第9話 畳の上の心理戦(弐)~見抜けねば死ぬ嘘~
いつの頃だったでしょうか。
お万様が、私にこう仰ったことがあります。
「玉、私は常に嘘をつく。嘘つきだ」
そしてこうも仰いました。
「いいか、玉。私がする会話を、注意深く聞いておくんだよ。そして考えるんだ。私がどんな嘘をついているか。どうしてその嘘をついたか。もし見抜けたなら、私も安心できる。だがお前が仮に見抜けなかったら、その時はどうなるかわかるね?」
お万様は遠くを見つめながら、最後にこう、仰いました。
「私にお前が騙されるなら、まだいい。でもお前が他人に騙されたなら……その時がお前の死ぬ時だ」
私は、お万様が仰ったことを忠実に実行いたしました。常に考え、常にお万様の動向に目を凝らしました。私が上手く嘘を見破った時、お万様はその種明かしをしてくださいました。でも、してくださらない時もありました。
今思えば、私が気付けなかった嘘は、沢山あったのでしょう。もしかしたら、私自身も、お万様に騙され続けていたのかもしれません。
でも、お父様。
もうその真相は、私にはわかりません。
***
二人の女は睨みあったまま、口元にだけ優雅な笑みを浮かべ合っていた。
「ほぉ、初島が私のことを。さぞや仲良くなられたのでしょうね」
春日局は笑ったまま、初島に目をやった。初島は蛇に睨まれた蛙のようにギャッと縮こまり、そして弱々しい声で弁明した。
「め、滅相もございません……」
「何を言いはるのや、初島さん。大奥のことや、春日局さんのことを、親身によう話してくださいましたやないですか。私、世間知らずで悩んでたんですけど、初島さんのおかげで少し、胸のつかえが取れましたわぁ」
花園は初島に深々と礼をしながら、親愛を込めた口調でそう言った。裏腹に、初島の顔はドンドン青黒くなっていく。
「初島さんのような方がいはるんなら、大奥はきっと住み良いところなんどすなぁ。世間では、大奥は鬼か蛇が棲む恐ろしいところやと噂されていましたから、怖くて仕方がなかったんですぇ。せやけどもう安心です。春日局さん、どうぞ今後ともよろしゅう」
美しく花園が微笑むと、春日局はサッと裾を捌いて、無言のまま用意されていた自分の座に座った。怯える初島には一瞥もせず、堂々と花園と向き合っている。そして、重い口を開いた。
「ご安心ください、院主様。巷ではどういった噂が流れているか存じませんが、とかく女ばかりの場所は、そのような噂が立ちやすいのでございます。それにしても……」
春日局はサッと口を袖で隠すと、ボソッと呟いた。
「妙な京ことばですこと」
花園の微笑みに、一瞬亀裂が走る。それに気付いているのか、気付いていないのか。春日局は急に高圧的な態度で宣言した。
「貴女が今から参られるのは、天下人が
「お国ことばて……。たとえ徳川の天下でも、この国の都はまだ京都あらしゃいます!」
余りの言われように、玉はつい口を挟んでしまった。春日局は、キッと玉を睨み返す。有無を言わせない、威厳に満ちた視線だ。玉は思わず怯んでしまった。
「躾がなってない侍女ですこと。いいですか院主様。何を勘違いなさっているか知りませんが、貴女は江戸観光のために、ここに残っているのではありません。ゆくゆくは上様のお手付きになるつもりで、ここに来られたのでしょう!」
「お手付き……」
「そのようにいつまでも尼さん気分では、何をしに大奥に行くかわかりませんねぇ」
春日局は、反論できずに呟くだけの花園を、そう嘲った。
「この御用屋敷ですべきことは、沢山ございます。まず
ここまで言いきると、春日局は元の微笑みを取り戻した。
「ではこれから存分に励まれませ。慶光院と、御実家の六条小路家の名を汚すことが無いように。ああそれから、この初島は大奥での仕事が残っておりますから、御世話係の侍女から外させていただきます。では、御機嫌よう」
呆然とする初島を従えて、春日局は退出の礼も適当に、サッサと出て行ってしまった。取り残された花園と玉は、春日局の一行が屋敷を出ていく音が消えるまで、随分長い間無言で座り続けていた。
やっと、屋敷が静けさを取り戻した頃、花園が口を開いた。
「……やられた」
「えっ」
玉は、花園のその発言が信じられなかった。今までどんな目に遭っても、強気に賢く、逆境を楽しみながら渡り合ってきた人だったからだ。
「院主様、何をおっしゃいますか。たったあれだけの会話に、勝つも負けるも、ありませぬ」
「玉、少しは頭を使え」
花園は諦観したような口ぶりで、玉を叱った。
「……私は最初の殴り合いに、負けたんだよ」
玉は、こう言う花園を、ただ黙って見つめるしかなかった。
語句
上様(うえさま):将軍を指す呼び名。
お手付き:主人(ここでは将軍)が、召し使う女性と性的な関係になること。
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