第6話 怖くない

 スーパーのトイレの外で人を待っている独身女性というのは、そういないでしょう。たいていは奥さんが出てくるのを待っている男の人だろうし、子どもがトイレに行っているお母さんになると思います。


二十四時間営業のスーパーに行く時間を夜の十時にしたのは正解でした。この時間帯になると仕事帰りの買い物客がひと段落して、人が少なくなっています。

怪しい外人を連れて歩いていても、そんなにジロジロと見られることはありませんでした。


家でトイレの使い方や水道の水の出し方などをマクスに教えた時に、一人で留守番させるのは心もとないと思いました。あの、ものに動じないマクスがいちいち驚愕してビクビクするのです。一人きりにして何かを触って壊されでもしたら目も当てられません。


けれど連れてきたことにも早々に後悔することになりました。

麻子の車が走り出した時、助手席に乗っていたマクスはドアを開けて降りようとしたのです。

「こんな速さで走ったら、馬車がぶつかる!」と言い張るマクスを説得するのに言葉を尽くしました。そしてチャイルドロックを発明した人に感謝を捧げましたよ。


先程は『手をかざしてください 流す』と書いてある感知器の辺りを触ったらしく、「アサコーアサコー!」とマクスが叫ぶ声に驚いて、とっさに男子トイレに入ってしまいました。

ここのスーパーには子どもの頃から通っていますが、男子トイレに入ったのは初めてです。小用を済ませて出てこられていた男性ににらまれてしまいました。


外のトイレには家のものとは違う機能もあるということを、麻子はマクスに懇々こんこんと説明しました。特にウォシュレットのボタンは押さないようにと言ったのです。でもあの男は凝りもせずにそのボタンを触ってみたんですね。

とうとうびしょ濡れになったマクスのズボンを買いに行くハメになりました。


「待たせたな」

マクスはニヒルな声を響かせて、偉そうにトイレから出てきましたが、スエットのズボンが短かったらしく、つんつるてんです。

麻子は笑いをこらえるために咳ばらいをすると、マクスをじっとさせておくためにカートを押させることにしました。


「これを押してついてきてください」

「わかった」


麻子が食品を買い物かごに入れるたびに「これは何だ?」とマクスは尋ねてきます。そのためいつもより時間はかかりましたが、なんとか無事に買い物をすますことができました。

しかし油断は禁物でしたね。

レジの向こうでニヤニヤしているのは、西隣のおじいさんと孫娘のカナちゃんです。こんな時間に知り合いに会うとは思いませんでした。マクスのことをなんと説明したらいいでしょう……


あさちゃん、その人彼氏~?』

『違うわよ。外国から旅行に来ている親戚の人。しばらくこっちにいるからよろしくね』

麻子が平気な顔をしてそう言うと、カナちゃんはあからさまにがっかりしました。

『なぁんだ。麻ちゃんにやっと彼ができたのかと思ったのに。』

『カナちゃんこそ、えらく遅くまでボーイフレンドと遊んでるじゃない。また星の観測?』

『おじいちゃんはボーイフレンドじゃないもん!』

小学校三年生のカナちゃんは、まだまだ可愛らしいものです。

『はっはっは、一本取られたな、カナ。そういえば麻子さんちの荷物を預かっとるよ。後で取りに来なさい』

おじいさんはシワシワの顔をほころばせて、麻子とマクスを交互に眺めました。この人は星の研究をしている科学者です。カナちゃんと同じようにはだまされてくれないでしょう。

いったいどう思われていることやら、冷や汗ものです。

口は堅いので近所の人にわざわざ吹聴ふいちょうすることはないと思いますが、孝代たかよおばあさんには話すでしょうね……


一応、二人にマクスを紹介しておきました。

マクスが自分の名前を「ナサイア・ド・マクシミリアン・バンダル」と言ったような気がしましたが、なんとも長い名前です。速攻、忘れる自信があります。

でも本当はマクシミリアンっていうんだね。それでマクスというのはニックネームなんだな。

色々と謎の多いマクスのことをちょっと知れた感じがして、麻子はなんだか嬉しくなりました。



 家に帰って麻子は気づきました。

夕方から二人の立場が逆転しているのです。


山小屋にいた時のマクスは絶対的な権限を持っていました。麻子のことは何もわかっていない困った子ども扱いだったのです。

洞窟にいた時の静かに怒りを秘めている姿には、心の底から恐怖を覚えました。

マクスには知られざる別の一面があることを思い知らされました。

けれど日本に帰ってからは麻子の方に主導権がありました。何もわかっていないのはマクスの方で、今夜のことも母親が息子の世話をやいているかのような気分になりました。


もう怖くないかも……

昔、父親の部屋だった座敷からもれる明かりを見ながら、麻子はマクスに親しみのようなものを感じ始めていることに軽い驚きを覚えました。

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