレだって言ってないよ。助けてって」

「きいちゃんは全身で語っていたというか、うーん」

どうして私は助けるのに、ルゥリィは助けてあげないの?

「それにあいつを助けるってことは、あいつの殺戮に協力しろってことなんだよ。そもそも価値観を押しつけてくるだろう。あれは。飛んでくる火の粉は振り払ってもいいんだ」

でも、優しいのも暴力って言った。

「うーん。微妙なのかなー。まあギメロットは誰であれ討滅するというのは、ある意味では気の毒な立場だとも言えるんだろうけどね。なんとなくやつには同情できないというか。あんまり感情移入できる要素がないというか」

とにかく、ノイエはルゥリィのことは敵だと思っているんだね。

逆だったらどうするんだろう。

私が誰かを苦しめていて、その子と先に出会っていたなら、私を殺そうとしたのかな。

私は悩んだ。

現実問題として、どんな愛情にも無条件のものはない。

彼の言うとおりだ。

ともあれ、私たちはルゥリィとの交戦を予期して、崖の上への道を引き返したのです。


何のとりえもない人は愛されてはいけないんだよ。

いつも何かをしてあげられる人だけが、愛されるに値するんだよ。


頭の中でいつもの呪いがささやく。


崖の上の場所にたどり着く。途中でくじらを拾いましたが。

そこには。


委員長がいた。

良かった。無事だった。

笑顔を向けてくる彼女。殺されなかったんだ。

でも。どうしてだろう?

あのルゥリィがどうして、敵に手を出さないでなどいられるだろう。

もちろんそうなのだ。

「おい。前のいいんちょが見当たらないんだがどこやった?」

ノイエ質問。

「そこにいるわよ。処分しようと思ってた所で、あんたたちが来たんだけど」

毛布が掛けられている死体のような何か、まだ息をしている。

もちろん、私の勘違いなのだ。

あのルゥリィが敵を生かしておくわけがない。生かしておく場合があるとすれば、それはただひとつ。

「こっちの体も実にすばらしいわ。廻谷ミツメ、ちゃんだっけ。この子のシリーズはあと幾つくらいあるのかしら?」

乗っ取るときだけ。

この廻谷ミツメも、これで死んだ。

彼女には、まだスペアがあるだろうか?


「生糸は別よ」

ルゥリィはそう言った。


「あなたの魂は消さない。私の一部となるのですもの。

ねえ、ひとりぼっちは寂しいわ。

私がこの世界で生きていくためには、同じ魂の持ち主が必要なの。

私を外から見てくれる存在。他者が存在してはじめて私は存在しうるのだから。外部の第3者がいない人生なんて、最初から存在してないのと同じよ。

誰もいない場所で、木が倒れても、それは最初から何も起こらなかったのと同じ。

あなただって、痛いほど良く知っているでしょう? ね?

でもね。

他人は私を嫌うのよ。見ようとさえしない。見えないのでしょう。それは仕方のないことなのかもしれない。だから何も言わない。でも何もしないわけにはいかない。

私にはあなたしかいない。ひとめ見てそれが分かったわ。

だから、私と同じようになってほしいの。

そうすれば、お互いにとってお互いが貴重な存在になれる。

対が必要なの。それが、私たちが生きていくことの意味なんだから。

この空っぽには意味というラベルが必要なのよ。

まずは。


その隣にいる邪魔な存在をあなた自らの手で消してもらいましょう。

その女はあなたにふさわしくないわ」


ルゥリィもノイエに対して殺意を持っていた。

そして、それを変則的なやり方で実行しようとするのである。

すなわち、私にノイエを殺させることによって。


設定76


シリンジ攻撃。

ギーメはシリンジを多用することを嫌う。少なくともこの時代では。

それは彼らが宿主として絶対的に必要としている人類に対して、無駄な危害を与えてしまうからだ。


ギーメ同士にはシリンジの免疫がある。ギーメは、本来は多重人格であり、自分自身の分割された精神的な自我を大量に用意している。当然それは互いに同期を繰り返し記憶の共有を行なう、行動の原則も外見の原則も同じ、そしてもちろん自我の連続性にも関係ない。それはお互いに同期を取り合い、自我の記憶に間違いがないことを証明する。

通常、ギーメたちはこの過程を認識することはない。無意識である。

それどころか、ギーメは複数の人格など通常は意識することすらできない。

が、このシリンジ戦のタイミングにおいても、お互いの同期はランダムに行なわれる。ゆえに1人の自我がダメージを受けても、全員が情報汚染に屈服しない。自分には偽の記憶があって、その記憶がなぜ偽なのかをはっきり分かっている。それは攻撃を受けた事の証だ。

もちろん1人分しか自我を持っていない人間(ノンギーメ)は、一瞬ですべての記憶を上書きされるのだ。

それこそが、人間がギーメに勝てない理由で、我らを怖れる理由でもある。

しかし多重に防御されるギーメのマルチコンシャス防御も、絶対安全かというとそんなことはなく、ギーメ同士のシリンジ戦では時として一瞬で突破されてしまうこともある。

それがシリンジをギーメ同士の戦いに用いることの意味である。

ギーメの中でとりわけシリンジ戦に特化しているギーメには、可能だ。圧倒的な洗脳力で相手をねじ伏せる。火力と物量でねじふせる。当然ながらそのような存在は切り札になる。

そして。ルゥリィ・エンスリンは切り札だった。少なくともその出力においては。

もちろん躯体がいいんちょシリーズになってはいるけど、前回の学校の中でのシリンジは決して弱いものではなかった。


推定400ファシノ以上。シリンジ圧。

ぎしり。頭蓋に物理的な音が発生するような気持ちを心の中で味わう。

隣を見ると、ノイエも苦しそうな顔をしてる気がする。手が動かせてない。それにノイエは頭部を損傷しているのだ。ギーメだから死んではいないけど。


ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎ。


頭の中に声が聞こえる。


(誰かを憎むことは悪いことじゃない。いえむしろ、生きるためには積極的に憎む相手を選ぶべき。それは生きていくための糧なのだから。誰もが誰かを憎んで生きていく。誰かを憎むことが生きていくためのエネルギーになるのだ。そうでなければ、ほら、私の中は空っぽだ。彼女は優しいから、きっと私の憎しみを受け入れてくれる。私はきっと優しいから、そんなあなたを許してあげる)


どこかで聞いたことがあるよ。それは月並みな攻撃コード。少し失望感。


ノイエが銃を取り出して、いいんちょの体を乗っ取ったルゥリィを撃とうとする。

でもそれは、例のスライドが前に出る銃だ。いいんちょの銃だ。スライドが前に出る機構が安全装置のひとつを兼ねているので、それを知らないノイエには撃てなかった。

対してルゥリィはさらに圧力を上げる。


頭の中で声が聴こえる。

もうすぐそれは私の声に。

暗闇にのぞき込まれて、私は暗闇になるからだ。

ああ、もうダメかも。

いつも助けを求めているつもりだったが、叫び声の出し方が下手だったので、その悲鳴は誰にも聞こえなかった。別に世の中を責めているつもりはない。世の中は世の中で大変だったのだし、ただ、それだけのことだ。



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いつか読む物語。お話の続きを想いだした。


天使たちはいつも白い翼。

奇跡の力で世界の命を守ります。

1羽だけ黒い翼。

何の奇跡も使えません。

いつも仲間はずれ。

でもそれはいいことなのです。

ある日、病気の子供が生まれて。

病気は人に移ります。

病気は人を殺します。

病気は世界を滅ぼそうとします。

子供が死ぬことはないけれど。

病気はどうしても治りません。

人は地の深くいちばん底に。

子供をひとり閉じ込めます。

子供は他の誰かを知りません。

子供は外の世界を知りません。

ある日、黒い翼がそこに降りて。

2人は友達になります。

お互い、生まれてはじめての友達です。

いつしか黒い翼は舞い上がり。

自分の翼に火をつけます。

それはとても良く燃えます。

すべての天使が燃え落ちて。

すべての命が焼け死んで。

大地も黒く焼け焦げて。

誰もいない世界に1人だけ。

子供は自由になりました。

病気の力はもう誰も殺しません。

灰の大地に青い空。


たった1人生き残った悪魔は自分の由来を想い出します。

ウサギが知らなくても、カヤツリソウが喜ばなくても、

私たちは幸せでした。


嘘だ。最後に生き残った者がそんな感想を残すはずがない。

後に何も残せない。だから悪魔なんだ。

でもこれは、かつて1度だけ起こったことじゃないの。

同じ事がなんども繰り返されてきたのよ。これまでも。これからも。

いつかこの血が大地を満たすこと。いつか再び世界が燃え落ちること。

同じ事を何度でも繰り返す。

手を伸ばしなさい。いつも。そこにいるから。

%%%%%


正体不明のブートキーメモリーが私の中で発動する。

(なによこれ!? なんでこんなものが流れてくるの?)


これはシリンジの言ってみれば攻勢防壁である。

つまり攻撃を受けた側が、攻撃した側を自動的に反撃する。

でもこのブートキーメモリーは。なんでこんなことができるのかというと。

なぜならば。

それよりも、これは私の知っている物語だ。私の言葉だ。


(上書きしてるのはこちら側なのに! なんでこっちに流れ込むのよっ)

ルゥリィから流れれば流れるほど、倍加してループで流れていく。

ループは増殖して負荷をかける。たまらず切るルゥリィ。


「よくやった。さすがきいちゃん」

なんにも分かってない誰かさんは使えない委員長の銃を投げ捨てて、恐竜ナイフを、回転投げで相手に叩き付ける。

恐竜ナイフは不安定に回転しながら飛び込む、かろうじてルゥリィはよけるけど、一緒に飛び込んだノイエはよけられない。

刹那、ノイエがいいんちょの体に何かを切りつけて、そのまま指もろとも突っ込んだように見える。

これが何を意味するか。

「侵攻性リンパ球だ。ギーメの血は毒入り、それも私のブラッドプロセッサは誰よりも強い。私を殺したら命令は解除できないぞ。ここを生き延びても貴様は助からない」ノイエ。

ブラッドプロセッサの中には自分以外の肉体を食い滅ぼす細胞があるのだ。このためにギーメ女性と性交したノンギーメ男性は必ず死ぬとまで言われる。ギーメ男性は耐えられるが、何もないわけではない。進化的軍拡競争の果て。

同時に、もうひとつの結果として、生殖隔離。2つの種族を分ける境界線のひとつ。

一種の暴行よけでもある。いやそんな雑学はともかく。

言ってみれば自分の血を相手に呑ませることは、毒薬を相手に飲ませるようなもので、これでルゥリィは当面、ノイエを殺せなくなったのだ、けれど、それはもちろんルゥリィが今のいいんちょの体に執着すればの話だ。

「お前にできることは2つ。その体を捨てて逃げ出すか、ここで私に殺されるかだ」

「よくもっっ」

ノイエの挑発にルゥリィの怒りが燃え盛る。

本気でルゥリィを怒らせてどうなるかは、わからない。ただでさえ感情の起伏が誰よりも激しい彼女、吉とでるか凶とでるか。でも、無謀さでノイエの右に出るものもいない、止められない、私には止められない。


弱った体でそのまま格闘戦を挑むノイエだけど、さすがに体術勝負では、弱っていてもルゥリィといいんちょの体に勝ち目はない。打撃はしのいで、とにかくつかまれないようにしてそれでも逃げようとするルゥリィ。だが。水をなかば入れた水筒を打撃用具として使うノイエに防御ごと意識を刈り取られるまでごくわずか。

容器入りの液体を打撃に使う格闘術である。

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