33 「無理な相談ですね」



 見上げる先の蛍火は、表情を変えずに頷く。

 そして。


「馬鹿ですとも」

「馬鹿」


 二度目の暴言。

 馬鹿なんて言ったとは思えないくらい平然としている蛍火は、あっけに取られているわたしの髪を触れるか触れないかくらいで、そっと指先で払った。


「死んだ理由を明かしたのなら、もう躊躇することはないでしょうに」


 何の話?


「紫苑様のお話ですよ」


 わたしが話の推移についていけていないと読み取り、蛍火が丁寧に教えてくれた。

 けれど、どのみちわたしは話の推移の突然さについていけなかった。


「指輪を外してもらったのですね」

「──うん」

「なぜですか」

「なぜ、って。……そういう結論に至ったから」

「『そういう』ですか。全く、困った人ですね」


 困らせた覚えがない。

 事実、蛍火は困ったようにと言うより、呆れたようにしている。

 呆れさせた覚えもない。


「睡蓮様は、負い目がなくとも私と内界に来てくださいましたか」

「──なに、急に」

「睡蓮様は、再会したとき、私と関わるべきではないと仰られました。酷いことを頼んだからと」

「……うん」

「神子となったのは弟君が王となりちょうど良かったからでしょうが、私の要求通り内界で私の側にいることを承諾してくださったのは、私にその負い目を感じていたからではないですか?」


 偶然会っても、関わるべきじゃない。わたしは蛍火と関わる資格を持たない。今でもそう思う。

 だけれど、蛍火がわたしに側にと言った。だからわたしは、蛍火が望むならそうしたいと思った。

 蛍火に、させてはいけなかったことをさせてしまったからだ。確かにそれは、負い目だった。


「……蛍火に、やらせちゃいけないことをやらせた」

「やらせた、と仰いますが、どちらかと言うと『やらせた』のは神では?」

「選んだのはわたしで、頼んだのもわたし」

「それならば、その頼みを聞き、受けたのは私です」

「でも、──蛍火の手を汚させちゃ、いけなかった」


 汚れるべきではなかった手。


「ごめんね、蛍火」


 謝る理由があるとすれば、これだ。

 わたしは謝った。


「蛍火、泣いてたよね」


 かつての最期の記憶。最後の最後に覚えていることは、ぼやけていく視界で、蛍火が泣いていたこと。

 長すぎる時間を共にしてきていたのに、蛍火が泣いているところを見たのは、初めてだった。

 そのときに、わたしは気がついた。ああ、彼にやらせてはいけなかった。長く時を過ごしてきたからこそ、彼にやらせてはいけなかったのだ。

 ──わたしを殺させることを、彼に頼んではいけなかった。


「……先に泣きそうになっていたのは、睡蓮様の方ですよ」

「え?」

「私に『殺して欲しい』と頼んだとき、あなたは今にも泣きそうでした。……即位当初の頼りないときでさえ、そんなに弱々しくはなかったのに」

「……蛍火に頼むことと、蛍火に、神が否定したわたしに長く付き合わせてたことが、申し訳なかったから」


 約二百年前、千年近い時を否定された。誰であろう、神に否定された。わたしの時代は無駄だった。

 無駄な千年に蛍火を付き合わせていたと思った。

 時の長さが情けなくて、申し訳なくて。そんな最後の後始末を彼に頼むことも、申し訳なかった。


「そう言われ、謝られ、私は否定したはずですね。どちらも。あなたに悪いところなどありはしなかった、あなたが謝る必要などどこにもなかったのですから。

 私は、睡蓮様の理由を聞いて悲しくもあり、自分が情けなくもありました。睡蓮様にそう思わせ、そしてもう取り返しがつかず、やり直すことなど出来ない位置まで来てしまっていることをよく知っていたからです」


 わたしがもうやり直せないと思っていたように、蛍火もわたしがそう感じた理由が分かったのだ。

 もう遅い。わたしの時代は長く、ほとんど不変で来ていた。完成してしまっていた。

 変わるには遅すぎて、わたしも限界を迎えていた。


「だから私は、引き受けました。あの頼みを、私に頼んでくださったことは得難いものもありました。他の誰でもなく、私に頼んでくださって良かったと思っていますよ。たとえ、一方であなたを失いたくなかったのだとしても」


 一度、ゆっくり瞬きしたあとに表れた目に、既視感を覚えた。

 いいや、既視感、ではない。この目に似た目を──


「もしもあなたが死ななくとも許されたなら、それなら時代に固執することはなかったでしょう。王位を降りてもあなたがただの人として生きる道があったなら、私はあなたに時代を捨てさせ、玉座から引きずり下ろし宮殿から出したでしょう」


 そんな選択肢はなかった。

 王は、王となれば人の域を越える。同じく長い時を生きられる神子と同じようで、神子と違ってただの人には戻れない。

 王位を降りるときは、死ぬとき。生き続けるには、国を治め続ける必要があった。

 わたしが国を治める先が見えなくなって、それなら辞める、という道はどこにもなかった。

 もしもを語りながらも、蛍火は語る中身がどうしようもなくもしもだと自覚していた。


「残念ながら私は、紫苑様の気持ちも分かります。睡蓮様を、決して離さず、自分の力が及ぶ場所に閉じ込め、留めておく気持ちです」


 何だって。

 耳を疑うわたしに構わず、蛍火は上からわたしを真っ直ぐ見下ろして、口を動かし続ける。


「ただ、私は彼ほど何もかもを率直には伝えられるような性分でも、関係でもありませんでした。睡蓮様は王で、私は神子で、主従でしたから」


 わたしは王で、蛍火は神子で、主従で。

 それが、なにか?


「本音では、弟君を心配して西燕国に行くあなたを内界に留めて、出さず、縛り付けてでも側にいて欲しいと思っています」

「……蛍火、今、すごく身の危機を感じたんだけど」

「それは上々です。どんどん感じてください。伝わっている証です」


 何が。

 いつか紫苑にも感じた身の危機は、慣れない危機感だ。

 今、蛍火が分からない心地に陥った。

 今世も合わせると、もう千年も知っているのに。

 今だって、こんなに側にいて、真っ直ぐ見ているのに。いや、だからこそだろうか。


「──蛍火」

「はい」

「今、ちょっと混乱してるから、それ以上何も言わないでね」

「無理な相談ですね。長く付き合ってきた相手に、戸惑うほど知らない面があるとは予想にもしませんでしたか?」


 それが今のことを示すなら、全力で肯定する。思うように頷けないのが残念だ。


「人に隠そうとしている部分が裏、表が普段意識して出していたり無意識に出ている部分だとすれば、おそらく裏表のない人間はほとんどいないと思われます。そして、私があなたに隠してきた面があるのなら、あなたが見てきた私は表のみなのでしょう」


 じゃあ、裏は。


「好きですよ、睡蓮様」


 あなたのことを愛していると、蛍火はこの上なく柔らかな声でその言葉を、わたしに降らせた。

 これだけの時を見てきたのに、まだ見たことのない表情がある。これが、裏なのだ。


「え、──えっ」


 わたしは、二度、驚きの声を上げた。


「知らなかったでしょうね」


 上からわたしを見下ろす蛍火は、変化しない笑顔を浮かべ続けている。


「睡蓮様のことが分かったのは、だからでしょうか。あちら側はなぜかまっっったく気がついておられなかったようなので」

「な、なにが」

「まずは落ち着きましょうか」


 ぽんぽん、と背中を叩かれると、自分で作った距離のくせして、この距離に落ち着かなさは生まれながらも、驚きが静まっていく。

 しかし、蛍火に回していた手は落ち着かなかったのでどうしようかと──


「あなたは、馬鹿ですよ」


 また、馬鹿。

 蛍火を見上げ直すと、やっぱり彼はわたしを見ていたけれど。その眼差しが、さっきまでとは異なっていた。

 優しいのは変わらない。優しさだけしか見えない。


「あなたは、再びこの世に生まれました。それが神が、あなたが千年を越えて生き、千年という時を王として民に討たれることなく勤めあげたご褒美にもう一度の人生を贈ってくださったと考えて。──睡蓮様も、以前諦めたものに手を伸ばしてはいかがですか?」

「蛍火、わたし──」


 蛍火が、好きだと言った。愛している、と。意味は、今ならすぐに理解できる。

 その言葉に、何と返せばいいのだろう。付き合いの歳月ゆえに、一生懸命頭を働かせていると、蛍火は「分かっています」と言った。

 蛍火は、全てを分かっていた。彼は何をとは明確に言葉にして示さなかったけど、目で分かった。

 わたしが蛍火の言葉に同じものを返せないことも、その理由も。全部。分かっているのだ。


「あなたを殺し、二百年。私の想いにはすでにどこかで決着がつけられていました。あなたに再会し、それだけで心が満たされています」


 蛍火は、美しく微笑んだ。

 確かに宿ってた熱は、目から消え、優しさだけが満ちていた。

 穏やかに微笑む顔に、堪らず、わたしは蛍火を抱き締めた。


「抱き締めてくださるのはとても嬉しいのですが、振られる身としては複雑な感情が芽生えます」

「……ごめん。つい」

「こういうところ含め、私はそういう風には見られないということなのでしょうね」


 ぽんぽん、と頭を叩かれる。


「蛍火だって、これって子ども扱いじゃないの」

「仕返しですよ。おや、大人扱いされて、口説かれたいと言うのなら、実践しましょうか」

「そこまで言ってない」


 そそくさと、抱擁を解いておいた。


「しかしですね、こちらの気を知らないからと言って、軽率に手に触れるのを許したり、むしろ進んで触れるのは軽率が過ぎます」

「えっ、なにそれ、いつの話?」


 聞き返すものの、蛍火はやれやれというしぐさをするばかり。


「私だって、最初は小娘同然にしか見ていなかった女性ひとを好きになるとは思ってもいませんでしたが。──まあ、それはそうと」


 がしっと手を掴まれた。


「ん?」

「行きましょうか」

「え?」


 どこに?


「無論、恒月国です。あなたは馬鹿だと言ったでしょう。掴めるようになった幸せを掴まないとは、本当に……。あなたが躊躇せず彼の手を取ったなら私はずっと秘したまま見守るだけだったのですがね。躊躇してくださったことにささやかな幸福と優越感でも感じておくべきなのでしょうかね」

「え、ちょっと、蛍火──一回止まって!?」


 問答無用で引っ張られて行くので、止まってほしい。

 今、恒月国って聞こえた。


「恒月国って、そんな急に」

「急で結構。私からすると遅い方です。あなたが隠していたことを話したのなら、全ては向かうべき方へ向かうと思っていたのですからね。あの指輪を嵌めていた紫苑様です。改めて求婚くらいされたでしょう」

「見てたの?」

「いいえ。障害がなくなったならば、しない理由はない。それだけのことです。ですが、あなたの指からは指輪が消え、私に内界に戻ろうと促すではありませんか」


 そこでまた、蛍火は「本当に馬鹿ですね」と馬鹿を繰り返し、「紫苑様も紫苑様で、どういうつもりかは知りませんが」と呟いた。


「おそらく、あなたは自分だけが望む通りに生きて、幸福になるべきではないと思ったのでしょう。他人のことを考えられるという点は素晴らしいことですが、つくづく幸せになりにくい性格ですね」

「それは──」

「あなたは」


 声の大きさはそのままに、強めの声の調子で遮られた。聞け、というようだった。


「あなたは自分のために生きるべきです。他人のことより、自分の幸せを考えれば良いでしょう。もうあなたは王ではないのです。国のためにも民のためにも生きなくて良い、ただ一人の人間です」


 進む前を見据えていた蛍火が、わたしを振り返った。


「私は、何よりあなたに自由に生きてほしい。幸せになってほしいのです。それが、私の望みであり、十分な幸せです」






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