第6話 見えない手を持つ人②
俺は結局のところ、その青年をその後に捕まえることは適わず、取り逃がしてしまった。
意外とすばしっこい奴だった。夜が彼を隠してくれたこともあるだろうが、それでも、俺だって必死に追いかけたつもりだったのにも関わらず、簡単に逃してしまった。
俺は、事態が大きくなるのを恐れ、彼を追いかけた後、現場には戻らず、しばらく自宅でのんびりとゲームをしていた。
どーしよっかね。たぶん、今頃は大騒ぎだろう。
ま、いいや。
晴香から俺の顔が漏れることなんて、百も承知。
日本の警察は優秀で、用心をしたところでどこかでボロが出る。
だが、警察が俺をかぎつけたところで、それはそれで何とかなるだろう。今まで、俺より強い人間は見たことがないし、拳銃だって、俺には通用しないのだから。
強いていうなれば、GIF県でヒーロー活動をしている有名人・”黄色い猥褻物”だろうか。
俺はしくじった後だというのに、妙に心臓はクールに鼓動しながら、モーニングを頼みに喫茶店へ出向く。
何だろうか、この高揚感は。
俺は自分の手を見る。俺がカバに会ってから、得られたこの見えない手。それを、今までちっぽけな悪事を働いて満足していた中で、初めて、俺は大々的な事件を起こしてしまったことに対する、絶頂、高潮。
そんな気分でいれば、燦燦としたこの朝日とも気さくな挨拶をしたくなる。
俺は鼻歌を鳴らしつつ、喫茶店・コメダに入店する。そこは開店直後というのにも関わらず、スーツを着たサラリーマンや早起きの老人たちによってそこそこの席を取られていた。
俺はいつもの窓から道路が見えるカウンター席を陣取り、アメリカンコーヒー1つとモーニングのセットを頼む。
対応してきたのが見慣れた中年女性のアルバイターだったので、いつものようにジョークを受け、そして体のいい笑顔と言葉を返し、少し和やかに笑い合った。
俺は傍に置かれたばかりの冷水を、ゴクゴクと口に含み、ガリガリと氷を砕いた。
そんな武骨な音を聞きながら、窓から見える道路を眺める。たまたま赤いアウディの車があれば、羨ましい、いつかあんな車に乗って山道をドライブしたいなぁ、だとか思い、小学生くらいの学童たちが集団下校をしているのを見かけると、煩わしくて不快になったりする。
「おはようございます」
唐突に、隣にいた青年が声をかけて来た。
そいつはどこの高校生らしい制服を着ていて、椅子の下へ収納するようにリュックサックが置いてある。
これから学校行くために、ここで朝飯を済ませる気だろうか。
「誰、アンタ」
俺はどうせ暇だったし、ちょっと話し相手をしてやろう、という風に返答。
すると、その青年はとりたて顔を変化させず続ける。
「昨日の夜に、トイレで」
「!?」
こいつ、あの時の……!
と心臓が飛び出そうな衝撃が俺を襲ったと同時に、俺は真っ先に手が出てしまった。
瞬時に、見えない手でその青年の首を握りしめようと接近させようとするが……。
「おっと……」
青年は俺の動きにビックリしてよろけた、とでも言いたげに体勢を崩す。
すると、彼の肘が飲みかけのマグカップにヒット。彼がさっきまで飲んでいたアツアツのコーヒーが、俺の足元に零れた。
「アッツ!」
と、俺は思わず声が出る。
とてもじゃないが、見えない手を維持できるような状況じゃなくなり、俺はいつしか手を引っ込めていた。
「すいません。でも、そっちがいきなり動くから……」
と、謝罪をした後、彼は店員を呼んで、拭く物を用意してもらうよう頼む。
アルバイターの若い女性は自分のズボンに付いたコーヒーの染みを見て、驚きつつも駆け足で厨房に戻り、拭くものを持ってせっせとこちらへやって来る。
ぬかった。
咄嗟に首を絞めようとしたが、それは防がれ、そして周囲の注目を浴びてしまった。
俺の失敗は、一度防がれたことで、暗殺が詳らかに露呈してしまう恐怖を認識してしまったことだ。
例えば、もう一度、俺がこいつの心臓へ手をやり、握りつぶしたとする。
そうすれば、その諍いは悪い意味で目立ってしまい、どうしても周囲の人間は「おっ、どうしたどうした」とこちらへ駆け寄る。
いや、目立っていなくてもそうなっていただろう。
しかし、俺は目立ってしまうシチュエーションを想定してしまうことで、警察への通報、そしてそれらとの交戦、それによって今までの社会的地位を失うこと考慮してしまった。
そうすると、途端にプレッシャーが重くなる。
すべてを失うことを覚悟して、手をかける。それは、隠れて女子中学生に魔の手を伸ばすことや、つい魔が差して首へと手を出てしまう、そんなこととは全く違う、重い決断だった。
こいつは、そういった心理的な部分をすべて熟知したうえで、俺に話しかけ、そしてコーヒーを零したのだろうか。
いや、違う気がする。
これは勘で、論理的な根拠などない。しかし、こいつの表情からは、それらしい狡猾さをどうしても見いだせない。
「おまえ、どうして」
俺がズボンに付いたコーヒーを拭いつつ、青年へ告げる。
「ただ、話してみたいと思っただけです。
自分は、今枝という名前で、まぁ、普通の高校生です」
これも嘘だろう。
彼は嘘を言っている自覚などないだろうが、しかし、どこかで彼は普通の人間とは一味違うような気がする。
「アナタは……?」
「俺は、クインシー・ジョーンズ」
「……?」
今枝は露骨に首を傾げて見せる。当然だろうが、これが偽名だとバレたらしい。
「はぁ、クインシーさん」
彼は呆れたのだろうか、かける言葉も見つからないんだろうか。動揺した様子が声や表情からも漏れていてる。
名前なんて呼べれば支障はないものの、こうも馬鹿にされたように思われるなら、やはり他に適切な名前があっただろうか。
「で、今日は何の用。
話したいなんて、話題がないわけでもあるまい」
「星野晴香さんのこと」
その名前を聞き、俺の体はキュッと引き締まった。
なぜ、こいつが彼女の名前を知っているのか。
もしや、晴香と元から親交のある関係だったのだろうか。そして、あの場にいたことも、偶然ではなく、彼女を探しに来たところだったとか。
「いや、星野さんとは今日初めて話したばかりですよ」
「お前、彼女と話したのか」
「クインシーさんが帰った後に」
そう言えば、女子中学生があれほどの凌辱をされ、悲惨な姿で放置されていたのにも関わらず、この辺りはパトカーや民衆たちの騒めきなどが感じられないことに、今更ながら違和感を抱いた。
殺しはいていないとはいえ、幼気な彼女の痛ましい姿があれば、誰もが悲痛の思いをするだろうに。
「星野さんは、貴方を許しましたよ」
「は?」
唐突に、今枝は信じられないことを言う。
冗談なのか、それとも嘘を言って俺を罠にでも嵌めるつもりなのか。
「とても、芯の強い子でした。
そして、彼女には思い人がいたらしいですね。今回のことを事件にし、自らの貞操を危ぶまれる事態にしたくなかったとか」
「……」
呆気を取られる。
こいつは、どんな気持ちで、こんな妄言を、何の疑いもなく、すらすらと、口にできるのか。
いや、しかし、これ程の気が狂ったようにまっすぐな瞳でこんなことを言われれば、むしろ本当に晴香が俺を許したとさえ思えてくる。
「嘘じゃ、ありませんよ。
実際に、彼女は深夜ごろに帰宅し、今も学校へ向かっているでしょう」
「馬鹿を言うな。
自分で言うのもなんだが、俺が晴香に行ったことは、本人からしたらとても許されるようなことじゃない。
それを、ほんの半日も立たず、自分の中で整理して、今も学校に行っている?
信じられるかよ」
「じゃあ、後であの現場に行ってみると良いでしょう。
あそこはいつもの公衆トイレですよ」
「……」
そこまで豪語したか。
この言葉が何らかの罠だとか、そういう可能性があるにしても、遠目から現場を覗いただけで、事件があったかどうかなんてすぐにわかるだろう。
俺は嘘だ、本当だ、の水掛け論に意味はないとし、とりあえず今枝の言葉を信頼することにする。
「晴香は、なんて言ってた?」
「『あの犯人のことは許せない。
けど、今あったことをずっと引きずり、トラウマにしていたら、きっと私のこれからの人生は滅茶苦茶になって、心を閉ざしたまま生きることになる。
それは、嫌』
だ、そうです」
「はぁ……?
そりゃあ、そうだけどさ」
そりゃあ、そうさ。
過去をいつまで引きずっていたところで、ただ自分に辛い今が続くだけだ。
けど、過去を忘れて吹っ切る。
そんなことが、簡単にできるものか。
「今枝。お前が何かしたんだろ。」
俺の問いかけに対して、今枝は少し物思いをしたようだ。
こいつの表情が、いまここで、初めて普通の人間らしい変化をした気がする。
「難しい、ところですね。
言ってしまえば、自分のやったことは触媒のようなことで、ただ彼女がそうなる状態になるまでを早めただけ、なのでしょうか。
とはいえ、変わろうとしなければ、自分は何もできないのです。変化するまでの大きさと向き、つまりベクトルを彼女が持たない限り、自分はただの普通のヒト」
なるほどな。
やはり、今枝も今枝で、俺と同じようにカバと出会った人間らしい。
もしこいつの言った言葉全て事実ならば、こいつは人間の性格を変えることができる力があるらしい。
そして、それを人助けのために用いている。
しかし、ただのお人よしにしては、悪人の俺に対して責めるようなこともなく、そしてただ話がしたいという理由でこの場を設けた。
捉えどころのない奴だ。
それとも、ただの考えなし馬鹿か。
「今度はこちらが聞きたいのですが、クインシーさん。
アナタは、なぜ彼女を襲ったのです?」
晴香や自分のことについて、伝えれることはすべて尽くしたのか、彼は話題を俺に変更した。
「なんで、か」
語れることは、たくさんある。
それこそ、俺が活動を始めたきっかけとなった、”爪の長い黒ずくめ”のことを話しても良い。
そうでなくとも、ただの性癖と割り切ったように話しても良い。
しかし、敢えていうなれば、
「ドラゴンボール、知ってる?」
「えっ、そりゃあ……」
今枝だって、知らないはずがない。
国民的な人気漫画、ドラゴンボール。
小学生をしていた男なら、もはや義務教育のようなものだろう。
「孫御飯、ってキャラクター、いるだろ?」
「ええ」
「俺、あのキャラが大好きなんだよね。
悟空と違って、普通の感性を持つ戦士だからだろうか」
「自分も、魅力的なキャラクターだと思います」
体の良いことを言っただけか、それとも本当に思っているのか、今枝は気の利いた相槌をしてきた。
意外と聞き上手な奴だ。
「魔人ブウ編でさ、悪の心を持つ魔人ブウ、いただろ?
あいつを倒すためにさ、御飯はパワーアップしたじゃん。潜在能力を開放したんだっけ。
パワーアップをした御飯は、そりゃあもうカッコ良いし、めっちゃ強いし、最強と思ったよ。いつもより尖った性格で、それにスーパーサイヤ人じゃない状態で強い、ってのがしびれるよな。
実際、無類の強さを持つ悪のブウをボコボコにしてて、爽快だったさ。
けど、悪のブウはゴテンクスを吸収して、その御飯より圧倒的に強くなっちゃったの。ついでにピッコロの頭脳も吸収して、頭もよくなってさ。もう無敵の存在よ。
それからはもう、形勢逆転。
あれだけ強かった御飯は一転してボコボコに殴られ、痛めつけられ、聞こえるのは野沢雅子の悲鳴。子供心ながらに、恐ろしいと思ったね」
「それは、辛いシーンですね」
「ああ、辛いシーンだよ。
だからこそ、俺は興奮していた。
特に、御飯が大きなクレータの中へ吹き飛ばされ、その中でボコボコにされ、視聴者からすれば悲鳴だけが聞こえるシーンがあるの。
思えば、アニメーターの手抜きだったんだろうけど、面白いよな。見えないけど悲鳴だけ聞こえる、というだけで、俺はどんな凌辱をしているのだろう、と身悶えしてしまうんだ」
今枝は、俺が得意げに口を滑らしている様子を、真剣に聞いているようだ。
彼は素直な性格なのか、俺の目をしっかりと見つめている。
「そう言うのが、好きなんだ。俺は」
そのセリフを最後に、俺と今枝の会話は話すべきところを話しつくした、というのだろうか。
後はとりたて語るようなこともなく、その内、今枝はモーニングを食べ終え、そしてリュックサックを取って学校へ向かっていってしまった。
彼とは、また縁があるだろう。
俺には、そんな気がしてた。
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