裁縫室にて



 莉雄と葵は、咄嗟に校舎の中に逃げこんだ。グラウンドの方では体育祭のBGMがいまだに流れ、先ほど見た光景が白昼夢なのではないかと錯覚させる。


 二人は、体育祭で完全に人が出払っている校舎の中でも更に普段から人気のない家庭科裁縫室に入った。特にここに何かがあるわけではないが、何はともあれ、とりあえず手近な部屋に入ったに過ぎない。


 二人とも走って来たこともあり肩で息をしているが、葵の目は焦点があっておらず、その場にへたり込んでしまっている。

 精神的な疲労故か、さほど走っていないのに脚が震えるのを莉雄は感じていた。あれは何なのか。葵の父親は死んだのか。何かのジョーク……にしては出来過ぎている。理解が追い付かない。ただ理解が及ぶのは、それは恐怖を覚えるに十分な存在であったという事。


 ふと、莉雄の耳に誰かが駆けてくる足音が飛び込んでくる。あの黒い人型の何かだろうかと思いながら、咄嗟に近くにあった裁縫鋏を手に取って、裁縫室の扉に向き直る。


 だが、扉を開けたのは慶だった。そのすぐ後ろに刹那が居り、莉雄を確認すると、二人はすぐに部屋へ飛び込んで戸を閉めた。


「無事だったか。なんなんだ、あれ! 何かの撮影とかじゃないよな!?」


 開口一番にそう言った慶を刹那が声を潜めながら窘める。


「大声出さないで。アレが追ってくるかもしれない」

「無駄だろ。ここまで走ってきたんだぞ。足音で感づかれてる。来ないのは……」


 慶はそこまで言いかけて、へたり込んでいる葵を見てその先を言うのを止めた。来ないのは、葵の父、繁が決死の足止めをしているからだ、とは。


「戻らなきゃ……」


 唐突に葵がそう言ったのを莉雄は聞いた。


「戻んなきゃ。父さんが、父さんが残ってる。腕、あんな怪我して……戻らなきゃ。助けないと……」

「無理だ。見ただろうが。まるでSFかハリウッド映画だったろうが! CGみたいな光景で」


 ふらふらと立ち上がった葵を慶が止めようとする。


「でも、父さん怪我してる。このままじゃ死んじゃう。そんなの……そんなの……! 父さんに言いたいこと一杯あるのに」

「だけど、そもそも逃げることを、お前のおじさんは望んで逃がしてくれたんだろうが!」


 目に溜めた涙を体操服の短い袖で拭い、絞り出すように葵は言う。


「あたしは……父さんを助けに行く。じゃないと、嫌だから。あたしがあたしを嫌になるから」


 葵は慶を押しのけて裁縫室を後にしようとしている。


 莉雄は、自分の無力感に襲われながらも、自分にできることが無いことを理解して何も言えずに居た。あの黒い人型の言った言葉、『人間である限り勝てない』というのが事実なら、葵を止めなければならない。でも、引き留めることは彼女の為になるだろうか? 死んでしまえば何も残らない。


 ……違う。そうじゃなく、今自分は、自分まで死ぬことを恐れているんだ。そして、引き留めないのは、引き留めた後、自分が嫌われてしまうことを恐れているからだ。

 莉雄は、自分のその思考に嫌悪感を覚えた。


 それで良いのか、でも死ねばそれきり。嫌われてでも彼女を引き留める? 何のために。親友の恋人だから? 今後の親友との友情の為? 自分の為? 誰の為なのか。

 深く拳を握り込み、莉雄は口を開いた。


「な、なら、ボクも、何か手伝う」


 必死に絞り出したその声に、葵も慶も刹那も莉雄を見る。

 全員が驚いた表情をしていたが、誰よりこの言葉に驚いたのはだった。手が震えるのを感じ、それを力強く抑え込もうとする。


 それに対して慶が首を振りながら何か言わんと口を開いたその時だった。


「お困りかな? もしかして、情報不足で勇み足踏んでる感じかな?」


 自分たちしか居ないはずの家庭科裁縫室。出入口は一つ。しかし、その女の子は部屋の奥、出入り口の対極に位置する窓に平然ともたれかかっていた。


 丈の短いホットパンツから真っ白な脚が伸び、白いノースリーブのシャツを着ている。ブロンドの長髪がさらさらと音を立てるように流れ、顔立ちなどもおよそ人類が望む限りの完璧な配置と形状で、目を惹き付けるその造形は人間離れした少女である。


 その少女が声をかけただけで、その場の空気は彼女に引き付けられ、全員が彼女の一挙一動に注目した。

 慶が彼女から目をそらさずに言った。刹那もそれにうわ言のように返す。


「誰だ……制服じゃないし体操服でもない。誰かのお姉さん、とか?」

「知らない。外国人、なのかな」


 少女は微笑みながら莉雄の隣に立って言う。


「学校って、誰か学校関係者の、そのまた関係者じゃないと入れないんだっけ? なら大丈夫だね!」


 そして、莉雄の腕を抱きしめるように彼を引き寄せて、万遍の笑みで続ける。


「ボクの名前は、言世ことせ ヒカリ。莉雄の奥さんってことで!」


 莉雄は見ず知らずの女の子の柔らかい肌の温かさを二の腕に感じ、自分の耳が熱を帯びてくるのを感じていたが、慶が大声で叫んだのを聞いて、現実に引き戻された。


「はあ!? お、く、待て待て待て! 誰だコイツ!」

「だーかーらー、莉雄の奥さんだよー」


 莉雄はヒカリが言った自己紹介に耳を疑い、思わず口をついて言葉が出てくる。


「え!? ええっ!? ま、待って、ボクも知らないよ!? オクサン!?」

「ふふふ、莉雄、それはテレカクシだね。ボク知ってるぞ」


 ヒカリと名乗った莉雄の奥さんを自称する少女は、莉雄の言葉を聞いていないようだった。莉雄の二の腕に美少女が頬ずりをしている様子に、慶が叫ぶ。


「だから誰なんだ、その子は! おいこら、言世! クソ羨ましいぞ!!」

「分からない奴だな、キミも。だーかーらー、ボクは莉雄の奥さんだって言ってるじゃないか、慶くん」

「お前はそれが言いたいだけだろが! というか、高校生で結婚できるか!」


 なおも離れそうにない少女に、莉雄は無論困惑した。


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