【2】


 八月、上野恩賜おんし公園の不忍池のほとりにある瀟洒しょうしゃな建物が人で賑わう。

 昭和四十年、すでに老舗だった上野精養軒が、夏の盛りの庭園に卓を置く。

 普段はお高い西洋料理店が手頃な価格で提供するビアガーデンは、上野恩賜公園の夏の名物となっていた。


「ずいぶん長い御手水おちょうずでしたね」


「昨日ちッとばかり飲み過ぎちまってな」


「あら、そうなのですか? 今日は私とのデートですのに」


「店をやってッといろいろ付き合いもあるンだよ」


 三十歳過ぎだろうか、べらんめえ口調の男はぽりぽり頬をかく。

 ピンと背筋が伸びた女性は、口元に手をあててクスクス笑った。


「そういうことにしておきましょう。でも、女性を一人で待たせるなんてよろしくなくてよ?」


「はいはい、次ァ気をつけるよ。おい兄ちゃん、麦酒をひと瓶」


「ボウイさん、ビールは二瓶お願いします。それと、ソーセージの盛り合わせもいただけるかしら?」


 日よけの帽子を傾けて微笑む女性に、ボウイはかしこまりましたと一礼する。

 気取ってやがると男はふてくされ、それを見た女性は仕方のない人ね、と笑った。


「こういうのはお嫌いなのかしら?」


「あァ、好きにゃあなれねェな。料理も麦酒もうまいンだけどなあ」


「嫌いなことこそやってみるものですよ? 好きなことだけやってたら、新しい学びはないでしょう?」


 子供に諭すように、女性は男に言った。

 だからもっと楽しみましょう、せっかくのデートなのですから、と。


「けッ、みんなお高くとまりやがって、なんだか落ち着かねえや」


 男はこの日のために新調した一張羅の背広をいじる。

 ほらほら汚れるでしょうと、女性はそっと男の手を取った。


「それに、もともと私はお高くてよ? 私、柳橋やなぎばし一の芸妓ですもの」


「ンなこと言うんだったら俺ァ、自分の店を構える一国一城のあるじだぞ?」


「ふふ、そうでしたね。水物の人気商売で、お店を繁盛させてる腕ききの板前さん」


「なンだそりゃ。もっと言い方ってもんがあンだろ」


 それでも、目尻を下げる洋装の女性の笑顔に照れたのだろう。

 男はふいっと目を逸らした。

 つられ、女性も視線を動かす。


「蓮の花が綺麗ですねえ。私、桜よりも蓮の方が好きなんです」


「ぱっと咲いてぱっと散る、桜の方が見事じゃねえか」


「男のかたはそう言いますのね。散ってしまったら寂しいじゃないですか」


 池に浮かぶ蓮の葉と咲き誇る花で水面は見えない。

 そんなもんかねえ、と男は独り言ちる。


「『しのび、忍べず、不忍しのばずのお池』。初デートでときめくには、二人ともちょっととうが立ってるかしら?」


 不忍の、池を望む庭園で。

 女性はふわりと微笑んだ。



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