第十三話 人質

 ◇


 夜空には二つの月が浮かんでいる。いつもの月と、紅い月──

 その光がほんの少し照らす山の中、揺めきながら燃える太い枝を持って歩くのは若様で、わたしはその背を追って武家屋敷へと帰っていた。


 焼き魚を食べ終わった後、なぜか鬼さんは忽然と姿を消してしまったため、若様に連れられて帰ることになってしまったのだ。

 こんなはずじゃなかった。もうあの屋敷には戻りたくないのに……。


 わたしは溜息を零しそうになるのを我慢しながら歩いていると、ふと若様は立ち止まった。

「十年」

 若様がおもむろに振り返って、わたしを見る。


「俺が他国へ人質に出されてから十年だ。十年、故郷ここを離れていた」


 若様が十年前、他国へ人質として差し出されていたことは 下人のわたしでも知っている。

 ちょうど、その国と戦をしていた時期だったらしい。

 しかし、こちらが不利だとみた 領主様は休戦させるために、実の息子である若様を人質として差し出した。

 肉親を人質に取ることで事が有利に働くとその国は考えたらしく、戦は止まったと聞いているけど……。


 今から一年前、また激しい戦が起こった。

 今度の戦はこちらが勝利を収め、負けたその国は滅亡し、若様が大丸を連れて帰ってきた。

 たしか 若様が帰ってきてからも戦は何度かあったけれど あの戦が終わってから半年ほどしか経っていないはずだと思う。


「お前、十年前のことは覚えているか」

「え……、いいえ」

「全く、か」

「はい」

「本当に全く覚えていないんだな」

「は、はい…… 」

 なぜ、そんなことを唐突に聞いてくるのだろう……。


 わたしを見据える若様の表情は殺気立っているものとは違うが 真剣で、なんだか怖い。


「お前、名はなんと言うんだ」

「わたしの、名前ですか。なぜ そのようなことをお聞きに…… 」

「いいから 教えろ」

 本当に、若様は変な人だ。下人の名前なんかを知りたいだなんて──

「わたしに名はありません。正しく言えば、忘れました」

「……冗談だろう」若様は目を瞬かせる。

「わたし、長い間 名前を呼ばれたことがなくて、あったような気はするのですが、忘れてしまったんです」


「そう、か」

 ぽつりと呟くと、若様は前へ向き直って歩き出した。

 なぜだろう。さっきまでの凛としていたはずの若様の背が、今はどこか小さく見えるのは。


 ◇


 武家屋敷内に帰ってきたら、なおさら足が重くなったように感じる。

 武家の跡取りと屋敷を飛び出した下人が同時に帰ってくるのはおかしいだろうと思うけど、わたしを門番が冷ややかな目で見てきたのは怖かった。


「おい、そっちは馬屋だぞ」

 わたしが向かおうとしている場所に気づいたのか、若様はいつもの荒っぽい口調で言う。

「あ、馬屋がわたしの寝床なんです」

「……は」

「わたし、下人仲間達に嫌われているので一緒の屋根の下では寝られません。一人で寝られるところといったら馬屋くらいなので、そこで寝ているんです。若様、ゆっくりお休みになってください」

 そそくさと寝床へ向かおうとすると、裾を引っ張られる感覚がした。振り向くと若様がわたしの裾を掴んでいる。

「ああ あのっ この着物汚いので 若様の手が汚れてしまいますからっ 離したほうが…… 」


「お前、本当に十年前のことも 自分の名すらも忘れてしまったのか」


 眉間に皺を寄せて若様が問う。

 しかし、いつもあるはずの覇気は全くなくて……悲しげな顔だった。

 今まで一度も見たことがない若様の、いや の顔。


「若」

 暗がりの中、若様の後ろから現れた男は領主様の家臣の一人だ。

 若様は はっと我に帰ったのか、わたしの裾を掴む手が緩んだので その隙にわたしは若様から一歩退く。

「し、失礼しますっ」

 頭を下げてから 小走りにその場を離れた。


 屋敷内が妙な空気に包まれていることに気づかないまま、わたしは馬屋に向かった。



 ◇


 若様は下人の背を見送った後、ぎろりと家臣を睨んだ。

「何の用だ」

「領主様がお呼びでございます。こちらへ」

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