砂中の棘

にっこ

alshawk fi alramal

 ラシードはナフード砂漠を縦断し、ジッダに向かう途中、突然の砂嵐に見舞われた。

 彼は隊商隊の一員で、ラクダの長い列の中ごろに蟻のようにくっついていたのだが、仲間の「砂嵐だ!」の一言を最後にはぐれてしまったのだった。

 砂嵐が去った後には己の白ラクダしか残らなかった。幸いアストロラーベは懐にあったし、天文学の心得もあったので、夜になれば正確な方角を掴めそうだった。

 この砂漠はシリア砂漠の南に位置し、アラビア半島内部に続く。赤い砂丘が高波のようにうねるこの一連の地続きは、しかし、オアシスと川が形成したワーディを多く擁する。

 ワーディに辿り着いたラシードだったが、乾期の川は褐色の地面を呈するのみで一滴の水の気配もない。勿論井戸も見当たらぬ。項垂れる彼の鼻にふと甘い香りが届いた。


「お兄さん、どうなさったの?」


 川の対岸に女が立っていた。赤い刺繍を施した黒いベドウィンバドゥの衣装を身につけ、ベールの下の双眸はじっと彼を見つめている。


「アッラーフ・アクバル!」


 ラシードは女とその背後の遊牧民テントを認め、神に幸運を感謝する。


「隊商隊とはぐれてしまった。すまないが日暮れまで休ませてもらいたい。喉がからっからだ」

「いいけれどもお兄さん、私はただのベドウィンバダウィ女じゃないわよ? ご承知?」


 女は蟲惑的な視線をさも訳あり気に注ぐ。そういうわけか、と彼は覚った。


「ああ、その、生憎、荷は砂嵐で全て飛ばされてしまってね。金目のものは殆どないんだが」

「お金はいいの。隊商もろくに通らないこの道でお金なんて大した価値ないわ。そうね、身につけているものでもくださいな」


 女はラシードの手首を強引に引っぱり、ベールをめくりあげて口付けした。彼の鼻にまた甘い香りが入る。

――そうか、薔薇だ。

 香りの正体は薔薇だ。薔薇水でも体に振りかけているのだろう。身嗜みを気遣うとは僻地であっても女は女だ。


「こっちよ」


 女は幕の下がったテントにラシードを手招きした。



 女は名をライラと言って、身一つで生計を立てているらしい。訳ありの女はどこの世にもいることをラシードは知っていたが、既婚未婚問わず姦通を厳しく戒めるイスラーム法シャーリアの枠の外で生きることは過酷な道だ。そういった女は皆平気な風に振舞っていながら心のうちに大きな傷を負っていることが多かった。そしてどこか現実味のない、不安定な蜃気楼のような存在だ。一夜の夢の粒子のごとく。

 ライラとの戯れが終わると、後は星が出るのを待つだけだった。ラシードはなんとしてもジッダへ向かう仲間の列に追いつきたかった。


「もう一杯いかが、ウマルさん。話し疲れたでしょう」

「ああ、すまないね」


 絨毯の敷き詰められた硬い床に寝そべりながら、ラシードは手書き装飾のあるチャイグラスを差し出す。彼は行商の先々で女遊びをすることがあったが、いつも決まって偽名を使っていた。無論、一時の戯れでそれを気にする野暮な女もいない。


「ウマルさんのお話、とっても面白かったわ。私もいつかインドヒンドに行きたい」


 そしてラシードは寝物語で女たちに行商中の見聞録を聞かせるのが常だった。


「カーバよりもアル・アクサーよりもインドヒンドかい?」

「ええ、マハラジャを見たいわ。それに宝石も。きっと綺麗なんでしょうね」

 ライラはうっとりと芳しい薔薇水入り紅茶の入ったグラスを傾け、床に腰掛ける。

「なら、こんな話はどうだい」



『貧乏シンハの話』

 貧乏なシンハ少年は村見廻り人ジャングリヤーだった。

 ある時、夜中に亡霊が出ると噂になり、皆で見廻りに出かけた。

 亡霊の正体を突き止めると、妄言を吐く老人だった。仲間は不気味だと老人を見捨てたが、シンハは哀れに思い老人を家に招いた。

 老人は豆スープをまずいといいながらべちゃべちゃに飲み零したが、シンハが丁寧に服を拭いてやると非常に喜んだ。奇妙なことに老人の服はとても仕立てがよかった。

 翌日、彼は老人の家族を探した。すると、身なりの良い召使が飛んでくるなり泣いて感謝した。

 なんと老人の正体は行方知れずだった夢遊病のバラモン!

 シンハは礼に宝石を差し出されたが断った。

 絹も金も全部断り、「ナンを一枚恵んでください」と言ったので、老人の家族は千枚のナンと特別な草を与えた。

 シンハは賢かったので、こんな爽やかな香りの草なら、薬ではないだろうかと考えた。そして道端の病人たちにナンと煎じ薬を与えた。彼らはたちまちのうちに元気を取り戻した。

 そうした善行を聞きつけた外国の王がシンハを召抱えた。

 彼はやがて富を蓄え、美姫を娶って幸せに暮らした。

 めでたしめでたし。



「善行は宝石に勝る、というところかしら」

「欲張りは損ってことさ。俺も商売ではしょっちゅう言われる」


 教訓めいた話にライラはくすりと笑った。そして、


「今度は私がお話ししましょう」



『茶の木の話』

 昔々ある国の君主スルタンが通風で悩んでいました。

 彼は医者から茶が通風に効くと言われ、財を投げうって世界中の茶を集めていました。

 ある時、男奴隷の娘が砂漠で薔薇の香りのする木を見つけます。

 娘は「葉っぱを口にすると薔薇茶の味がした」と言いました。

 それを聞きつけた君主スルタンは男奴隷に言います。


「娘が件の茶の木の枝を持ってこられたらお前を宰相に召し上げよう」


 男は喜びました。こうして娘は木の枝を取りに行くことに。

 しかし薔薇香の木は砂漠の谷の崖の下! 娘は父のため懸命に崖を降ります。

 木の枝を手にかけたその時でした。

 ガラッと音を立てて足元の岩が崩れ、彼女はまっさかさまに崖の下。虫の息の娘の傍を偶然にも犬が通りかかります。

 娘は枝に己の服のきれを結びつけ、藁をもすがる気持ちで「どうかこの枝を父に届けて」と頼みました。犬はそれを聞き入れて宮殿まで走り、木の枝を男奴隷と君主スルタンに差し出します。

 しかし犬は穢れた動物。すぐさま叩き殺されてしまいました。

 死体を捨てようと犬を抱き上げた男奴隷はそこでやっと気付きます。

 犬が咥えている枝に娘の着ていた服が!

 男奴隷は娘の死を覚りました。

 彼が改めて薔薇香の枝を献上すると、慈悲深き君主スルタンは約束どおり奴隷を宰相に召し上げました。

 めでたしめでたし。



 ライラはどうかしら、と微笑んだ。


「うむ、何だか不憫な話だな。しかし君は相当な薔薇好きだとみた」

「うふふ、薔薇は美しいですもの。美しさと香りで棘を隠してしまうほど」


 思えば茶も絨毯の柄もグラスの装飾も全て薔薇だった。男のラシードには女がこぞって薔薇を愛でるのがよく分からなかったが、彼女からする甘い香りは嫌いではなかった。

 ふと、天幕から空が見えた。空色は薄っすら翳り、夜が訪れる気配がした。夕方の礼拝サラートゥ・ル・マグリブの時間だ。


「さて、礼拝をすませたらそろそろ発つか」

「まあ、ウマルさんは敬虔ね」

「死後の裁きが怖いからね。そういう君はしないのかい」

「私は敬虔じゃないわ。地獄行きかもね」

「それは俺も一緒だ。シャーリアが裁かなくても書記天使が今日のことを記録してアッラーに届けるだろうよ」


 そうね、とライラは笑ってもう一度茶を注いでくれた。ジッダまでの残り二週間近い路程で運良く井戸やオアシスが見つからぬ限り、これが最後の茶になるだろう。

 ラシードは衣服を整えると懐から小剣を出し、机に置いた。旅路の必需品を除けばこれが彼女に与えられる唯一の品だった。安物だが、彼女の憧れているインドヒンド産のルビーヤークートも施されている。


「宿の礼だ。売れば金になるし、持っているだけでも魔よけにもなる」

「ウマルさんたらこんなに貴重なものを恵んでくださるの? もっとお金のかからないものでいいのに」


 ライラは床に寝そべりながら剣を取り、白く細い指で恭しく宝石を撫でた。


ルビーヤークートは病から、ハディードは悪しき鬼から身を守る。砂漠ではグール避けにぴったりだろう?」

「なんですって!」


 ライラがぎょっとして立ち上がった。


「どうしたんだい」

「これが何の剣だと仰ったの?」

ハディードの剣だよ、ハディード

「いや!」


 ライラが剣を投げ捨て叫ぶ。すると突然、テントの中だというのに渦のような砂嵐が起こった。


「一体何だ!?」


 ラシードはあ然としてその場に蹲った。激しく打ち付ける砂礫に顔を覆うので精一杯だった。砂のベールの向こう側から、ライラのひどくしわがれた叫び声が聞こえる。しかし、それもやがて砂嵐の轟音にかき消されてしまった。



 視界が晴れた時には、ラシードは一人で涸れ川のほとりにいた。束の間、己がどこにいるのか分からなかった。というのも、ライラの姿もテントも初めから存在しなかったかのように忽然と姿を消していたからだ。ただ一つ薔薇の香りを残して。


「夢……ではないか」


 テントのあった場所まで行くと、そこには夥しい数の骨が山を成していた。山の真ん中にはライラに与えた小剣が落ちている。


「グーラ……?」


 ラシードは小剣を拾い上げた。

 砂漠で旅人を襲い肉を食らうグール。彼女こそが魔だったのだ。

 ライラは女グールグーラだったのだろうかと考え、彼はかぶりを振る。


「いや、イフリータか」


 危うく命を落としかけたにも関わらず、しかし、ラシードは恐ろしいとは思わなかった。夢見心地に宝石を慈しむ手つきは決して嘘とは思えなかった。


「めでたしめでたし、ではなかったのか」


 彼はライラの語った伽話を反芻した。

 あれは彼女自身の話だったか。現実は報われなかったのか。そして、死んで幽鬼イフリータと化した彼女は、死臭を隠す薔薇香ベールを纏い、これからもさ迷い続けるのだろうか。

 対岸の崖を見上げると小さな木が凛と立っていた。彼女と同じ香りがする。


「薔薇香の木……?」


 彼はそれを手折ることなく、砂の海を渡っていった。

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砂中の棘 にっこ @idaten2

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