10区 ウエストのサイドの物語

 走って帰るので大丈夫ですよ、という廣瀬さんを無理矢理車に乗せたのは私だ。


「廣瀬さんには“歩いて帰る”という選択肢はないんですね……」

「そんなことないですけど、歩くには少し遠いですから」

「だから普通は車移動なんですって」


 廣瀬さんの住むアパートは、職場から3kmほど離れたところにあって、私のアパートからもそれほど遠くない場所だった。ほぼ自宅に戻る道を進んでいると、進行方向の先を見ながら廣瀬さんは言う。


「あのメガネ屋を左に入って、橋を渡ったら右です。西永さんのアパートからも近いでしょ? 走ったら5分くらいだと思います」

「それって何kmくらいですか?」

「だいたい1.5km」

「それ、徒歩20分って言います」


 ランナーは常に距離とタイムを意識しているため、「○km」と言われれば「□分」、「□分」と言われれば「○km」と自動計算してしまう癖があるのだそうだ。ただしそれが常に「走れば」という計算なので、あまり役に立たない。


「職場まで毎日走ってるんですか?」

「そのくらいだと走った方が早いんですよ」


 車は発進と停車の前後は遅いし、渋滞なんかを考えると、朝は特に『走った方が早い』らしい。


「それ以外に朝10kmほど走ってますけど、どんどん鈍ってきてるんですよね。体脂肪率なんて━━━━━」

「体脂肪の話はしないで!」


 ランナーは体脂肪も異常に少ないけれど、走り込みによって心臓も鍛えられていて、心拍数は常人よりかなり少ないんだって(常人は一分間60くらいなのに、トップランナーだと30~40だとか!)。それって、もはや別の生物では? と常人以下の私は思う。

「この川沿いが走りやすいんです」と説明されながら橋を渡ると、大きな駐車場を備えたアパートが見えてきた。単身者向けの1LDKだという。


「ここに停めてください。邪魔にならないし、みんな自由に使ってるので」


 物置小屋横のスペースに車を誘導され、「コーヒー淹れますね」と先に階段を上り始めた。


「何階ですか?」

「三階です」

「エレベーターないんですか?」

「ないですねえ」

「これもトレーニングの一環?」

「いえ、単純に家賃が安くて」


 振り返って笑う顔は余裕で、たかだか階段を上るだけで息が切れている私を高みから見下ろしていた。


「どうぞ。すぐあったかくなると思うので」


 部屋に入るなり、廣瀬さんはあちこちのスイッチを押しまくった。男の人の匂いがする。玄関には色こそ黒だけど、ただならぬ気配をまとったシューズがあって、よく見ると青やオレンジのラインと部分的にレザーが使われている機能性を感じるデザインだ。……おお、軽い! 「これが、ランナーのシューズ……」と妙な感動と緊張感をこっそり味わいつつブーツを脱いだ。


「お邪魔しまーす」


 入った先は八畳ほどのリビングで、センターに正方形のちんまりとしたこたつがある。


「あ、かわいい」


 グレーのこたつ布団には、ところどころにひつじの柄がついていた。タオル地でもこもこしているひつじの身体を指先で撫でる。


「入って待っててください」


 キッチンの方からはゴボゴボというコーヒーメーカーの音と、香ばしい匂いが漂ってくる。ささっと私服に着替え、キッチンをうろうろする廣瀬さんを、まだ冷たいこたつでのんびり待った。


「私の実家は駅伝に興味ある人いないんですけど、亡くなった祖父が毎年観てたんです。こたつで、ビールとおつまみを楽しみながら。私たち子どもはいつもみかんを渡されて、それに付き合わされました。だから箱根駅伝って、こたつとみかんのイメージです」

「わかります。俺も似たようなもので、ものすごく退屈でしたね」

「廣瀬さんも?」

「最初は野球やってたので、ほとんど興味ありませんでした」


 そういえば、箱根駅伝の中継でもそんなことを言っていたなあ、と思い出した。


「なんで陸上に転向したんですか?」


 えへへ、と廣瀬さんは笑う。


「野球の才能がなくて。打てない、守れない。野球だけじゃなくて、球技は全般苦手ですね」

「へえ~! 意外。スポーツ選手って何でもそこそこできるんだと思ってました」

「人によりますけど、俺はダメですね。俺のいた中学校には陸上部がなくて、ランニングだけは得意だったので駅伝大会に貸し出されたんです。その結果が良くて陸上強豪高校から誘われました。そこからどっぷり……すみません。お待たせしました」


 意外と立派なコーヒーカップにちゃんとお砂糖とミルクポーションまで添えられて、熱々のコーヒーを持ってきてくれた。


「ちゃんとコーヒーカップ、あるんですね」


 なんとなく、すべてマグカップひとつで済ませているような気がしていたので、そのピンク色のカップに、廣瀬さんの過去が垣間見える気がした。

 どうせ路地裏にある白を基調とした小さな雑貨店かなんかで、あれこれ見ていた女性(イメージ堀田さん)が廣瀬さんの袖をちょんちょんと引っ張って『ねえねえヒロくん、これ超かわいくない? お揃いにしようよー』とか言ったんでしょ。廣瀬さんも目尻下げちゃったりして━━━━━


「友人の結婚式の引き出物です。たまに来客があるので重宝してます」


 現実の廣瀬さんはあっさり種明かしして、色違いのブルーのカップでコーヒーを飲む。


「……来客」


 その言葉に引っ掛かり、ふたたび女性(やっぱり堀田さん)がもやもやと復活してきた。『ヒロくーん、私コーヒーじゃなくてミルクティーが━━━━━』


「大学時代の友人とか、実業団の仲間とか。まだどこか学生気分が抜けてないんですよね」


 なーんだ、と気をよくしてカップに口をつけた瞬間、


「安心しました?」


 と言われてちょっとむせた。


「けほっ……何ですか? その言い方」

「いえいえ、何でもないですよ?」


 ふわふわという笑顔はいつもと変わらない五日目のお月様の目なのに、なんでこんなにざわつくのだろうかと、心臓のあたりをさすった。


「廣瀬さんって、本当によくわからないです。何考えてるのか、何にも考えてないのか」

「何にも考えてないわけないじゃないですか。打算と計算ばかりですよ」

「そうなんですか!?」

「そうですよ。実際、西永さんはまんまと俺の部屋にいるじゃないですか」


 ハッと玄関の方を見たら、


「鍵はかけました」


 とすかさず言われた。


「だって、『コーヒー淹れます』って!」

「コーヒーは淹れましたし、『何もしない』なんて言ってないです」

「詐欺ーーーっ!」


 あはははは、と廣瀬さんは目尻を拭う。


「冗談です。ちゃんとお返しします」


 のんきな空気でリモコンを操作してテレビをつけた。ニュース番組の流れなのか、プロ野球のキャンプ映像が映されていて、私になど興味ないように真剣なまなざしでそれを見つめている。

 びっくりはしたけど、嫌だったわけじゃない。むしろ望んでいることなのに。

 本心を言えない自分を棚に上げ、あっさり引き下がられたことが悲しかった。ざわざわしていた胸がすうっと冷めて、あたたかくなってきたこたつでも、淹れたてのコーヒーでもあたたまりそうにない。私もテレビを観ていたはずなのに、いつの間にか視線は手元まで落ちていて、目の奥からじわじわ込み上げるものを感じていた。


「あの飲み会のとき、」


 その声に顔を上げても、廣瀬さんはテレビを観たままだった。


「『先輩に頼まれた』なんて嘘です。だから『飯星さんを誘って欲しい』と言ったのも嘘です。俺が、西永さんを誘いたかったんです」


 真剣な目で見つめる先に、もうキャンプ映像はなく、画面は各地の天気予報に変わっていた。


「さっきも、下柳さんと会ってるって知ってて、少しでも邪魔できないかなって電話しました。出るまで何度だって掛けるつもりで」


 結局聞きそびれていた電話の理由に、私は何も言えなかった。


「優芽さん」


 ビクン、と身体ごと心臓が跳ねて、コーヒーにも波紋が広がる。


「……って呼ばれたら、ドキドキしませんか? 俺はいつもしてました。そんなつもりで呼んでないってわかってても。単純ですよね」


 何にも言えない私を見て、廣瀬さんはちょっと小首をかしげてふわわんと笑った。


「遅くなっちゃったし、そろそろ行きましょうか」


 玄関でブーツを履くと、廣瀬さんも靴を履いて並んだ。アパートの狭いたたきでは、コートとコートが触れ合うほどに近い。

 確かに閉められていた鍵をカシャンと開けて、ノブに手をかけたまま、廣瀬さんは動きを止めた。


「もうひとつ、嘘をつきました」


 笑っていない廣瀬さんは、怖いほどに真剣だった。


「さっき『冗談です』って引き下がったのも嘘です。積極的に返したいとは思ってません。だから……やっぱり、考え直しませんか?」


 それでも私が「帰る」と言えば、すぐにドアを開けてくれる人だ。私が意思表示しない限り、その気持ちを押し付けてはくれない人だ。


「だったらそのまま言ってくだされば」

「そのまま?」

「『帰らないで』って」


 廣瀬さんはドアノブから手を離して、私の手を取った。


「帰らないで」

「あと、私だって、好きな人に名前呼ばれたらドキドキします」

「優芽」


 何かがカチッとはまったように、私たちはどちらからともなくキスをした。大事な最初のキスのBGMが、リビングから漏れてくるマヌケなCMソングである間の悪さが、相変わらず廣瀬さんらしい。それがおかしくて、一度顔を見合わせてふたりで笑った。

 自分の目が恋で潤んでいくのがわかる。そして廣瀬さんもまた、同じ目をしている。

 大好き、大好き………

 頑なに出てこない声の代わりに、この気持ちが伝わればいい。もどかしさを埋めるように、キスはどんどん深まって、ただその口の中の熱さだけが感覚を支配していった。

 突如として唇を離した廣瀬さんは、真剣なまなざしで見下ろし、私を肩に担ぎ上げた。


「わ!」


 ブーツを少し苦労しながらもポイポイと投げ捨て、自身も室内に上がったところでちょっとだけよろめく。


「待って待って! 私じゃないの! コートが重いの!」


 こたつもテレビもつけっぱなしで移動した先は、リビングの隣にあったベッドルームで、まだ暖気してないそこはかなり寒かった。だけど廣瀬さんは迷いなく私のコートを脱がせる。


「本当に重いね、これ」


 急に寒くなったけれど、廣瀬さんの腕に抱かれると、まあいいや。だって廣瀬さんあったかいし、とその体温に安易に酔った。

 ところが、


「ええ! 嘘でしょ?」


 あっさり服を脱いだ廣瀬さんを見て、私のうっとりした気持ちは吹き飛んだ。

 肩の筋肉がもりっとしてる! 腹筋って本当に割れるの!? そもそもこれ、本物の人体!?

 私は生まれて初めて“アスリート”という言葉を肌で感じていた(比喩じゃなくて!)。


「……これ何?」


 胸の先端部には、両方とも絆創膏が貼られている。


「走ると擦れて血が出ちゃうんだ。だからいつもあらかじめ貼ってるんだけど、気になるなら取るよ」


 ペリペリ剥がして、床にポイッと捨てた。


「身体、触ってもいい?」

「いいよ」


 硬い……。人肌というやわらかな響きを叩き潰すほどに硬い……。背骨の線をなぞってみても、骨なのか肉なのか見分けがつかない。


「くすぐったい!」

「感覚あるんだ?」

「当たり前だよ」

「だって、硬くて触っても何も感じなそう。消しゴムみたいだもん」


 ペタペタと触ると、泣きそうに顔を歪められた。


「ちゃんと感じるから、困ってるんだけどな」

「骨まで筋肉? 筋肉まで骨? 指が入っていかない」

「大袈裟だな。引退してからかなり太ったし」


 誰か、この“太った”という単語を間違って覚えてる人に、正しい肥満を教えてあげてよ。


「これ以上痩せてたなんて、それただの栄養失調かスズメの焼き鳥だよ」


 一度食べたスズメの焼き鳥は、肉感がほとんどなくてバリバリしていた。私は断然普通の鶏の方が好きだ。


「体重は軽い方が明らかにタイムがいいんだよ。筋肉は落とさないように体重を減らすんだけど、俺は元々ガッチリした体型だから、そんなに細くはならなかった」


 話を聞いていて油断していた私のニットの裾から、そっと手が侵入してくる。


「待ってーーーっ!!」


 手を追い払い、ニットの中に脚まで入れて籠城する。


「無理無理無理無理! びっくりするくらい脂肪だから! 骨の髄まで脂肪だから! ウエストのサイドに厚い厚い物語が!」

「うん」

「廣瀬さんの10倍、いや100倍はあるから体脂肪率!」

「うん」

「クリスマスチキンを想像してみてよ。スーパーで売ってる安くて丸々としてて、なるべくぶにぶにしてるやつね。ほぼあれと同じ!」

「うん」

「三ヶ月、いや一ヶ月! それもダメならせめて一週間待ってーーーっ!」


 もはや借金取りに対する訴えと何ら変わらない叫びを、廣瀬さんは真剣に聞いてくれていた。……ように見えた。


「うん。じゃあ、手を上げて。はい、ばんざーい」


 違った! このタイミングで全部聞き流した!!


「いやああああ! しぼーーーーっ!!」



 消しゴムに押し潰されるというのは、まあ悪くない経験だった。

 嘘です。幸せ過ぎてちょっと涙ぐんじゃった。

 それも嘘です。かなり泣いてしまいました。

 廣瀬さんの指が私の髪の毛を通るごとに、なんだかよくわからなくなっちゃって。5km走ってもさほど乱れないその呼吸が、深く肩にかかった瞬間、うっかり体脂肪のことも忘れてしまった。力加減のわからない廣瀬さんに「苦しい」と言ったら、「ごめん」と解放してくれたけど、今度はさみしくなって、結局「苦しくていいから離れないで! でも死んじゃうギリギリ手前で止めて!」と泣きながら無理難題をぶつけて困らせた。ああ最悪……。抹殺したい人ランキング、第一位『西永優芽』。


「ふふ、気持ちいい」


 そんな彼は、ぷにぶにと私の二の腕に指を埋めて遊んでいる。


「絞め殺したい!」


 抹殺したい人ランキング、第一位『牧廣瀬』! 急上昇!!


「なんで。単純に女の人って、やわらかいものでしょ? 優芽は別に太ってないよ」


 布団をめくって再確認しようとするので、顔をバシバシ叩いて追い出した。


「いたたた!」

「変態! 変態! 予定になかったから下着も気に入ってないし、もう見ないで!」


 わかっていたならエッッロい下着のひとつでも買って、ウエストサイドから意識を逸らす作戦もできたのに、今の下着には機能性しかない。


「そういえば、何であんなにこじれたんだっけ? ちゃんと俺にくれれば、下柳さんに渡ることもなかったんだよね?」


 思いが通じた今でさえ、心が痛い出来事だった。嫉妬心はかんたんには消えない。


「……堀田さんからチョコレートもらってた。“AKIRA Enjoji”の」

「ああ、あれ?」

「私も同じチョコレートだったの。9900円もしたんだよ?」

「9900円!? そんなチョコレートあるんだ!」

「しかもすっごく並んだの! それなのに二番煎じじゃ渡せない」


 廣瀬さんはうつ伏せになって頬杖をついた。ちょっと面白くなさそうに。


「堀田さんはね、金平のファンなの。箱根で優勝したときアンカーだった」

「は?」

「だから、俺のこともよく知ってた。金平に襷渡したの俺だから。今でもたまに遊びに来るって言ったら、渡して欲しいって頼まれたんだ」

「じゃあ、あのチョコレートは?」

「昨日渡しちゃったよ。俺はチョコレートなんてひとつも食べてない」


 ばふっと倒れ込んだ枕からは、濃厚な廣瀬さんの匂いがした。やっぱりちょっと三十路感のある匂い。だけど、無理するわけでも何でもなくて、私は大好き、この匂い。


「……ひとつも食べてないの?」

「うん」

「義理も?」

「配車担当には女性いないから。……なんで笑うの。他人の不幸を」


 いいよ、いいよ、廣瀬さん。このまま生涯モテませんように!


「遅れちゃったけど、今度ちゃんと渡すね」

「お願いします」

「また“AKIRA Enjoji”に並ぶから」

「別に高いのじゃなくていいよ。俺、味とかわからないし。その代わり、」


 こめかみにさらりとやさしいキスが降りてきた。


「来年から毎年、ずーっとください」


 小首をかしげてチョコレートをねだるおじさんは、目眩がするほどかわいかった。







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