鏡に金槌

新芽夏夜

鏡に金槌


 どうして。

 頭の中で何度も繰り返す。

 どうして。どうして。

 いつ間違えたのだろう。どこで間違えたのだろう。

 何を、間違えてしまったのだろう。

 冬の雨は体を芯から凍らせる。カチカチ歯が鳴る。震えが止まらない。

 日付が変わって十二月二十五日。世間は聖夜。クリスマス。

 冬空の下、私は一人ぼっちだった。



 豊依トヨリ清花キヨカの朝は熱いシャワーを浴びることから始まる。持病により寝起き直後は体温が低いため、平熱まで体温を上げなければその日の活動を始めることが出来ないのだ。

 シャワーを終えると、湯冷めしないようすぐ髪を乾かす。浴室を出る頃にはタイマーをセットしておいたエアコンが部屋を十分温めてくれていた。

 台所でエプロンを身に着け、朝食の支度に取り掛かる。平日はパンのことが多い。六枚切りの食パンを二枚トースターに入れておき、スイッチを入れずに放置する。フライパンでバターを熱し、冷蔵庫から卵を三個取り出して割り入れる。菜箸でかき混ぜてスクランブルエッグ状にし、半分ほど火が通ったらフライパンに蓋をし、コンロの火を止めた。余熱が通るのを待つ間、レタスとミニトマトを水で軽く洗い、皿に盛り付けるだけの簡単なサラダを用意する。次に半分残っていたヨーグルトをガラスの器に移し替え、ブルーベリージャムを垂らす。スクランブルエッグにほぼ火が通ったのを確認すると、サラダを半分盛り付けた皿に乗せ、ヨーグルトと共にテーブルに並べるが、まだパンはトースターの中で冷たいままだ。

 テーブルの上に置かれたデジタル時計は同居人の起床時間がいつもより五分遅いことを清花に教えた。朝の支度を分刻みで行う同居人は、十分寝過ごすだけで支度が間に合わなくなるギリギリのタイムスケジュールで毎朝を過ごしている。その人の為を思うならそろそろ起こしてあげるのが優しさかも知れないが、二人の約束事の一つ「互いの私室には無断で入らない」が清花を躊躇わせていた。だがこのまま知らんふりをして遅刻してしまう有様を黙ってみているわけにもいかない。あと五分経っても起きてこなかったら様子を見に行こう。ドアをノックするくらいなら約束を違えたことにはなるまい。そう判断すると電気ケトルでお湯を沸かしながら、二人分のコーヒーを淹れる用意をした。

 テレビの電源を入れるとキャスターがクリスマスイルミネーションのレポートをしていた。ちょうど昨日、月めくりのカレンダーが最後の一枚になったところだ。もう年の瀬だという事実にこそ思いを馳せるが、それ以上の感慨は浮かんでこない。年賀状を出す相手もなければ実家に帰省する予定もなく、正月飾りを用意するほど季節の行事に対する関心も薄いとなると、年越しだからといって特別することなど何もない。当然キリストの生誕祭もその前夜祭も無宗教ゆえ平常通りだ。だが同居人はどうするのだろう。自分と違い社交的で実家との関係も良好なあの子ならもう既に年末の予定が埋まっているかも知れない。また忘れないうちに確認しておかなくては、と思考を巡らせていると不意に物音が響いた。

 ガチャリ、パタパタ、バタンッ。ガタッ、ガタッ、ギィッ、バンッ。

 慌ただしい音が続いたかと思うと、また唐突に音が鳴り止んだ。だがよく耳をすませばかすかにバシャバシャと水音が聞こえる。

 ようやく起き出してきたようだ。彼女の朝もシャワーから始まるが、単に眠気を覚ますためなので五分もかからず浴室から出てきた。そこでようやくトースターのスイッチを入れた。

 結局いつもより八分遅れで手早く身支度を整えた同居人――妹の咲耶がリビングに姿を現した。すでにメイクもヘアセットも完了している。メイクした妹の顔を見る度にいつも、普通の双子だったら自分もこんな顔になれたはずなのにと清花は思わずにはいられなかった。

「おはよう」

 返事はない。だが清花は特に気分を害した様子もなく、焼き上がったトーストにバターを塗り、テーブルに並べる。咲耶も黙ったまま椅子に座った。

「じゃあいただきましょうか」

「いただきます」

 食前はきちんと手を合わせてからトーストに手を伸ばした。

「今日は大学何時まで?」

「講義は昼に終わるけど、ゼミの調べ物があるから残るつもり」

「帰りは何時頃になりそう?」

「七時くらい。何も無ければ」

「それなら帰りに買い物お願いしてもいい? 買う物はまたメールしておくから」

「別に、いいけど」

 「特別に用事が無い限り朝食と夕食は一緒に食べる」これも姉妹の約束事の一つだ。食事中の会話は大抵、帰る時間やその日の夕食が必要かどうかなど事務的な連絡事項ばかり。それ以外の雑談などを交わすことは殆どない。挨拶さえも。「必要最低限しか言葉を交わさない」という約束事はないが、実際はそうなっている。むしろ予定の確認が出来るようになっただけでも進歩した方だった。実家で暮らしていた時は、言葉を交わすどころか顔を合わせることも稀だったのだから。

 咲耶が姉の住むアパートに居候を始めたのは春の連休中のことだった。大学四年生になり、就活や卒業論文の作成で実家から大学に通うことが大変だという理由で断る間もなくあれよあれよという間に手続きを進められ、気付けば引っ越しの荷物が部屋に置いていかれてしまっていた。ここまでに一部例を挙げた約束事は、その日の晩に話し合いの上取り決められた。

 半年以上経ってもまだ、清花はなぜ妹が自分との同居を決めたのか理解できずにいた。私はこの子から嫌われていたはずなのに。疎まれ、蔑まれ。だから高校を卒業してすぐ逃げるように実家を出てきたはずなのに。どうして今になって……

 朝食を済ませ、洗い物をしている間に咲耶は身支度を整えると早々に出て行った。彼女の通う大学までは私鉄とバスを乗り継がなければならない。県外の実家から長時間ラッシュ帯の電車に揺られることを考えれば時間的にも疲労的にも楽かもしれないが、それでもわざわざ実家を出るくらいならもっと大学近くにアパートを借りた方が良かったはずだ。同居の話が出た時にそう言って遠回しに断ろうとしたのだが、一年だけアパートを借りるのは経済的に難しいこと、さらに一人暮らしより姉妹一緒に住んでくれた方が金銭面だけでなく防犯面でも安心だと両親に説得され、折れざるを得なかった。自分が家を出る時はそんな心配してくれなかったくせに――喉元までせり上がってきた言葉は気付かれないよう飲み下して。

 片付けを終えると清花も部屋着から着替え、身支度をする。といっても化粧はいつもしておらず、家を出る前に顔半分を覆うほどのマスクと伊達眼鏡、ニット帽で肌の露出を出来るだけ少なくしているだけなのだが。

 清花の職場はアパートから歩いて五分の距離にあるカフェ「ミティリニ」である。元々住居であったのを改装した作りであるため住宅街に溶け込んでおり、通りがかっただけでカフェだと気付く者は少ない。隠れ家的、といえば聞こえはいいが、要は元々この物件の所有者でもあるオーナーが趣味で始めた店のため、集客には力を入れておらずその結果、来る客といえば近隣の住民など常連に限られてしまっているだけなのだ。だが清花にはそれが寧ろありがたかった。アパート「レスボス荘」があるこの土地の常連客ばかりが集う店だからこそ、清花がこの店で働くことが出来ていた。

 十時の開店までに店内と入口周辺の掃除から始める。特に南に面した窓は汚れが目立たないよう三日に一度、雨が降ったらその都度拭くようにしている。その窓際の席は店でも特に日当たりが良く、一番のお気に入りでもあった。客のいない時はよくその席に腰掛けて過ごしている。

 掃除を終えると次は仕込みに移る。基本的に清花一人で切り盛りしているため、メニューの種類は少ない。定番メニューの日替わりサンドイッチセットはその日の食材の余り具合によって具材が決まる。ブレンドコーヒーは時々オーナーが気まぐれに発注した豆を使うため、日によって味に差があることは常連の間でもお馴染みになっている。なるべく一定以上の味を保てるよう努力しているつもりだが、まだまだ技量が追い付いていないのが現実である。

 一通りの仕込みを終えるとドアプレートの「Open」の面を表に向け、いよいよその日の営業が始まる。とはいえ平日の午前から人が来ることは殆ど無く、その日の一杯目のコーヒーを自分用に淹れ、新聞を読むか経理の勉強をしながら過ごす。店の経営面についてはオーナーが一切を取りまとめているが、自分も出来ることが増えればという思いから通信教育で勉強するようにしている。

 昼時になり、その日最初の客が店のドアをくぐった。近所に住むご老人たちで、毎日のように店で昼食を食べ、新聞を読んだりお喋りをして午後のひとときを過ごしていく。ランチタイムが落ち着いた頃に今度はその日の家事を一段落終えた主婦グループが来店した。子どもが下校するまでの間、ママ友同士で話をする場所の一つとして店を利用してくれている。どちらも注文時や会計などこちらに用が無い限り声をかけてくることはないので、接客の苦手な店主はカウンター内で静かに過ごすことが出来た。

 夕方になると長居していた客もいなくなり、また店には清花一人になった。営業時間は一応十九時までということになっているが、日が暮れて客もいなければ光熱費の節約のために早く店を閉めてしまうこともある。そんな日は夕飯の献立を考えながらスーパーに寄り、妹が帰るまでに支度を済ませる。それが豊依清花の日常だった。

 だが最近、その日常に小さな変化が起きていた。日が沈み店内から客の姿が無くなってもなお、ドアには「Open」のプレートが提げられたまま黄白色のランプに照らされていた。もう何周目か分からないBGMを聞きながら、一曲終わるごとに時計の針を見遣る。残っていた洗い物も全て終え、テーブルの上も片付け、着々と閉店準備を進めながらも、カウンターの一角、入り口に一番近い席だけはそのまま残されていた。

 壁時計の長針と短針が一本になった時、ドアに付けられたベルが鳴り、一日の最後の客の訪れを知らせた。

「こんばんは。いよいよ寒くなってきたね」

「いらっしゃいませ。もう十二月ですからね」

 スーツ姿の女は迷う素振りもなく真っ直ぐに片付けから取り残されていたカウンター席に腰を下ろした。

「今日はコーヒーだけでよろしいですか?」

「うん、お願いします」

 清花の応対もスムーズだった。おしぼりとお冷の入ったグラスを手渡し、注文を確認しただけだが、それだけでも昼間の客に対する時のような緊張は無かった。常連客の中でも通うようになって一番日が浅いにもかかわらず、最も店主と打ち解けられている部類に含まれた。



 天野テンノ照実がミティリニに初めて来たのは猛暑日が連続十日目を数えた日のことだった。夕方になってもアスファルトから吐き出される熱でうだるような暑さの中、今日のように常連客が帰った後に照実は現れた。

「あ……えっと、いらっしゃい、ませ?」

 思わず疑問調になってしまったのは、本当にお客なのか一瞬判断に迷ったせいだった。額に大きな汗の玉をいくつも浮かべた仕事帰りの会社員がこの店に来ることは非常に珍しい事だった。ふらふらとカウンター席に座ったその人の前にお冷を置くと、一息で飲み干されてしまった。すぐにお代わりを注ぎ、少し迷っていつでも自分で入れられるようにピッチャーをカウンターに置いた。ミティリニで出しているお冷はピッチャーにレモンの輪切りを入れているため、ほのかな酸味が特徴だ。

「ご注文……あ、お決まりになったら、あの、仰ってください」

 しどろもどろになりながらやっとの思いでそれだけ言ってカウンターの奥に引っ込んでしまった。平日の、それも閉店間際に初来店の客という想定外の事態に最低限の接客だけで清花の頭は精一杯になっていた。ようやく人心地付いた照実に注文されたアイスコーヒーを出すだけで一仕事終えた気分だった。

 ミルクと砂糖を入れず、ストローで氷をくるりとかき混ぜてから一口飲んだ照実の口からほうと息が漏れた。

「美味しい」

「あ、ありがとうございます……」

 反射的に返事をすると、初めて目が合った。軽い笑みを向けられ、慌てて顔を横に逸らした。それが迂闊だった。

「あれ? それ、ひょっとして鱗、ですか?」

 清花は店に出るとき必ずマスクをしている。いつもは顔半分が隠れるくらい大きなものを付けているのだが、店内は冷房が効いているとはいえ連日の猛暑の中マスクをしていると口元の不快感がどうしても気になり、その日は小さめの通気性の良いものに変えていた。そのせいでいつもは隠れている部分が露わになっており、横を向くとそこが見えてしまった。


 右頬の、鱗が。


「ひっ! な、何のことでしょう……?」

 咄嗟に手で顔を隠して誤魔化そうとするが、動揺は隠しきれていなかった。何か言い繕おうにも常連客相手でさえうまく会話できないのに初対面の人に対して舌が回るはずもなく、何度か口を開きはしたものの言葉を発するのに失敗し、すぐに押し黙ってしまった。

「やっぱりそれ、鱗ですよね? カサブタじゃなくて」

 先ほどより幾分か確信を増した言葉に清花は諦念を覚えていた。これ以上、隠し通せる話術なんて自分にはない。ならいっそ正直に全て説明したら、この人も納得してお帰りいただけるだろう。どうせたまたま店に寄っただけだろうし、もう二度と会うこともないのだからこの場さえ乗り切ってしまえば後は帰って忘れてしまえばいいだけだ。

「……他の人には、言いふらさないでください。お客様は、人外グレーゴル病をご存知ですか?」

 人外病とは文字通り、人間以外のモノ(動物、植物、無機物、果ては想像上の生物まで)に身体が変質する現代の奇病である。血縁者に同様の症状が現れる確率が高まることから、遺伝子に何らかの原因があると考えられているが未だ特定はされていない。症状も個人差が大きいため、効果的な治療法は確立されておらず近年になって個々の症状を抑制したり進行を遅らせる薬の開発が進められているのが現状である。

「私の場合、爬虫類型のステージⅡに分類されるそうです」

 症状の進行具合により人外病はステージⅠからⅣに分けられる。ステージⅡは身体の変質が目に見える形で現れるようになり、爬虫類型の場合は鱗の発生や体温の変温性への変化が主である。頬以外は服で隠れているため見た目では分からないが、清花の身体には首元や背中、腹部、太腿など至る所に鱗が出来ている。

 なお、清花の病気について常連客が気味悪がらず受け入れることができているのは、彼女の住むアパート「レスボス荘」には他にも人外病患者が入居しており、その中にはキョンシー型人外病の影響で肌が腐敗し変色した者も暮らしているため、免疫が備わっているためでもある。それまで人目を避けて生きてきた清花にとってそれは衝撃であり、また新たな生活を始める上で大きな安心材料でもあった。

「病気だったんですね。すみません、てっきりタトゥーか何かだと思ったもので、不躾な質問をしてしまって……申し訳ありませんでした」

 そう頭を下げる照実に対し、清花は少しだけ警戒心を緩めてもいい気がしていた。大抵の人は自分の鱗を見ると、たとえ同じように病気のことを説明したとしてもすぐには理解しようとはせず、気味悪がった。この人のように誠実に謝罪してくれる人は今までいなかった。それは清花にとって新鮮な反応だった。

「あの、分かっていただけたら、それで十分ですので、気にしないでください……」

「あ、はい。すみませんでした。人外病のことは耳にしたことはありましたが、実際にこうしてお会いするのは初めてです」

「それは、もしかしたら気付いていないだけで、本当は会っているかも知れません、よ?」

 人外病の症状は様々な形で現れる。爬虫類型の変温やサキュバス型の催淫など、体質として表れるものもあれば人狼型の変身や吸血鬼型の吸血欲のようにある特定の条件下においてのみ発生するものもある。そのため、見た目は常人と変わらない罹患者も少なくない。

「そうなんですね。勉強になりました。それにしても、本物の鱗が出来るなんて……かわいい」

「は、い?」

 聞き間違いかと思ったが、どうやらそうではなかったようで。つい口が滑ってしまったと口元を手で押さえていた。

「あの! その、変な意味じゃなくてですね!? 実は私、家でイグアナを飼っていまして、というか爬虫類全般が大好きなんです! ボーっとしているのか何を考えているのか分からないあの無表情とか、鱗の感触とかがもう特に好きで好きで! だから最初、店員さんの鱗がちらっと見えた時も可愛いなーと思って、それで思わず声をかけたんです」

「へ、変に思わないんですか? 気持ち悪いとか……」

「はい? どうして? あっ、そうですよね。病気なんだから、店員さんにとっては好きでそうしている訳じゃないですもんね。ごめんなさい! 私、また失礼な事を言ってしまって……昔からよく言われるんですよね、私。自分の好みや価値観が他の人と同じだとは限らないんだから、好きなものの話をしても逆にそれを不愉快に思う人もいるかもしれないから気を付けなさいって。女で爬虫類が好きって、どうも世間的には少数派みたいでよく引かれてしまうんですよね」

「いえ、その……本当にお好きなんですね」

「はい。だから、その、こんな事を言うとまた失礼かもしれないんですけど、店員さんが気持ち悪いなんてこと、全然ないですから! 世の中ファッションで鼻とか唇にピアス付けている人もいますし、ホクロとかニキビとかシミとかそばかすとか、顔に何もない人の方が寧ろ少数ですし。あばたもえくぼとも言いますし、誰だって自分の顔に大なり小なりコンプレックスを持っているものじゃないですか。だから、私は好きですよ! 店員さんの顔」

 人が千人いれば千通りの顔がある。鱗があってもその中の一通りに過ぎないのだから、気にする必要なんてない。かつてそう言われたことがあった。その言葉は清花の孤独を軽くし、再び外に出られるよう背中を押してくれたが、それでもなお「普通」とは違う自分の顔を見る度に憂鬱な思いが重くのしかかり、人前に出ることを躊躇わせた。一生、この顔を受け入れることはできないだろうと。

「ふふっ、ふふふ……」

「あっ、やっぱり私、何か変な事を言ってしまいましたよね」

「いえ、ありがとう、ございます。この顔を見て慰められたり励まされることはありましたけど、『好き』だなんて言ってもらえたのは、初めてだったものですから」

「あはは。私、好きなものにはすぐ好きって言っちゃうのが癖で。子どもっぽいですよね」

「そんな事ないです。すごく、嬉しかったです」



 それ以来、照実の仕事が早く終わるとその帰りに店に寄るようになった。コーヒー一杯を飲む間だけの滞在だったが、いつでも清花は歓迎した。話題になるのはその日の昼間に店に来た客の事や照実が飼っているイグアナのダイアナの話、仕事の愚痴などとりとめのない内容ばかりだったが、お互いのペースで言葉を交わす時間は清花にとって貴重なものだった。

 結局、この日は「せっかくだから家まで送るよ」という照実の申し出もあり、閉店作業が終わってから一緒に店を出ることになった。彼女の住む実家はレスボス荘から更に歩いて二十分ほどかかる。

 家族以外の誰かと一緒に歩くのは随分久しぶりの事だった。いつもは便利な五分の道程も、今日だけはあまりに物足りなく感じられた。そしてそう自分が思うことに何より驚いた。人外病の症状が現れ始め、中学生で不登校になって人との関わりを拒むようになって以来、初めてできた友達と言ってよかった。

「送っていただいてありがとうございました」

「いえいえ、すぐ近くだから少しだけだけどね。それじゃあ、お疲れ様。おやすみなさい」

「はい。おやすみなさい」

 照実の後ろ姿が見えなくなるまでアパートに入らず待っていると、一つの人影が近付いてきた。肩にブランド物のバッグを掛け、それと反対の手には駅前にあるスーパーの袋を提げている。

「あ、咲耶。お帰り。買い物ありがとう」

「今の誰?」

 視線は照実の背中に向けたまま、咲耶の声は固かった。しかし普段から素っ気ない返事しか聞いていない清花にはその声色の違いが分からなかった。

「最近お店によく来てくれるお客さん。家が近くだから送ってくれたの」

「男の人? 女の人?」

「女の人だけど」

「家が近くってどこ?」

「詳しくは聞いていないけど、橋を越えた向こうだそうよ」

「結構離れているじゃない。いつも送ってもらっているの? いつから?」

「家まで送ってもらったのは今日が初めてだけど……ねえ、何がそんなに気になるの?」

 咲耶からこれほど話を掘り下げられるのは滅多に無かった。基本的に清花に対しては無関心を貫いているため、何かを聞いてくること自体珍しいことだった。だからこそ、同居の話を持ち掛けてきたことが不可思議極まりない事だったのであるが。

「別に」

 逆にその理由を聞いてもこうしてはぐらかされるばかりで、妹が何を考えているのかずっと分からずにいた。

 昔は違った。一卵性双生児としてこの世に生を受けた二人は、生まれる前からずっと一緒だった。お互いがお互いにとって最大の理解者であり、誇張でも比喩でもなく、言葉を交わさなくても相手が何を考えているか分かった。本能的に、自分たちは元々一つだったのだと理解していた。

 小学校までは仲良し姉妹として近所でも評判だった。髪型も服装も好んで同じにし、両親ですら区別がつかないほどだった。学校や外出先で出会う人たちに間違われる度に、自分たちの事を本当に理解できるのは、自分たちしかいないと想いを深めた。魂を分けた、唯一無二の半身。そう考えるまでに至った。

 その絶対の絆に亀裂を生じさせたものが、清花の身に現れた鱗だった。最初は変なカサブタだという程度に考えていた。小学生までの清花は活発で、よく外で遊んでは体のあちこちに擦り傷を作って帰ってくるような子供だった。年中体のどこかに絆創膏を貼り、カサブタが出来ていたため「それ」も治りが遅いものだとしか思っていなかった。その不審点を最初に指摘したのは咲耶だった。「めくろうとしてもめくれないカサブタがある」お風呂に入ってふやけたカサブタをよくめくっては治りを遅くし、何度も注意されていたが、それは明らかに他のカサブタとは様子が異なっていた。

 ちょうど第二次性徴期に入り、周りにはニキビが出来始めている子もいたため、出来物の一種だと考えた母親に連れられて皮膚科で診療を受けることとなった。だがかかりつけの市民病院では原因が特定できず、紹介先の大学病院で精密検査を受け、そこで初めて人外病の存在を知ることとなった。親族には誰も同様の発症者はいなかったため、遺伝ではなく突然変異の可能性も指摘された。それを裏付けるかのように、別日に検査を受けた咲耶からは症状の原因となる遺伝子は見つけられなかった。

 進行は早かった。最初は背中に一~二個しかなかった鱗は数ヶ月の間に腹、二の腕に広がり、小学校卒業前には顔から太腿までの各部位に鱗が生じた。検査入院のため卒業式も欠席した。

 中学校も最初は普通に通うはずだった。だが周囲と異なる風貌を持った子供が分別のまだつかない集団の中に放り込まれてどういう目に遭うか、想像に難くなく、そして筆舌に尽くしがたい。小学校までは環境にも恵まれていた。私服通学だったためなるべく肌が隠れるよう服装に気を付けていれば奇異の目に晒されることも未然に防ぐことができた。また入学時からずっと同じクラスだった子も多く保護者や教員の理解もすぐ得られたため、発症前と変わらず接してもらうことが出来た。

 しかし中学校で事態は大きく変わった。市内にある四つの小学校から全員が一つの中学校に進学するため、生徒数が激増し事情を知らない人間が大半を占めた。教員同士では情報共有され、入学前には両親が直接中学校に赴き事情の説明もしたが、全生徒にそれが伝えられることまではなされなかった。また学校側の配慮として認められたのは体育などの着替え時における保健室の利用だけであり、制服の下にジャージ等を着て肌を隠すことは校則を理由に認められなかった。その結果、隠しきれなかった鱗は校内だけでなく通学路や校外学習など時と場所を問わず人目を引いた。

 そこに秘められた感情は様々だった。

 好奇心、嫌悪、恐怖、卑下、侮蔑、中傷。

 鱗の一つ一つに無遠慮な視線が突き刺さった。

 それでもようやく迎えることが出来た中学一年の夏休み。毎年夏に帰省も兼ねて海に出かけるのが一家の恒例行事だった。その時も肌を出さないよう長袖のパーカーとジーンズ、つばの広い麦わら帽子とスカーフで顔を隠し、妹と父親が海で遊んでいるの遠くに眺めながら、ビーチパラソルの下で砂山を作っては崩す事を繰り返していた。真夏の太陽が照り付けるビーチで全く肌を見せない少女に他の海水浴客はしばしば視線を向けたが、鱗に気付かれることもなくすぐにそれは外された。見かけには隙一つない日焼け予防としか思われなかったはずだが、中学に入学してから無数の視線に晒され続け、敏感になっていた清花にはそれすらも針となり、見えない血を流していた。

 そこには快活だった少女の姿はどこにもなく。

 夏休みが終わってもなお、他人の視線に遭わない部屋の中から出てくることはなかった。

 鏡に映る変わり果てた顔に絶望し。

 目の前にあるかつて自分と同じだった顔を羨み妬んだ。

 成長し、ますます美人になったと褒めそやされる妹。

 本当なら自分も同じ顔になっていたはずなのに。

 もう誰も自分たちを間違えない。もう二人を半身とは言えない。

 ひび割れた鏡の中の像。

 不登校はその後半年余り続いたが、学校に対し親の粘り強い説得や主治医からの働きかけもあり、スクールカウンセラーのカウンセリングを受けながら、保健室登校が認められた。

 しかし一度できたひび割れは深く広がり。

 こぼれ落ちた欠片が元に戻ることはない。

 この頃から二人が言葉を交わすことはほとんど無くなり、清花が通信制の高校を卒業して家を出てからは顔を合わせることも無くなっていた。

 清花が人目を避けるように生きるようになったのとは対照的に、咲耶は年を追うごとに注目されるようになった。中学では生徒会長とクラブの部長を兼ね、高校でも生徒会に所属し、かつ試験では毎回学年上位の成績を収め、学内でも高嶺の花として憧憬を集めた。さらに大学進学後には街中でスカウトされ、読者モデルとして雑誌に載り、一部の若者からはカリスマ的扱いを受けている。

 今では鏡よりも妹を見ることの方が清花には苦痛だった。


 夕食は焼き鮭にした。咲耶が特売で買ってきたものだ。それと昨夜の残りのポテトサラダと白菜の味噌汁。朝がパンの日は夜を米にしてなるべくバランスを取るのが清花なりのこだわりだった。

 連絡事項の少ない夕食時は朝より会話が少ない。適当にチャンネルを合わせたテレビが流す笑い声をBGMに、黙々と目の前の料理に箸を付け、口に運び、咀嚼する。調味料やお茶は自分で用意するのが暗黙の了解だった。

 洗い物は清花の担当だが、風呂掃除は咲耶の仕事だ。セパレートタイプだが広くはないのでものの五分で終えると、先に入浴の準備をする。

 たとえ喧嘩した日でもお風呂と布団は二人一緒に入る。それが小学生までの姉妹の習慣だった。今となっては着替えも互いに隠れてするため、肌を見せることもなくなったが。

 ちなみに清花の入浴は長いがただ長風呂な訳ではない。爬虫類型人外病を発症すると脱皮をするようになるため、古い皮を剥がす必要がある。綺麗に剥がせないと跡になって残ってしまうだけでなく、剥がした古い皮を処分するのに燃えるゴミに出すため、手間がかかるのだ。

 風呂から出た時にはもう居間には誰もおらず、清花も二十三時には眠りに就いた。



 平日は閑古鳥が鳴いているミティリニだが、最近週末になるとその様相が変わる。

「いらっしゃいませ! 二名様ですか? あちらのお席へどうぞ!」

「ご注文お伺いいたします。日替わりランチセットがお二つですね? かしこまりました!」

「お待たせいたしました! 当店オリジナルブレンドです」

「ありがとうございました! またお越しくださいませ!」

「次にお待ちの三名様、お待たせいたしました。お席の用意が出来ましたらご案内いたしますので、恐れ入りますがもう少々だけお待ちくださいませ」

 時刻は午後一時。ミティリニは順番待ちが出来るくらいの超満員だった。その中には常連の老人グループも主婦友達もいない。十代から二十代までの若者ばかりで店内は賑わっていた。だがどの客もお喋りに興じる訳でもコーヒーを堪能する訳でもなく、その視線はある一点に集中していた。

 彼らの目的は共通している。それは週末にだけ現れるウェイトレス――人気読者モデル「咲花」こと咲耶だった。

 きっかけは先月に発売されたファッション誌のインタビュー記事だった。何人かの人気モデルの一日について紹介するという内容の特集で、咲耶もその一人に選ばれていた。その中で、週末はカフェでウェイトレスをしていることが書かれた。その記事では店名までは明らかにされていなかったが、読者の一人がミティリニを突き止め、SNSに投稿した結果、咲耶が店に出る週末だけ彼女目当ての客が集まるようになったのだ。

 元々週末になると常連以外の客入りもあったため、清花だけでなくオーナーも店に出るようにしていたのだが、咲耶が同居し始めたのと同時にミティリニのアルバイトとしても雇われていた。接客を任せられるのでその点では有り難く思っていたのだが、思わぬ集客効果には正直閉口していた。

 あまりに異常に人が集まってしまったせいで常連客が逆に来られなくなってしまい、店本来の雰囲気、目的が完全に失われてしまっていた。また清花個人としてもいつふとした拍子に鱗に気付かれてしまうかという恐れから、一時も気を休めることが出来なくなった。

「うわっ、何これ満員じゃない」

 不意に聞き覚えのある声がして顔を上げると、照実が呆気に取れた表情で立っていた。

「あ、清花こんにちは。すごい人だね。びっくりした」

「こんにちは……ええ、最近休日はこんな感じで。騒がしくてごめんなさい」

「そっか、繁盛しているんだね」

 苦笑する二人の間を「いらっしゃいませ」と抑揚のない声が割って入った。

「えっ? 清花そっくり……ああ、あなたが双子の妹さん?」

「お客様、一名様でしょうか? 生憎ただ今満席でして、お待ちいただく必要がございますが」

「あ、どうしようかな。忙しそうだし、また今度にした方が良いかな?」

「あ……」

「大変申し訳ございません。またのご来店をお待ちしております」

 清花の言葉を遮るように週末限定のウェイトレスがお辞儀をした。接客の手本のように正確な四十五度の礼からはもうこれ以上の問答は無いと言わんばかりの頑なさがあり、ドアノブに手が掛けられるまで微動だにしなかった。

「それじゃ清花、またね」

「あ、はい。また……」

 結局カウンターから一歩も出ないまま、ひらひらと手を振り出ていく照実を見送ることしかできなかった。休日に来るのは初めてだったのに、何てタイミングの悪い……と閉じられたドアを見つめるが、惜別に浸る間もなく既にホールに戻っていたウェイトレスから通される注文をさばく作業に戻っていった。

 「Close」の面が表を向いたのは結局十九時を少し過ぎてからのことだった。それから洗い物と店内の清掃、レジ閉め等を済ませ、気が付けば時計の短針は9に近付いていた。

「お疲れ様。夕飯だけど、今日は疲れたからコンビニで買うのでもいいかな?」

「うん」

 一度アパートを通り越し、駅前の交差点にあるコンビニで夕食を買い込む。清花はペペロンチーノ、咲耶はドリア弁当、さらにシーザーサラダと翌日の朝食用にロールパンを購入した。一つずつ袋を持ち、来た道を戻って部屋に帰りついた瞬間、どっと疲れがのしかかってきた。明日も同じように「咲花」目当ての客が大挙して押し寄せるかと思うと気が遠くなった。

「はあ、明日は来てくれないだろうな照実さん」

 零れた言葉は半ば無意識だった。昼間せっかく来てくれたのに満席で追い返すことになってしまったことがずっと引っかかっていた。いつもは仕事帰りに立ち寄ってくれるのだが、実は年末が近付くにつれ閉店前に帰れる日がどんどん少なくなっていた。たとえ間に合ったとしてもコーヒーを一杯飲むだけで精一杯な程度の時間しかなく、ゆっくり話すことができずもやもやとした気持ちを抱えていた。もしかしたら向こうもそう思って、わざわざ休日の日に出向ていくれたのかもしれないと考えると、ますます後悔の念が増した。

「その照実って、前にアパートまで送ってもらっていた人よね?」

 部屋着に着替えた咲耶がリビングに現れた。独り言のつもりだったため返事が来るとは思わず少し間が空いた。

「……うん、そうだけど」

「やたら親しげに話していたけど、どこまで知っているの?」

 何を? とは聞き返さなかった。暗に示しているのが何なのか、双子でなくともすぐに分かった。

「一通りのことは。でもね、あの人は私のこの顔を見ても全然変じゃないって言ってくれたの。その、可愛い顔だって」

「おかしいよその人。絶対何か裏がある」

「失礼なこと言わないで。照実さんは良い人よ」

 コンビニのレジで温めてもらったペペロンチーノは冬の夜の空気に触れてまた冷たくなりつつあった。ドリア弁当の蓋を開けた咲耶は昼間散々愛想を振りまいた口を嘲笑の形に歪ませる。

「珍しがっているだけよそんなの。今まで他人に何て言われてきたか、忘れたわけ?」

「……忘れる訳ないでしょ。でもあの人は違うの!」

「どうしてそう言い切れるの? その顔を褒められたから? 馬鹿馬鹿しい。本気でその顔が他人から褒められると思っているの?」

 自分と同じだった顔が見つめる。すれ違う人を振り向かせ、写真はファッション誌を飾る一枚に選ばれ、無名のカフェを満席にする顔。自分がその顔に戻れることは永遠に無いと、お世辞にも「可愛い」と評されることなどないと思っていた。だが違った。たとえ十人中九人が、自分自身でも醜いと思う顔でも、好きだと言ってくれる人はいるのだと。鱗の下の顔を見てくれる人はいるのだと知ったから。

「その人だって本当の所は何を考えているのかなんて分からないし、影であんたのことを言い触らしているかも知れない。少し耳触りの良い事を言われたからって簡単に他人を信用したらまた傷つくだけよ」

「そんな事ない!」

 部屋中に声が響く。文字通り生まれてはじめて姉に怒鳴られ、妹は愕然とし二の句が継げずにいた。

「あんたに照実さんの何が分かるっていうの!? 勝手な事ばかり……私が誰と友達になろうと、あんたに口出しされる筋合いは無い! 大体昔からずっと嫌だったの。いつもいつも私が何をするにも付いてきて。この鱗が出来てからは私を置いて一人で何でもしてきたくせに、またこうして私の家に押しかけてきて。今のあんたを見ると自分が惨めに思えて仕方ない……もういい加減放っておいてよ! どうせあんたにとっては私なんて汚点でしかないんだから、私も独りで一からやり直していたのに……っ!」

 自分が引きこもり、反対に妹が学校で優秀な成績を収めたりクラスの中心となって人望を集めるようになった頃、両親や親戚、近所の知り合いが口々に言い合った。「姉の分まで頑張ってくれて、安心だね」。もう自分は諦められている、そう感じた。自分はもう必要とされていないのだと。だから高校を卒業してすぐ独り立ちを宣言した時、両親は口でこそ心配の言葉を吐いたが反対はしなかった。早く荷物を下ろして、もう一人に全てを注力できるようになることを彼らは望んでいただろうから。

 部屋が揺れんばかりの声が止むと、一転して沈黙が二人の間を支配した。ずっと胸の奥にたまっていたものを吐き出した清花は爪先を見下ろしていて、正面にいる相手がどんな顔をしているのかついぞ知り得なかった。こんな夜遅くに大声を出して近所迷惑だったなとどこか他人事のように考えている中、先に動き出したのは咲耶だった。沈黙したまま席を立ち、清花の横を足早に通り過ぎて自室に入っていった。テーブルの上には半分以上食べ残されたドリアが置かれたままだった。少しだけ身体が軽くなったのを感じながら、清花はすっかり冷めてしまったペペロンチーノを温め直し、冷え固まって行くドリアを眺めながら全て平らげた。



 翌日、咲耶は部屋から出てこなかった。カフェには今日も「咲花」目当ての客が朝から途切れることなく訪れたが、当の本人がいないと分かるや早々に店を後にし、情報が伝わったのか午後には徐々にその数が減っていった。代わりのウェイトレスには同じアパートに住む反町空見ソラミが代理に入った。同棲している吉野桜が休日出勤をしていて、夕方まで時間が空いているからと引き受けてくれた。

「思っていたよりお客さん少なかったね。やっぱりモデル効果には勝てなかったか」

「あまり多く来られても困るんですけどね」

「まあ私くらいでちょうど良かったかもしれないね。もし桜さんが店に出ていたらもっとお客さんが押し寄せるようになっていたかもしれないし」

「サキュバスの催淫、ですか」

 吉野桜はサキュバス型人外病の罹患者である。その主な症状は異性の性欲を刺激する特殊なフェロモンが身体から放出される「催淫」だ。今は症状を抑える薬が開発されたおかげでほとんど支障なく日常生活を送れるようになったが、人外病の影響で桜の身体はいわゆる「オトナ」な魅力に溢れており、それだけでも異性を魅了するには十分だった。清花は仕事時のスーツ姿しか見たことが無かったが、もし彼女がウェイトレスの恰好をして接客をしたら、今とはまた別の客層が増えるに違いないと確信できた。

「ところで、咲耶は体調でも崩したの? それとも、喧嘩でもした?」

 咲耶とは別の大学に通っている空見は年が近いこともあり、姉妹のどちらとも普段から気さくに話をする仲だった。言外に昨夜のことを聞かれているのだと気付いた清花は声のトーンを落とした。

「すみません、騒がしくしてしまって」

「いいよいいよ。ほらうちのアパートって同棲している人たちばかりだから、喧嘩とか日常茶飯事でみんな慣れてるし。私も、住む前だけど迷惑かけたことあるしね」

「そうなんですか……」

「別に喧嘩の理由とか言わなくてもいいけどさ。愚痴とか相談なら聞くよ?  帰りにくいならうちに泊まってくれてもいいし」

「いえ、そこまでは……でも、ありがとうございます」


 その翌日も、次の日も咲耶とは顔を合わさなかった。だが一日中部屋に籠っている訳ではないようで、靴の配置などが少しずつ変わっていた。朝は清花が家を出てから起き出し、帰りも清花が帰る前か寝静まった後になるよう時間をずらしており、徹底的に顔を合わせないよう避けられていた。いつものように食事の用意はするのだが、それには一切手を付けられていなかった。

 一週間も折り返しに差し掛かった日の午後。平日には珍しく常連でない客がミティリニに現れた。

「空いているお席にどうぞ」

 だが清花が声をかけてもその若い男二人組は手元のスマートフォンに目を向け、入り口から動こうとしなかった。不審に思っていると突然顔を上げ、清花の方をじっと見た。反射的に顔をそらしかけ、照実の時の失敗を思い出し手で顔を隠した。二人はスマホの画面と清花の顔を見比べながらボソボソと言葉を交わしていた。

「あっ、くそっ、よく見えねえ」「なあ、やっぱりそうだって」「ほんとだ目元そっくり」「でも鱗なんて見えないじゃん」「だから隠してあるんだろ」

 清花は耳を疑った。今、確かに鱗と言った――!?

「ねえ店員さん、咲花の双子の姉妹って本当ですか?」

「はっ……?」

「っていうか手邪魔。どけて」

 二人組のうち茶髪ロン毛が腕を伸ばし、顔を隠していた清花の手を掴み下ろした。勢いでマスクまでずり下がり、頬の鱗が露わになる。その瞬間、もう一人の男が手にしていたスマホからシャッター音が鳴り響いた。

「なっ――!」

「うわ、本当に鱗だ。やっべえ」

「こっちもバッチリ撮れたぜ」

 慌てて掴まれた手を振りほどきしゃがみ込んでカウンターの中に隠れるが、なおもシャッター音は続いた。ついにはカウンター内にまで足を踏み入れられ、レンズと視線が向けられる。フラッシュが光る度に視界が白く染まり、目がチカチカした。

 何が起きているのか理解が追い付かなかった。咄嗟に身を隠したのは防衛本能からだったが、若い男の力に抗えるはずもなく、すぐに引きずり出されると顔を無理矢理前に向けさせられ、何枚も写真を撮られた。抵抗したはずみにシャツのボタンが外れたり袖が捲れ上がったりして普段隠れている鱗にまで気付かれると、そちらにもレンズが向けられた。

「ちょっとあんた達! 何してるの! やめなさい!」

 それを止めに入ったのは先に店にいた常連の主婦グループだった。数人がかりで男らをカウンターから引っ張り出し、スマホを取り上げた。

「ちょっ、何すんだ返せよババア!」

「何するんだはこっちのセリフよ! 女の子襲って写真なんか撮ってどういうつもり!? 今すぐ消しなさい!」

 しばらく悶着があった後、写真のデータは全て消され、その間に近くの交番から呼ばれた警官によって二人は連行された。

「まったく、何だったのよあいつら!」

「清花ちゃんもう大丈夫よ。酷い目に遭ったわね」

 背中を支えられながらなんとかカウンター席に腰を下ろす。突然の出来事に混乱と恐怖で頭が回らず、鼓動は早鐘をうち、息は浅く、目からは涙がボロボロ溢れていた。

「ほら、お水飲んで。ゆっくりでいいから、深呼吸しましょう?」

 呼吸が元に戻るにつれ徐々に落ち着きを取り戻す。同時に先程の出来事の一つ一つが鮮明に思い出され、背筋が凍りついた。

 人外病を発症して間もなく、周囲の視線に晒され続け全身を串刺しにされたあの時以上の恐怖と痛み。二人だけだったけれどもそこに含まれる悪意はどす黒く、清花を犯した。

「あった! 今の奴ら、きっとこれを見たのよ」

 主婦の一人がスマホで調べて見つけたそれは、SNSに投稿された一枚の写真だった。それはミティリニを外から撮ったもので、窓から店内が見える。そこには清花が立っていた。そして。

 

 ちょうど人がおらず気を緩めた一瞬だったのだろう。写真に添えられたキャプションには「読者モデル咲花の素顔?」と書かれていた。そしてその写真には何十件ものコメントがつけられており、中には「それ本当に本人?」「加工じゃないの?」などと疑問を呈するものもあったが、既に広くネット上で拡散されていた。さらにその写真を引用した別の投稿には「私、咲花と中学で同級生だったけど、これに写っているのは咲花じゃなくてその双子の姉のほうだと思うよ。確か、身体中に鱗ができる病気だって」と書かれており、こちらも大勢の目に止まっているようだった。

『俺、先週このカフェに行ったけど、キッチンいた店員の顔、目元しか見えなかったけど確かに咲花そっくりだった』

『私も見た!』

『姉妹がいるってどこかで言ってた』

『じゃあ本人じゃなくてその姉っていうのは本当っぽいな』

『でも鱗ってマジ?』

『病気らしいよ』

『なんの病気よ?』

『人外病でそういう症状が出ることがあるらしい』

『人外病って遺伝するやつじゃん! ってことは咲花にも鱗があるってこと?』

『それはあり得るな。双子ならむしろ可能性高いんじゃね?』

『えー? でもそんなのどこにも写ってないよ?』

『それこそ加工して消しているんだろ』

『整形とかしてて』

『うっそーなんかショック』

『同感』

『嘘つきじゃん』

『でも本当に鱗があるならやばいよね』

『人外病ってかかったら人間じゃなくなるんでしょ?』

『うわっ怖っ』

『でもこれだけだと本当に鱗かどうかわかんないし、結論付けるのは早計』

『じゃあもっとちゃんとした写真撮ってこいよ』

『よっしゃ任せろ』

『まじで行くのかよwww』

『ガンバー』

『(゚∀゚)』

『( ´∀`)bグッ!』

 この投稿のおよそ一時間後に男二人が店に来ていた。

 その後、連絡を受けて駆け付けたオーナーが店を早仕舞いさせ、清花を家まで送った。抵抗した際に出来た擦り傷の手当てをしてから、警察に被害届を出すために帰って行った。

 一人になり、布団に入ったが緊張でとても眠りに付けられる状態にはなかった。

 人外病を発症してから多くの視線に刺され、また疎外されてきたが、暴力を振るわれたことは実は無い。小学校の時は皆に気を遣われ、壁を感じることはあったが基本的にはそれまでと同じように接してもらえた。中学に上がり、一気に偏見や嫌悪の眼差しに襲われることが増え、また心無い言葉を投げられることもあったが、直接手を出されるまでは至らなかった。それは、入学して間もなくクラスの人間関係が構築途中で、誰もが手探りで様子を窺っていたからかもしれない。そして夏休み以降不登校になったため、幸いいじめ対象から外れることが出来た。そのまま通い続けていればいじめ対象の筆頭候補であったことは間違いない。図らずも暴力の目からの回避に成功し、以降も人と関わることを避け続けたため暴力行為に遭わずに済んだと言える。

 目を閉じるとフラッシュの光が瞼の裏に蘇る。身体の震えは収まらないのに、男に襲われてから部屋に送り届けられるまで、喉が硬直したかのように声が出ない。蛇に睨まれた蛙の喩えを持ち出すまでもなく、想像を絶する恐怖に襲われた時、身体は機能不全に陥る。

 恐怖だけで人を死に至らしめることが出来る。

 世界の終わりのような夕日が部屋を赤く染め上げる。玄関からガチャガチャと金属が激しくぶつかる音が響き、直後勢いよく扉が開け放たれた。十二月も下旬の寒空の下、額に汗をかいた咲耶が靴を脱ぐのももどかしげに息せき切って入ってきた。

「清花!」

 数日振りに見た妹の顔は目の下に隈を作り、疲労の色が濃く、化粧もお座なりにしかされていなかった。

「大家さんっ、から、連絡があって、清花、っが、襲われたって……!」荒れた呼吸もそのままに枕元に膝をつき顔を覗き込む。「けが、してるの? 病院には、行ったの? 警察は?」

 普段の態度とかけ離れた取り乱しように、清花は頭が急に冷たくなっていくのを感じた。どうして自分ばかりこんな目に遭わなくてはならないのか。どうして自分だけこんなバケモノのような体になったのか。同じ遺伝子を持って生まれたなら、どうして片方にしか発症しないのか。ずっと心のどこかで引っかかり続けていて、だが誰を責めたところでどうしようもないことだと頭で理解はしていても、いつまでも治らないささくれが、トゲになって暴れ出す。「あんたの……っ」喉が痛い。恐怖で出てこなかった声を絞り出す。血を吐くようにトゲに覆われた固まりを吐き出す。

「あんたのせい、だから……っ! あんたのせいで、こんな目に遭ったんだから……っ!」

「…………っ!?」

 布団をはぎ取る。日が沈み、明かりをつけていない部屋はどんどん暗くなっていく。だが清花には咲耶の姿がはっきりと「見えて」いた。蛇にはピット器官と呼ばれる、赤外線を感知する器官を持つ種がある。それによって暗闇の中でも獲物となる動物を見つけることが出来る。さらに瞳孔が縦長に広がっている事に咲耶は気付いた。まるで、蛇のように。

「あんたが店で働いたせいで、場所がばれて人がたくさん来るようになった。あんたと同じ顔をしているせいで、あいつらは来た。あんたに鱗が無いせいで、私が無理矢理写真を撮られた。あんたがいるせいで、私はいつまでも人生をやり直すことが出来ない」

 八つ当たりだと分かっていた。咲耶の責任ではない。だが押し付けずにはいられなかった。咲耶さえいなければ。そう思うことは何度もあった。昔を思い出して、落ちぶれた今と比べずに済む。あり得たはずの自分の可能性を見せつけられなくて済む。

 咲耶は鏡だった。正反対の物を映し出す鏡。そこに映る自分を見る限り、私は私を忘れることはできない。新たな自分にやり直すことが出来ない。

「あんたさえ、いなければ――」

 いなければ。

 何も好転などしない。

 鱗は身体に残り続け、受けた傷が簡単に癒えることはない。人生はやり直せないし、鏡に映るあり得たはずの「自分」になんて絶対になれやしない。

 豊依清花は私で。

 目の前にいるのは、豊依咲耶なのだから。

「出て行って。この家から」

 告げられる絶縁の言葉。

 かつて半身と呼んだもう一人の自分との決別。

「もう、あんたの顔を見たくない」

 扉が閉まる音を、清花は布団の中で聞いた。その直前に遠くから流れてきた鈴の音と明るい音楽。

 十二月二十四日。

 今夜はクリスマスイブだった。



 日付が変わる頃には駅前のイルミネーションも消え、いよいよクリスマスのムードは消え失せた。雨が雪に変わることはなく、濡れた服がどんどん体温を奪っていく。けれど寒さは感じない。ただ歩く。手足の感覚はない。歩き続ける。止まればもう二度と動けなくなるだろう。思考も廻る。同じ場所をぐるぐると。なぜ。どうして。理由を探す。答えから目を逸らして。何も見えない。真っ暗だ。明かりが消えた。行く当てなどない。無くなった。生きる理由も今日、失った。

 姉が私の全てだった。生まれた意味も生きる理由も目的も。

 双子に生まれた私たちは生まれる前から一緒だった。一つの受精卵として出来上がってからずっと。私たちは元は一つだった。それが神様の悪戯か運命の嫌がらせか、一つだったものは二つに分かれ、別々の人間になって生まれ出た。間違いがあるとするなら、ここから既に間違っていた。

 半分ずつに分かれて生まれた私たちは、当然互いに惹かれ合い、片時も離れずにいた。少しでも離れると不安に襲われ、母親よりも傍にいると落ち着いた。

 人間は元々頭が二つ、腕と足が四本ずつあり、それが半分に分かれて今の形になったのだと以前何かの本で読んだことがある。その頭は通常男と女であり、故に今の人間は元の身体の片割れである異性に引かれるのだという。またその頭の性別が両方とも男(女)だった人が同性愛者なのだともそこには書かれていた。まさに自分たちのことだと思った。私たちは二人で一つ。互いに無くてはならない存在であり、この先の一生をずっと一緒に生きるのだと。物心ついた時にはもう既に本能で理解していた。

 姉は明るく活発で幼稚園や小学校では友達を多く作り、姉を中心に人の輪が出来ていた。対照的に私は姉や家族以外の人と上手く関わることが出来ず、家の外では片時も姉と離れたがらない子供だった。クラス替えで別々になった時はこの世の終わりかと絶望した。姿かたちは瓜二つのままだったが、次第に二人に違いが生じ始めた。だが私はそれを悲しいこととは思わなかった。普通の人と違い半分だけで生まれた姉が、一人の人間として成長している証だと喜ぶべきことだと考えた。私たちは二人で一つ。片割れが一人の人間になれたなら、もう片方はどうすればいい? 私は考えた。考えて考えて、そして思い至った。ゲームで自分が操作するキャラクターが敵に倒されても、残機があれば復活できる。現実とゲームは違う。だが私ならその残機に、予備スペアになれる。これは私にしか出来ない役割だ。それが「豊依咲耶」の生きる理由となった。

 そして予想よりもかなり早く、思いがけない形でその役目を果たす時が来た。身体のあちこちを鱗に覆われ、終始他人からの視線に晒され神経を消耗し、ついには家から出ることすら叶わなくなったその人にはもうかつての姉の、「豊依清花」の面影はどこにもなかった。

 だから成り代わることにした。元の「豊依清花」が歩んだであろう人生を。私が代わりに歩み始めた。

 人の中心にいられるよう、部活や生徒会では役職に就くようにした。

 好成績を収め、周囲の尊敬と教師の信頼を獲得するよう努めた。

 「豊依清花」の顔を永久に残せるよう、モデルのスカウトも受けた。「咲花」という芸名は、「清花」と「咲耶」の二人の名前から一字ずつ取って付けた。

 全ては「清花」のため、「清花」を生かし続けるために私がその代役を務めた。

 いつかまた、元の「清花」に戻る日が来ることを信じて。

 それなのに、その人は家から出て行った。

 私を置いて。

 一人で。

 私は捨てられた。

 私たちは二人で一つ、だったのに。

 最初は楽観視していた。どうせすぐに帰ってくる。今のあの人が独りで生きていけるはずがない。そうでなくても、私たち二人が離れて生きていくことなんてない。そう信じて疑わず。一年が過ぎ、二年が経った。

 三年目、誰にも秘密であの人の暮らしを見に行った。

 私の知らない街で、私の知らない人と、私の知らない時間を生きている。

 私の知らない「清花」がそこにいた。

 許せなかった。

 私がこれまでずっと「清花」を守り続けたのに。

 あの人はそれとは違う「清花」になっていた。

 重大な裏切り行為だと思った。

 やはり離れて暮らしたのが間違いだったのだ。私たちは一緒にいなくてはいけなかったのだ。

 大学最後の年になって突然家を出ることに、両親は最初反対した。就職活動や卒業を控えた大事な一年に、環境を変える必要なんて無いと。だが最終的にはあれこれ付けた理由の前に二人とも渋々納得した。

 たった三年の月日は、それでも二人の間に深い断崖を作るには十分だった。戸惑いは大きかった。向こうも急に出来た同居人をどう扱えばいいか困惑していたようだったが、私も半身の変わりように驚き、嘆いた。

 幼い頃は言葉を交わさずとも相手の考えていることが分かったのに、毎朝その日の予定を確認しなければ相手が何をしているのかすら分からなくなっていた。

 実家にいた頃は部屋も、布団も、お風呂に入るのも常に一緒だったのに、朝晩以外ほとんど顔を合わせないことも珍しくなかった。

「互いの私室には無断で入らない」

 同居を始めてすぐ、部屋の主から提案された。大学の勉強や就活などで一人になる時間が必要だろうから、一つしかない個室は譲ろう。それに姉妹で同居といえどプライバシーは守らないといけないから、勝手に部屋には入らないようにしよう、と。

 カフェのアルバイトも最後まで渋られた。自分の領域に私が入るのを嫌がっているようにも見えた。

 それ以外にも事あるごとに二人の間には線が引かれていった。境界が明確にされるにつれ、分断は深くなった。合わせればぴったりくっついていたはずの断面は、気付けば全く噛み合わない形になってしまっていた。

 もはや半身とも呼べなくなり、別人のようになってしまった相手とどう話せばいいかもわからず、離れて暮らしていた時よりも距離はむしろ遠くなっていた。こんなはずではなかった。自分がいつどこで間違えたのか、考えている間にも時は過ぎていった。

 ある真夏の日、いつもより遅く帰ってきた清花の表情が明るくなっていることに私はすぐ気が付いた。それから週に何度か、閉店時間まで営業するようになり、帰りが遅くなっているにもかかわらず上機嫌な日があった。そしてその原因は仕事を終えた清花をアパートまで送ってくるようになった。

 悪い予感は胸の内に広がる暗雲となり、絶えず耳の後ろで囁いた。「清花に、自分よりも信頼する人間が出来た」「私はもう、必要とされていない」「清花が奪われる」――

 不安は疑念となり、そして二人が店で直接会う姿を目の当たりにして確信に変わった。その時は咄嗟に追い返すことが出来たが、今や自分は四六時中清花の傍に居つづけることはできない。いつか必ず清花を奪い去られる日が来るだろう。確信は焦りをもたらし、最悪の結果を回避すべく説得を試みた。

 最悪は別の形で現れた。初めて聞いた清花の叫び声に、初めて向けられた恨みと敵意に、思考回路は完全に停止した。言葉は耳の中でいつまでも反響しているのに、その意味はまるで理解できずにいた。目元を赤くし涙が滲んでいるのを見て、全身の血が冷えていくのを感じた。何度か口を開いてみたがそこから意味のある音は出て来ず、足が勝手に動いてその場から離れたのだと気付いたのは部屋の扉が閉まる音が聞こえた時だった。

 その晩は一睡もせず清花の言葉の意味を考え続けた。だが字面上の意味を理解することは出来ても、何故彼女があんな事を言ったのか、その意図はいつまでも掴めずにいた。否、目を逸らしていた。それでも、どれだけ嫌いでも、他に理解者が出来たとしても、二人がこれからも離れることはないのだと、信じていた。信じていたかった。

 「清花が客の男に襲われた」と連絡を受けた時、心配と不安で塗り潰された頭の片隅に小さく、安堵が一滴だけポトリと落ちてきたのは事実だ。やっぱり一人で生きていくことなんて出来ない。清花には、こんな時にすぐ駆けつけられる私が必要なんだ。そう誰とも知らない相手に優越感を抱いて。

 そして思い知らされた。

 もう目を逸らすことも許されない。

 彼女を傷つけた原因も、ずっと追い詰め続けてきた元凶も、鱗はきっかけに過ぎず。

 私、だったんだ。


 

 イルミネーションも消えた駅前には、終電帰りの人を待つタクシーや迎えの車が数台停まっている以外に人影は無かった。ここがもっと都会や繁華街に近ければ、クリスマスの名の下に夜通し遊び呆ける人で賑やかだったかもしれないと考えると、物寂しさが身に沁みるようだった。

 最終電車が遠ざかり、電光掲示板が消灯しても咲耶は改札前のベンチに腰を下ろしたまま身動き一つしなかった。何となく駅まで来たのは良いものの、実家まで行く電車は既に終わっており、そもそもこの街から離れることも気が進まず、どこにも行き場所も無く、一度座ってしまうともう立ち上がることが出来なくなってしまった。

 やはりクリスマスイブの夜ということもあり、改札から出てくる人の多くは酒の匂いを漂わせ、顔を赤らめていた。何人かはベンチに一人座った咲耶に目を向けたが、酔って休憩しているだけと勝手に納得したのかすぐに関心を失い足早に立ち去って行った。しかしその中に一人、こちらに近付いてくる足音があった。

「あれ、確か咲耶さん……だよね? 清花の妹の。どうしたの、大丈夫? 気分悪い?」

 仕事終わりに飲んできた帰りなのだろう、声をかけてきた照実はワイシャツのボタンを緩めていた。

「あ、私の事覚えているかな。前に一度お店で会ったことがあるんだけど、そういえばちゃんと自己紹介していなかったね。お姉さんの清花さんとお店で仲良くさせてもらっている、天野照実です」

「……何でいるんですか」

「ちょうど今帰ってきたところであなたを見つけてね。って、よく見たらあなたずぶ濡れじゃない! 雨の中歩いてきたの? 傘は?」

「忘れてきてしまって」

「そう。なら家まで送ってあげるから、私の傘に入って行くと良いわ。折り畳みだから小さくて申し訳ないけれど」

「別に、結構です。家には帰らないので」

「何言ってるの。早く着替えて温まらないと風邪ひくわよ」

「あなたには関係ないでしょう。余計なお世話です」

 そう言って頑なに動こうとしない咲耶の態度に照実は頭を抱えた。知人の妹とはいえ赤の他人の自分がこれ以上お節介を焼く筋合いはない。だが声をかけてしまった以上、このまま放っておくのも後味が悪い。どうしたものか……と考えあぐね、鎌をかけてみた。

「清花と喧嘩でもしたの?」

 するとそっぽを向いていた頬がひくっと引きつるのが分かった。喧嘩からの家出、といったところだろうか。他人の家庭の事情に首を突っ込むのもあまり褒められたことではないが、清花のことを思うとどうしても口を出さずにはいられなかった。妹との軋轢は前に少し聞かされていた。

「じゃあ分かった。今夜はうちに泊まればいいから。このままここにいても仕方ないでしょう?」

「だから、あなたには関係ないって言って……」

「駄々こねてないでいいから来なさい! 体調崩して清花に迷惑かけたいの?」

 そう言うと咲耶は黙り込んでしまった。なおも自分から動こうとしなかったので、腕を掴まれ、強引に引っ張られるようにして照実の家に連れて行かれた。

 他の家族は既に寝静まっているらしく、照実の実家は静まり返っていた。着いてすぐ風呂場に押し込まれた。

「先にお風呂入って、ちゃんと温まるのよ? 福は乾燥機に入れておいて。着替えは後で持ってくるから」

 てきばきと指示するその姿は、人の世話を焼くのが得意なのだと容易に思わせた。もしかすると清花はこういう所に惹かれたのだろうか。慣れない他人の家の風呂に浸かりながら、肌の感覚が次第に戻ってくるのを感じた。

 温められた血が巡りだすとまた思考回路が動き出す。いつ、どこで、何を間違えたのかなんて、今さら考えたところでどうしようもない。私は間違えた。清花のためを思い、予備として「清花」の代わりとなってきたのに、いつの間にか清花との距離は広がり、清花を追い詰め、苦しませ、ついには自分が原因で酷く傷つけた。今の私はもう「清花」ではなくなってしまった。

 それならば、私が「清花」になるにはどうしたらいい?

 考える。どこから違った? 考える。一つだった私たちは。考える。何が違っている? 考える。鏡を見る。

 壁に固定された姿見。映っているのは染みも傷も汚れも一つもない、陶磁器のように滑らかな肌をした「清花」の全身。だがこれは清花とは違う。清花の身体にはあちこちに鱗が――

 鱗。

 全ての始まりであり、元凶。

 そして、私たちの一番大きな違い。

 私には鱗が無い。鱗が無ければ「清花」にはなれない。

 どうしたら鱗を手に入れられる?

 人外病は遺伝子の異常が原因だと考えられている。だがその症状は同じ型でも個人によってその差は大きく、私たちのように同じ遺伝子を持っていても一方では発症しないこともある。だが今発症していないからと言ってこの先もずっとそうだとは限らない。私にも症状が現れる可能性は残されている。清花の主治医はそう話していた。

 なら、待っていればいつか同じになれる?

 そんな保証はどこにもない。

 どうしたら、どうしたらいい?

 風呂から上がり、置かれていたパーカーとスウェットに袖を通しながらも考え続ける。鱗があれば、また私たちは同じになれる。一緒にいられる。

 脱衣所から出て、明かりのついている方へ向かうと、台所の前に来た。明かりはその隣から漏れており、人の気配がする。恐らくここがダイニングだろう。

 台所に足を踏み入れる。二口コンロの上にはヤカンが置かれていた。注ぎ口から勢いよく湯気を吐き出している。お湯を沸かして、まだそれほど時間が経っていないのだろう。取っ手を持つと重みを感じる。まだ中に残っているのだろう。もしかすると、私が風呂から上がってから飲み物を淹れるつもりで用意しているのかもしれない。

 カサブタではだめだ。いつか治って消えてしまう。

 鱗のように、一生消えない傷を残すためには――

 両手でヤカンを持ち上げると、注ぎ口を自分の頬に向くようにして、傾けた。《

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鏡に金槌 新芽夏夜 @summernight139

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