しょうけら 第1話






 薫の住む町は零糸あやし町という。

 一発で読める人は少ない。この町に住む者ですら、なんでそんな名前にしたのだと一生に一度は思うくらいには、読めない。

 語源を考えてしまうのは文学部のさがなのか。そう思いつつ、薫はやたらと広い廊下を進んでいた。そのまま外に出て、真っ直ぐ足を別の建物に差し向ける。


 薫が大学に来て向かう先など大体決まっている。

 今日もするりと首に巻きついてきた煙々羅に苦笑しつつ、薫はそこへ向かうのだ。

 大きな自動ドアをくぐった瞬間、薫に近づいて来る影があった。


 美しい羽衣を纏ったかのような装いに、床についてしまうほど長い黒髪。妖艶に微笑む姿。手元には数冊の恋愛小説。

 文車妖妃だ。

 彼女から近づいてくることは珍しい。彼女は大抵恋愛本を読むのに執心している。


「薫様」

「どうかした?」


 隣を通り過ぎた生徒が訝しげに薫を見やった。話しかけられたと思ったらしい。

 特に気にせず薫は彼女を見る。片手に源氏物語とライトノベルという組み合わせの本。斬新である。

 妖艶な美女はにっこり微笑んだ。


「薫様におきましては、本日もご機嫌麗しくいらっしゃるようで何よりでございます──」


 心底嬉しそうに前置いたのち、ぞっとするほど艶やかな笑みで、白魚のような指を揃えてある方向を指し示す。


「──して、あの男の処分は如何様に致しましょう」


 穏やかでない言葉である。咄嗟にその方向を向くと、見慣れた銀髪が視界にちらついた。

 一瞬で状況を把握する。彼の前には女子が一人。

 またいつものかと思いきや、彼は特段嫌そうに対応している風でもなかった。かと言って、本のレファレンスをしているにしては二人ともその場から動く気配がない。


 文車妖妃が緩慢に頷く。


「あれは何か不埒な相談をしているに違いありません。ですが安心していらしてください。ここはわたくしの庭。薫様という分不相応な妹背がいながらこの始末、見逃しはしません。手始めに剥ぎます。その後、切り落としましょう」


 何を? と聞くのも憚られる言葉である。

 どんどんと物騒な雰囲気になっている彼女に苦笑しつつ、薫はその肩をぽんぽんと叩いた。


「まあまあ落ち着いて。私はスワローの妹背想い人じゃないし、あれは多分違うよ」

「……違うのですか?」


 たちまち彼女はふっと体から力を抜き、薫を見据える。

 文車妖妃は恋愛事になると多少我を忘れてしまうのが玉に瑕だが、普段は理性的だ。理性と衝動の境目が、恋愛事に関してはオブラート並に薄くなるだけである。


「よく見てよ。スワローほど整った顔の前に立っておいて無表情とか、普通はないよ」


 彼の前に立つ女性は、真っ直ぐ彼を見てはいるもののどこか上の空だ。でなければ、あの美形に対して一瞬たりとも真顔を崩さないなんてことがあるだろうか。いや、ない。

 妙な根拠に基づいた確信に、文車妖妃は困惑気味の顔をする。


「そういうものなのですか? そもそも、つ国の者は美醜の判断が難しゅうございますので、わたくしには分かりかねます」

「そっか。でもまあ、多分大丈夫だよ。私、今から事情聞いてくるし」

「万が一あの男が姦淫でも行おうものならわたくしにお教えください。切り落としに参ります」


 揺るぎない視線だった。これは教えられそうにない。

 苦笑しつつ手を振って、別れを告げる。きっちりと礼を返してくれるあたり、まだ彼女は話が通じるほうだ。


 淀みなく歩く薫の視界に、スワローと話している女性の顔がはっきりと見えてきた。よく見ると恐ろしいほど顔立ちの整った女性だった。スワローといい勝負である。

 どこか青白い顔はくっきりとした目鼻立ちで、その顔には微笑みのひとつもないが、表情のなさも相まって人形のように美しい。女の薫から見ても折れそうだと思うほど細い首に、またしてもほっそりとした手足。整っているが、同時にどこか恐怖を沸き立たせる容貌だった。

 だがそれでもスワローとお似合いだと思えないのは、決して薫の嫉妬などではない。スワローのためならいらない感情は全て叩き潰すことも厭わないのが薫だ。


 単純なことだ。スワローの前に立つ彼女の目の下には、常人なら信じられないほどのくまが刻み込まれているのだ。伏せがちの顔からは分かりにくいが、おそらく顔を上げるといささか目立つ。


 しかしそれを見つつも、何事も無かったかのようににこやかに薫は話しかけた。


「スワロー、どうしたの? その人は?」

「薫」


 彼は素直に視線を薫へ移して固まった。相対する女性を見て口ごもる。こういうときどうしたらいいのか分からないのだろう。

 薫は躊躇なく女性へと話しかけた。


「何か悩み事ですか?」

「……分かるの?」


 敬語ではないあたり、どうやら同じ学生だと分かってくれたらしい。しっかり相対してみて、薫もおや、と思った。


「あれ、もしかして橘さん?」


 彼女はぱちりとひとつ瞬く。


「……どこかで会ったかしら?」

「ああ、ほら、同じ教授の講義取ってるじゃない」


 彼女は同じ心理学の授業を取っている橘呉葉たちばなくれはだった。

 古今東西、美人というのはその情報が知れ渡るのが早い。一目見たら忘れないし、話したことはないが薫も噂で何度か耳にしたことがある。

 曰く、深窓の令嬢。

 彼女自身は分家の人間だが、本家は相当名のある財閥なのだという。本家とは疎遠らしい、という情報まで伝わってくるのだから、この国のプライバシー意識もたかがしれている。


 さっと懐から心理学のテキストを取り出した薫に、見覚えはなくとも同じ授業を取っていることは察せられたらしい。ぴくりと眉を震わせた彼女は緩慢に頷いた。

 しかし、それからゆるりと首を傾げる。


「……どうして悩んでいるって思ったのかしら?」


 そんな酷いくまをもっている人が悩みを持っていなくてなんだという話ではあるが、薫は苦笑して、別の理由を口にした。


「それはまあ、悩み相談はスワローというより多分私の仕事だからね」


 未だに不思議そうな呉葉から視線をそらし、薫は首を巡らせる。ややあって目的の人物を探し当てると、足取り軽くそちらへ向かった。


「星野さん」

「おや」


 相変わらず女嫌いな彼は、薫の姿をじろりと見やる。次いで、後方にいるスワローと呉葉を見つけ、ため息をついた。


「朝から何か厄介事ですか」

「人聞きが悪いですね、依頼ですよ。ということで、使わせてもらっていいですか?」


 主語も修飾語も省略済みの尋ね方に、彼はおざなりに首を振って許可を出した。


「あなたがたくらいしか使う人もいませんのでね、もう勝手にしてください」

「ありがとうございます」


 薫は身を翻して駆け出しそうになるのをぐっとこらえた。ここは図書室だ。


 そのまま悠々と二人の元へ戻ると、スワローが緩やかに尋ねてくる。


「あの部屋、使うの?」

「そうだよ」

「あの部屋……って?」


 意味が分かっていない呉葉は首を傾げるばかりだが、薫はにやっと笑うと図書室の奥の方へ彼女を案内した。人差し指を立てて唇に当て、片目をつぶる。


「いつもは秘密なんだよ。ここから先には、守秘義務があるからね」


 ここまであまり表情を動かさなかった彼女が、きょとんと目を丸くした。







 天鵞絨ビロウドのカーテンに覆われた先は、立ち入り禁止区域だ。一般には禁書扱いされている本や貴重な文書が寄贈されただとかいう理由で、普段は人の目に触れない場所である。

 いつもなら立ち入っただけで(女子は特に)星野に絶対零度の視線を浴びせられる部屋である。呉葉は恐縮したような、疑問符を浮かべたような顔で、暖簾のごとき天鵞絨ビロウドに触れた。


「ほらほら、入って入って」


 久しぶりに合法的に部屋に入れる機会を得た薫は機嫌よく呉葉を手招いた。スワローも躊躇なく天鵞絨ビロウドを引き開けて中に入る。ややあって、呉葉も入ってきた。


 中はワンルーム二つ分ほどの広さだ。決して広くないうえに四方を本棚に囲まれていて、ぎっしりと本が埋まっている。

 中央には小さな丸テーブルと四つほどの椅子がある。


「さ、座って」


 奇妙な招待に少しまごつきつつも、彼女は椅子に座った。丁度薫と向かい合う形だ。


「あら……あなたは、座らないの?」

「僕は立ってるよ」


 薄く微笑むスワローに、呉葉は頷いた。一貫してどこかぼんやりした様子で薫を見る。薫はにっこりと笑った。


「あらためて、初めまして。小鳥遊たかなしかおるです。よろしくね」

たちばな呉葉くれはよ。よろしく、薫さん」

「うん。早速だけど、相談したいことがあるんだよね?」


 人好きのする笑みに、呉葉はゆるりと頷く。


「そうよ。でも……あなたが話を聞いてくれるというのは知らなかったわ。彼に相談すればいいのではなかったの?」


 責める風でもなく、ただただ疑問を口にした様子だった。視線をよこされたスワローが微妙な顔で微笑む。


「僕じゃないよ。話を聞くのは薫だし、解決するのも薫だよ。いつも不思議なんだけど、どうしてみんな僕に聞けばいいって言うんだろうね」

「それはまあ、スワローはいつでも図書館にいるからじゃないかな」


 この広い大学内で、ただのいち学生である薫を探すよりは、常時図書館にいる銀髪の青年を探すほうが早いだろう。あとは当たり前の話だが、平凡な顔立ちの薫より異国の美青年であるスワローのほうが印象に残りやすいのだ。勝手な見解だが、後者の理由が七割を占めると薫は思っている。


 呉葉は何度か頷いて「そうなのね」と呟いた。しっかりと薫に向き直る。その姿は未だ陽炎のように頼りなかったが、瞳には仄かな意思が垣間見えた。


「じゃああらためて、薫さん。相談事があるの。が見えるというあなたに」


 薫はそれを聞いて、殊更嬉々とした微笑みを浮かべて、顎を引いた。


「うん、うけたまわるね」

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零糸町物怪奇譚 七星 @sichisei

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