9区 (望んでないのに)第二の男

 ここ二年ほど、冬になるとめっきり少年漫画の主人公のような生活を送っているのだけど……回りくどいな。直接的に言うと、「裏地が取り外せるのでスリーシーズン着られます」っていうコート、あれ使いにくい! まず私のコートはボタン式だから、裏地の取り外しが面倒臭い。フードも取り外し可能なので、たくさんのボタンを留めたり外したりしなければならず、しかも付ける際には100%ボタンの掛け違いが生じる。今留めたばかりのボタンを外しながら、「確かに賽の河原は地獄だなあ」なんて、死後の世界に想いを馳せたりする。

 そんな苦労をしてもクリーニングに出すと「コートと裏地とフードの三点ですね」と料金は高いし、何よりとにかく重いのだ。世の中の裏地着脱式コートの重量をすべて把握しているわけではないけれど、私のコートはとにかく重い! 陽菜に「お姉ちゃん。これは何かの養成ギプス?」と言われたほどだ。少年漫画のヒーローみたいに、おもりを着たまま生活することによって、通常では得られない俊敏な動きを身に付ける修行をしているかのよう。

 ……あれ、何の話だっけ? えーっと、そうだ、つまり私は、ここ二年ほど養成ギプスのごとき重いコートを着て冬を過ごしているんだけど、今夜はそのコートの上にさらに重い気持ちが乗っかり、今や地面に靴底がめり込む勢いで店のドアをくぐった。ちゃんと留めたのに、ボタンとボタンの間から冷気が入り込んで、心身がともに冷えていく。

 下柳に呼びつけられたのは、このあたりではお馴染みのイタリアン“愛どりあー汝アドリアーナ”。職場から車で十五分ほどなのでランチには使えないけれど、お手頃価格なので利用しやすい店だ。全額こちらで払う覚悟なので、正直助かる。

 職場の駐車場で、


「乗って」


 と黒のセダン(多分セダン。そもそも“セダン”って何?)を示す下柳に、


「私は自分の車で行きます」


 と抵抗した。諦めの悪い下柳と、


「帰りは送るから」(いやー! 怖い!)

「明日も仕事なので車がないと困ります」

「だったら、食事のあと職場まで送ってくるよ」(車内でふたりきりは嫌なんだって!)

「家が“愛どりあー汝”のすぐそば(嘘)なので!」


 と、ひと揉めして、何とか私の主張を通した。

 板張りの床をミシミシさせてテーブルに着くと、すでにメニューを開いていた下柳は、「コースでいい?」と顔も上げずに尋ねてきた。


「はい。(もうどうでも)何でもいいです」


 養成ギプスをイスの背にかけながら、投げやりな気持ちで返事をした。コースはサラダ、ピッツァ、パスタ、デザート、ドリンクがついてふたりで3600円(税別)。昨日のチョコレートがいかに高かったのか思い知らされる。


「━━━━━『そのままでいいです』って廣瀬くんが言っちゃってさ、その尻拭い。本当にあの人甘いよね」


 廣瀬さんの名前に反応して意識をイタリアンサラダから下柳に戻したけど、何の話か全然聞いてなかった。とりあえず、当たり障りない返答をしておく。


「廣……げほっ! 牧さんはやさしいですから」

「甘いんだよ。乗務員のワガママにいちいち付き合ってたら仕事にならない。ちゃんと指示しないから、間違った荷物積むなんてミスが生じるんだ」

「なんとかなったんですか?」

「その後の行程、軒並み変更したからね。俺が!」

「そうですか。よかったです」


 楽しみが何もないので、とにかく食べることに集中する。マルゲリータ・ピッツァは大好きなもののひとつなのだ。それなのに、なんだか気が進まない。

 私は潔癖症とは程遠い人間で(お察しください)、むしろそれゆえに雑菌に強いのではないかと自負している。ちなみに学生時代はインフルエンザで三度学級閉鎖に遭ったけれど、私は発症したことがない。だから、大人数での取り分けも気にならないし、誰かが素手で唐揚げにレモンを絞っても平気だし、なんなら課長の箸がうっかり入った鍋でも「加熱してるから大丈夫」と食べられちゃうタイプだ(園花ちゃんは食べなかった)。

 それなのに、あらかじめ切られたピッツァですら、下柳とシェアすることに抵抗を感じている。まあ、抵抗を感じるだけでおいしく食べてはいるのだけど。でも、私自身説明できない気の重さを感じて、ふりかけるタバスコの量はいつもよりかなり多めになっていた。


「それで、今後のことなんだけど」

「今後?」

「とりあえず付き合うでしょ? 俺たち」

「………………………………………………………………………………………………は?」


 人間、あまりに驚くと語彙力が蒸発するらしい。いつもなら脊髄反射で出てくる罵詈雑言がすっかり鳴りをひそめている。


「みんなの前であんなチョコレート渡して、こうしてデートまでしてさ、付き合ってなかったらおかしいだろ」

「付き合うって、そういう理由で決めるものではないと思いますけど(あと、これ“デート”じゃないから!)」

「どうせ彼氏もいないんだろ」


 雲行きが……。桝井さんは「一回食事に付き合ったら許してくれる」と言っていたけど、さらに首が締まったらしい。


「付き合ってみて合わなかったら、別れればいいんだからさ」


 嫌だって! “合う”とか“合わない”の問題じゃないんだって! そもそもその、相性のアレやコレを確認するのさえ無理なんだって!


「あの、私他に好きな人がいますから」

「俺と付き合ったら俺を好きになるって」


 情熱の国の出身なのか何か知らないけど、下柳は理解できない異国の論理を振りかざしてくる。ノー! ノー! アイ キャント スピーク ユア ランゲージ!!


「そもそもちゃんと『配車担当のみなさんで』って言ったのに!」

「あのときのあんたはかわいかったなあ。俺、すっかり勘違いしちゃった。責任取れ」

「許してください! お願いします! 今ここで土下座しますから! 『あんながさつでかわいくない女なんて振ってやった』って社内中に広めてくれていいですから!」

「面倒臭いな。悪いようにはしないって」


 うおおおおお! と人ならぬ咆哮をあげかけたとき、コートのポケットでぶいーん、ぶいーん、と携帯のバイブが鳴った。通常ならデート(ではないけど!)中は出ないところだけど、こいつに払う礼儀などない!

 ぶいーん、ぶいーん、ぶいーん、ぶいーん━━━━━

 しつこいバイブ音の相手は、さすがというべきか“ミスター間が悪い”牧廣瀬さんだ。


「すみません。電話に出てきます!」


 返事も待たずに席を立つ。できることなら「失礼な女だ!」って振ってほしい!

 途中で通話ボタンを押して、そのまま店外に出る。


「もしもし!」

『……あ、もしもし、牧です。今大丈夫で━━━━━』

「廣瀬さあああああああん!!!」


 廣瀬さんがどうして電話してきたのか、今朝のことや、昨日のことをどう思っているのか、私はまったく考える余裕もなくすがって泣いた。支離滅裂ながらなんとか現状を説明する。


『……えーっと、つまり、西永さんのあのチョコレートは俺宛てだったということ?』

「そうです!」

『それが何らかの手違いで下柳さんに渡った?』

「そうなんです!」

『それで責任を問われて交際を迫られている、と』

「そうなんです~~っ!!」


 装備を置いて外に出たので、真冬の寒さにくしゃみが出た。あふれる涙と鼻水を拭いながら、ガックガックとうなずく。


「これからなんとしても逃れるつもりではありますが、会社で変な噂が流れても真実は違う━━━━━」

『今どこ!?』

「“愛どりあー汝”です」

『すぐ行きます』


 通話は切れていた。ディスプレイの19:38という時刻表示だけをしばらく眺めて、とりあえず寒いので店内に戻った。


「逃げたのかと思ったよ」


 苦々しげに下柳は言ったけど、苦々しさでは私が上だ。


「逃げられるようなことしてる自覚はあるんですね」


 届いていたたらこクリームスパゲティは少し時間が経っていたせいか、トングで取り分けようとしたら、半分くらいモサッと持ち上がった。


「先に食べててくださってよかったんですよ」

「一緒に食事してるんだから、そこは待つのが礼儀だと思う」

「モッサモサですけど」

「そんな理由で食べ物を粗末にするのは許せない」

「不本意ながら同感です」


 ふたりがかりでスパゲティを引き剥がし、なんとかそれぞれの皿に盛り付けた。


「ここ出たら、あんたの部屋行こう。近いんだろ?」

「私の家はここからだとかなり遠いです。三途の川の方が近いくらいです」

「納得してないみたいだから、場所変えて話し合った方がいい」

「場所の問題じゃないです。あと場所変えたくないです。絶対何かあるから怖い」

「さすがに犯罪に手を染めたりしない」

「いや、今でも結構ギリギリです。グレーゾーンまでならやるでしょ、あんた」

「なんでそこまで抵抗するかな? 俺、これでも結構あんたのこと気に入ってるんだけど?」

「私、わかりやすくあんたのこと嫌がってるんだけど見えませんかね!」

「うーん、俺には恋する乙女にしか見えないな」

「そのほっそーーーい目はただの隠し包丁? だったら秘伝の醤油でもぶち込んどけ!」

「口悪いな」

「嫌いになった? 嫌いだよね? お願い嫌って!」

「いや、猫かぶってるより今の方が面白い。“優芽ちゃん”でいい?」

「“西永さん”って呼んで。いや、私のこと二度と呼ぶなよ、下柳!」


 お互い合間にモサモサ言わせつつ、話し合い(?)は続けられた。取り分けに対する抵抗も、怒りで高温殺菌されたのか、気にならなくなっていた。なにより、廣瀬さんが「行きます」って言ってくれたから、なんだか気持ちが強くなったのだ。

 だけど、あとどのくらいで着くのだろう? もっとゆっくり食べた方がいいのかな? デザートまであるけど、間に合うかな? ちらちら時計を見ながら、たらこクリームスパゲティを頬張っていたら、


「はあ~、お疲れ様です」


 肩で息をする廣瀬さんがそこに立っていた。予想より早い到着に時計を見ると19:55を示している。


 ……え、まさか……?


 この展開を知らなかった下柳はもちろん、知っていた私でさえも、ポカンと彼を見上げた。見つめられた彼は、戸惑ったように視線をさ迷わせる。

 ……来たはいいものの、ノープランだな、この人!

 他人様のデート(いや、これは違うけど!)に乱入したくせに、廣瀬さんは特に何をするでもなく、ふらっと下柳の隣の席に座った。すかさず店員さんが運んできたお水を、半分ほど飲んで息をつく。


「お腹すきましたね」


 下柳が凝視しているにも関わらず、廣瀬さんはメニューをじっくり吟味し始めた。


「パスタなんて久しぶりです。何がオススメですか? あ、辛いのもおしいそうですね。このスープスパゲティもいいなあ。せっかくだから食べたことないのにしよう。あ、スパゲティって言えば、学生時代はトレーニングに白のTシャツ着てたんですけど、よくトマトソースつけちゃったんです。だから染み抜きの技術は上達したんですよね。最後は紫外線に当てると消えるって知ってました? カレーもスイカも同じ方法で色素抜けるんですよ。食器洗い用洗剤を染み込ませて、普通に洗濯機で洗ってから。これ教えたら、みんなから感謝されて、寮内では定番に……すみませーん。きのこのバターしょうゆスパゲティ、ひとつお願いします」


 と怒涛の勢いで話しながら注文までしてのけた。廣瀬さんの意図はわからないけれど、何か言わなければと思い、とりあえず口の中のたらこクリームスパゲティを飲み込んだ。


「バターしょうゆ、好きなんですか?」


 絶望的にどうでもいい質問が口から出た。


「いや、そういうわけではないんですけど、ちょっと珍しかったので」

「こっちのたらこクリームスパゲティもおいしいですよ。モサモサしてるけど」

「あ、じゃあ少しいただきます」


 まったくスマートでも自然でもない廣瀬さんの登場に、なんとなく追及するタイミングを逃した下柳は、呆然としたままマルゲリータ・ピッツァを詰め込んでいた。そんな下柳に相づちすら打たせず、廣瀬さんはひたすら話し続ける。


「この前の大分・別府マラソンに出てた関東フーズの吉田くん。ものすごく蝶々が好きで、実業団時代合宿で一緒になったとき、練習の最中に気になる蝶々を追いかけて、山で遭難しかけるっているトラブルがあったんですよ。合宿メンバー全員も山に入って━━━━━」


 どうやら下柳に主導権を与えず、居座り続ける作戦らしい。


「乗務員の種村さんって、昔その筋ではバイクの塗装技術で鳴らした人らしいんですけど、この前トラックのウィングサイドパネルにドラゴンの羽をつけたいって持ってきたんです。車検通らないし当然諦めてもらったんですけど、その細工が見れば見るほど本当に見事で塗料には何かキラキラ光る粉みたいなものが混ぜてあって……あ、お水ください。すみません、ありがとうございます。あ、それで、そのキラキラ光る粉が、実はお母さんの形見の━━━━━」


 よくもまあ思い付くなっていうくらい、どうでもいいマシンガントークを、私と下柳は聞かされ続ける。この間、器用にも廣瀬さんはきのこのバターしょうゆスパゲティも食べているのだ。絶対噛んでない。消化に悪そう。


「去年大学時代の友人が結婚して、新婚旅行に行ったんです。それがよりにもよって座敷わらしの出る旅館だったらしくて、夜中に━━━━━」

「俺、帰ろうかな」


 マルゲリータ・ピッツァを食べ終えた下柳は、頭痛がする、とでも言いたげにこめかみを押さえて席を立った。


「あ、今日お世話になったお礼に、ここは俺がご馳走します」


 廣瀬さんの満面の笑みに気圧されたように小さくうなずいて、「お疲れ様」と下柳は帰っていった。


「お疲れ様でーす」


 その背中を押すように声をかける。


「はあああああ。よかった……」


 下柳の背中がドアの向こうに消えるのを見届けて、廣瀬さんはドサッとイスにもたれた。


「ありがとうございます。助かりました」


 深く頭を下げると、


「間に合ってよかったです」


 と五日目のお月様みたいな目でふわわんと笑った。


「まさかと思いますが、走ってきました?」

「はい」


 当然、という顔でうなずかれた。


「近くにいたんですか?」

「いえ、職場から来ました」


 廣瀬さんは腕時計に視線を落とす。


「荷物持ってコート着てるにしては、かなりいいタイム出ましたね」

「“タイム”って……」

「現役時代ならもう少し早く着けたんですけど、すみません」

「いやいやいやいや! 職場からここまで何kmあると思ってるんですか?」

「せいぜい5kmでしょう? 俺たちの世界で5kmなんて全力疾走です」

「タクシー!」

「このくらいの距離なら走った方が早い」


 タクシーがすぐ来たとしても五分はかかる。そこからさらに十五分。廣瀬さんなら走っても二十分かからない。


「……自転車と同じ速さで何十kmも走れるんですもんね」

「何十kmなんて、そんなそんな。タイムを気にしなければ20kmくらいは楽しく走れますけど、さすがに30km越えると苦しいです」

「私なんて、最近では200mも走ってないですよ」

「そうでしょうね。ふくらはぎを見れば一目瞭然……」


 と、テーブルの下を覗き込むので、


「やめてーーー!!」


 とテーブルをバンバン叩いた。


「あの、どうかなさいましたか?」


 タイミングを待っていたらしい店員さんが、デザートを持ったまま不安げに立っていたので、慌てて姿勢を正す。


「いえ、なんでもありません」

「それでは、チーズスフレのお客様」

「あ」


 “チーズスフレのお客様”は頭痛を訴えてお帰りになられた。それを察した廣瀬さんは、


「あ、はい」


 と軽く手を上げる。そして私の前には木イチゴのムースが置かれた。


「こっち食べます?」

「いえ、チーズスフレも好きなのでいただきます」


 付き合わせたのが申し訳なくて、削り取るようにムースを口に運ぶ。


「本当は、ちょっぴり期待してたんです。西永さんのチョコレート」


 廣瀬さんはもふもふとチーズスフレを食べていた。


「それなのにもらったのは下柳さんだった。しかもものすごく立派な、義理なんかじゃなさそうなやつ。下柳さんに『食べていいよ』って言われたけど、食べる気持ちになれませんでした」

「……すみません」

「残念です」

「本当にすみません!」

「本当に残念です」

「どうしたらいいんでしょうか?」


 訴えるように見つめていると、「そうですねえ」といつもののんびりした声で、


「じゃあ、チョコレートの代わりに、それください」


 と、私の木イチゴのムースを指差した。


「これ?」

「はい」

「食べかけですよ?」

「だからですよ」

「変態!」

「はいはい」


 にっこにこに笑うその笑顔を、初めてちょっと怪しいと思った。ズズ……ズズ……とお皿を前に押し出したら、「いただきます」とフォークでひと口食べた。


「ふふふ、おいしいです」


 だから、おじさん! かわいい仕草やめてって!

 自分で言い出したくせに、顔をちょっと赤らめてムースを食べる廣瀬さんを、行儀悪くも頬杖をついて眺めた。


「廣瀬さんって、なんだかよくわからない人ですね」

「そうですか?」

「はい。そういうの全部、嫌いじゃないです」


 努めてつまらなそうに言ったのに、廣瀬さんはふわふわ笑った。


「あはは、よかったです」


 交換したチーズスフレは、味なんて“なんだかよくわからな”かった。









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