第3話 今枝③
放課後。
キタ校の生徒たちは部活動へ向かう者、帰宅する者、委員会などの用事がある者、と三々五々に散っていく。
特進クラスの生徒はまだ授業があるのだろうか、教室を覗けば、生徒たちは生真面目にテキストを机に揃え、教師は授業に使うプリントを配っていた。
普通クラスの今枝は所属していた『映像制作部』の活動をサボり、早々に校門を去ろうとしていた。彼の目元には目立つガーゼが張られており、あの北上爪攻撃の傷跡は未だにふさがっていないらしい。
今枝はさっさと校門から抜け出そうとしていたが、その前に知り合いからLINEのメッセージが届く。内容は『校門で待ち合わせをしないか』というお誘い。
なので彼は適当な返事をした後に近場で待機をする。
「ユートさん。お待たせしました」
声をかけて来たのは髪の長い女性だった。
その髪の先は腰を超え、太ももの裏にまで及び、もしや膝の裏にまで届くやもしれない。もし、彼女が屈む姿勢になったら髪は地面に付くだろう。
全体的に体が細く、肌が白いので、少し妖怪か何かとも思わせる女だった。
「怪我をしたって聞きました。
あの、心配です。大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ、双美さん。ちょっと切っただけです」
「見せてみてください……」
双美は今枝の顔を両腕でロックし、そしてガーゼがある方をじっくりと観察した。
じーっ、と見られている今枝はつい緊張して、顔を赤くし、彼女から目をそらす。双美の方は逸らされた視線に少し残念がって、そして「ごめんなさい」と申し訳なさそうにロックを外す。
双美は普通の美人さんだったので、普通の16歳である今枝からすれば、見つめ合うだけ気恥しいものだ。
「そういえば、双美さん、授業がまだあるんじゃないですか?
特進クラスって、まだ……」
「あ、うん。いいの。
今枝くんが、心配で……。いてもたってもでね……。それに、私は十分に予習も復習もして、テストも万全だから多分大丈夫」
「だしに使われた気もしますが、でも、双美さんなら成績優秀だから大丈夫なんでしょうか。
また、勉強を教えてくださいね」
「うん。あ、えっと、今日、おうち、寄ってきます?
うちなら、1年の時に使っていた教材もあるし、私が今やってる2年の予習まで教えれますよ」
「エビ星人は?」
「大丈夫です」
「ああ……。でも、今日はコーヒーが飲みたいと思っていたので、喫茶店でどうでしょう?
御馳走させてもらいますよ」
「そんな……」
2人がそこそこに会話を弾ませ、2人が下校の足を進めてきた頃。
彼らの後を、顔を俯きにして、申し訳でも悪いように追う北上という女がいた。彼女は2人の侵害の阻まれる絶妙な領域に、どう声をかけてやろうかなんて弱音を喉元までつっかえつつも、
「あの、今枝くん」
と、弱弱しい声で2人の足を止めた。
「あ、えっと……」
今枝はどうやら、おかしいことかもしれないが、北上を見てかける言葉に困ったようである。
というか、彼はあれだけの論争をしておいて、北上の本名を知らないのだ。しかし、何とか名称を付けて返答をしないといけない、という義務感から、
「委員長。どうかしたの?」
と、いつか誰かがそう呼んでいた記憶から、今枝は彼女を『委員長』と呼んだ。
しかし役職で女性の名前を呼んだことで、失礼がないか少し心配になったのか、今枝の顔は少し引きつっていた。
「謝りたくて」
北上は短くそう伝える。
気の強い彼女でも、流石に手を挙げた人間に対する申し訳なさ、と言うものは人一倍にあるらしい。どこか緊張していて、言葉も途切れ途切れにしか伝えれそうにない。
「ごめんなさい……」
北上は大きく頭を90度まで下げる。
けっこう大降りなモーションだったため、北上と双美はしばしダイナミックさにビックリした様子だ。
双美は少し挙動不審で、どうやらこの状況に対応できないらしい。彼女は今枝の様子をちらりを見て、反応を伺う。
対して、今枝は少々の虚を突かれつつも、すぐに正気に戻って、
「委員長、爪、大丈夫?」
と、開口一番にそう言った。
「爪……?」
頭を上げた北上はその発言に頭を傾げ、すぐに自身の爪を確認した。
その爪は少し深爪なくらいにまとまっていて、あまり伸びていないらしい。というのも、爪で攻撃してしまったことにより、委員長は保健室で爪を切ったはず。
「ごめんなさい。ちゃんと切りました」
今枝の言葉が皮肉と思ったのだろうか。
いや、実際のところ、校則では『爪の長さを揃える』という決まりがある。学校内での行事で、自身の伸びた爪が事故で他人を傷つけないとも限らない。彼女は自分の爪を管理できなかった未熟さを恥じていた。
「……そう。
あと、そんな畏まった感じにされたら困るよ。別に、自分は怒っていないから。
むしろ、自分が悪かったと思っているくらい。棘のある言い方でごめんね。自分は、和泉の我儘さもキミの生真面目さも、どっちとも悪いとは思っていないだけなんだ。
キミは立派な人間だよ。委員長としても、いろんな人を助けている。自分は、そういうキミを尊敬しているんだ」
まるで同情されているみたいじゃないか。
普通ならそんな風にさえ思う口ぶりだろうが、しかし今枝と言う青年は変なもので、流れるみたいに、淡々とそう言う為に、北上は嫌味を言われたなんて気分にはならなかった。
それにはなんらかの感情なんて籠ってはいない。小石を地面に落とした音の方がよっぽどエモーショナルな響きをするだろう。
ただそれによって今枝悠斗というキャラクターが、北上の中で理解不能に近い領域に陥る。
彼は北上に対して、怒っていないのか、呆れていないのか、馬鹿にしないのか。いいや、彼はどれもしない。どこか人間らしくない気もする彼が、少し気味が悪かった。
「話は楽しかったよ。また話そう」
今枝はそれだけを伝え、そして、頭を軽く下げる。
「えっ……うん……」
北上は返事の言葉すらままならない。
今枝は意味の分からない人間だ。まぁ、北上にしてみれば、そう思っただけだ。
とはいえ、今枝程度に変な人間と言うのは、長い人生のうちにいくつか出会う奇妙な縁と言うやつ。
今枝は特別な人間では決してないのである。ヒト全体のうちにある、1つの面が見えるだけが彼なのである。
「双美さん。行きましょう」
そういって、今枝は双美に合図をして、その場を去った。
北上はただ黙って見送っていた。と言うよりも、呆気にとられたというべきか。気づけば、彼はいなくなっていた。
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