第3話 ・・・妖精の国で

設定39


東京の西の果て。桜ノ芽市。東京都市圏通勤限界にある中規模都市。

JR東日本『桜ノ芽』駅の地下に、クロエ十字鉄道の路線がある。地下鉄駅。ラインカラーはギンガムチェック。最初は『地下入口』駅で、次が『クロエ学院』駅。

『病院地下』、『第3レジデンツ』、『第4レジデンツ』と続く予定だが、今はまだ、わずか2駅目が早くも終点だ。その間5分。

終着駅からエスカレータを上がっていくと、周囲を丸く緑の山に囲まれたクレーター状の、ビルというより地下にめり込んだ巨大なドームの中に出る。

そこはどう考えても都市だ。

私はギーメの国に来た。

想像していたよりはるかに大規模に。それも公然と。


基本的に私はいつも落ち込んでいます。

でもこの時には、この秘密都市の規模に圧倒されて気持ちがついていかない感を味わう。本当ははしゃぎたいぐらい興奮しているのに、うまくはしゃげない感じ。でも。


こういうガラスとコンクリの巨大な茶碗みたいのが深山の中に隠れいている。もちろんグーグルアースのある時代なので秘密という訳じゃない。


先に西の果てと述べたのは、都市圏が急激に終わり首都圏自治体とは思えないほど鬱蒼とした山林が広がり始める場所だからだ。その山中には採石場やごみ処分場として使われている巨大な穴がある。それらを都市として整備して、緑林の中に突然近代都市を出現させて人を驚かすそんな場違いな場所として、パイプオルガンの都市はあった。

山中の都市の名前は、正式には櫻ノ蕾町。

ギーメ国家パイプオルガン。

身内では単にオルガンと略されたり、ギーメオルガンと呼ばれたりもする。

それはただの互助組織とかいうレベルを超えた都市国家である。


20代のスーツ姿の男性2人がエスカレーターの反対側を通り過ぎる。

「すげえな、ここ。そのうち別の国になりそうな雰囲気だよな」

「お前はアレとかの見すぎだ。アレがバレるから人前でアレなこと言うなよ。まあ女子には俺が言いふらしといてやる。安心しろ」


思わずそっちを見てしまうけど。

青年たちはふざけあう。仲良きことは美しきことかな。

私の聴覚が不正確だからこんな話が聴こえるのかもしれないけど。

もちろん冗談のつもりで発言しているのだ。この人たちは。

だってここは日本国の領土であって、日本の国家機構に所属する存在、あるいは同盟国の同じ存在しか、武装は許されないはず。

でもエスカレーターの階段3つ前を行く有村さ――もとい、毬村ノイエは事実上の武装兵なのだ。

彼女は今この瞬間も礼服、あるいはベルえりと呼ばれる学院の服装の上に、武器を携行している。外部から堂々と見える位置に身につけているのだが、誰も疑わなかった。軍装としか想えない凛々しさ。いや軍装そのものである。

ベルえりについては後述する。

そうか。疑問を感じないのではなく、疑えないのか。

ギーメは記憶を書き換えるから。いや、でももう、そういうレベルじゃないよね。

ここまで大きくなれば、いかにギーメといえど、だってデジタル的な記録までをすべて書き換えることなど出来ないのだから。その意味するところは特別な超能力など必要としなくても、この世界に権力として受けいられている存在となっている、ということ。

そういうことなのだ。


エスカレーターを登りきったあと。

ブルーグラスの巨大ホール。逆さまにした巨大カクテルグラスが巨大垂直抗のいちばん上層についている。

改札を抜ける。自動改札が白黒ゼブラに塗られている。

「パイプオルガンとはギーメによってつくられた国家です。国際的に国家、とまでは認められてないけど、ある程度までは独立した準国家的な場所です。まあ『バチカン市国』になる前のバチカンみたいな感じですかね」

ここでノイエが丁寧に説明してくれる。

これから有無をいわさずこの国家の住人にされてしまうので、する側としては『新国民』にたいして丁寧な説明が必要なのだ。

「これはいちばん重要なポイントなんだけど、パイプオルガンの市民になっちゃうと基本的に許可がないかぎり外には出れません。もっとも、思ってるより簡単に許可はとれるんだけど。ただ単に通行パスの発行手続きをして、出るときにパスを機械にかざせば自動的に承認される、そんな感じかな。限りなく単純化されてるけど、建前は建前だから注意しといて」


「なんでそんなことをするかというと。そもそもの理由は、ギーメ市民がいたずらにシリンジなどしてノンギーメの人を傷つけないようにするためです。一方で外部の人間が中に入ってくるのは基本的に自由です。これはあらかじめ危険を了承して入市してくるとみなされるため。もちろん入る前に電子装置による入場確認や、視覚的な標識による警告文などが目に入るようになってあります。それを認知して入ってきた者に対しては自己責任でお願いします、というわけ」

確かにブルーグラスホールの壁に何やら記載してあるCGI看板。法律的文章。拡張現実でもびっしり明記。各国語で併記。

『ここから先に進むと、あなたの健康を害する恐れがあります――』すべてを読むことはせずただ通り過ぎただけだ。

旧ソ連秘密核都市みたい。

限りなく見えづらくしてあるけど、移動の自由の制限がそこにある。


自由クロエ学院。ギーメ子弟が通う学校らしいが、学院機能以外にもいろいろとあるようだ。


「……もしギーメが外にでたまま帰ってこなかったらどうするの?」

「それは私たちみたいな公的機関が逮捕しにいきます。捕まっちゃうからやらないでね。そうなると本当に1つのエリアから出してもらえなくなっちゃいます」

公的機関だったの? という質問はしないでおく。今さらである。

「……なんで自由クロエ学院という名前なの?」

「なんでですかね。たぶん最初に財団とかを創った人がクロエって名前の人だったんじゃないですかね。あと考えられるのは性格がフリーダムだったとか」

あんまり丁寧な説明とは言えません。

「ギーメとして最初に入市するときに市民権獲得手続きがあります。市民権といっても他の既存国家の国籍は保持したままでダイジョブなのでそこは安心してください。

ちなみに。ここでギーメであるにもかかわらず、パイプオルガン国家の市民にはなりませんと選択することも実はできるんだけど、それをやっちゃうとちょっと厄介なことになります」

「……市民にならないこともできるの?」

「他のギーメ国家の市民権を持つか、

あるいはもっと悪いのは、どこにも所属してないギーメということになるか。

でも、そうすると一般の方を傷つける恐れアリということで、その土地の国家から、この場合は日本国政府から、強制的収容とか予防拘禁とかの対象としてみなされることがあります。なので、人権の侵害を防ぐために可能な限りいずれかのギーメ国家に所属するようにしてください」

ここは真剣な表情でかたるノイエである。

「ちなみにギーメ国家はこのパイプオルガンだけじゃなく、世界中に他にもいくつかありますので。大きなところだとロシアのナコワーリニヤ、中国のツイトータンなどがあります。まあ日本にいるんだったらパイプオルガンが便利ですね。またオルガン都市はここ以外にもたくさんあるので、そっちに住むこともできます。首都圏だと成田とか朝霞とかにも大規模なレジデンツがありますね。ただここにしかない施設があるので、通学とか通院とか、たまにですがここまで来なきゃならない必要性がでてくる場合があります。そこはご了承ください」

公務員らしくスマイルで締めるノイエ。

「……通院?」

「そう、何を隠そう、オルガン都市病院『クロエ十字病院』は、実は学院と並ぶギーメ国家の本質的中心のひとつなのです。ギーメは人間とは違う医学的な問題があったりするので、病気になったときやギーメになってしまった人、これからギーメになりたいなと思ってる人、などはそうした知識が豊富な施設での治療をうけることが重要になってきます」

「……これからギーメになりたい人? そんなひといるの?」

「ギーメになるとウイルス病にかからなかったり、悪性腫瘍などが勝手に治ってしまうことがあります。あんまり年齢が高いと難しいんだけど、若い人だと強力な治療法になるので。まだ少ないですがそういう人生の選択肢を選ばれる方もおられます、コホン」

そう言えば、そんな話をどこかで聞いた気がする。

何か奇妙な違和感がしたけど、その時はまだよく分からない。

それはともかく説明を聞いていて、別に気になった点があった。

「……こういうのって、外にいるときにあまり聞いたことがないのだけれど。昔からあったの?」

「あることはあったんですけど昔のオルガンは、なんというかその、秘密結社だったんですよ。知ってる人しか知らないという。公開するようになったのは本当に最近からです。具体的に去年くらいからですかね。今でもまだ公開原則に反対する人も多くて、そこらへんはこれからの政治的な課題となってます。うーん、大雑把な説明はこんな感じですかね」

それじゃ去年までは本当に秘密都市だったのかな。

「……これは公開されてるのと違うの? 地下鉄とか作ってるのも?」

「表向きは病院と学校、子供の患者さんのための病院と教育施設から発展したと言われています。事実として決して間違ってはいません。移動制限がかかるのは感染症などの予防対策と説明されています。それも本当のこと」

ノイエの説明が終わる頃にはエスカレーターから動く歩道にかわって艦隊団地と呼ばれるホテル設備がある場所へと着いた。山の稜線の上に流線型の白い船のような建物が幾つか並んでる。ひとつのビルではなく複合建築すべてが居住施設のようだ。団地。

その一部がホテルとして営業をしている。

「とりあえずはここに住んでもらうことになります。あとでレジデンツのどこに住みたいかを決めるためにいろいろパンフとかあります。そうそうこれから作る新しいレジデンツも有るみたいだし。山ひとつ向こうだったかな? 反応市になっちゃうけど」

「……レジデンツ以外には住んじゃいけないの?」

「人間とギーメはなるだけ一緒に住まない方がいいんだよ」

ノイエに釘をさされた。

一緒に住まないほうが、賢明なのか。


以上、基本的な質疑応答だけは何とかやれた。


【【黒幕さんの視点:1:始め】】

「1名様ごあんない~」

「うまくいったようだな」

「今回のコはちょっとかわいいよ~。とくに存在感がかわいいかも。あ、それとあの弾丸を使っちゃたよ~」

「知ってる。使えばこっちでもわかる。私のだからな。できれば私の切り札を最期に使って欲しいものだが」

「あ、そうか。じゃあ次回から。それはともかく作戦成功ボーナスのほうよろしく~」

まったく理解している節がないのがノイエである。たぶん次もすぐに使うであろう。

まあいい。仕事だけはできる。

「考慮しておこう」

【【視点終わり】】


設定40


桜の葉が枯れてしまった。黒ずんでいるのは枯れているんだよね。季節はずれの寒さで全滅してる。そんなことあるんだろうか。

命の浪費だった。なんで自然がこんなことするのか私は知らない。


ここに入る際に血液検査などが必要みたいで、それを済ませて待っていた。

ちょっとだけ向こうで電話していたノイエが戻って来る。それからお話。

結論としてノイエがびっくりする。

「あれ、持ってくる荷物とかまったくないの?」

うん。

驚かれたかな。

私物を前の家に置いてきてしまったので、取りに行かなければならないが。

でも戻ってどうするの。自問自答。そもそも荷物なんてたいして持ってない。

「回収班が持ってきてるんじゃないかな」とノイエが言いだして「とってきてあげる。それとも自分で行く?」という流れになったので、そこで私が否定したのだ。

「……取りにいくものなんてないから」

いつもその都度、手持ちのものは捨ててきた。いつも1回限りの私。

別に哀しくとかない。そういうものだった。

「それとですね。自由クロエへの入学手続きとか必要なんだけど、例えば服とかですね」

ノイエが今後の生活についての説明再開、そこで「そうだ!」とひらめくノイエ。自己の発言に反応してさらなる発言を想いつく複雑系です。

「そう、服、制服よ。ここの学校、かなり変な、つまり素敵な見た目の制服があるんだよ。支度金が出てるからそこは安心していいからね」

いや、それは演技なんですよね? この人の場合、本気でやってる可能性も否めないけど。

毬村ノイエの普段の性格は本当に有村さんのままだった。これが本当に地であるらしい。


自由クロエ学院の制服、それは。

セーラー服のバリエーションでした。

と、思うのだが。

ベルえり。今ノイエが着てる服。軍装に見えるあれ。

これは、えりがベルみたく前の方までを覆っている。巨大えりだ。よくヨーロッパで昔の上流階級のお嬢様が着てるみたいな。でもそれでいて前で開くことが出来ない。開く場所はむしろ背中だ。留めるボタンが背中の方についてる。もっとも後ろボタンと言ってもストラップで前まで持って来て留めるタイプ。胸元はくさび型に開いていて、セーラーとしての胸板が中に見えている。ベルえりのえりはこの窓の裏側についているスナップボタンでも固定するのだ。肩口にも固定ボタンがついてる。くさび窓から2つ目のえりが左右に出てきて巨大えりを抑え込んでいる。巨大えりにはスリットやプリーツがついていて可動性を向上させてはある。説明長くてごめんなさい。

くさび窓には、本来は勲章だと資格章だのをつけるらしいのだが、今のところは何もついてない。

しかし服のメインパートを着たあとにベルえりをその上から身に着けて、そこからえりの下にスクエアテイルのネクタイを付けないといけないので。

めんどくさい。

非常にめんどくさい。

ワンピース。側面にジッパー。

ベルトは服のウェストを2周して裏でずれて止まる、しかも服の生地の一部として縫い付けられてる。ワンピースのスカート部は右側に大きなスリットでその中にインナースカート、左側はハーフサイドプリーツ。スリットを斜めにするためとベルトあてとして、ウエストに三角上の生地が左方向に突き出ている。

袖口は先端がつぼむように重ねあわされている。重ね目は肘まで伸びていて、境目が色で刺繍されて縫い付けられてる。さらに重ね目は普通のカフとは違い表側についてる。ブラッドラインブリーズ。

さらに軍階級を持っている者は、左肩の前側にフリードリヒ大王様式の飾緒をつける。これは軍隊のような肩をぐるりと回り込むものではなく、単に2カ所で留められてそのまま下げられているだけ。ループはしかし、引っかかると危ないということで切られているおり、ただの房になっている。大王は右側の背中側に身につけたので肖像画でも見えないことが多いが、これは左前なのでとても目立つ。

なんともはや。

これはもうセーラー服じゃない。

「この町には特異な服飾文化があって、服装をみればその人の種族や来歴が分かるようになってるんだよ」

というのがノイエの説明。ほんとかな。

一瞬だけ信じたけど、しかしこの服装、ここに来た時にあちこちで見かけたりしてないのだが。

「それはあれ、ほら、要は伝統的な服装なんだよ。外に出るときはちゃんと身に付けましょうね、といういわゆるひとつの」

途端に説明が曖昧になるノイエ。

「……ふーん、そう」

「いや、ほんと、ほんとなんだよ」

しばらく無言になる私たちです。


「でもそのかわり、ちょっとハンパなく目立ちますぜ。悪のコスプレ軍隊のイメージとかは完全に塗りつぶしてやったぜくらい」

「……悪のコスプレ軍隊?」

「ほら、いたでしょ。100年くらい前に世界征服とかピュアな人類ほど優れているんだー、とか言いながら人を殺しまくってたアニメのコスプレとしか思えない制服オタク帝国が。性懲りもなくハリウッドがあれを今でも出してくるのに辟易しててね。いい加減にモデルチェンジをしろと」

どうもあらゆる意味で私にメリットはなさそうだ。今それがはっきり分かった。

「でもそれはともかくほら、こんな風変わりな制服採用してるのうちだけでしょ? だからなおさらお勧めなんだよ」

ノイエは個性的であることが嬉しいとおもう人なので、これは前の学校、有村さんだった頃からそう。

見ててわかる。

なのでこのめんどくささが気にならないのだろう。

だったら私服で変わったのを着れば良いのに。

わざわざ制服で変なのを好む理由が、私には不可思議だ。

私がそんなこと言うのもなんだけど。

「いや制服好きなのは理由があるんですよ。制服ってみんなおんなじのを着てるから、ちょっとチャレンジャーな服でも批判されたりしないよね。むしろ1人で着てたら恥ずかしいというか、お前の人格がヘンとか言われるというか、でも制服だと問題ないんですよ。みんな一緒だと何も言われないというか。その手があったか。ある日、突然気づいたんです」

ん?

おもわず振り返る私。

「……チャレンジャーな服が着たいの?」やっぱり。

「個性的なことは美しいことなんだよ!」にっこり。

それは制服じゃないから。

う、でも言えない。聞かなかったことにする。

ところで制服で変なのを好むということは、他人との比較は眼中にないということなんじゃ。それはメリットが無い……とか言っちゃダメ。危ないところでした。


私は自分の想ってることを正直にいえない。

他人に期待される行動を裏切らないように条件付けされているような。

それは良い事なのよ。

そう言われたこともあります。

でもそうは思えないのです。

なぜなら魂に対する裏切り行為だから。


さて、私の受領した制服とノイエが身につけてるのとは、他にもちょっと違う点がある。色が違う。

おそらく、これはノイエは公的機関とやらに属してるからなのだろう。見た目で分かるようにする理由があるのだろうと推測。

ノイエのは、ベースが黒紫で折り返しが黄色黄緑。袖の合わせの筋も黄緑。

オルガン組織の階級でヘダーイと呼ばれるクラス。ノイエはこれと別に軍階級も持っているらしいが、具体的には分からない。

こっちのほうが悪のコスプレ軍隊に似てるような。という感想も言わない。危ないところでした。

ちなみに私が着ることになるのはベースが白に近い灰色、折り返しが赤だ。

パイプオルガン組織の階級で一番下、ラシークと呼ばれるクラスだ。

おとなしめの色合いでほんの少し安心しました。いいのかな。

なお例の飾緒は、裏地と同色と決まっているので、ノイエなら黄色黄緑。私なら赤になる。といって私ならば階級なんか持っていないのでつけないけど。


ちなみに、組織階級は下からラシーク、ヘダーイ、ラフィーク、ダーイーとなる。4つしかない。どちらかというと貴族の爵位のようなもので、上だから命令できるかというとあながちそうでもない。しかも軍階級がこれとはまったく別にあるらしい。


「お、楠本じゃね、もうこっち来たんだ」

この人は。

ベルえりを着ている。黒紫。

ギーメだったのか。

ルゥリィは適当に選んだみたいに言ってたけど、知っててあれをやったのだろうか?

あの学校にいた意味はすると。そこまで考えて、見ると左手の傷にはまだ包帯を巻いてる。

その時、彼女の視線が私を捉えたことを理解した。冷静に考えられるのはそこまでだ。

他人を意識することでいつも私の時間は止まる。

苦手意識がすぐ顔にでる私。

なんでこの人がここにいるの? 他人から見てすぐに理解できる表情をする私。

「それじゃあ、また何かあったら頼もうかな」

「剥製になりやがれ」

ノイエがさりげなく会話に割り込んでくる。

「は? なにそれ」

「オーストラリア英語で、帰れドブス!です」

「…………あんだと、っくらあっ」大激怒です。

あっという間にあの人とノイエがケンカを始めてしまった。


え? 何これ、どうなってるの? 

状況が飛躍しすぎて錯乱しかかる私。

いや、かばってもらってるんだろうけど、混乱に弱い私なんです。

「おまえ、ついこのまえ私に助けられてんのもう忘れてんだろ、次は見殺すぞゴラ」

キュートな喋り方できついセリフを平気で吐くノイエ。

「てめえ、年上にむかって舐めた口きいてんじゃねえっ」

想像通りの怒り方する彼女。

「うわ、ヤンキーってそういうの気にするんだー、初・め・て・知っちゃった・てへ」

何か変なポーズ突きで挑発。いやそれちょっと。

「てめえ、なめたクチ叩いてるのも、いまのうちに」わなわな。

あれ、効いてる?

「「「いい加減にしなさい!」」」

私と2人の頭の上を飛び越えての叱責。私の背中の方角から。

泡をくってなにもできない私と、こっちを見て、しまったという顔をする2人。

何なの??? 更なる混乱の渦中に取り残される私なのだが。

答えは、後ろを振り返ると“黄金の羊“がそこにいた。

いや女の人なのですけど。髪の毛が緩やかシープのカーブ。

「いやしくもオルガン士官たるものが白昼堂々と公衆の面前で罵りあいをはじめるというのは何事なの。あなたたちは他の子の手本にならなければならないのよ。自分たちの立場を自覚していて?」

「私は悪くないです。悪いのは不良です」

さりげなく親指を下に。キルサインするノイエ。

「てめえ、てめえだって似たようなもんだろうが!」

「えーまったく似てないです。むしろエビと天ぷらくらい似て異なるものです」

いやその喩えはちょっと。

「「「いい加減にしなさいというのがわからないの?」」」

ショボーン。途端に静かになる2人。

どうやらかなり権威のある人らしい。この2人にして一瞬で沈黙させられてしまう。

ヨーロッパ系。真紅のベルえり。折り返しが黒。

「はじめまして。あなたが新しく来た子ね。ロザリ・アン・クーパースミスよ。オルガンの外務部長をしてるわ。よろしくね」

握手をもとめて右手を出される。

「……外務部長?」

「外務大臣といったほうがわかりやすいかしら。まあ実際にそんなえらい仕事をしているわけじゃないんだけど。ほとんどはスタッフの方がやってくださるし、私は飾りみたいなものね、まだ学生だし」

学生で外務大臣。それってかなりすごい事なんじゃ。なんか体温が上がってしまう気がする。気のせい?

ドキドキ感を感じつつ、私は握手の手を握る。

「泊シスカ。クローティルダが報告待ちの件で探していたわよ。早く行ったほうがいいんじゃないかしら」

「え、クローティルダ様が? わ、わかりましたすぐに行きます。失礼します」

ぺこり、頭を下げるシスカさん。先ほどとは打って変わって少女らしい清楚な感じ。この人、シスカさんていう名前だったのか。でもよく考えると相手の名前を覚えてない私も大概だよな。

このままだとモンスター被害者になる可能性を感じて少し反省しよう。

てめえあとでおぼえとけこら、という視線でノイエを一瞥してからそそと立ち去るシスカさん。見ちゃいないノイエ。

「さて、実は楠本さん、あなたにお話があるんだけど」

「……え、私にですか?」

「ここで話すのも何だから、ちょっとお喋りできる場所に行きましょうか」

ノイエはなぜだか黙って私についてくる。


連れて行かれる途中でこっそりノイエが話しかけてきた。

「いや、きいちゃん、ギーメの世界ではシリンジで知識を共有化できる裏技があるから、若くてえらい人は珍しくないよ。もっともまるっきり勉強しなくていいわけじゃないけど」

ギーメは他人の持っている知識を何もしないうちにコピーしてしまう能力がある。おかげで私も語学とか運転技能とかはついぞ学習したことがない。ただ、これは万能でなくて無意識的に使える技能に限られる。何というか暗算はできても筆算のやり方は、やはり学習しないとうまく使いこなせないのだ。でも政治というのは後者の知識の領分のはず。だからすごい。それはともかく。

あ、あれ、きいちゃんて私のこと?

聞き間違いとかじゃないよね。

さらに小声で「ロザリ・アン様になにか言われてもすぐに信じちゃだめだよ」

「なに、ないしょ話?」

歩く”黄金の羊”もといロザリ・アン様が振り返らずに話しかける。

様付けをするものなのか。そうなのか。むしろ新しい知識の方に気が向いてしまう。

「もう仲良くなったの? うらやましいわ。私なんて忙しさを言い訳にあまり親友と話すことも少なくなってしまって」

そんな寂しいことを言わないでください。

「……そ、そん、なさび……」ダメだうまく言えない。どんだけだ私。

「えー前におんなじ学校いってる時に仲良くなったんですよ。ねー、きいちゃん」

き、きいちゃん、ちょっとドキドキする、好意的なあだ名で呼ばれるの、初めてだ。これは好意的でいいんだよね。

あれ、何か変だぞ。いつもの私じゃない。

いつも自分のこと大嫌いなはずじゃない。場所が違うからか?

都会の魔力なのか?

この瞬間ちょっと浮かれてる私。それを自覚して不思議に空回りする私。


ノイエはあの人とどこまで違うだろうか?


「さて、と。2人とも座って」

「私もいいんすか」とノイエ。

「もちろんよ」

学生ホールは誰もいない。いや、周囲にノイエと同じ黒紫のベルえりが立ってる。人払いされているようだ。4人の内、男性が2人いる。男性用は左肩のみの肩布といったようなスーツの感じである。えりの装飾にこだわる組織である。

その人たちがホールの四方に立ってる。人払い。

「さて、と。単刀直入に言うけど内務省警察が楠本さんに聞きたいことがあるから来てくれと要請がきてるの。いわゆる参考人からの事情聴取というやつね」

「ダメです。無理です。今の状況で外に出すのは危険です。当事者すぎます」

私のことなのだが、私がなにか言う前にノイエが素早くダメ出しをしてしまった。

そういえば何故かノイエは私にずっと張り付いてる。

「そう言うとおもって、成層宮でやってもらうことにしたわ」

「成層宮?」それはなに?

「オルガン都市の内部領域にあって、出来たばかりでとりあえず建物だけ、みたいな場所だよ。ゼネコン建築の墓場だね。使ってる人がほとんどいないからだだっ広いよ」

ノイエが説明。

「人が少なければその分問題が少なくなるでしょう。くれぐれも慎重にね」

ロザリ・アン様のお願いである。

「この前の戦闘で大変な騒ぎになってしまっているからね」

ダメ押し。

しかしノイエにはこの手の批判は通用しなかった。

突然ダンッとテーブルを叩いたノイエ。

「これは提案なんですが、その、楠本さんになにかメソッドのどれかを貸与できませんか」

メソッド。新しい言葉が出てくる。

昔は知っていたのかもしれない。血液知性から記憶がいくつも失われた私。

「彼女が志願してくれたの?」

「いえ、そーゆーことはまだなにも」

ここで2人とも私の方を見るのだけど、無論何を言ってるかはわかりません。

「さて、ね」ため息をつくロザリ・アン様。

考え中。

「楠本さん」ロザリ・アン様が私を見つめる。

「あなたはマトリクスマシンというものを聞いたことがあるかしら?」

「……まとりくす?」

「空間機械。実は私たちの住む宇宙は、この見えない機械でびっしりと覆い尽くされているの。ここにも、そこにもね」

ロザリ・アン様が具体的に人差し指でそこやここ。何もない空間を指差す。

「誰かが太古の昔に作って、普段は接触することのできない別の次元、すぐ隣の次元にそれを置いてあるというけど、誰がそんなものを創ったのか、何のためにそれをしたのかはよく分からないわ。私たちはその現実を受け入れるだけ」

話は続く。

「あなたはシリンジを使うときに具体的に何かを、何らかの記憶を思い出したりする? シリンジを、あるいは何か不思議な現象を発動するときにだけ、あることを思い出したりしない? それはブートキーメモリーと言って、マトリクスマシンが提供する超能力を、使うときの呼び出しキーみたいなものなの。それを思い出すと発動するという仕組みよ」

私はシリンジを使うときに。何かを思い出したりしてたっけ?

特に何も思い出してないような気がするけど。

「その記憶が何なのか分からない。でも私たちが実際に経験したはずのない記憶。シリンジで破壊することの出来ない記憶。でもそれはある。そしてその記憶は何種類もあって、それぞれに呼び出すことのできる超能力が決まってるの」

ロザリ・アン様が私を見つめて話し続ける。

「シリンジは誰もが持つことができるけど、それ以外のブートキーメモリーは有限なの。ブートキーメモリーというのはコピーできないものなの。記憶なのにね。だから能力の所有者は有限となる。それで当然、そういうものを身につける許可を与えた人間に裏切られたりすると、大変な損失になってしまうのだけど」

そこでロザリ・アン様は言葉を止めた。

私は次の言葉を待ってじっと見つめていたのだが、それがいけなかったらしい。

「彼女にはまだ早いみたいね」

断言される。

「そんなぁ」ノイエが抵抗する。

「守られる側が何らかの形で武装していればより効果的だと思うんですよ。不意打ちの1手にもなるし。こういう風にカードを1枚伏せておくと経験的にいい感じなんですが」

粘るノイエ、こだわるノイエである。

「考えておきましょう」

さあ、これでその話はおしまい。なぜなら立ち上がったから。

「それでは楠本さん」

「……あ、はい」

「当日はこの子を付けるから」とノイエを見る。

「申し訳ないけど明日はお願いね」と続ける。

無論、私が信用に値する同胞ではない、とみなされたかもしれないことについて私に異論はない。

来たばかりが信用されなくて当たりまえ。


いや。そうじゃなくて。


信用されない方がいいのだきっと私は。


人払いの黒紫のベルえりも引き連れてホールから出て行く。

黒紫は武官の着る服なのかもしれない。

人払いがいなくなってしばらくすると急にホールに人が入ってくるようになった。魔法みたいだ。

今、ちょっとだけやなことを考えるいつもの病気。

ロザリ・アン様が出て行くとき、振り返るまで笑顔だったけど、こちらから見えなくなってから急に冷たい顔をした、ような。

私の妄想だ。悪いクセにもほどがある。そもそも冷たい表情が悪意につながるとは限らないのに。

「きいちゃん、よく聞いて。まだ終わってないからね」

ノイエが私の両腕を大切そうにつかんで話しはじめる。

なんとなく理解。


まだあれが私を狙ってるということ。


それで私にずっと張り付いてたの? まだ私が襲われるリスクがあるからずっとつきまとってたの? 私を守るためになの?

「怖い思いさせてごめんね」

うん、だいじょうぶだよ。うなずいてメッセージ。

この時点でまれにみるほだされてる私。普段ならこんな風に人を信じないんだけど。

真面目な顔を崩さないノイエ。

「あんまり言いたくないけど、あのルゥリィ・エンスリンはこれと決めた相手にかなり執着するみたいなの。ストーカーみたいなものかな」

ここだけの話でね。

「それで、今から話すことはきいちゃんの許可をもらってから、やらないといけないことなんだけど」

真剣なお話です。

「これはルフトメンシュ・スケール5のギメロットであるルゥリィ・エンスリンを滅ぼす絶好のチャンスでもあるの」

なんとかスケールとやらの言葉が出てきた。ギメロットのことを台風みたいに大きさで表現できるんだ。

「……滅ぼすの」

おもわず訊いてしまう。かねてから疑問におもってた。

「……ギメロットは滅ぼすものなの?」

いや、確かに私もルゥリィには身の危険を感じたけど、ギメロットのすべてが危険だと、一方的に決めつけてしまうのは抵抗を感じる。

仮に。もっと人に危害を加えないギメロットがいたら。いたらだよ。

「んーと」ノイエの説明。

「ヴァンパイアのジレンマって知ってる? ギーメ、じゃなくてブラッドプロセッサは人間に寄生することで成立している生き物なんだ。寄生知性、サイコパラサイトとでも言おうか。いってみれば人間にとって天敵のような相手ともいえる」

生物学的な視点です。

「でもだから好きなだけターゲットである宿主を殺せるかといったらそうでもない。当たり前だけど、寄生生物というものは、宿主を殺しすぎて滅ぼしてしまえば、自分たちも共倒れで滅んでしまう。だから」

結論です。

「人間を勝手に殺しまくっている同胞は放置できない。必ず抹殺する。そうしなければ私たちは生き残れない。それはもう、私たちギーメというものが存在してる事のはじめから、論理的にそうならざるを得ない、そういうものなの」

それがギメロットを敵視する理由か。


もう1かい!

心の中で声が聞こえた。


ここであれを想い出す私はきっと間違ってる。でも想像してしまった。


「もうひとつ理由があって、これは考えられうる最も恐ろしい事態のひとつとして、人間が私たちギーメに対して、もっと本格的な敵意を持つようになるかもしれないというのがあるの。100年前だったらまあ軽くあしらえたかもしれないけど、今はもう科学が進歩してるので侮れない。なので人間を敵に回さないようにしないといけないの」

「……でもあの人たち、アクリタイスとかは」

「あいつらはまだありがたいことに、主流派とは言えないからね。まだ人類の意見をすべて代表するような存在とは程遠い。過激すぎるからね。でももしギメロットのような存在が堂々と存在し続けたら、それこそほとんどの人間がアクリタイスの意見にくみしてしまう。だからなおさらギメロットの存在を許すわけにはいかないの」

優しい笑顔で冷酷な結論が語られた。これまでの人類の歴史とおなじよう。

どうしても心になじめなかった。

そう、サイズの合わない服を無理やり強引に着てるような。

ノイエが追加のお辞儀攻撃。

「というわけでお願いっ、ちょっとだけ張り付かせて、いえ利用させてくださいっ。もちろん嫌ならもっと主張してくれていいけど。もし私があれであれで嫌だったら、担当者をあたし以外のギーメに替えてくれてもいいし」

それは嫌。「ノイエがいい」

顔を上げるノイエ。なぜかつぶらな瞳。「よよよよ。きいちゃん」感動してるみたい。

「ありがとうっ、絶対大切にするねっ」

まるで結婚するみたいな感動ぶり。


ほっぺたが少し熱くなった気が。

どうも弱ってるのでほだされやすくなってるのか、いつもだったら好意をはねつけてすぐに落ち込むのに、このときはいろいろと受け入れてしまった。なんだか気分が上向いてきている。勘違い。興奮しているような。


とにかくそれは私にとって本当に久々に見る幸福の景色だったので。

それは自分の存在がなんであれ他者に歓迎されてること。間違いでなければ。

時が止まる気がするよ。


***

誰だって忘れることはある。私だって忘れることはある。知らないことは幸せなこと。忘れることもいつだって私の味方だ。

***


えーっと、答えを待ってる。

さっきの許可を取らなければいけないというところだよね。ぜんぜん気にしないよ。

うん、ここで安心させるための決めゼリフを言う私。

こちらこそ、守ってもらってどうもありがとう。よしいけ。

「……あの、……こちらこそま、まむってむら……」噛んだ。

どんだけだ私。


黒い影の女のコ。

喋らないのはずっと昔に確認した。

怖かったのはずっと昔に卒業した。

今日も確認しただけ。ごくろうさま。

この呪いを解くものに災いあれ。


ひらひらと右前方と左後方に流れ落ちる布きれの影。


私は宿舎へ行って夜の眠りにいく。

私が部屋に入るのを確認してノイエは帰る。

現実感がないのはいつものことである。

少しだけずれた夢をずっと見てるような気がする。

でも、大急ぎで自分のその思い込みを否定する。

これだけが私の現実だから。もっとしっかりしないと。


設定41


ない。ない。ない。ない! 着てない! 誰も着てない!

昨日購入したベルえりを着てきたけど、私以外、着てる人が誰もいない通学空間。

自由クロエ学院の学生とおもわれる人たちは何か別の制服を着ている。

地理的にいって、でもそうだとしか。

それともこれは中等部と高等部の違いとか学部の違いとか、そゆことなのだろうか。

でも高等部もおんなじ所にあるはずなんだけど。広い場所じゃないし。

でもやっぱり誰も。

でもみんなこっちを見てる?

コスプレをしてる変な子がいると想うのではないか?

このベルえりと言うのはこっぱずかしいです。

それとも、それほどでもないのか? 自意識過剰?

今日は事情聴取でよその場所、せいそうなんとかいうビルに行かないといけない。だからここに立っているのだけれど、それはともかく現時点で分かってること、とにかくここを待ち合わせ場所にしたのは失敗だったってこと。

朝はオクファさんが護衛してくれたけど、何にも説明なし。どこ吹く風。

「おはよう、ニャンモランシー」

振り返ったらノイエが来てる。

ニャンモランシーとは何ですか? いや違う、そうじゃなくて。

「……あの、この服で合ってるのかな。他に着てる人がいないんだけど」

しんどく確認する私。

「もう、返事はニャウ・ニャット・ニャンでしょ」

何を言ってるんだこいつは。

ジト目で見てやると、

「いやいや、それはオルガンの礼服で学生服ではありません」

じゃなんで私、通学路にいるの? 確かに学生服とは言われてないような。でもこの注目度。待ち合わせ場所はここだよね?

「きいちゃんにはそっちの方が絶対似合ってるよ! うーん、ニャンモランシー伯爵のフリーダムらしさがよく再現されているわ。まるで生き写しよっ、我ながら見事」

ちょ、ちょっと待って。ニャンモランシーって人名なの? じゃなくて。重要なのはそこじゃない。気のせいに違いないが少し精神的に疲労感。

そうじゃなくて、問題なのはコスプレぱずかしい格好で連れまわされてることであって。

ノイエとオクファさんは青灰色のコートのようなものを着てる。これも制服の類なのだろうか。

「あの。ギーメに出来るだけ近づきたくない人に分かるように、指定区域以外ではベルえりの服をなるだけ身に着けてほしいのですね。外出推奨はそっちなのですね」

オクファさんの丁寧な追加説明。つまりギーメ地帯ですよとはっきり明示してある場所なら比較的自由な服装でいいが、そうでない場所はギーメ側の責任を問われやすいのだという。

なるほど。それがないとまったく分かりませんよ。今までの説明はいったい何だったの?

「もっと恥ずかしい服を着るのになれましょう」ノイエ。

本音が出やがったよこのやろう的なことを言ってる!

どうもこの傍迷惑感だけはルゥリィと有村さんで差がないような気がするような。

ところで2人はコートを身に着けている。どちらも同じ。

右上から左下へ斜めに流れるベルト。生地の前合わせの部分が一部ジグザグになっており、斜めに流れるベルトが前合わせに対して垂直になるように出来ている。

袖は全体的に幅広いが、袖口がストリングで締まるようになっている。フード付き。

正装用とは言うが多目的に運用されてるらしい。


「じゃーん、私も着てるよ。ほら」コートをめくるノイエ。下には確かにベルえりを着ている、例の黒紫バージョンだ。

ひとりぼっちになんかさせないですよ、とばかりにアピール。ふふーん。

うん、でもそれコートの下ですよね。

「いや、この春コートの下にはいろいろあるのですよ。今日のところはね。大丈夫、私たちがギッチリ守るからね」

「では行くのですね」オクファさんに車に招待される。

車で行くのか。運転手はというと。

運転手はオクファさんだった。免許持ってるのだろうか。若いんだけど。

それは持ってるんだろう。現に運転しているのだから。そんなことより。

「変な服を着れるようになれないと大人になれないんだよ」

うるさい。

私と変な人は後ろの席にすわる。

「そだ、これを渡しとかないと」

後部座席。ノイエがそれを両手でもって差し出してくる。やな予感がする。

それは。

やっぱり銃だ。

「マカロフPSM。旧ソ連秘密警察が使ってたカード型のコンパクトピストルだよ。今は輸出されてる。ほんとは最新型が欲しいんだけどロシアじゃないと手に入らないんだよね」

携帯端末のスマホくらいの大きさの銃火器だった。護身用に持たせようというのだろう。

どうやら昨日言ったカードを1枚伏せておこう、というアイデアを何が何でも実行するつもりらしい。

「……いや、オレはそういうのはちょっといや。持ちたくない」

「じゃあこれ」

抗議するとあっさり取り下げて、今度は別のものを取り出した。

幸いにしてその物体に関する知識はあった。

それはリップだ。いやリップか?

スティックのりじゃないのか? 思わずそう考えた私って女の子失格かな。だって見てくれが文房具なんだもの。地味。

ゲル状になった特定物質を容器の先のスポンジ質から塗りつけるもの。

「そうだ。これははっきり言っとかないといけないからストレートに言うけど、好きな男の子とかできてもすぐに深い関係とかになったらダメだよ」

なんですか突然、話題がセクシャルな内容を含み。路上性教育です。さすが毬村さん。


「命に関わる話題だから。

私たちギーメ女性の体には侵攻性リンパ球てのがあるんだ。勝手に相手の体に入り込み、相手側の体内をすべて食い殺す。急性GVHDって知ってる? ああいう感じなんだよね。一種の拒絶反応なんだけど。普通の拒絶反応が移植した臓器を破壊してしまうものなら、GVHDはいわば逆拒絶反応、輸血した血液が相手の体全体を異物とみなしてすべてを攻撃してしまう。まあ厳密にいうと違うんだけどあんな感じなんだ」


咄嗟に思ったのは、そうか。じゃあギーメ同士の間では子供とか出来ないのかだろうか。

ということは、人間からギーメになる人がいないと、社会を維持できないものなのだろうか。

それはやはり、どこかもろい社会であるのだろう。

「ギーメ同士の間では大丈夫だよ」

ノイエがこっちの心を読んだみたいに話の先回りして解説を続ける。


「真実の愛があるとその機能がオフになるというか。むしろ愛を強固にする能力があるらしいんだよね。よく分かってないんだけど嘘くさい。まあどっちにしろ、ギーメチャイルドがちゃんと生まれてくるから解除するタイミングか何かあるんだろうね」

それから彼女は、リップの蓋を取り外して、相手に押し付けるように使い方のジェスチャーを具体的にやってみせた。

「こうやって、こう。こんな感じ。塗りつけるだけでいい。勝手に浸透する塗りつけるタイプの注射器。洗ってもすぐには落ちない。それを使ったら解毒剤というか機能停止材がウチにあることを教えてやって。そうすればアタマが固くなければ降伏するかもしれないから。少なくとも交渉材料にはなる」

それはリップスティックの形をした凶器だった。

いや、だから凶器を身につけて歩くのは個人的にちょっと遠慮したいのだが。

そう言う。いや、あの、そう主張してるつもりなんだけど。これって全然主張してることになってない、のかな?

「というかこれが解毒剤なんだけど、毒を解毒する解毒剤も単独で使うとやはり毒なんだよね」

聞いちゃいない私です。聞こえません。

「まあ、前述の理由から、ディープキスとかでも同じ効果があるんだけど。ギーメのキスは死のキスよ」

ウインクしてかっこつけるノイエ。

ぶるぶる。ちょっと冗談じゃありません。もちろんイヤですよ。二重の意味で。


しかしなお、あきらめず、説明してる最中にまたしてもも何かを取り出す彼女なのであった。他にもあるでよ的な。

「それがあれなら、緊急酸素溶剤とかもあるんだけど。呼吸できない時に注射するんだけど容量マックスにすると致死レベルになるの。あとジメチル水銀注入シャープペンシルとか」

なにやら次から次へと出てくる。悪のジェームズボンドの秘密兵器コレクション。これはいけません。

「……リ、リップにするね」

仕方なくリップを選んで受け取ることにする。

「ポケットの中にでも入れといて」

持っていても使わなければいいじゃない? どうも言外にそういうことを言われてるんだな。了解した。

ノイエはというとコートの中にジャラジャラと何か重量物を下げてる気配。

想像はつくけど。

「……そんなに持ってくの?」

「ぎっちり守りますから」ニコヤカ。

ジャリ。


【【奥寺浩介警尉の日記より抜粋:1】】


成層宮は作りかけの建造物である。

100mほどの深さの堀をコンクリートで固め、その中に大地と同じ高さのビルを建てている、まさにお城と堀の関係といったらいいだろうか。両者のあいだにはあちこちに空中通路が、あるいは空中道路が繋がっている。エチオピアの教会建築とやらをモデルにした建築物だそうだ。

それは地底に向けて逆向きに建設した建物だった。例えて言えば。

完成間近の商業施設らしく、まだ入居してるテナントなどは少ない。ぼちぼち入ってきてるあたり。

壁側とビル側にいくつかある空中通路や道路を封鎖すれば、ビル側のセキュリティについては簡単に向上させることが出来る。

実を言えば、この建築様式はこの街で数多く採用されている。


不満であった。

彼の名は奥寺浩介。階級は内務省警察一等警尉。常に不満であることが優秀さのメルクマールであると考えてる。だから不満であることはかまわない。

問題は状況に不備があるってことだ。

いや、それ以前に、そもそも日本国内で二つの武装勢力が交戦するという状態がまともではない。

彼女らは言う。こういうことは他の先進国でも起こっている。日本だけが例外ではないと。そんな言い訳に惑わされる奥寺ではない。勝手に戦場にされて黙っていられるか! これは主権の侵害だ。確かにギーメ以外の民間人の死者は出ていないがそんなものは時間の問題だ。それにギーメだから日本国民ではないとか、管理責任がないとかいう発想がそもそもおかしい。ギーメ系市民の安全はパイプオルガンが責任を負う。君は気にしなくて良い。そんなわけがあるか。ぎょろめだがなんだろうが、日本人として生まれた以上は日本がその安全の責任を負わなくてはならない。それが他人にまかせてよいというなら、それはもう侵略である。最近の政府はもはや自力で立つ気概すら失いつつある。

まあいい。俺はただのデカだ。できることで筋を通すしかない。

対象はベルえりが警護しているはずだ。


だが。

やってきたのは3人ともベルえりであった。

なるほど。ちっとは要人警護というのを考えてるな。

「どうもどうも、お勤めご苦労様です」ぺこり。

毬村ノイエというベルえりの女が頭を下げてきた。


「ちょっと。これはどういうことなの?」

俺はさっそくクレームをつけた。

「それにそんなとこに車をとめたら邪魔でしょう。駐禁切るわよ」

「客とか来るはずないんだから止めといて問題ない」

「いるじゃないの」

見るとテナントが櫛の歯が欠けるような感じではあるがいくつか入っている。

作業スタッフが開店準備をしている程度ではあるが。

「れれ、おかしいな」

それを見て考え込むノイエ。

「ものすごい早さでテナント入居したのかも。うーん。まあとりあえずやりましょう」

やりましょうと言った割には、この子、頭をものすごい感じでひねってる。うーんうーん。納得がいかないらしい。

「はやく駐車スペースに入れてきなさい」

「じゃあオッキー、ちょっと後をお願い」

迷いながら出て行く毬村ノイエ。残り2人。

「じゃあ、お2人はこっちへ」

【【視点終わり】】


ノイエはオクファさんのことをオッキーと呼び捨てしていた。

そういう訳で私の所には彼女だけが残る。

オクファさんの相手の刑事さんへの評価。

「この人すごく優秀なエリートなのね。それに」

それに?

「内警なのにああいう人でしょう。すごいいい人なのね」

内警とか何だろうか。こういう人って。

「通常の警察より上位の存在ぐらいのものなのね。FBIみたいな」


【【毬村ノイエの視点:10:始め】】

彼女はオクファにまかせてパンツァープリウス略してパンプリに戻る。

サイレント走行モードがあるので奇襲性に優れているというのがこの車種を選んだ理由だが、防弾装甲も日本車の中では最高レベルに上げられている。

大急ぎで注意されて駐禁ポイントから別の駐禁ポイントに移す。

少なくとも道路上ではない。

はん、こちとら公務じゃ。駐禁がなんじゃ。

見るとあちこちに開店準備の作業が見て取れる。失敗した開発などというのは言い過ぎだったようだ。

ぃぃぃぃぃぃん。

シリンジの声を聞いたような気がする。

いや。この街では敵とは限らないのだ。

しかし。胸騒ぎを感じて早く戻ろうと急ぐ。

しかし戻る前にひとつやることが。

【【視点終わり】】


「あの、すいません。今度隣でスポーツショップを開かせてもらう【++`+】といいます。よろしくお願いします」

同じ開業仲間だと思われたのか、話しかけてくる男がいた。ポロシャツ姿である。

顔は美形。年はいくつくらいだろう。30は越えているような貫禄ではあるけど。

刑事さんに話しかけてきたのだが、少し刑事さん固まった。

しばらくして。

「私たちはお店関係者ではないので。失礼」

「あれ、そうなんですか。すみません」

引き下がるポロシャツ。かなり雰囲気のいい貴公子風。

「ちょっと動揺したのね」

小声でオクファさん。

ふーむ。動揺したのか。


そして個室に招き入れられる。

「あれ、君は」

そこにはいつぞやの刑事さんがいた。ルゥリィ1人目の死の真相を調べていた人。

今回は奥寺刑事の連れの人だ。

「そうか。君だったのか。道理で」

何を納得したんだろう?


「さて。じゃ早速に事情聴取をはじめさせてもらうわよ。ちょっと長くかかるけれどよろしく」

自己紹介からはじまった。


しばらくして。そもそもこれまで起こったことはもはや隠すことはないことも多いので、知られていることはすべて喋った。ノイエたちが知っていることは喋っても大丈夫。いやむしろ話した方がいい。ノイエたちを完全に信用するのはやはりまだひょっとしたら危険かもしれない。

とはいえ自分のほんとうにやってきた場所の事なんかは秘密のままにして言わなかった。


途中、遅れてやってきたノイエが茶々を入れたりして。

「お、やってますね。ちゃっちゃっちゃ、ちょっちょっちょ」

こんな茶々の入れ方はいまだかつて見たことがない。

「あら、邪魔をする子にはちょっと。外してもらわねぇとなあ! あらいけない、こっちの子の方がびっくりしてるわ」

他にも。口を挟んで来たりして。

「そうじゃなくて。ギメロットの起源とか調べるのは時間の無駄だよ。それぐらいならアクリタイスの方を調べてよ。あんな変テコな連中が武器持ってうろつきまわってるのを放ったらかしていいの?」

「武器を持った変テコな連中って、あんたたちも充分当てはまるわよね」

「あたしらはちゃんと許可を受けてんです」

しばらくするとノイエは、「ちょっと出てくるね」といってまた出て行ってしまいました。静かになりました。


【【毬村ノイエの視点:11:始め】】

ルダンゴトと呼ばれるブルーグレイのコートは斜めに飾りベルトみたいなのが通っている。コートの前を綴じるのにこれを使うのだ。生地は斜めに裁断されて重なるようになっている。袖は先が紐でしぼめられているが調節できる。とはいえしばしば腕には通さずにマントとして使うので飾りに近い。今日は火力の高い武器を携帯してきた。

めずらしくオルガンお手製の反動相殺装置付きマシンピストル。銃身の前方下部に大きな機械式反動装置がついている。その独特の形状から“台形”と呼ばれている。めんどくさいのは反動装置も装填式だということだ。

さて。

先ほど仕掛けておいた罠に何がかかっているかな。期待して見に来たら案の定いたわけでして。

コート越しに台形を押しつけた。

「しかも味方だし」

どう見てもベルえりを着ている。

「毬村さん、市街地にこんな地雷じみたものを仕掛けてタダで済むと思ってるの?」

「それは無力化地雷だ。動けなくさせるだけで殺傷力はない」

捕縛地雷。コグモロボが飛び跳ねて範囲内の相手を絡め取るためのクモノス繊維で動けなくさせるだけ。

「そんなことより生きてたんなら報告がほしいわー、もう1人の委員長」

「生きてないわよ」


ルゥリィに奪われた委員長は17体目で戦死。目の前にいるのは18体目。もしナンバーをつけるならばだけど。委員長は自分個体をナンバリングしていた。16体目とは個人的因縁すらある。

クローン同位体はしばしば、オフィシャルな性格は違っていても身にまとう雰囲気や空気がものすごく似ている。

特にこの委員長シリーズでは、目が似ている。造形ではなく、目つきとか。視線の流し方とか。

というか、あのクラスでまだ五体満足な5人目を発見。自分とオクファと生糸とそれからシスカとこの子。最初からふたりで、あそこにいたのだ。片方がルゥリィに奪われた以後、さっさと逃走したのだろう。おかげで朝の騒ぎに巻き込まれなかった。

「私からクローティルダ様へはもう報告しました。それがあなたに伝えられてないのはあなたの上司に訊いた方がいいのでは?」

彼女の司法部の所属だ。

「またクローティルダ様か、クローティルダ・ヴォルフマイスターって私はいちども見たことないんだけど。いったい実在するのかね」

敬称抜きの発言に相手の目が細まる。

「あなたたちには理解できないでしょうけど、ある種の人格を持った概念よ。ルルーリリスのような。あんな神話的な存在ではないけど」

司法部の最上級者、伝説の存在。

「神話なんてあたしは信じないね。そんなことよりなんでここにいる」

「言わずもがなのこと。司法部は記録を取るのが仕事」

「そういえばそうでしたねー」意訳:この秘密警察やろうが。あ、やろうがというのはちゃうか、いちおう女だし。めろうが!

「とりあえずほどいてくれないかしら」


彼女の本名は、廻谷(めぐりや)ミツメ。

ギーメだが何らかのメソッド所有者ではない。無印。平民だ。

リモコンで糸を解除してやる。コグモロボ、タンパク質分解溶液解放、糸はしっとりとしてほどけてくる。


「そんなことより、私以外にもいるわよ。ここ」

「そんなの当たり前ぽん。ギーメのみやこなんだから」

「ほんとに当たり前でいいのかしら?」


委員長をそこに残して、部屋に戻ろうとする。

しかし関係者以外立ち入り禁止のふだを無視している人が何人かいる。

とりあえずいちばん近くにいた人の顔をのぞき込んだ。

委員長だった。

「あれ、いつの間に先回りしたん」

「それは別の私よっ、16番目のっ、つまりっ」

別の委員長が叫んだ。

17番目はあそこで戦死している。今のは18番目。

振り返るとクモイトがほどけた廻谷委員長が追いかけてくる。

振り向かない側の委員長がにやりと笑う。

私は視線からそいつを外してわざと背中を向けた。

【【視点終わり】】


たたたん、と爆竹の音がする。


さすがにおトイレ休憩は行かせてもらえる。オクファさんは何かアプリが立ち上がらないとかで手が離せないけど、代わりに刑事さんAがついてきてくれる。あのルゥリィ殺害事件で話を聞きに来た人。

でもトイレまで行って、もちろん女子トイレから出てみると刑事さんAはそこにはいなかった。でも道順は分かっている。


「やあ。また会ったね」


それはさっきの隣に引っ越してきた社長さんだった。


「さっきは何も言わなかったけど、実はぼくの事務所ってプロダクションもやってるんだよね」

話しかけてくる人だ。この人。

「どうだろう? アイドルになってみる気はないかな?」

怖い人かも知れない。今さらだけど。

「ウチでタレントをしてみるつもりはないかなあ、って言ってるんだけど」

「……たれんと?」それはなに?

「つまり、テレビに出たりコマーシャルに出てみたりする、そういう役者さんというかな、そんな仕事なんだけど。どうだろう最初はアルバイトみたいな軽い気持ちで構わないよ。でもそのうち本気になってくれたら、そうだね、嬉しいね」

ここまで聞くに即座に悪い人と決めつけられる相手ではないようにおもえる。

「この仕事はそれを職業にした人間を自由にする仕事だよ」

おずおずと名刺を渡してくれた。

「はい、これ」

連絡先が書かれている。

内閣緊急人権保護機関。保護課。それと連絡先の電話番号。

「ただの連絡先だよ。気になってくれたらでいいから。それはね、わかってる人だけに渡すカードなんだ、他の人が見れないようにね。もちろん君の意志を尊重するものだ。そこを間違えると我々が捕まってしまうのでね」

バン、指でっぽうを向ける社長さん、他人を指さしたらいけないんだよ。思わずそんなセリフを胸の中でつぶやく。

「危険だとおもったらすぐ使うんだ。迷ったらいけない。わかったね」

他の人が電話にかけても私じゃなければ正常な反応をしない。

私がかけた場合にのみ、意味のある対応をするということ。


「君のことを考えてる大人はちゃんといる。希望を捨ててはいけない。そのことを忘れないでくれ」


「待たせてごめんね」

社長さんがその場を去ると入れ違いに刑事さんAが戻ってくる。

「さあ、戻ろうか」

部屋まで戻るときにオクファさんが心配して待っていてくれていた。

「大丈夫? 何もなかったのね?」

「……うん」何もない。にこり。


*****

しかし希望というのはそもそも存在しないものだ。

それは可能性がすべて潰えた時にだけ出現するものだ。

もちろん普通の人はそれを見ることはない。

もちろん私はそれを見たことはない。

聞くところによると希望というものが、この世界の成り立ちにとても重要な役割を果たしているという。でもそれを語る人たちには結局のところ、本物の希望がなんなのかはまるでよく分かっていないのだ。彼らが理解している“希望”というのは、実はそれほどすごいものではない。ありふれている。あまり役にはたたない。大抵は嘘だ。というより嘘だ。ただそう思い込んでいるだけ。

私はきっと、誰よりもよくそのことを知っている。

*****


【【とある少女ギーメ兵の視点:9:始め】】

うっすらと事態を察し始めた普通の人たちが悲鳴を上げ始める。

「狙いは生糸だ。委員長、一般人の避難誘導をたのむ」

私はルゥリィ・エンスリンをこれまでに2体倒している。1体は委員長そっくりのやつ。いや、私のよく知っている委員長はむしろあれだった。ルゥリィに奪われた。ここにいる委員長は別のナンバーだ。

ややこしい。この技術については後で解説させてもらうとして、私の前にいる警官もどうやらルゥリィの1体。更にもう1体。1人は銃を持ってる。こちらに発砲してくる。エリアティッシュで貫通せず。ガラスの円形に割れた後が空間に残る。こちらの台形の連射でしとめる。音が軽快だ。3体目。射撃反動装置のせいで銃口が下に落ちるくらいの感じ。終わり。

残り1人は尋問室に向かったか。追いかける。

しかし武器を携帯していなかったらしく、待ち構えていたオクファにねじ伏せられた。

「いったいなんなの?」奥寺警部が激怒。

「すまない。こっちで大失態をやらかした。すぐに逃げる。今日は打ち切りで。後日」

「後日ってあんた」

刑事Aが向こうの方で誰かを銃で撃つのが視界の中に見えた。おや、今のは。

「仕方ない。行きなさい」

私は生糸の手をつかんで走り始めた。引きずるようなのはいつものこと。

【【視点終わり】】


なんでもルゥリィ・エンスリンがまた襲撃してきたらしい。

私はオクファさんに手を引かれて逃げることになった。事情聴取は打ち切りみたい。


通路を走って駐車場。でも上から何かが落っこちてくる。それは。

冷蔵庫。車の上にぐしゃりと落ちるが、一般車のように見えて装甲車なのでひしゃげる程度ですむ。

でもそれでひるんだ私たちに追っ手の1人が追いつく。

「おっと。楠本、俺だ」

彼は。彼だった。生きていた。

「あんたも手を出すな。俺は楠本を連れに来ただけだ」

「下がりなさいっ」

オクファさんは発砲せずに相手を追い払おうとしてた。

でも彼が私の手をつかんで離さない。

「楠本、こいつらと一緒ではおまえは幸せになれない。ルゥリィのところにこい。そこだけがお前の居場所だ。なぜなら」話の途中。


「悪く思うなよ」ノイエ宣言。いやことの前に言ったのか、それとも後だったのか。


乾いた音がして、彼が撃たれた。

倒れる彼。撃ったのは。


ノイエだった。遅れて駆けつける彼女。

「惑わされんなっ。はやく行けっ」

せかされて離脱する私たちと、いまわの際に鳴る誰かが私に掛けてきたシリンジ。

ぃぃぃぅぃうぃうぃうぅんん。ぶぎゅっ。


*****

あのね。人というのは自分と同じ存在にしか共感や同情を抱かないの。姿形が違っていれば、どんなに残酷なシーンを見ても心が痛むことはないわ。そして姿形が同じなら、自分がそれをされるのと同じ苦痛を感じる。

私、あなたのことが好きよ。まるで自分のことのように思える。どうしてかしら。あなたの苦しみは私の苦しみ。私の喜びはだからあなたの喜びでもある。

あなたにも同じように感じて欲しいの。

私には大きな傷があるの。

でも違う部分があれば好きになってもらえないわ。

あなたを傷つければ、きっと私と同じになる。

だからほんの少しだけ我慢して欲しい。

これは幸せになるための儀式。

近いうちに迎えに行きます。

あなたを愛するルゥリィより。

*****


私以外にも広域に向けて無差別に放たれたみたいで、あちこちに悲鳴が聞こえている。


オクファさんがひしゃげた装甲車で私を連れ帰ってくれた。

ノイエとあともう1人はもうひとつの車で帰ってきた。

帰ったあと、彼の顔がもう、思い出せない。

こうやって、無かったことにしていくの。ずっとそう。


設定42


*****

風船が割れた。しかしそれでどうこうすることはない。

こういうことはしばしばある。それに私はそれにとても慣れているし。

昔は。

こんな時、しばしば自分を激しく呪った。幸福になれないのに幸福になれると勘違いした自分の愚かさに歯ぎしりした。でも、それにもなれた。

今の私は、こんなときにわざわざ自分を罰するようなことはしない。

人は風船なんだから仕方ない。

成長したのだ。これでも。こんなでも。少しづつ。

*****


私の世界はいまのところ、この船みたいな建物の中で始まり、終わる。

本当は沿岸部に作られ津波耐性の強い建物として建てられる予定だったこの建物はまったく関係のない山の中に作られることになったけど、でもその代わりに土砂崩れの方向性を意識して建てられている。決して完全に埋もれてしまうことのないよう、斜面に対して船尾を向けた形で建築。でも艦隊というわりにはまだ2棟しか建ってない。

片方はホテル。もう片方は住居として。

もちろん私だけが住んでいるはずもなく、ノイエやオクファさんなども入居しており、迷惑にも遊びに来る。この人たち忙しいんじゃないの?


*****

天国は予約席でいっぱいです。

ここにいる人はいつも決まっています。

入ってくる人はいても、出て行く人はいません。

ここからいちどでも出て行った人は、2度と帰ってはこられないから。

たったいちども傷つかなかった人だけが、予約できます。

幸福は、だからみんな同じ種類です。“昔の作家が言ったように”

不幸はたくさん種類があっても、幸福には1種類しかないのです。

あなたは他の人とほんの少しでも、違ってますか?

*****


「突然ですがいもむしは好きですか。私はちなみに大好きです」ノイエ。

たぶん慰めてくれてるんだろうけど。

外出しが失敗に終わった今は私を少しでも出してくれる計画はない。

「いもむしって可愛いよね。特にスズメガのとか」

こうやって孤立させない1人にさせないやり方なんだろうけど、彼女の場合には素で遊びに来ている可能性があります。大です。なんだ有村さんの演技ってまるっきり素だったんですね。やっぱり。「そりゃそうだよ。潜入工作は可能なかぎりシンプルにやらないとぼろがでるもん」ということだそうです。勝手に私の部屋に変なインテリアをつけていきます。ピンでぶら下げるお人形を天井につっと刺してく。「天井からいろんなものがぶら下がっているのが運気的にいいんだよ」それはいいんだけどお人形がカンブリア生物とかです。渦巻きみたいなのとかエビみたいなのとか。うーん。ひょっとして。彼女の趣味ってこっち系。エディアカラ少女とかなのか。

とにかく部屋をきれいに飾り付けてくれてる。そのつもり。本人はもちろん。


*****

もしあなたが1度でもつまづいたら。もう予約は取れません。

*****


「今日はおみやげがあります。いつも不幸そうなきいちゃんには幸福を呼ぶ青いチョコレート」え? なんですって。聞き捨てならないことをいまおっしゃった。

「が買えなかったから食用色素の青を買ってきた。どうぞー」

渡されたのは箱に入った青い染料。食用。

「……え、チョコレート? チョコレートって言ったの?」

「これで食べるものを何でも青くすることができます」ノイエ。

なんでこう相手が必要もしなさそうなのばかりをもってくるんだろう。

「じゃんじゃん青くしてください」


私じゃなかったら投げつけてたかもしれない。分かってるのかな。もっとひどいこともありえる。

例の男の子を私は目の前で殺されたわけだが、当然、あれは私を守るためなのだ。

それくらいは分かる。でも感情が混乱する。普通の子ならね。

でも、私には? 私が死ねば良かったんじゃないのかな? そう思ってしまう私だから。


いや、ノイエはたぶん意識もしてないのだ。死闘になれているのだ彼女は。兵士だから。当たり前か。当たり前すぎて他人が不快を感じることさえ気づけない。

無視。無視しかない。


ところでこんな彼女以外にも訪れる客がいます。いてくれます。

オクファさんとか。

「これ余り物なのでよければ使ってほしいのね」

といって色とりどりの食器の類。黄色系が多いかな。

非実用的なものばかりもってくる誰かとはえらい違いだ。

ところでこの人は寒い国から逃げてきた人なので、やっぱりどこか暗い影があるような気がする。笑っているところ、あまり見たことない。というのは私の思い込みかもしれないけど。それとこの人は私にどこか距離を取ろうとする。うん、そっちの方がやっぱり普通だよね。私はだからといって嫌いにはなりません。なれません。なぜならば。

「またノイエがろくでもないものばかり持ってきたのね。まあ分かりきってたけどね」

一緒にため息。

そう、この瞬間だけは彼女と打ち解けることができる。


「どうもじゃん。お隣よろくし!」お隣さん。

間違いではない。確かによ・ろ・く・し、と言った。

「じゃん子先輩です。学習クラスタの人です」ノイエ説明。

ギーメというのはブラッドリンクといって、他の人が学習したものを知らないうちに自動的に覚えることができる。このおかげで常人ならざる知識の吸収速度を誇るのだが、ただこれで得た知識はいまいち使いにくく、意識的にコントロールするのは難しい。知識を確実に掌握するには結局はやはり使い手が慣れなければならず、変わらない時間がかかる。しかしとにもかくにも苦手な勉強を部分でも他人任せにできるという裏技である。この人は勉強や知識を、何というかコンピュータで言うところのサーバーにアップロードしておく専門の係のグループに属している、そんな感じだろう。誰かさんにはありがたいのかもしれない。

「ところでじゃん子先輩は病気治療のためにギーメになったというカテゴリの典型例なんですよ。なんか具合悪かったりしたら、経験知がありますからなんか頼っちゃってください」

「いやおまえ、そんな医療知識が必要なことはうちに言われても困るじゃん。というか割に詳しいのはあんたじゃん」

こういう裏方の人たちはもちろん危ない場所には出てこない。

「私は単に病気マニアなんです」

「キモ。医者目指せばいいじゃん」

「いやです」

「……」


*****

もしも突然スズメガになったら、

大きなしっぽを振り回し、道路の上を歩くのです。

その時あなたが通り過ぎ、

そっとつまんで土の上、そのままさらりと消えたのです。

大人になって 翼を生やし、

ステルス機みたく探すのです。

あなたが振り向く私になる。

いつかあなたもスズメガになったら、

恋の香りを振りまいて 月夜の下で出会うのです。


もしもシロアリのお姫様になったら

妹たちに手を振って、光の中へ旅立つの

そして素敵な王子様に会ったら

小さな羽を散らしてね、そのまま大地に降り立つの。

あなたと生きる魔法の国は

哀しみなんてないのです。

私は今日から生まれ変わる。

たとえ暗くて狭い世界でも

出会った頃の物語、おとぎ話になるのです。


吹けば飛ぶほど小さいけれど

夢見るハートは強いのです。

必ず未来をつかみとる。

灰にまみれた焼け跡になっても

いつかみどりで埋め尽くす

愛の力を信じてる。


~ノイエ歌。

*****


それともうひとり。知っている人と再会しました。

「私、あなたのこと嫌いなのよね」

廻谷ミツメさん。委員長のお仲間さんだったお友達。あのクラスは全員ルゥリィに呑まれたと思ったけれど助かった人がいたんだ。

「助かってないわよ」

冷たく。

「私たちはミスキスよ。より一般的にはクローン同位体を呼ばれてるけど。簡単にいうとひとつの意識が複数の肉体を所有しているという状態」

「……それって」ひょっとして。

「最初からこの状態だから、ギメロットのように宿主を使い潰していくことはないわ。あなたが見たのは17番目。まあ番号で言うのもなんだけど私は強いて言えば18番。あなたが知っている私とはあれ以来、同期がとれてないので、おそらく助からなかったのでしょうね」

ルゥリィの遺体はメチャクチャになっていた。目をそらす私。

彼女はそれから首をかしげた。

「できれば最終日の経緯を知りたいんだけど」

彼女たちにとっては、数多にいる自分は双子以上に自分に近しい存在なのだ。

「……ごめんなさい、えとオレはその」その、見ていないというか。

「そう、いいわ。別に。私が言うのもなんだけど、あなたみたいに自分を卑下して、最初からやり直してばかりの人間って、ろくなのがいないのよ。見れば分かるわよ。そういうのはね」

それから彼女とはかなりの間、話すこともなかったのだけど。

「あなたって、いつも悲しそうな感じだけど、あなたがこういうことになったのも本当は全部あなた自身のせいなんじゃないの?」


もちろん私は。そんなことを言われても怒りません。

彼女の呪いはそうして、私を通り過ぎていっただけでした。

ところでこの人も髪飾りをもっているね。


さて。普通ならリセットするところなんですが、ここから出してもらえず、そして何より、シリンジで逃げるのはここでは通用しません。この人たちは同族なので。

どうするか。


設定43


そんなある日、またミツメさんが来て、あろうことか「出してあげようか?」などと言うのです。

「……オレがそういうのするのはイヤなんじゃないの?」

「別にいいわよ。私はあなたのことキライだから、いなくなってくれたらむしろ嬉しいけど」

どうしたものか。

好意を受けることにしました。


【【とある少女ギーメ兵の視点:10:始め】】

「いない」

ぐるりと部屋を見渡した。

嫌われるのは覚悟していた。部屋に入れてもらえないのも覚悟していた。自分が選んだ宝物をめちゃくちゃにされてもしゃあないなー、くらいに考えていたけど、

いきなり行方不明になるのは予想外だった。やるな。きいちゃん。

しかし、出て行ける訳ないんだが。

とにかく、追いかける。

カメラの記録から、遅れている時間を当たりをつけて、どこまで行かれたかを考えるのだ。それによって。

【【視点終わり】】


あっさり地下鉄に乗って桜ノ芽まで出ることに成功。

警戒さえされてなかった。

しかし桜ノ芽で中央線が事故を起こしていることに気づく。電車が止まっている。

それにもらった交通カードでは、どこに行ったかを把握されてしまうかも。

そこで私は何を考えたか、少し歩くことにした。

灯台もと暗しという言葉を知ってる。それに誰かに出会えば、その人の乗り物を借りることもできる。公衆カメラが監視していそうな大きな通りを避けて、街の奥の方に行くと、どんどん高さが下がっていき大きな川に出た。

この街は、この川に張り付いているような立地の街だ。上流を流れる川がようやく広いところに流れ出してきたような。


河川沿いの道路を歩いているとあんまん屋さんがあった。肉まんとかカレーマンとか売らず、ひたすら甘いあんまんのバリエーションを売ってる屋台。なんと屋台である。

ごまのあんまん。

はちみつのあんまん。

かぼちゃのあんまん。

紫イモのあんまん。

気分が悪い時は甘いもの食べよう。

はちみつのあんまんをください。

「へいっ、らっしゃい」

「……あの、はちみつのあんまんをください」

財布をとる私。もちろん電子通貨以外にも前から使っていた財布も持っている。

しかしお金を落としてしまう私。ピン。キンキンキン。

落としたお金を拾おうと追いかける私。

だけど。

お金が。ブウンとうなって飛び上がって誰かさんの手のひらの中に。

その超魔術をあっけにとられて見つめる私。

「どうぞ。落ちましたよ」

黒人の女の人。黒に近い黒い肌。おそらく私と同年代くらい。筋の通った顔立ち。印象的で鋭さを感じる赤色の瞳。ギーメは赤系統の瞳になることが多いのだ。髪の毛ストレートでなぜかアニメ色パステルグリーンで緩やかに巻かれて頭の上でループを描く。フライフロントのブルーシャツ、サスペンダーでスカートを吊り下げてる。女性なので胸を回避して2本が中央でXに交差しながら肩に流れるスタイル。それとさらに交差するように上腕のストラップに引っかかるもう2本、全体としてWに見える合計4本のサスペンダーと、赤系のスカートと灰色のニーハイソックス。

こんな黒人美少女さんはじめてみたかも。こんな人がこの世界にいるのか。

「……ぁぁ」びっくりしてる私。

「どうかしました?」


「……あ、あのすいません。あり、あの、ありがとうございます」お礼を言ってコインを取り戻すけど、私バカだからもう片方の手が、またしてもお財布かたむけてる。

キキキキンキンキン。ああ、なんど落とせば気が済むの。

でも落ちたコインはみなブウン。コインどもみな彼女の手のひらの中に。

「タネもシカケもありませんよ。はい、どうぞ」

そんなはずはない、しかし誰も見ていなかった。証明できない。

完璧な日本語です。


「私にもひとつ」

「へいっ、らっしゃい」

その黒人美少女の人は紫イモのあんまんを買う。

「それじゃあ」と私は去ろうとすると「お急ぎですか?」と尋ねられ、ここで断ると余計な証言を後でされるかもと愚にもつかないことを考えてしまい、そこで少し休むことにする。あんまり賢明な行いとは言えない。

「おいしい。これを食べたのは初めてです。売ってるのは知ってたんですけど」

黒人美少女さん、紫イモまんに大感激。

「……あの、日本語お上手ですよ、ね」

言ってはならないことを言う私。

「ギーメの力で覚えた知識なので」

以前に説明したブラッドリンクというやつだ。記憶や知識のコピー。

「……あの、そうなんですか」

まずいな。私は努めて普通に振る舞った。

「けれど、信用できない相手とそういう行為を行っては決していけませんよ。もし相手に悪意があれば、簡単に記憶汚染されてしまいますから。それはそうと、楠本生糸さんですね」

なんだ。私のこと知ってる。

今日の冒険はどうやらここまでのようです。ため息。

それにしても。

「……あの、捕まえに来たのですか?」

「いえ、たまたま」


「ところで。毬村ノイエのことですけど。ご一緒ではないようですね」

ノイエのことも無論、知ってる。

「彼女は優れた護衛者になるでしょう。なるだけ一緒にいてくださいね。離れたりせずに」


「……あなたもここの政府関係者さんなのですか?」

「そうですよ」

この人たちは、いつも私を取り囲んでいる感じ。

「……オレ…あの、私がそんなに重要ですか?」

一人称を変えるのは、別にいつだってできる。

「ええ。保護を求める同胞ですから。変ですか」

訊き方が悪かったみたいだ。

「……それって嘘ですね」


「……あなたの目的は私を利用してルゥリィ・エンスリンを殺害すること。それだけ。私を守っていれば必ず彼女がやってくるからとても好都合。それとも」


「……それとも、まだ他の理由がある? あなたたちだったらありそうなことだと思う。転んでもただでは起きなさそう。利用できるものはすべて利用する。違う?」


「なぜそう思うのでしょう?」

聴かれた。

答える。

「……それはあの場所での尋問がおかしかったから。わざと相手に見つけやすい場所に出したんじゃないかな。あれは。普通は守ってる人間を外に出さないものじゃないかな。あなたたちにとっては同胞の1人を守ることより体制の敵を倒す事の方が重要なんじゃないかな。人はまとまると得てしてそういう風に考えるものだもの。仲間が1人死んでも悲しむだけだけど、敵がいれば自分が安心して眠れないから」

「素晴らしい。あなたには充分な観察力と知性がある」

美少女さんが仮面を取って素顔を見せた。

「でもそれは誤解ですよ」


「確かに私の政敵もしくは同盟者の1人が、あなたに対して過剰な関心を抱いている。しかし、彼女にはあなたを危険にさらす動機は基本的にない。あるとすれば、それは特定の条件が満たされた時だけ。

そして彼女との関係上、私はあなたを守ってみせないといけない。そうしないと私のビジネスは成立しない。それはご指摘のとおり」


「それにこれは言っておかなければなりませんが、仲間を見殺しにしてもどうということはない、などということはありませんよ。組織というのは信用で成り立っています。信用を裏切るようなことをすれば組織はすぐ破綻してしまうでしょう。もしそんなことが簡単にできるなら、私たちはみな安易にギメロットになる道を選んだでしょうから、ここにいる者は既にそうではない方を選択した者たちなのです」


「あなたはあなた自身が生き残るために私たちを利用して頂ければいい。私たちも私たちが生き残るためにあなたを利用する。それだけのこと。違いますか? あなたはご自分で思ってるよりも我々にとっては重要人物なのですよ」


「……でもあなたたちは人殺しを躊躇しないよね」

「ギーメだからね」

あっさり返される。

「残念ながらこの世界は力で出来ている。生き残るために手段を選ぶことができないというのは、私たちの誰もが知っているはずだ」

「……それはあなた方がその程度の人たちだからです」


思わず自分を棚に上げてえらそうな難詰をしてしまう。

「……最初の内は手を振るう側は誰もがそう主張するんです。それにその頃は本当にその通りなのかもしれません。でもそのうち言い訳することに慣れてしまい、慣れきってしまい、気づけばまったき攻撃のための攻撃を行うだけになる」


「……最初は身を守るために、その次に相手に言うことを聞かせるために、最後には暴力があまりにも当たり前になって気づくこともできないようになるんです。その証拠に。

ほら、あなたは今まで何を食べて生きてきましたか? そのことに疑問を持ったことがこれまで1度でもありましたか?」


さあ。これで追い詰めた。

どうでる?


でも美少女さんはむしろ嬉しかったみたいでほほえみました。

「私はあなたを甘く見過ぎていたようだ。だがむしろ喜ばしい」


「では私にとってはそういうことでいいでしょう。認めましょう。私は確かにあまりにも暴力に依存するようになったギーメなのかもしれない。私についてはそう。

しかし毬村ノイエについてはどうだろう?

あなたが思っていることと彼女の現実はずいぶんと違うようだ」

「……同じでしょ」

ノイエは殺しをまったく躊躇しない。不必要ならあえて殺すことはないけど必要なら楽しむことさえできる。そういう人格だって最近よく分かるようになった。


「彼女は、なんというか極端な人物でね。こんな昔の言葉を知ってるかな。いわく、優しい人物ほど裏返ったときに恐ろしい悪魔になる。

これはノイエだけじゃなくてあなたにもふさわしい言葉かもしれない。でも違う点があるかな。毬村ノイエはまだあきらめてない。絶望と希望がちょうど半分づつごちゃ混ぜになってて、それでいてまったく矛盾がない、少なくとも彼女自身には。

あの子は誰かを殺したその手で他の誰かを抱きしめることにかすかな疑問さえ感じ取ることができないだろう。ほぼ純粋な肉食動物。狂っているとも言える。しかし彼女に気にいられた人物に対してはこの上なく誠実な護衛者となる。それも事実」


「……だから何? 意味がつながりませんけど」


「アウシュビッツ症候群というのをご存知かな?


言わずとしれた大量虐殺と人権侵害の中をわずかに生き残った人たちにしばしば共通して診られる心理症状だ。それは被害者サイドの人間であるにも関わらずその信条や行動原理が加害者のそれに著しく類似してしまう。被害者はしばしば極端な価値観を持つようになる。例えば力こそがすべて。生き残れないものは死ぬしかない。こんな感じだ。

人間は自分の知ってる最悪のファンタジーを目指して成長しようとする根源的な衝動が、何故だかある。まあ2度と危険にさらされないようにするためといったところか。だから今ではユダヤ人がドイツ人のように戦い、中国人が日本人のように愛国心を賛美する。私たちとて例外ではあるまい」

そう黒い肌の少女は胸に手をあてて語って見せた。

それは……………………という意味?


これからこの会話はどうなるのだろう。

でもそこで美少女さんの集中力は途切れたのです。

関係ない方向を見たから。


「さあ、黒幕の1人としてまだ語られてない秘密を1つ暴露してみせたのだから、もうちょっと私の部下を信頼してやってくれないか? 彼女が悪を為すのは彼女の愛情とか友情とか少なくともそれほど否定的でない部分に実は由来するのだから」


それだけ言うと、さらり淡い緑色の髪の毛を翻して、彼女はそっぽを向いてしまう。

お話はこれで終わりだ。

なぜならノイエが私たちを見つけたから。

「きいちゃん、こんなとこにいた」


***


【【とある少女ギーメ兵の視点:11:始め】】

見つけた。丘の下のあのアニメ色の髪の毛の持ち主は。

すぐそばに金属の空飛ぶハチみたいなものが飛んでいる。よく見るとそれはハチではなくドリルの形をしている。私が使ったあの銃弾の正体にして彼女のメソッドでもある。

それはどんなものでもくりぬいて中身を食い尽くす。

飛行の原理は不明。

そして自分の上司のすぐそばに目当ての人物も発見。

「きいちゃん、こんなとこにいた」

余計なことや変な先入観を吹き込まれてなければいいけど。

レルル・ココロフツゥエ。南アフリカ出身のギーメ。外務部副部長。ギーメ国家パイプオルガンで最も影響力を持っている幹部の1人。我がVD隊の運用責任者でもある。

御大が立ち去るのを見計らってその側に降りていく。

【【視点終わり】】


設定44


私たちはどちらもすぐに仲良くしようとは思わなかったし、もちろんいきなり口論を始めることもなかった。そのかわり。


ぎゅっと手を握り締めたまま放してくれない。

まるで小さな子供がお姉ちゃんに引率される姿。

「……あの、手ぇ離して」

「逃げちゃうからダメ」

そう言って手を放してくれない。

そのまま駅前の方角に行く。2人ともベルえりです。仲良しベルえり。

「やっぱ腐らないおやつは必要だよね。あ、買い物カゴとって」

フーンフフーン。

コンビニ入って片手が使えないままお買い物をする。

ぎゅっと握ったままいかなる状況でも離すつもりがないゆえに。

いや……ちょっとコレ恥ずかしい。

幼稚園児くらいの子供まで、あのお姉ちゃんたちって仲いいの~、声まで聞こえるくらい視線を飛ばしてくる。仲良きことは誰にとっても好ましきものかな。

いやいや、だからといって先だってのことを許すわけには。

いやでも、お金払うときはさすがに両手を使うでしょ。

ポッケからお財布出したノイエは、

「きいちゃん、お財布持ってるからお金だして」

やはり二人三脚でした。

「きいちゃん、速く。後ろ待ってる人いるから」

急かされてやむを得ず硬貨を探る「あ、お札切っちゃっていいよ」なので千円札を出します。何とか会計。

この状態どこまで続くのか? ちょ、いやかなり、恥ずかしいんだけど。


よもやこんなところでポッキーを食べてるとは誰もおもうまい。

そこはなんと看板の裏。おっきな看板の裏側なのです。

とある小さなビルの屋上。看板のせいで周囲が塞がり空しか見えない。

まるでネコ科動物がごとく狭いところを好みます。

「後は残しとくかな」

期間限定スイカムースポッキーとオレンジムースポッキーを2人で平らげて残り2つをひとつずつ2人のカバンに入れた。後はお土産だって。

どうせ詰める荷物などない私のショルダーの中身がまたひとつ増えた。

いや、どうせすぐに食べられて無くなってしまうものでしかないけど。

「さあ、今日はもう帰ろう」

それでも手は離してくれないのです。

…………。

会話が途切れた。

どうしよう。頭の中は焦げたフライパンみたくなってる。他人と話すことが苦手な私。何とかこの場を逃れるための言い訳を自動的に考えてしまう私。


「あのさ、逃げたら守れないよ」ノイエ先制。

始まった。

「……守る気があればね」

「うーん、あの場所の不自然さはボスに調べてもらってるよ。ボスってのはつまりさっきの人なんだけど」

「……オレのことは気にしないでいいから。大丈夫だから」

「むー。そういうの平気で言える人はたいてい大丈夫な人じゃない」

沈黙の復活。

第1ラウンド終わり。このラウンドは取った。


第2ラウンド。

「ごめんね」ノイエ先制。

「……」

「私には他のことはできないんだあ。だからその、ああやって戦うことしか」

「……心にもないことを言って欲しくない」

私は剣を相手の胸に刺す。

「……そういうこと普通に言える人はああいうことをしないし」

あれ、私ってこんなに嫌がらせとかできるんだ?

「そんなこと言ってもさあ。あのね私のこと聞いて」

ノイエはだんだんと感情を込めるようになった。

「私もちょっと前までは普通の怪物だったんだ。ルゥリィ・エンスリンとそういう意味ではあまり変わらないかも。だから当時は自分のこと、あんまり人って感じはしなくて、なんか違う世界の生き物になったって思ってた。私は死の女王みたいな何かで、生きてる人たちを見下してた。でもそうじゃなかったんだ」

こういうとこはノイエも女の子らしく感じる。

「普通でもいいんだ。というより普通ってこういうことだったんだよ。みんな普通だったの。死の女王なんて最初からいなかったんだ。ある日、それが突然わかった」

意味が分からない。ただの感傷だ。

「だから他人に手を伸ばしても良かったんだ。誰かを助けてもいいんだよ」

悪魔が誰かを愛してもいいんだよ。

「……別の誰かを殺すことでね」

毒をまく私。

「生きてるって戦うことだもの。生きることは殺すことなんだよ」ノイエ。

決して交差しない価値観。

「きいちゃんだって他の生き物を殺して食べて生きてきたでしょう?」

ほら、同じでしょう? 軽い感じで。

それは私のセリフだっ!

しかも私の言葉とは真逆の意味であるっ!

「それとこれとは意味がまるで違うっ!」

めずらしく私はどもらずに素直に気持ちを吐き出したと思う。

「ん?」

ノイエきょとん。前述の黒幕さんとの会話を聞いていないから仕方ないけど。びっくりしたみたい。

落ち着いて。まず落ち着け。

わからせてやる。自分の言った意味を。

「……いやその、あなたの言い方だとまるで殺すことが良いことみたいに聞こえるけど。それでいいの?」

「うん、いいよ」

とんでもないことを言い切ってやがる。どうか私よ落ち着いて。

「……人殺しもいいことなの?」

あんまり偉そうなことを言える私でもないけど、他人をいじめるためにはいくらでも偉そうなことを平気で口に出せるのが私なのだ。

「……自分が殺されても? あなたの大切な誰かを殺されても?」

そう言ったら彼女、肩をすくめて。

「もう殺されたもの。それに」


「同じだよ。生きてるものはみんなそう。

それとも人間は優れているから他の動物を殺すのは許される、って当たり前に思ってた? 

いつかは私たちが殺されちゃう番がくるよ。

今じゃないだけ。

でもそれは良いことなの。

天然痘とか病気のウイルスとかだって、たまたま食べるモノが人間の肉だったというだけで、別に間違ってないもの。

ただ生きてただけ。

それは別に、悪いことじゃないの」


光のある方向に手を伸ばして。

にこり。

それが彼女の信仰だった。


「殺し合うことは本当は良いことなんだよ」 にこにこりん。


「……違うっ!そんなわけないよっ」

衝撃を受けて私はそれでもその信仰を砕きにかかる。

笑顔の彼女にこちらとしては言葉の火力攻撃に切り替える。語彙の豊富さで勝負だ。

「……あのね。分からないかもしれないけど、それは」

悪というのよ。

言葉の決めつけ攻撃。

「……そうだよ。たとえ悪意がなくても」

そのような悪魔的な無垢さは人の世界では許されない。

そうしたら。生きていけない。

何より、私の内部を全肯定するような発想は赦せない。

そう、私には彼女を怒る資格なんてない。私も人殺しだ。シリンジで少しづつ殺しているという違いこそあれ。でも、私は自分が悪いものだという自覚くらいある。

無自覚になるのは許しがたい。

そんなことしたら、生きてしまうっ。

ただ、ただ、生きるためだけに。


「善とか悪とかって人間が創った価値観だから、本当はこの宇宙にそんなものないんだよ」


ノイエ信仰その2。

どこまでも噛み合わない。

「……じゃあすごく悪いことをした人はどうなるのかな?」

「別にどうも。誰かが暴力で罰しようと思わない限り、ずっとそのままだよ」

「……で、でもそれでいいの? そんな結論でいいの?」

逆にこっちが動揺してしまう。

確かにその通りといえばその通りなんだけど。

「でもきいちゃんが罰してほしいと強く望むなら、私が代わりにやっつけてあげる。私はきっとそのために生まれてきたんだもの。私は、復讐の神様だもの。だからそれが正当な復讐ならあたしが代わりにしてあげる」

幸せそうに言うノイエ。

「……もしあなたを罰して欲しいという願いだったら?」

「自殺はできない。死にたくないから。でも決闘はしてあげる。殺すチャンスはあげる」

さもグッドアイデアみたいに。

まったく話が噛み合わない。

「……そうね。あなたはきっと」

きっと、なんだ? 

不幸じゃないから。そうだ。見てて分かる。ノイエは不幸ではない。たとえ他人からみてどれほど凄惨な人生に見えようと彼女は楽しくやってる。

「……あなたはきっと、幸せなんだよね」

どう幸せ?

「……でもね。幸せな人ってのは生まれつき決まってるの。最初から幸福な人じゃなければ決して幸福になることはできないの。それで、でもオレは、幸福じゃないから」

だから、あなたとは違うんです。


「幸福とか不幸とかも本当は無いんだよ。

本当は幸せな人間とか不幸せな人間とか、いない。

ただみんなそう思い込んでいるだけ」


ノイエのTKO勝ちでした。もう耐えられない。

それは幸福な人にとっては何ということもないけれど、不幸な人には耐えられないほどの侮辱だ。だってあなたはこの苦しさを知らないのにっ。


私は手を振りほどこうとする。

でもほどいてくれませんでした。

「………………でも、不幸な人は………いるよ」

ここにいるよ。

あなたには見えないけどね。

声が歪んでうまく言葉にならない。悔しさのあまり涙が出てくる。

「だって見てられないんだもん。ほうっておけないんだよ」

「だったら……なんで……そんなこと……言うの?」

「だって本当のことを言わないとダメなんだよっ、だって知ることは」

「……離して。離せっ」

私は手をふりほどくことについに成功する。


相変わらず小さな世界から外へ出れないね。

相変わらず私の小さな世界で孤立してるね。

希望のカケラもなく、そこは優しい絶望に満ちてるね。

多分、ここから永久に外へ出ることはできないんだろうな。


それから私は、櫻ノ蕾に戻った。


設定45


【【通達:始め】】

ポイズンリバースよりロザリ・アン・クーパースミスへの申し入れ。

4月14日付。

貴下パイプオルガン組織へ亡命したギーメ個体、楠本生糸について。

我がアクリタイス組織は非公式であるが当個体の返還を要求する。

当個体は我がアクリタイス組織に所属する人物であり、これを保護と称して受け入れ貴下組織が確保し続けることは、我が方の要員を不当に拉致していると我々としては看做さざるを得ない。

速やかに当個体を釈放し、自由に我がアクリタイス組織に向け帰還せしめるよう処置をとることを強く要請する。

最後に我がアクリタイス組織内部での当個体・楠本生糸の経歴、参加した任務、医学的データなどを掲示したい。ぜひ参照された上で判断をくだされることを望む。

参考までに私個人の見解を述べたいが、直接監督下として観察したことは無いとはいえ、経歴資料及びカルテから判断する限り、極めて高いポテンシャルを持った優秀な同志であると評価している。

【【通達終わり】】


真夜中に私は目を覚ますくせがあって、でもまたすぐに眠るので大体は覚えてもいない。


翌朝。私は呼ばれて朝のあいさつに出ました。

「アール・ルルー。永遠なる白きルルーリリス。呪われたるもの、汝は幸いなり」

オクファさんが敬礼を行う。

ルルーリリスというのがギーメの神様の名前。伝説によると最初のギーメになったとされる人物である。もっともいつの時代なのかわからず、聞くところによると宇宙が始まった最初の夜、とされているので、実在の人物ではさすがにないのだろう。

この答礼の儀という礼式が古来からオルガンにあるらしく、章句を唱えるのと同じタイミングで右手を左肩辺りに軽くつけるようにするらしい。まあ武官の方なので、敬礼というのはどこにもあるのでしょう。

「呪われたるもの汝は幸いなり」

アフリカ系の秘書官のお姉さん。答礼。黒幕さんとは別の人です。爽やかです。

この秘書官さんは黒幕さんと同じ南アフリカ地域の出身らしい。ロザリ・アン様の外務部で働く職員のひとりでもある。名前はペオルベネ・リコレ。丁寧な敬礼です。

一方でもう1人の方は。

「幸いなり~」

ノイエ。比較すると投げやり度が際立ちます。悪い例代表。

「毬村さん、あの」

「はい?」

「あの、答礼はちゃんとやってください」

「えー、やってるよー。ほら、ちゃんと肩に手を当ててます、ぴし」

ぴしじゃない。

おっと。思わず目があってしまいましたけど、まだ仲直りしてません。目をそらします。

そこへガチャリとドアの音がして、ロザリ・アン様が出てくる。

「さて、じゃあはじめるわよ」

今回は答礼はなし。微妙にルールがわからないけど。

えらい人は顔パスなのかな。

書類の上下を整えながらスタンディングデスクにつくロザリ・アン様。よくテレビの会見などでやるあの感じです。でも今日のここには記者さんやテレビカメラはないですよ。私たちだけ。私たちとロザリ・アン様とその副官とノイエとオクファさんと私。ざらっと朝会議だ。そこになぜか私もいる。

私は敬礼してないけど、いいのかな。誰も何も言ってこないけど。


「その前に、今回新しくわかった重大な事実をみんなと話し合わなければならなくなったわ」

意味深に皆に言葉を降り注ぐロザリ・アン様。。

「楠本生糸さん?」

私?

「はい?」

「あなたはここに来たとき、私たちに言い忘れたことがあったんじゃないかしら」

その場と私の心の中の空気がいっぺんに悪くなる。

ノイエたちは「なんなの?」くらいの空気だろうが。私にはそうじゃない。私には。

次を言うロザリ・アン様。

「楠本さん。あなたは以前にアクリタイスに所属していたことがあるのよね?」

周囲のみんなが一斉に私を見る視線を意識する。

「……」まごまごする私。喋れない私。

でもそれは関係ないんじゃなかったの? だって今の私はギーメなんだから。

「……そ…………れが、あの、問題なのですか?」

「問題なのかですって!?」

私は猫を踏んづけた。

そのロザリ・アン様の声色に私は掛け値なしに地雷を踏んづけたことを理解せざるを得なかった。

何か舞台に薄い膜がかかってるみたいだけど。今日はさらに少し暗いかな。

「あなたは私たちの敵側の人間だったのよ。そのことを表明しての亡命だったのならまだ理解できる。でもあなたはそのことを私たちに1度も言わなかったわね。それがどういう意味かわかる?」

どういう意味かって……どういうこと? まるっきり頭が回転してくれない。

それは、だって、あの訊かれなかったから。


「本当に残念だわ。あなたはたった今より我がパイプオルガンの庇護下にはありません。今日中に退去してちょうだいね。じゃあね」


絶句してしまうくらいに絶望は明るく語られた。

さあ、朝ご飯前のお仕事は終わり、朝食にしましょうと言わんばかりの。

対照的に沈黙してしまうノイエたち。

何か言わなきゃ。

いま、何か言わなきゃ。

「ちょっと待ってください。彼女を外に出すのはまずいんじゃないかと思うんですが」

ノイエ――だと思うけど、頭が混乱してたので定かではない――の声が反論してくれてる。

「じゃあ拘禁することになるわね。それも起きていると困るから薬物でずっと眠った状態でいてもらうか。それでも構わないならここにいてもいいわよ」

ロザリ・アン様の目が私に向けて照準される。

「選択のチャンスを与えます。楠本さん。自分からここを去るか。それとも」

その先をロザリ・アン様は語らなかった。


変だな。あれだけ逃げだそうとしてたのに。私、なぜか落ち込んでる。

ここは喜ぶべきところでは?

私はぺこりと頭を下げて外へ出る。

「……その……お世話になりました」

この道はどこにも繋がってないだろうし、何か意味のある結末にたどり着くこともありません。

でも取り敢えず消えることはできなかったので、荷物をまとめなくちゃ。

ほとんどはそのまま捨てていくことにした。10分ほどで着替え2着をカバンに詰めてよく考えたらがらんどうな部屋を出る。ノイエがいろいろ設置したものだけが奇妙に寒々しく残っていた。

何も残らなかったね。


でも外に出ると、ノイエが手荷物を抱えて慌てて走っていた。

「ちょっとまって。すぐ行かないで」

私にそう声をかけてノイエはすぐ行ってしまう。

すぐに去った方がいいだろうか? ここにいた方がいいだろうか?

しばらくしてまた私の方に向かって駆けてくる。


「そこに居なさい。行っちゃダメよ」

そんですぐにまた走り去るノイエ。オクファさんもどこかにいっちゃう。鞄を残して。

人を指差すのはいけないんだよ、ノイエ。


もしここで、すぐに立ち去っていたら、私の未来はどれだけ変わったのだろうか?


私はこの時間を後になって想いだすだろう。

私は。


ここにいる方を選んでしまった。

またしても走って戻ってくるノイエ。


「はぁはぁ、忘れ物があっただけで、どこにも行かないよう見張ってるわけではありませんから。はぁ」

なるほど。そういう考え方もあるのか。気づかなかった。

もちろん忘れものではないですね。

私が立ち去っていないかどうか、短期間に何度も確認しに来てくれていたのだ。それくらい気づく。あちこちで用を済ませる間に何度でも。

「はぁ、パンツァープリウスを持ってきたから、ふぅ」

あのね。その息切れ。わざとらしいよ。知ってるよ。あなたは普通に走っても息切れとかしない。この前、助けてもらったばかりだもの。

パンツァープリウスという車がレジデンツの車止めに停車している。

かつてガソリンと電気のハイブリッドエンジンを搭載した車として登場したそれは、いまでは7種類の異なる燃料体系に適応できる車両として販売されている。重要なのは無音走行できる点であり、それが特にノイエたち作戦部に愛用される理由なのだ。もちろん奇襲攻撃に重宝するため。さらに外見は普通に見えるが特注で装甲が入っているらしい。外見からは分からないのだが機関銃の弾丸をはじきかえせるほどらしいのだ。

という詳細説明でした。

「乗って」

先に乗り込んでいたオクファさんが声をかけたのでおずおずと乗車。少し、いやかなり狭い。狭い原因は窓が非常に分厚いためだ。ノイエが置いといた鞄を詰め込んだ後に私を押し込む。

「防弾ガラスなのね」

オクファさんが窓をコツンとやって話しかけてくれる。

ノイエが昨日のコートを2着持って走ってくる。

「楠本さん、後ろのドアを開けといて欲しいのね。ノイエが来るから」オクファさん。

ノイエを待たずにハンドルを持ちエンジンを始動するオクファさん、私が慌てて開いたドアからノイエが滑り込む。両足が入ったタイミングでグゥーと加速。

後ろの座席でありえない転び方をしているノイエが、でもすぐに起き直して元気よく声を出した。

「行くよ、水青町に」

はじまりにもどる。

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