白幻

平中なごん

白幻(はくげん)

 彼のその黄ばんだ瞳には、いったい何が映っているのだろうか?


 僕はその老人を見つめる度に、いつもそんなことを思っていた……。


 僕の住んでいる小さな町は、日本海側の湾に面した場所にある。


 かつて、まだそれが世界から非難されていなかった頃にはクジラ漁で栄えた町である。


 今ではそんな過去の栄華よりも、一面、真っ白い砂浜の広がる美しいビーチが海水浴場として有名であるが、家が近所だった僕は休日や学校帰りによくその浜へ散歩に出かけていた。


 夏には海水浴客でごった返すこの浜辺もシーズンオフには静かなものであり、見えるのは数名のガチなサーファーと、やはり散歩で訪れた幼い子供連れの母親くらいのものである。


 僕に限らず、この浜辺は近隣住民の憩いの場となっているのだ。都会でいえば、近所にある公園みたいなものだろうか?


 そうした中、ふと目についたのがその老人だった。


 70…いや、もう80くらいにはなるだろうか? 白髪頭に白い顎鬚を蓄え、現在は年相応に背が丸まってしまっているが、そのカクシャクとした動きを見るに、若い頃にはたいそう良い体つきをしていたであろうことがどことなく想像される。


 服装はいたって平凡な白いシヤツに茶のスラックス姿だが、一番の特徴は頑丈そうな黒い木でできた杖を突き、常に左脚を引きずって歩いていることである。


 だが、そうして不自由そうに歩いている姿を目撃するのはむしろ稀で、僕が見かける時にはたいてい白い砂浜にポツンと独り立ち、少し肌寒い海風に吹かれながら、穏やかな波の寄せては帰る碧い海をじっと静かに見つめているのだった。


 普段は何をしている人なのだろう? ……いや、あの歳なら確実に現役は引退しているか……。


 それまで一度も見かけたことはなかったが、服装からして旅行客というわけでもないようだ。そもそも海水浴シーズンでもない限り、観光でこの町を訪れる旅行客など滅多にいない。


 とすると、最近になってこの辺に引っ越してきた住民だろうか?


 観光資源はこの砂浜ぐらいしかないが、気候も暖かく、静かでのんびりとした町なので、穏やかな老後の生活をもとめてやって来たのかもしれない。


 それ以来というもの、浜辺に行くたびにその老人を見かけるようになったのであるが、特に話しかけるような用事も機会もなく、なんとなく気にはなっていたものの、僕はただ遠目に眺めるだけで近くに寄るようなことすらなかった。


 だが、ある日のこと……。


「あっ…!」


 いつものように散歩へやって来ていた僕のとなりで、突然の強い風に小さな女の子がかぶっていた帽子を飛ばされた。


 丸いツバの帽子はそのままおコロコロとおもしろいように砂浜を転がってゆく……。


 拾ってあげようと咄嗟にその後を追った僕だったが、帽子の向かった先は偶然の悪戯にも、その日もそこに立っていた老人の足下だった。


「お兄ちゃん、ありがとう!」


 老人のすぐ脇でなんとか帽子を捕まえ、駆けてきた女の子にそれを返してやると、彼女はうれしそうに笑顔でお辞儀をして、やはり向こうで頭を下げている母親のもとへと走り去ってゆく。


 後には、今の騒動にもまるで関心を示さず、相変わらず海の彼方をじっと見つめたままの老人と、なんだかいつにないこの近い距離感に居心地の悪さを感じている僕だけが残された。


 老人は身じろぎもせずに海の方へと顔を向け、すぐそばにいる僕のことをまったく見ようともしていない……完全に無視である。


「あは…あははははは……」


 その場を満たす空気感に居た堪れなく、僕はそれを打ち壊そうと苦笑いを浮かべた。


「………………」


 だが、やはり微塵も僕に興味を持ってくれる様子はない。


「あ、あの……こんにちは!」


 そこで、僕は思い切って声をかけてみた。


 偶然の悪戯にも普段なら絶対ありえないような距離にまで接近したのだ。こんなチャンスは滅多にない。


「……んん? 誰じゃったかいな?」


 すると、ようやく彼は僕の存在に気づき、ゆっくりとその日焼けした皺だらけの顔をこちらへ振り向かせた。


「あ、いえ、誰っていうわけでも……えっと、この近くに住んでる者なんですが、僕もよくここへ散歩に来ていて……それで、お爺さんをいつも見かけてまして……」


 知り合いではないので、そう訊かれても困ってしまう……その上、すぐ目と鼻の先の近距離でマジマジと瞬きもせずに見つめられ、僕はその気まずさにしどろもどろになりながら答える。


「……あ、あの! その……いつも何を眺めてるんですか?」


 だが、ここまで来たらもうやぶれかぶれだ。僕は意を決すると、ストレートに本題を切り出す。


 この様子では、世間話をする内にさりげなく尋ねる……というような高等テクニックは難しいだろう。


「………………」


 しかし、老人は僕の瞳を見つめたまま、またもや黙りこくってしまう。


 突然、そんなこと赤の他人に訊かれても、やはりそうすぐには答えてはくれないか……これは、気分を害させてしまったかな……。


 ……と、思った僕だったが。


「待ってるんじゃよ……」


 不意に老人はぽつりとそう口にすると、再び海の方へとゆっくり視線を戻した。


「待ってる?」


 意味深なその言葉を聞き返しながら、僕もつられて視線を海の方角へと向ける。


「ああ、そうじゃ。ヤツが来るのを待ってるんじゃ……あの真っ白いクジラがもう一度、わしの前に姿を現すのをの……」


「白いクジラ?」


 答えた老人のその言葉を、僕は再び、オウム返しに繰り返した。


「ああ。君みたいな若いもんは知らんじゃろうがの。この浜でも昔はクジラ漁が盛んに行われとっだんじゃよ。かく言うわしもこの町の漁師として、仲間と一緒によくクジラを獲ったもんじゃ……」


 それまでの寡黙さが信じられないくらいに、まるでダムが堰を切ったかの如く老人はとうとうと昔話を語り出した。


「あいつと出会ったのもその頃のことじゃった……その日も海に出てクジラを追っていたわしらは、なんとも大きな一頭のマッコウクジラを見つけたんじゃ。普通のクジラでももちろん大きいが、その倍くらいはあるデカさじゃ。しかも、全身眩いほどに真っ白な色をしておる……」


 若き日を懐かしむかのように老人は遠い目をして、その珍しい白クジラとの因縁について僕に語って聞かせる……今、彼の脳裏には、きっとその時の情景が色鮮やかに蘇っていることだろう。


 そうか。この人は若い頃、漁師だったんだ……それで毎日、この浜へ来てはその当時のことを思い出して……。


「無論、滅多にお目にかからぬ大物じゃ。わしらは悦び勇んでさっそく漁にかかろうとした……じゃが、狩られたのはヤツではない。獲物になったのは反対にわしらの方じゃった」


 ところが、話は僕の予想したものとはだいぶ違った方向へと進み始める。


「ヤツは銛を打ち込まれるよりも早く、自分の方からわしらの乗る船に襲いかかってきたんじゃよ」


「え? クジラが人の船を?」


 聞いたこともないようなその話に、僕は多少の驚きを込めて合いの手を入れる。


「ああ。そうじゃ。マッコウクジラは歯のある肉食獣じゃからの。普通はありえんことじゃが、あのバケモノを一目見れば、イカの代わりに人間を餌にしたとて不思議には思わんじゃろう……ヤツはあの巨体で船に体当たりすると、転覆した船から逃げ出すわしら漁師を端から喰らっていった……わしだけは片脚一本でなんとか見逃してもらえたがの……」


 黄ばんだ目の玉を大きく見開き、さも当然だと言わんばかりにそう語った老人は、いつも引きずっている左の脚をパンパンと叩いてみせた。


 そうか。それでいつも左脚を……でも、今の話からすると、その白いクジラに食べられたってことだから、引きずってるその脚はもしかして本物ではなく義足……。


 予想外にも壮絶なドラマを秘めていた老人の左脚に、僕は彼の半生についていろいろと塑像を巡らせた。


 やはり、その風貌から僕が感じ取った印象はあながち間違いではなかったようだ……現在は年相応に痩せ衰えているが、若い頃はもっと筋骨たくましく、きっと勇敢な海の男だったに違いない。


「じゃが、ヤツと会ったのはその一度きりじゃない。それ以来というもの、わしは運命に導かれるようにして幾度となく海でヤツと出くわし、そして、殺された仲間達の仇をとるべく、ヤツと何度も激しく渡り合った……この銛一本での!」


 壮絶な話に飲み込まれ、呆然と耳を傾けている僕の傍らで、彼は続けてそう口にすると、銛を構えて「えいっ!」と一突きに突く動作をしてみせた。


 仲間が皆、喰い殺される中、彼だけが助かったというのも偶然ではないのかもしれない……その銛を繰り出す動きを見るにも、きっとこの老人は勇敢なだけでなく、優秀な腕の良い漁師でもあったのであろう。


「いまだヤツとの決着はついておらん……必ずまた、ヤツはこの湾に姿を現す。ヤツもわしとの決着を望んでおるだろうからの……だから、その時をずっとわしは待っておるんじゃよ。毎日、この浜で海を眺めながらの……」


 遥か彼方まで広がる雄大な海を見つめたまま、老人は最後にそう言って自らの昔話を締めくくった。


 まさか、この老人が海を眺めている理由に、そんな過去の深い因縁があったなんて……彼はこの歳になった今でも、その白いクジラとの対決の時をじっとここで待っているのだ。


 彼の歳を考えれば、その頃よりもうずいぶんと時が経っていることだろう……。


 クジラの寿命がどれほどのものか知らないし、少なくともこの町で生まれ育った僕でさえ、そんな白いクジラの話初めて聞いた……この湾にまた現れる可能性は極めて低いものと思う。


 それでも、この老人はずっと相手を待っているのだ……向こうも自分と同じ想いでいることを信じて。


 いったい、これまでにどのような死闘を彼とそのクジラは繰り広げて来たのだろう……黒々と日焼けし、長い時の刻まれた皺だらけの老人の顔からは、そんな悠久の闘いの歴史を容易に感じとることができる。


 もはや、宿命のライバルといっても過言ではないのかもしれない……ここまでくると、ただの敵というよりは、どこか古い友人のような感情もそこにはあるのではないだろうか? なんというか、こう表現するのはちょっと変かもしれないが、そう、まるで〝戦友〟とでもいったような……。


「――ああ、いたいた! お父さん、またここに来てたのねえ!」


 そんなことを思い、僕が感慨に浸りながら老人と同じ海を眺めていると、不意に遠くからそう叫ぶ女性の声が聞こえてきた。


 振り返ると、薄桃色のエプロンを着けたいかにも専業主婦といった感じの中年女性がこちらへ小走りに砂浜を近づいて来る。


「もう! ちょっと目を離すとすぐどっか行っちゃうんだから。ちゃんとわたしに断ってから外出してもらわないと困りますよ!」


 その女性は僕らのすぐ傍まで来ると、たいそう困惑している様子でガミガミと老人を叱りつけた。


「あ、どうも、こんにちは」


「あらやだ、ごめんなさいね。挨拶もせずに大きな声出しちゃって……ええと、あなたは……?」


 話から察するに老人の家族だろうか? とりあえず僕が挨拶をすると、女性も僕の存在を今さらながらに認識し、非礼を詫びながらも不思議そうに僕の顔を見つめる。


 なんか、そこら辺の反応がよく似ているので、やはり老人の家族なのだろう。実の娘さんか、あるいは息子の嫁なのか……。


「僕はこの近所に住んでいる者です。ちょくちょくこの浜へ散歩に来てるんですが、その度によくお爺さんを見かけていまして。それで、今日は偶然、言葉を交わす機会に恵まれたので、こうしてお話を聞かせていただいていたんです。白いクジラとの奇妙な因縁のお話、とても興味深かったです」


 小首を傾げるご家族の女性に、僕は自分の素性と今に到るまでのあらましを簡単に説明した。


 …………ところが。


「ああ、その話。ごめんなさいね。それ、じつは全部ウソなのよ」


「ウソ?」


 彼女は、なんとも驚くべきことをさらっと口にする。


「まあ、本人は本気でそう思ってるんだけどね。うちのお父さん、ちょっと呆けちゃってて。昔読んだ小説と現実がごっちゃになっちゃってるのよ」


「…………ええっ!? ちょ、ちょっと待ってください!」


 一瞬、理解ができず、僕はわずかの間を置いてから思わず頓狂な声を上げてしまう。


「じゃ、じゃあ、白いクジラに船を襲われたってのもほんとのことじゃないんですか!? だ。だって脚が……その脚はクジラに食べられて今は義足なんじゃ……」


 すぐにはその事実を受け入れられず、頭を混乱させた僕は反論する証拠を求めて老人の不自由な左脚を指し示す。


 ちょっと失礼ではあるが、ひどく動揺してしまっている僕にそんなこと気にしている余裕はない。


「義足? ……アハハハ、まさかあ。それはこの前、段差を踏み外して捻挫しちゃったのよ。年寄りはちょっとした段差でも大怪我しちゃうから、ほんと気をつけなきゃいけないのよねえ」


 だが、彼女はポカンとした表情を浮かべた直後、なんともおかしそうに甲高い笑い声を静かな砂浜に響かせ、義足であることはもちろん、その原因がクジラに関わるものであることも完全否定してくれる。


「ええ!? で、でも、クジラを獲る漁師だったってのは、さすがに本当なんですよね?」


「いいえぇ。クジラどころか、漁師なんか縁もゆかりもない証券会社の営業マンをしてましたのよ。まだバブルの頃でしたし、猟ならぬ企業戦ってやつですわね。まあ、接待とか仕事のお付き合いで釣りをするくらいのことはありましたでしょうけれど」


 その上、まさかと思って確認した彼の職業についても、まったく言い淀むことのない確かな口調であっさりと覆されてしまった。


 しかも、魚屋とか水産加工業者とか、少しはかすっていてくれていてもいいようなものを、よりにもよって漁師の「りょ」の字も関係していない、まったくもっての別業種だ。第一次産業ですらない。


 つまり、ついさっきまで聞いていた壮絶な彼の半生についての話は全部ウソだったってことか!? あの白いクジラとの運命の出会いも、その後に繰り返されたクジラとの因縁の対決も……。


「まあ、本人に悪気はないんで許してあげてくださいね。さ、お父さん、おうちに帰りますよ」


 呆然と立ち尽くす僕を他所に、まるで何事もなかったかのように女性はそう告げると、老人を促してさっさと家へ帰ろうとする。


「ああ、もう夕飯の時間かね。そういえば、わしは昼飯を食ったんじゃったかいのう?」


 老人の方も老人の方で、その娘と思しき女性にいたくのんびりとした声で答えると、すでに僕の存在などすっかり忘れ去ってしまっているようである。


「やだ、お父さん。夕飯じゃなくてお昼ですよ。これからおうちに帰ってお昼をいただくんです。もう、しっかりしてください! …ああ、それじゃあ、どうもお父さんの相手をしてくださってありがとうございました。また気が向いたら話聞いてあげてくださいね。さ、お父さんいきましょう」


 その恍けた質問にも慣れた口調でツッコミを入れると、彼女は改めて僕に頭を下げ、老人の手を引いてけっこう強引に歩き出す。


「ああ、はいはい。そんな急ぎなさんな……そういえば、わしは昼飯を食ったんじゃったかいのう?」


「もう! だからこれからお昼ですよ。今言ったこともう忘れちゃったんですか――」


 老人も引っ張られる形で足を動かすと、そうしてまた同じ問答を二人で繰り返しながら、とぼとぼと浜辺をゆっくり遠ざかって行く。


「………………ええ~…」


 このなんともモヤモヤとした気持ちを持ってゆく先もなく、脱力した僕は「ヘ」の字に眉根を寄せながら、穏やかな海風が吹く静かな砂浜の上、徐々に小さくなる二人の背中を呆然と眺めて見送る。


 そんな二人の遥か向こう、霞む水平線の上に広がるどこまでも澄んだ青空には、真っ白い入道雲がまるでクジラのような形をして浮かんでいた――。


                                                                    (白幻 了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

白幻 平中なごん @HiranakaNagon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ