長い命の使い方

ウサギ様

長い命の使い方



【祈る神なんて】


 少女が夜の街を歩く。 小柄、華奢、細身、低身長、幼い子供のような姿をした少女であり、近隣の名門高校の制服を着ていることのみが、少女の年齢を正しく示していた。


 少女の息は切れはじめており、日々の運動不足が祟って早歩きをするだけで脇腹が痛みを発して、息を吸って吐いてとしている気管が乾いてヒューヒューと音を鳴らす。


 その少女の後ろから追いかけてくるのは、現代日本では秋葉原かハロウィンでしか見ないような膝の下まであるような黒いローブを着た男達。 嫌に着慣れた格好は安っぽいコスプレらしさを取り除いて、妙な威圧感を放っていた。


 少女は逃げられると思っていなかった。


 運動不足で背の低い自分、それに対して大の男が数人もいて、何よりも少女を諦めさせたのは──。


「待て! 鎖の書:第二章【咎人を捕らえよ】! 奴を捕縛しろ!」


 男の口から放たれた謎の言葉と、それに呼応するように現れた、男のいた地面から生えるように伸びる鎖。


 ──非科学的な、魔法、魔術としか呼べないような奇妙な現象。


 鎖を避けるような体力などなく、追いつかれたと同時にその鎖が少女の身体にまきついた。


「……痛い」


 少女は諦めたように口にする。 何をされるのか、分かっていた。


 魔術のような不思議なものではない、ナイフという単純な暴力を持った男が近づき、少女はその大きな目を閉じる。


 一秒、二秒、三秒。 痛みは、どんなに待っても訪れなかった。


 人の熱が感じられ、恐る恐ると薄く目を開けると少女の前には男達とは違った普通の服装をした青年がつまらなさそうに表情を歪めて舌打ちをしていた。


「……だれ? 味方……?」


 思わず少女は口にする。


「残念だが、敵が味方かを答えれば明確にお前の敵だ。 こいつらと変わらずにお前を殺す気でいる」


 ああそうなのか、と少女が少し残念に思っていると、青年は「だが」と付け加える。


「それは今じゃない。 と、お前達にも通達されていたはずだが」


 男達は青年の言葉に顔を顰める。 どうやらハッタリではなかったらしいが、従うような素振りを見せるものはいなかった。


「後手に回れば回るほど、取り返しがつかなくなると、我々はいつも言っている! また遅きに失するのか!」


「俺もお前も下の駒だろう。 考えるのは役目ではない。 塔の連中は指示系統すら出来ていないのか」


「管理者気取りの言いなりになっている馬鹿犬が、そこを退け!」


「分かってはいると思うが、お前らを殺すなという指示は受け取っていない」


 男達は手に持っていた様々な本を青年へと向け、青年がそれに舌打ちをすると、青年の周りに二つの光の線が渦巻くように纏わる。


 光の線には文字のようなものに見えるが、そのような文字は見たことすらなかった。


「ッ! 二重螺旋の魔導書! 雑魚かと思っていれば、まさか!」


 その言葉を聞きながら青年は懐から拳銃を取り出して興味なさげに男達へと向け、間髪入れずに発砲する。


「ッ! お前、何故銃など、卑怯なものを!?」


「塔の連中とは違う、当然使えるものは使う。 虚の書:第三章【言葉に価値はなく】。 寄る辺を奪え」


 青年の周りから何か黒い靄が現れ、それが数多の手の形を成し、その手が男達へと襲いかかる。黒い手は男達へと迫り、その手に握られていた本を握り、無理やりに奪い取る。


 男達の驚愕する声をかき消すように、乾いた音が夜風に響いた。


 少女は発砲音など聞き慣れず、見た目として地味な傷跡しか残らないため、その状況がうまく飲み込めずに、呆然と見つめる。


 続いて何度も発砲音が夜の風を裂くように響き、静まり返った。


「まったく、馬鹿ばかりだ。 撤退を決めていれば被害も少なく済んだことだろう」


 青年は倒れ動かない男達に興味を失ったように振り返って少女の方を向いて話す。


 何と返事をしたらいいのか、あるいは怯えて叫ぶ方がいいのか、はたまた逃げ出した方がいいのか。 一瞬の逡巡のあと、少女の思考は無駄なものに終わった。


 少女の背から、革靴がアスファルトを踏む音。


「まったくだな。 勝てない相手を見極めることすら出来ないなど、畜生にも劣る」


 少女が恐る恐ると後ろを見れば、スーツを着た巨体の大男が、ヘラリと笑みを浮かべていた。


「塔の連中じゃないな。 島の田舎者か」


「本家やら元祖と言ってくれないか? まぁ、俺の魔術はそんなに古ぼけたものじゃないがな」


 大男は手を虚空に向かって伸ばし、乾いた発砲音が響き、笑みを浮かべた。


「お前も畜生以下か。 二重螺旋!」


 大男の手により何も存在していない虚空から引き抜かれた、巻物。 それが開き、金属板に当たったように銃弾が弾かれたのだ。


 少女の耳に舌打ちが響き、襟の後ろが引かれて服で首が絞まった。


「舌を噛む、黙っていろ」


 少女は身体が浮かび上がっているのを感じて目を開けると、暗い中でよく見えなかった青年の顔が目の前にあり──月が嫌に近く見えた。


「……なにが、なんだか」


 青年は少女を抱えながら、ビルの壁を蹴り、またビルの壁を蹴りと繰り返して空中を進んでいく。


「分かる必要はない。 理解出来ないことを理解しようとしても意味がない。 死後の救いを神にでも祈っていればいい」


「……祈る神なんて」


 少女の言葉が夜風に流されて消える。


 辿り着いたのは、自分が生活をしていた学生寮で、制服を着ていたので帰らせてくれるのであれば帰る場所を察して連れてきてくれたとしても不思議ではなかった。


 塀と建物の間に青年は降りて、その手に持っていた拳銃の銃口を少女の額に押し付ける。


「お前の命が狙われていたこと、魔術の存在、あるいは俺達のこと。 先程のことを口外することは認められない。 分かったか」


 少女は小さく頷き、青年はその態度に不信感を抱いたのか続ける。


「お前に魔術をかけた。 口外すれば、お前は爆ぜて死ぬ。 勿論、物に書いても、身振り手振りやら、どんな方法でもだ」


「……毎日、日記を書いてる」


「知るか、このこと以外で適当に書けよ」


「……内容、ないから」


「なら、これでいいだろ」


 青年はポケットに入れていたボールペンを押し付ける。


「知らない奴からボールペンをもらった、とでも書いておけ」


「……うん」


 調子が狂うと青年は舌打ちをしてから、もう一度少女に銃口を突き付ける。


「話せば死ぬ、書いても死ぬ、分かったな」


 少女は頷いて、青年は何度か言ってから、背を向けて塀に足をかける。


 次の瞬間には少女の元からいなくなっており、酷く現実味のない時間は終わりを告げた。


 手にあったボールペンは使い込まれた様子があり、なんとなく申し訳ないことをしてしまったのかと……少女はあまりに的外れなことを思った。


 自室に入って安堵した瞬間、人の死を思い出して少女は倒れた。


 ◇◇◇◇◇◇◇


 ゲノム編集技術、生物の設計図とも呼べる遺伝子を操作することにより、遺伝子的な病に掛からなくさせることや、あるいは特定の能力を上げることの出来る技術である。


 そのような、人類自体の性能を上げることが出来る技術は、世界でも有数の大国である日本を滅ぼしかけていた。


「人間臭くて不快だな。 金属の匂いが気色悪い」


 学生服に身を包んだ青年が誰にも聞こえない程度の声で呟き、隠そうともしていない不機嫌な表情で背の高い門を見る。


 一見して普通の石造りに見えるが、目を凝らせばそれの中にはセンサーがいくつも取り付けられているのが見て取れた。


 名門と呼ばれるこの高等学校には不審者などへの対策は完璧であると、青年に説明をしていた者が言っていたことだ。


 だからというのは関係あるのか、ネクタイの色で学年が判別出来るようになっており、二年生だというのに着慣れていないことで転校生であることが見て取れる青年の姿にも気にした様子はなく通り過ぎていった。


「気が重いな」


 ゲノム編集が行われた人類は「デザイン」と呼ばれている。


 受精卵時に遺伝子編集を受けた者達は既にどのような分野でも常人を遥かに上回っていることが確認されていた。


 この学校【私立伝良高等学校】は、デザインの生徒の受け入れを積極的にしており、デザインにおあつらえ向きの、一点特化が評価される一芸入試による採用が半数を超えている。


 言ってしまえば、馬鹿でもクズでも、能力を示せ、ということらしい。


 門の中に一歩踏み込めば、変わるはずもない空気が一層のこと不快に感じられる。 青年は舌打ちをしながら以前にも訪れた職員室に向かった。


「いやー、この時期の転校生ってのは珍しいね。 ほら、ウチの学校って変なところ多いだろ? それだから、家の事情で転校ってなるとまず別のところだからね」


 人懐こい表情と少し早口な多弁に青年は少しばかり苦手意識を覚える。


「そうですか」と小さく興味なさげに返すが、青年の意思は通じずに教師の言葉が続く。


「あっ、歓迎してるからね? 生徒達も新しいお友達がくるぞー、うれしーみたいな。 だから安心してね、ユツキくん。 あ、真寺 有月くんであってたよね」


 青年、ユツキの興味なさげな態度は緊張として受け取られたのか、小学生を相手にするような言葉が並べられ、興味のない表情から不快なものへと変わった。


「自己紹介とかする?」


「任せますよ」


「なら、した方がいいかな。 事前に連絡していたとは言っても、突然隣に座ってたら驚くかもしれないもんね」


 教師に連れられてこれから通う二年D組の教室に入り、教師の横でぶっきらぼうに頭を下げ、顔を上げる。


 適当に挨拶をして済ませてしまおうとしたユツキの目に、他の生徒よりも一段と背が低く細く華奢、酷く小柄な少女が映った。


 あの時の、と、不思議と息が詰まるような感触に不思議がりながら、それを隠すように口を開いた。


「真寺 有月。 これからよろしく頼む」


 数秒の停止は緊張のせいだと受け入れられたらしく、まばらな拍手がユツキを迎えいれた。


 若干の緊張感を持ったままどこに座れば良いのかと見回すが、空いたらしい席は見当たらない。


「あっ、そういえば席の用意忘れてた。 ユツキくん、悪いけど空き教室から机取ってきてくれない? あっ、分かんないか、そうだな、ミコト頼めるか?」


 ユツキ誰かと思えば目の前にいた、この前に会ったばかりの少女だった。


 おそらく小柄な故に後ろだと目線の問題で見えないから前の席にいて、目につきやすかったから名前を呼ばれたのだろう。


 ミコトと呼ばれた少女は近くにいても聞き取れないほど小さな声を発して頷く。


 少女は立ち上がって廊下に出る。 どうやら案内をしてくれるらしく、ユツキはもう一度教室を見渡してから少女の後を追った。


「……ユツキ、くん」と立つとより一層にその小柄な体型が分かりやすくなった少女が、少し首を上に傾け、大きな黒眼をユツキへと向けながら呼ぶ。


「あの時のことは口にするな。 まぁ、言ったとしても信じる奴はいないだろうが」


 ユツキは無視をするようにミコトに告げると、彼女はこくりと小さく首を動かした。 その薄い唇が少しだけ動いて声が発せられる。


「……怪我は、なかった?」


 ユツキは一瞬だけ彼女の正気を疑い、目を見て大真面目に尋ねていることを確認する。 痛みすら感じられる呆れに頭を抑えながら「馬鹿が」と吐き捨てた。


「ないに決まっているだろ。 ……そもそも脅しをかけた奴の心配なんて──」


「よかった……」


 心底安堵したミコトの声を聞いて、彼は大きくため息を吐き出す。


「どうやら、お前のことが苦手らしい」


「……ごめんね」


「そういうことを言われるのは不快だ。 これ以降、話しかけてくれるなよ」


「……私を、殺すの?」


「話を聞かないのか。 いつかは殺すが、今じゃないだけだ」


「……そっか」


 ミコトは小さく頷く。 彼女は舌打ちをしていたユツキの服の袖を引き、空き教室の扉の前まで来たと伝える。


 扉を開けるとほんの少しだけ感じられる焦げたような異臭に顔を顰めた。


「……この学校にも、タバコ吸う人、いるんだ」


 空き教室で焦げた臭いとなるとタバコを吸った生徒がいたのだろうと思うのは当然のことだったが、僅かな違和感が少女の喉元に留まる。


「いや、これはヤニの臭いではなく……。 おい、俺が運ぶ」


「……じゃあ、椅子、お願い。 タバコじゃ、ないの?」


「編入して早々チビ女に自分のものを運ばせる奴という扱いは不快だ。 いいから寄越せ」


 誤魔化すように机を椅子の上に乗せて持ち上げて廊下に出たユツキにミコトは首を傾げる。


「……やっぱり、いい人?」


「目が腐ってるのか、とんでもなく頭が悪いのか」


 ユツキが眉にシワを寄せながら言えば、ミコトは小さく首を横に振る。


「……昨日、私を守ったの、時が来るまでダメだから。 今日編入してきたの、それの関連だと思う。 この学校の、特別な何か……多分、デザイン」


 ユツキは正解にあっさり辿り着かれたことに内心で驚くが、それほど難しい推理ではないかとも思った。


「……ユツキ、くんの仕事、デザインの実態の、把握……かな。 あるいは、護衛。 その時までの」


 顔を顰め、返事もせずにただ歩くが。 それはほとんど肯定でしかなかった。


「……私、手伝う?」


 無視を決め込もうとしていたユツキだが、あまりに予想外の言葉に思わず「は?」と言って少女の顔を見つめ、改めて見てみれば思ったよりも整っている顔立ちに、思わず目を逸らす。


「何を企んでいるのか分からないが」


「……ユツキ、くん、仲良くするの、苦手かな……って」


「馬鹿か、確かに交友するように言われているが、それぐらい簡単なことだ」


「……困ったら、言ってね」


 ユツキが教室の中に入ると既に授業が始まっており、教師に会釈をしてから適当に一番後ろに机を置く。


「真寺は教科書を持っているか?」


「ああ、はい持ってます」


 鞄の中から教科書とノート、それにペンを取り出して前を見ると全時代的な黒板にチョークで文字が書かれていたのが見えた。


 ユツキは内容の意味が分からずに、教科書を開くがやはり意味が分からないために口に手を当てて考える。


 ユツキは、とりあえず勉学を諦めるとして、デザインの連中と仲良くなることを優先すればいいだろうと決める。


 そもそも、そのデザイン自体ミコト以外知らないのだが。


 授業を聞き流しながら昼休みまで時間をかけて作戦を練る。 学校には給食というものがあると聞く、食事を共にすることにより仲良くなるというのは古今東西どのような場所でも通じるだろうと思い考えた。


 だが、昼の時間になった時に気がつく。


「給食がない、だと?」


 どういうことだ。 とユツキが焦っていると、とてとてと小柄な少女が歩いてきて、ユツキの前で首をこてんと傾げる。


「……どうした、の?」


「いや、給食が……」


「……給食、ないよ? あるの、中学校とか、小学校ぐらい」


「なんだと!」


「……みんな、お弁当か、売店か、食堂か」


「なるほどな。 じゃあ食堂に行ってみるか」


「……場所、分かるの?」


 結局、ユツキは関わらないようにと思っていたミコトに連れられて食堂に向かう。


 食券を販売機で購入するというシステムになっておりそれに習ってユツキも並んで、自分の番になったので日替わり定食のボタンを押すが、何の反応もなく首を傾げる。


「……お金、入れ忘れてる」


「金? ……ああ、なるほど、そういうことか」


 ユツキは真新しい財布をポケットから取り出して、一万円札を何枚かそれから抜いてミコトに尋ねる。


「これで足りるのか?」


「……足りるけど、それ一万円札、これには、使えないよ?」


「これしかないな。 ……調査不足だった出直すとしよう」


 ミコトは手早く買うと引き返そうとしているユツキに追いつき、食券を手渡す。


「いや、自分でなんとかするから必要ない」


「……ん、私、お弁当ある」


「二つとも食えばいいだろう」


「……んぅ、難しい」


 食べる量が少ないのは見れば分かり、むしろ日替わり定食自体食べきれるのか分からないほどには小柄だ。 ユツキは仕方なく食券を受けとり、他の生徒が並んでいる場所に並ぶ。


「……もしかして、世間知らず?」


「そんなことはないと思うが」


「……お金の使い方、知らなかった。 相場も」


「まぁ、それは知らなかったが、それぐらいだな」


「……致命的」


 定食を受け取り、近くのテーブルに二人で向かって、横に並んで座る。 ミコトは小さな弁当箱を取り出してそれを開けた。


 小さく手を合わせてから自分の箸を持って弁当に手を付ける。


「……ユツキくん、なんで……そういうことに、なってるの?」


 ミコトは言葉に気をつけながらユツキに尋ねるが、ユツキは箸を上手く持てないらしく首を傾げながら見よう見まねでどうにかしようとする。


「……フォークとスプーン、取ってくるね」


 近くにあったのですぐに取って手渡すが、ユツキそれを受け取り、まじまじと見つめる。


「これは?」


「……ユツキくん、何人?」


「日本人だが。 なんだこれ」


「……食器。 お箸より、食べやすい、と思う」


 ユツキは頷いてミコトのジェスチャーに頷きながらスプーンを使って米を口に含んで首を傾げる。


「……どうしたの?」


 しばらく難儀したような様子を見せた後にユツキは米を飲み込んで息を吐き出す。


「いやな、固形食料は不慣れだ。 どうにかなると思っていたが、練習が必要だな」


「……ユツキくん、ぱねえ」


「ぱねえ? っと、まぁ一応助けられたから答えてやるとするか」


 ユツキは先程よりもマシな動きで米を口に含み、噛まずに飲み込む。


「例えば、その箸だが……洗うのも割り箸よりも面倒だろう、どうして使っている?」


「……可愛いから?」


「ああ、そうか。 ……と、まぁ割り箸は木製で使い捨てだから環境に悪いとされているだろ」


 ミコトは頷き、ハラハラとした様子でユツキの食事風景を見つめる。


「だが、実際のところは割り箸というのは、環境保全に貢献するものと言える。


 そもそも今日び、自然林の木を切って何かを作るということはなく、人工林の木によって木材を得ているんだが、その際に密集して木が生えていると互いに日を奪い合うことになり、土中の養分も奪い合う。 そのため成長させるために木を間引くわけだが、その間伐を行ったことにより出た木で割り箸などが作られているわけだ」


 ミコトはよく分からないと思いながらも頷く。


「……つまり、割り箸を使っても森には影響ないの?」


「そういうことだな。 むしろ間伐をするついでに収入が得られれば、林業の収入になる。 反対にそれがなくなれば林業自体が成り立ちにくくなり、林が放置されることになる。人の手の入らない林は案外脆く、その林自体が禿山になる可能性まである」


「……なるほど?」


 ユツキはミコトに目を向けて、味噌汁に口を付けて目を見開く。


「なんだこれ、凄い。 なんだこれ?」


「……お味噌汁、だよ。 ……それで」


「お味噌汁……お味噌汁か。 覚えた。 何か凄いものだな。 ……と、間伐というのは必要なことだ、ということだ。 簡単に見れば数を減らすという行為だが、な」


 ミコトは得心がいって頷いた。


「……デザインが、割り箸?」


「そういうことだ」


「……迷惑、かけてないと……思う」


 ミコトが小さく首を傾げると、ユツキは舌打ちをして吐き捨てる。


「生きていることが迷惑だ」


 そう言いながら焼き魚を食べようとして上手く出来ずにいると、ミコトが皿を取って箸で身を分けていく。


「……どうして?」


「助かる。 これ、変な匂いがするな。 ……多くの人は子供を愛する」


 ユツキの口から思いがけない愛という言葉が聞こえてミコトは小さく驚く。


「金銭、環境、コネ、と前時代から親は子供を幸せにするために尽くす」


「……うん」


 ミコトは父母のことを思い出しながら頷いた。 反抗期と呼ばれるような年齢かもしれないが、否定する気も絶対に起きないほどに優しい母だった。


「幸せというのは相対評価だ。 前時代にはまだ才能や努力で金銭、環境、コネといった言わば金持ちの特権を覆すことも出来たかもしれない」


 ユツキはつまらなさそうに米を口にして運んで丸呑みする。


「最高の才能を持った、金と環境とコネのある金持ちの子供は……覆しようもないほど有利だ。 有利も過ぎる」


「……どういう、こと?」


「幸せに出来ない、金持ちに搾取されるためだけの子を産みたがる奴は少ないって話だ。


 デザインには金がかかる。 つまり金持ちの特権だ」


「……少子化」


 ミコトは何度もニュースなどで聞いた言葉を口にした。


「まぁ、理由はそれだけではないがな。 どうしようもない格差を是正するために、などということだ」


「……めちゃくちゃ」


「そうでもしなければ国自体滅びる。 というのが上の意見だ」


「……政治家?」


「そんなわけあるか。 むしろ狙われる側だろうが。 まぁそんなところだ。


 お前がこのことを告発しようが、どうしようもないから諦めて死んでくれ。 静かにしているのが一番長生き出来る」


「……長生きに、価値がある?」


「知らないな。 ……お味噌汁買ってきたいんだが、金を貸してくれないか?」


「……単品では、売ってない」


「なんだと!?  ……仕方ないか」


「……売店で、あるはず。 インスタントの」


「買いに行くか」


 食事を終えた二人は食器を片付けてからミコトの案内で売店に向かい、ユツキはインスタントの味噌汁を三個買い、ミコトに教わりながら備え付けのポットで湯を注いだ。


「……美味しい?」


 ミコトはごくごくと味噌汁を飲んでいるユツキに尋ね、ユツキは軽く首を傾げる。


「美味しい……? ああ、ええと、多分な」


 どうにも要領が得ない返しだったが、気に入っていて満足しているのは間違いないのでそれでいいと思うことにした。


「いいな、これ」


「……よかった。 んぅ、お箸の練習、した方がいいね」


「まぁ放課後にでも行うことにする」


 ユツキが味噌汁を飲み終わった頃に始業時間が迫っていることに気がつき、二人で教室に戻る。


 ユツキは再びこれからについて思考することで教師の言葉を聞き流す。


 放課後になると部活動にいく生徒が多く、そんな中でユツキの前に一人の男子生徒が立った。


「真寺だったよな? 部活何入るとか決めてるのか?」


「部活動か。 いや、決めていないが……しばらくはこちらの生活に慣れるために時間を使おうと考えている」


「お、おう、そうか。 んじゃ、俺サッカー部にいるから、気が向いたら見学とかしたり声をかけてくれ」


「了解した」


「お、おう」


 部活動に安易に入れば、最悪デザインのいない部活であれば時間を無駄にしていると考えて情報が集まるまでは断ることに決める。


 そもそも誰がデザインかが分からないと頭を抱えていれば、昨日今日ですっかりと顔馴染みになった少女が首を傾げながら立っていた。


「……帰らないの?」


「ああ、まぁ今日は寮に戻るか」


「……あ、寮、なんだ」


「夜の間も可能な限りは共にいたいからな」


「……場所分かる?」


「昨日行っただろう。 じゃあまたな。 今日は助かったが、もう話しかけてくるなよ」


 そうしてユツキは寮に帰っていき、ミコトは小さく手を振って彼を見送った。


 彼はキョロキョロと物珍しそうに学校内の施設を見回りながら、去っていき、昨夜の剣呑な雰囲気とは変わって見える。


 ミコトは気を使ってかしばらく教室でゆっくりと過ごしてから、自身も歩いて寮へと戻った。


 制服から私服に着替え、提出された宿題をゆっくりとこなす。 ミコトは長い髪の毛を鬱陶しそうにまとめたところで携帯電話が震えていることに気がつく。


「……はい、長井、です」


「おーい、ぱぱだよー、ミコトちゃん調子どう? 全然帰ってきてくれないからマロンも寂しがってたよー」


「……そう、ですか」


 携帯電話から口元を外してため息を吐き出した。そんなに頻繁に帰れるほど近くないし、長期休暇には帰るようにしているだけで充分だろう。


 犬のマロンには会いたいと思うけれど、現実的に難しい。


 ペラペラと言葉が耳から耳へと流れて行くのを聞き流しながら宿題を終えて片付けていく。


「それで……って、何か声暗いけど何かあったの?」


「……話してないと、思うけど」


「なんだろ、雰囲気的な?」


 我が父ながらチャラいな、とミコトはため息を吐き出した。


「……デザインって、生まれるべきじゃ……なかった?」


 ミコトがそう口にすると、声すら聞こえないのに雰囲気が変わったことが伝わる。


「誰かが言ったのか?」


「……ううん。 なんとなく」


「なんとなくで出るような考えじゃないだろ」


「……誰かが言ったわけじゃ、ないよ。 ちょっと自分について考えようと思って」


「お前は嘘を言うときは多弁になる。 ……パパも母さんも、お前に幸せになってほしいと思ってデザインとして産んだんだ。 産まれてほしかった、産まれて良かったと思っている」


「……そっか。 ありがと」


 そういうことが聞きたいわけではなかった。 けれど、多少は救われたようにも思った。


 だが、言ってしまえば日を多く浴びようとしている木の言葉だ。


 多くの人とは立場が違う。


 携帯電話を切り、カーテンを開けて外を見れば、既に暗くなっており、いい時間かと思って食事の準備をしようとして小さく息を吐き出す。


「……ユツキくん、大丈夫かな」


 自分を救ってくれた人だけれど、自分を殺そうとしている人でもある。 大きな恩義も、彼自身が気にするなと言っているようで何かをしてあげるような義理はないように思った。


 考えとは反して身体は動いていた。


 彼が体調を崩して他の人が代理で来たらもっと乱暴な人かもしれないから、と理由を後付けして、自室から出る。


 一階で一度管理人にユツキの部屋を聞いてから、言われた部屋へと向かう。


 カツンカツンと妙な音がしている扉をノックするとその音が止んで足音が聞こえる。


「またお前か」


 ユツキの不快そうに歪められた顔を見てミコトは小さく頷く。


「……何してたの?」


 ユツキの手に握られた箸を見ていらぬ世話だったかと思うと、彼は呆れたようにため息を吐き出す。


「見れば分かるだろ」


「……ご飯」


「いや、箸の訓練だ」


「……分からないよ……それは」


 ミコトは呆れた目でユツキを見て、部屋の中を少し覗くが生活感がないというか、見える範囲では物が見当たらなかった。


 もっとも、寮の一部屋とは言えど一人暮らしには充分な広さがあるので見える範囲以外にたくさんの物がある可能性もあった。


「……ご飯、大丈夫?」


「問題ない」


「……大丈夫に見えないけど。 ……ん、あがっていい?」


「よくない。 帰れ」


「……クラスの……デザインのこと、教えるよ?」


「あがれ。 ……仲間を売るの早いな」


「……隠してる、ことでも、ないから」


 だとしても、とユツキは呆れるが、ミコトは気にした様子もない。


 中に上がるとミコトが考えていたよりもずっと物が少なく、そもそも収納すら見当たらない。


 唯一あるベッドが非常に大きいものであることとヤケに豪華で心地が良さそうなものであるぐらいだ。


 物が少ないから大きく見えるのかと思うが、よく見てもダブルベットよりも大きなサイズだ。


「……これは?」


「ベッドだ。 睡眠は重要だから、多少良いものを購入した」


 限度、と思いながら、ベッドの下にダンボールがあるのを見つけて少し安心する。


「……それは?」


「飯だ。 ほら、腹が減っているならやるが」


 ユツキはダンボールを開けてアルミパウチされたものを取り出す。


「……何それ?」


「一食分に必要な栄養が取れる食品だ、食うか」


「……いらない」


「そうか。 じゃあ適当に座って教えてくれ……と言いたいが、お前口下手だよな」


「……紙、ある?」


 ユツキはノートとペンをミコトに手渡して、アルミパウチされた食品と呼べるのか不思議なものを口にしながら箸を持ってビー玉を掴もうとしては失敗してと繰り返す。


「……練習しながらなんて、せずに、普通にご飯食べたらいいのに」


「不慣れな所作だと悪目立ちすると分かったからな。 当面は寮の食堂の利用は控えるつもりだ」


「……普通の、を……ここで食べたら?」


「言ってる意味が分からないんだが」


「……自分で、作る」


「なるほど、考えても見なかったが……。 料理というものは国内外問わずに専門店が数多くあることも思えば専門性の高いものだと推測される。 個人でやるには少しばかり難易度が高いと思われるな」


 ユツキの頭が良さそうな頭の悪い発言を不思議に思いながら、ミコトはこてんと首を傾げた。


「……私、作れるよ?」


「本当か。 すごいな」


「……たぶん、普通。 ……作る?」


「いや、もう食い終わったからいらない。 不要な栄養は身を崩す」


「……そう。 お味噌汁、は?」


「いや……うん、なんだ。 いただこう」


 ミコトは人の名前とデザインか否か、どのようなデザインかをノートに書いていたものをユツキに手渡す。


 そのあと自分の部屋に戻って味噌汁だけ作り、ユツキの部屋に向かう。


「……そんなのでいい?」


「ああ、充分だ」


 ユツキはノートを見ながら頷く。


「鮎川 翔……運動能力全般、特に瞬発力。


 羽根水 智子……記憶力を中心に勉学に向いている。


 笹崎 来音……全般的に優秀で病気にもかかりにくい。


 こいつらに限らず、金をどれだけかけてるんだよ。 全校生徒合わせれば小さい国ぐらい買えそうだな」


 食事の値段は分からないのにそういう勘定は出来るのかと、ジトリとした目でユツキを見ながら、椀に味噌汁をよそう。


「お前のデザインは書いてないみたいだが」


「……大したものじゃないから」


「それはないだろ。 塔の連中も島の連中も、考えが浅いが馬鹿ではない。 お前はこの高校のデザインの中でも、特別と思われる何かがある」


 ユツキは椀を受け取り、ほんの少し目を輝かせながら味噌汁を口に含む。


「デザインの象徴となり得るもの……なんだろうな。 何かの能力が高い……ようには見えないが」


「……見たら分かるよ」


「見たら? ……ああ、見た目が良いことか」


「……違う」


 ミコトは照れたように顔を伏せて、赤くなっている耳を自分で触る。


「……突然は、やめて、恥ずかしい」


「そうは言っても他はな、背が低く子供のような見た目としか……」


 ユツキは彼女の目を見て、その答えで正解であったことを悟る。


「……だいたい、正解。 私は、これ以上は……ほとんど、歳を取らない」


「は……いや、それはいくらなんでも」


 デザインとは機能が強化されたものが基本だ。 多くの場合、多少運動が得意だったり賢かったり程度で……。


 不老など、馬鹿げたことを成し得るということは一般的に周知されていないものだった。


「……歳を取らなくて、病気や怪我にすごく強くて……腕が取れたとしても、安静にしてたら、ちょっとずつ治る、みたい。 不死ではないけど……不老で、丈夫」


 乾いた笑いがユツキの口から漏れ出る。


「は、はは。 そりゃあ、デザインを皆殺しにするという話も出るのも納得出来る。 昼の話だ、間伐する必要がある。 どこまでも枝葉を伸ばし広げる上に、枯れない木なんてあればな」


 それこそ森を覆う可能性すらあり得る。 例えば同じような不老の人間が権力を持てばどうなるだろうか、どのような人間にせよ、いつかは死ぬことで帳尻が合っていた。


 しかし、不老であれば、永遠の独裁が可能だ。 資本主義であれば……その独裁はあまりに簡単で、しかもおそらくそれが出来るだけの金銭を親が持っていた。


「お前は危険すぎる。 世界が滅びる原因になり得る」


「……殺すの?」


「上の指示には従う。 後で、だ。 何より、俺が判断出来る範囲を超えている」


「……そっか」


「逃げられるとは思うなよ。 無駄な血を流す上に死期を早めるだけだ」


「……分かった」


 ユツキはミコトがこくりと頷いたのを見て、あまりに素直すぎる様子に不信感を募らせる。 それと同時に不安も芽生える。


「あまり勝手に動いてくれるなよ。 他の組織の連中が狙ってくる可能性が高い。 学校と寮の間から離れるのは……」


「……買い物、行くから」


「また襲われて、死ぬぞ。 昨日の今日で緊張感のない」


「……寿命がないから、いつ死んでも、一緒」


「こっちが困るんだよ。 くそ、拘束するわけにもいかないしな……。 面倒くさい。 街に出るときは俺に声を掛けろ、護衛をする」


 ユツキは苛立った様子を見せながらそう言い、味噌汁を飲んだ椀を突き返す。


「……ありがとう?」


「こっちの都合だ」


「……ん、分かった」


 ユツキがミコトの態度にため息を吐き出すと、彼女は小さく口を開く。


「……例えば、みんながデザイン……になれたら」


「そんなに自分達が優れていると思っているのか? まぁ技術としては近いことは不可能じゃない。 国全体で推し進めれば単価は千分の一とかに抑えられるかもな。 補助金でも出せば案外似たようなことは簡単に出来るかもしれない」


「……じゃあ」


 ユツキはノートを鞄にしまってからミコトの目を見る。


「却下だ。 ありえない。 それこそ滅びに近い」


「……なんで?」


「何が良いか、なんて現状によるとしか言えないからだ。 例えば今よりも地球が暑くなれば、放熱しにくい身体の大きい人間よりも身体の小さい人間の方が良くなる、反対に寒くなれば放熱しやすい小さな身体の人間よりも大きな、といったようにな。


 劣っていると見なして減らしていた遺伝子がなければ死ぬ状況になれば、人類はどれだけ減ることになる。 生物は多様性が必要だ、多様性というのは負け組を作ることだ」


 ミコトは目を逸らす。


「お前達デザインは究極的な利己主義だ。 快楽殺人鬼の方がまだマシとすら言える」


 ユツキは涙目になっているミコトを見て、口を閉じる。


「……ユツキくんは、デザイン……嫌い?」


「ああ、生まれなければ良かったと、心底思っている。 お前達には責任などないことぐらいは分かっているが」


 ミコトは力なく頷く。 妙に遅く流れる時間の中で、少女は小さく首を傾げながら、おかわりはいるかと尋ねた。


 ユツキは訝しげにミコトを見て、少し迷ってから頷く。


「……美味しい?」


「分からない。 ……悪くはない」


「……ユツキくんは、ご飯どうしてたの?」


「普通にそれを食っていたな。 食事に掛けられる時間がなかったからな。 ……思えば、こんなにも何もしていない時間は初めてのことか」


「……この時のために、色々してたの?」


「最近はな。 五年よりも前からは世界を救うための訓練というような、大雑把なものだった」


 ユツキは味噌汁をすすりながら、以前のことを思い出そうとするが、どれもこれも似たような思い出しかないことに気がつく。


「……辛くなかった?」


「どうだろうか。 最近の訓練にはやりがいを感じていたな。 目的のないものよりかは、つまらないものでもあった方がマシらしい」


「……楽しい?」


「目的を果たすのに近づいた時には達成感を覚える。 それは楽しいというものだろ」


「……どうだろ。 お父さんや、お母さんは?」


「血縁者はいるが、会ったことはないな」


 どうでもいい話だとばかりに、ユツキは適当に話す。


「……そういうこと、話してもいいの?」


「ああ、特に口止めをされているわけでもないから問題はないだろう。 俺の知っている情報に価値のあるものはないしな」


 どうにも噛み合わないとミコトは思う。 あまりに価値観が違うせいだろうか。


 味噌汁を飲んだユツキは満足そうに息を吐き出す。


「……噛むの下手だから、ご飯は普通の、食べる練習した方が、いいよ」


「昼はそうするか」


「……朝と夜も」


「余裕があればだな」


 そう言ったユツキは追い払うような手振りを見せる。 ミコトは突然どうしたのかと考えながらも、自分が嫌われていたことを思い出して納得する。


 ユツキはミコトが自室に戻るまで送ったあと、外に出て行く。


 少女は自分も食事をしようと思い冷蔵庫を開けて食材を見て、何を作るのかを数秒考える。 いくつか浮かんだ案を、既に作った味噌汁に合うものに限定して、その中で早めに使っておきたい食材を使えるものに決める。


 早速といったように調理をしようとして、少しだけ自分の機嫌が良いことに気がつき、首を傾げる。


 嫌なことをたくさん聞かされたあとで、美味しそうに味噌汁を飲んでいたのは嬉しいけれど、それだけだ。


 少し考えながら料理を進めていると、何故自分が喜んでいたかに気がつく。


 わざわざ自室の前まで送ってくれたからだ。 そんなに嫌われてないのかもしれないと思って嬉しく思ったのだが、少し妙にも思えた。


 帰らせようとしたのが、急ではなかっただろうか。 それに、わざわざ自室まで送るというのも、らしくない。


 出来かけた料理の火を止めて、軽く上着を羽織ってから廊下に出て彼の部屋へと向かう。


 何度かノックをしても返事はなく、ドアノブに触れると鍵を掛けていなかったらしく、抵抗もなく開いた。


「……いない」


 寮の門限についてはユツキも聞かされているだろう。 何もなしに出て行くとは思えない。


 自室にも風呂はあるが、大浴場もあるのでそれを利用しているのかもしれないと考えたが、どうにも似合わない。


 まさか、と考えてエレベーターで上階に登る。 最上階まで着いてから階段で屋上に登り、扉を開けるとミコトの長い髪を揺らす風が吹く。


 一階から降りようとしても管理人に止められると思い、屋上から外を見回すことにしたミコトは暗い中、屋上の縁から人の影を探す。


「……いた」


 数人の男の人に囲まれた青年、暗いせいもあり判別は難しいが、ユツキで間違いないだろう。


 異様な雰囲気を感じるが、話し合いをしているのか争うような様子は見えず──不意に、ミコトは男の一人が屋上へと向いたことに気がつき、背筋に緊張が走るのを感じる。


 一瞬、ユツキが同じように向いたことが分かり、不思議と安堵を覚えた。


 もしかしたら彼の仲間かもしれないということは分かっていたけれど、不思議と安心していた。


 ユツキが寮に戻って行くのを見て、ミコトは安心して屋上から自室へと戻った。


【鬼は泣く】


 ユツキが転校して来てからも、特に変わったこともなく学園生活は続いた。


 ユツキはデザインとも普通の生徒とも雰囲気が違い、どこか浮いていたが、スポーツテストの際に運動能力に特化しているデザインに迫るほどの結果を見せ、世間知らずのデザインであるとミコトを除いたクラスメイトは判断して、少しずつだが彼に歩みよっていた。


 口の周りを汚しながら食べているユツキの口元をミコトはウェットティッシュで拭う。


 初日に世話を焼いていたせいもあり、すっかり彼女は世間知らずの馬鹿であるユツキの世話役に落ち着いていた。


「……はい、どうぞ」


「どうも。 指先、どうしたんだ」


「……シャーペンの先と、ノックするとこ、逆だった」


「間抜けか」


 受け答えなどは少しずつまともになっているが、食事だけは苦手らしい。


「この味噌汁、少し妙な味だが悪くないな」


「……それ、コンソメスープ」


 二人は魔術などの極秘事項を聞かれないように人気のない校舎裏で昼食を取ることが多く、ユツキは謎の完全に栄養が取れるという謎の食料とミコトが水筒に入れてくる汁物を飲むことが恒例になっていた。


「まぁなんでもいいが」


「……明日、休み。 スーパー行きたいけど……あの時の人達、説得したの?」


「ああ、そういえば見ていたか。 いや、残念ながら説得は出来ていないな。 あそこで戦闘になれば、存在が知れることになるから避けただけだ。 その、スーパー? というところには俺も行こう」


「……変わらないって、こと?」


「そうだな。 問題なく、お前は俺が殺す」


「……他の人は、いないの?」


「さあ、どうだろうな。 下っ端だから分からないが、そもそも武闘派の魔術師が少ないのかもしれない」


「……戦う用以外、あるの?」


 ユツキは軽く周りを見渡して、小さく息を吐き出す。 彼の周りに以前に見たような二重螺旋の光が浮かび上がり、その光が文字になっていることにミコトは気がつく。


 だが、何語かも分からないでいた。


「生の書:第一章【あるべき姿に】。 傷を癒せ」


 ミコトの親指の先にあった赤い小さな斑点のような傷が治り、彼女は目を丸くして驚く。


「すごい……。 こんなの、みんなが?」


「全員じゃない。 持っている魔導書により使える魔術が変わる」


「……魔導書?」


「男達が本を持っていただろ。 あれのことで、俺の場合はこの周りの光だ」


 ミコトは触れられない光の文字を軽く触れようとして、彼に手が当たってしまったことに気がついて手を引っ込める。


「……本?」


「便宜上そう呼んでいるだけで、情報を伝達するものならば、どんなものでもあり得る。 


 巻物の奴もいただろう。 珍しいやつなら、携帯電話型の魔導書を持つ奴も見たことがあるな」


「……どう違うの?」


「形が違うだけで同様に心から発生するもので、形で魔術の性能に差はない、同じ形でも別の魔術かもしれなければ、別の形でも同じ魔導書かもしれない。 まぁ、あのデカブツのように異様に硬かったり、俺のように持つ必要がないなどの差はあるが」


 情報を伝達するもの、と聞いてミコトは小さく首を傾げる。


 本や巻物、あるいは携帯電話なら分かるが……光の渦というのは何だろうか。


 コンソメスープを飲み終わったユツキはミコトを見て、ぼうっと、する。


「……どう、したの?」


「いや、妙な奴だと思ってな。 普通なら、俺に関わろうとしないと思うが」


「……そう、かな」


「多分、いや、これが普通なのか?」


 二人して首を傾げる。


 そのあとミコトは彼を見て、小さな口を少しだけ動かす。


「……やっぱり、スーパーじゃなくて、街、回ろう。 私服ないと、浮くから」


 ユツキは「いつも学校から帰れば私服だろう」と思い、不思議に思いながら頷く。


「まぁ、何でもいいか。 手短に済ませろよ」


「……うん。 ……でーと、だね」


 デート? とユツキが疑問に思ったのと同時に、ミコトがセットしていた授業の十分前を知らせるタイマーが鳴り、二人は会話を打ち切って立ち上がる。


「じゃあな」


「……ん、一緒にいく」


 授業に遅れないようにと存外に真面目な二人は早足で戻るが、五分以上も余裕をもって到着し、別々の席で次の授業の開始に備える。


「真寺ー、また長井と二人でいちゃついてたのか?」


 ユツキの前の席に座っていた男子生徒、カケルは身体ごとユツキの方に向けて、椅子の背もたれを跨ぐように大股を開けながらユツキに話しかける。


「鮎川、いちゃつくというのはどういう意味だ?」


「そりゃ、いちゃいちゃすることだ」


「いちゃいちゃとは?」


「ちゅっちゅすることだろ」


「ちゅっちゅとは?」


「キスとか? 身体ベタベタしたりとか、そんな感じのだろ! 分かれよ!」


 カケルの言葉にユツキはため息を吐き出して、嗜めるように言う。


「嫁入り前の娘に触るわけないだろ」


「いつの時代の人間だよ。 今時の若者は付き合って別れてと繰り返すもんなんだよ。 分かってんのか?」


「そうなのか」


「いや、付き合ったことすらねえから分かんねえや」


 なら言うなよ、とユツキは内心で思いながら、カケルの目を見てうなずく。 多少話を合わせた方が仲良くも出来るだろう。


「そんでお前どう言う子が好みなんだ? やっぱり小さい感じの? 長井と一緒にいるしな」


 カケルの問いに、好みなど考えたこともなかったと返そうとしたが、どうやら普通はあるようだと察して少し本気で考える。


 同年代の少女に関わったこと自体初めての経験で、知り合いの女性は年齢が幾らも高い魔術師仲間ばかりだ。


「何だろうな……美形?」


「そりゃ普通そうだわ。 そう言うんじゃなくてな。 おっぱいが大きいとか、おっぱいが大きいとか、おっぱいが大きいとかあるだろ?」


「お前の好みは分かった。 なんだろうな、味噌汁が美味いとか」


「料理上手か。 まぁ手料理って憧れはあるよなー。 俺、料理人が作った料理以外食ったことねえからなあ」


「あと、コンソメスープも美味かったな」


「いつの間にか、好きなスープの話になってた。 俺はコーンポタージュ好きだな」


 ユツキはそういうスープがあるのかと、頭の中に留める。 帰りに売店に寄って見てみようと思いながら、話を戻そうとしたカケルに尋ねる。


「そういえば、デートって何か分かるか?」


「ユツキお前、本当に世間知らずだよな。 デートってのはな、恋人同士とかいい感じの男女が一緒に買い物したり遊んだりする感じのあれだ」


 なるほど、と言葉の意味が分かりユツキは頷き、教師が教卓に来たのを見て口を閉じる。


 授業が始まり、意味が分からないながらも耳を傾けていると、不意にミコトの言葉を思い出す。


「デート……」


 恋人の男女が二人で遊ぶ。 混乱が頭の中を支配し、グルグルと頭の中でデートや恋人という言葉が行き交う。


 気がつけば授業は終わっており、その頃になりやっとユツキの頭の中がまとまる。


 あれは聞き間違い、あるいは同音異義語であった。


 もし正しかったとしても、関係ないことだと割り切る。


 そして翌日、ユツキはいつものように制服のままミコトを迎えに部屋まで向かう。


「起きているか?」


「……起きてるよ? もう昼に、近いから」


「そういえば、どうやって行くんだ。 自家用車でもくるのか?」


「……ん、徒歩だよ。 今開けるね」


 金持ちなのに徒歩なのかと思ったが、まぁ歩いて疲れるほどの距離でもなく、そもそも自分で食材を買いに行くというのだから、人に任せることが好きではないのかもしれない。


 ミコトは服装に変なところがないかを姿見で確認する。


 少しばかりふわふわとしすぎているような気がして、気合いが入っていると思われたら恥ずかしいな。 と小さく思いながら、着替え直す時間はないと考えて扉を開ける。


「じゃあ行くか」


 ユツキはミコトの顔を確認したあと直ぐに背を向けて階段の方へと歩く。


 ミコトは慌てて追いかけようとして、追いかけるという行動をするまでもなく、彼の横に来てしまって少し驚く。


「……おはよ、ユツキくん」


「ああ」


 やっぱり、悪い人には思えないと考え直す。


「あまり、離れるなよ」


「……うん。 頑張るね」


 二人して歩くが、ユツキが警戒しながら歩いているために甘ったるい雰囲気はなく、デートと名を打って誤魔化そうとしても作業らしさが抜けきらなかった。


 向かう場所は寮から少しだけ離れた街の一角にある超大型のショッピングモールだ。


「……ここの、四階、食材売ってる」


「四階か。 上がるの面倒だな」


「……エスカレーター、とかエレベーター、あるよ?」


「ああ、動くあれか。 聞いたことがある」


「……昔は、食品売り場は一階のことが多かった。 ……すぐに入れて、出れるとこは、よく買われるものを置くって」


「食材なんて何に使うんだ?」


「……食べる」


「生肉をか?」


「……焼いて。 ……あれ、鮎川くん?」


 ユツキは少女の視線を追うと、シンプルながら小綺麗な私服を着ているクラスメイトを見つける。


「……話、かける?」


「急いでいるようだからやめておこう。 用があるわけでもないし、急いでいるあいつに追いつくのは難しいからな」


 手っ取り早くことを済ませたいのもある、ユツキがそう考えていると、ミコトはとことこと歩いて彼の向かっていた方向に歩く。


「……服屋さん、そこだから」


「ああ、私服を見るんだったか」


 ユツキは頷き少女後を追う。 少女らしい服を買うのかと思っていると意外にも男性用の店に入った。


 キョロキョロと店内を見回して、ミコトにくっつくように歩いていたユツキを何度か見る。


「……好きに見てて、いいよ?」


「いや、お前から離れることはしない。 それに必要ないからな」


「……ユツキくんの、だよ?」


 ユツキは不思議そうに眉にしわを寄せる。


「そういう意味だったのか……。 お前のかと思っていた」


「……男の子のは、着ない、かな」


「俺のか。 ……制服って目立つのか? 文献を読むと制服で遊園地に行くという制服遊園地というのが流行ってると聞いたが」


「……一部だけ。 普通は、校外は私服」


 ユツキは頷き、されるがままに服を渡されていく。 時々値札を見て表情を変えずに戻す姿を見ると、お嬢様というようには見えなかった。


「俺に気を使っているのか? 今週の予算を考えるとまだまだ余裕があるが」


「……高いのは、避ける」


「お前金持ちだろ。 金持ちが蓄財しても、流動しなくなるだけで」


「……私、収入ない」


「そうか、いい教育なことで」


 ユツキの皮肉は少女には伝わらず、珍しく少し嬉しそうにしたが、表情の変化が乏しすぎるせいでユツキには伝わることはなかった。


「……人から、与えられただけのお金で……贅沢するのは、偽物だって」


「金を転がして得る金は本物か」


「……ユツキくんは、酷いこと、言うよね」


「嫌われても構わないからな。 嫌われて良ければそんなものではないか」


「……嫌いでは、ないよ?」


 少し呆気に取られたユツキはほんの少しだけ上がった口角を隠すように白い手を動かす。


「……えへへ、びっくりしてる」


「頭がおかしいんだな」


「……嫌われたがってる、の?」


 ミコトに言われて、ユツキは少しだけ服を動かす手を止めた。


 嫌われたがっているなど、考えたこともなかったが、無闇に嫌がられるであろうことばかりを繰り返している理由としては適当なように思えた。


 自分で考えるという習慣がないユツキは、不満という感情が極めて鈍い。 それは彼自身も自覚していて、だから自身の口から出た悪態は妙なものだと思ったのだ。


 苛立って言ったわけではない。 だとすれば、何故と考えれば、ミコトの言う「嫌われたがっている」という言葉が嫌にしっくりと当てはまる。


「何を、馬鹿な」


「……ユツキくんは、優しいんだね」


「訳の分からないことばかりを……!」


 思わず荒くなりそうな語気を隠すようにため息を吐き出す。 感情的になるほど、策略もないミコトの言葉にはまってしまっているように感じられた。


「……好かれてる相手は、殺せないの?」


「そんなはずはないだろ。 必要があれば、誰であろうと」


 ユツキの顔を見て、ミコトは表情を変えようとして、上手く出来ないことに気がついて、両方の目の端を抑えて持ち上げる。


 無理矢理吊り上げられた目のまま、少女はいつもよりほんの少し、大きな声を出す。


「……こらー、わるくち、ばっかりっ……。 ユツキくん、めっ、だめだよ」


 その様子を見て、ユツキは訳が分からずに返す。


「なんだ、それ」


「……ユツキくんが、殺せなくて、困らないように」


 彼は少女の妙な行動で自分の口角が上がっていることに気がつく。


 口元を押さえて、それを戻す。


「馬鹿なことはしていないでいい。 服はこれで充分だろう」


「……うん。 食べ物、買えなくなるもん、ね」


 数組の服を購入したあと、二人は四階の食材売り場に向かう。 こじんまりとした食品売り場でミコトは値札を見ながら籠に放り込んでいき、それを不思議そうにユツキは見る。


「……これ、人参。 お味噌汁に入れてる、赤いの」


「ああ、あれか。 元々ああいうものではないんだな」


「……切ってる、よ。 これ、大根、四角くて白いの」


 ミコトはユツキが分かるように味噌汁の具として使ったことのある食材を見せながら説明していく。


「……わかめ、黒いふにゃふにゃの。 しじみ、は、見た目通りかな」


「これがあれになるのか?」


「……ふやける、から」


 すごいな、とユツキは口にして、ミコトは今日買おうとしていたメインの物に手を伸ばした。


「……これがお味噌」


「味噌、味噌汁のあれか?」


「……うん」


 ユツキは興味深そうにそれを見る。 ミコトはユツキの知識の偏りを不思議に思いながら、必要な物を籠に入れて会計をする。


 ユツキはミコトの手から袋を奪い取り、寮に帰ろうと歩く。


 クラスメイトの女子の姿が遠目で見えて、ミコトはユツキの服の袖を引いて道を変えようとする。


「どうした」


「……一緒にいるの、見られるの、恥ずかしい」


「鮎川のときと違うな」


「……女の子、すぐに、噂になるから」


「意味が分からないが、別に何でもいいだろ」


 ミコトの抵抗も虚しくユツキは歩いていき、クラスメイトの女子は二人の姿を見て驚いたように見てから、声もかけずにニヤニヤと二人を見送った。


「……からかわれる」


「何をだ」


「……ユツキくんには、分からないこと」


 ミコトは表情も変えずに顔を赤らめながら歩く。


 寮に戻った二人は初めにミコトの部屋に向かって食材を置く。ユツキは服の入った袋を持って自室に戻ろうとして、ミコトに引き止められる。


「……お味噌汁、持っていくね」


「ああ、分かった」


 いつも夕飯時に作り持っていくのがミコトの日課になっており、気にした様子もなくユツキは頷く。


 自室に戻ったユツキは関わることの出来た生徒から得られた情報をまとめて定時連絡と共に送る。


「……こんなことに意味があるのか」


 デザインに関しての情報は多少隠しているが、名簿を奪えば手っ取り早く、そもそも最終的にはそうするつもりなのだろう。


 不確定なこんな情報が役に立つとは思えない。 結局全員殺すなら細かなデザインによる特性など考える必要もない。


 ユツキは少しだけ疑問に感じながら、関係ないことだと振り払う。


 何をさせたがっているのかは分からない。 あるいは先走る奴等を止めることを目的としているのかもしれないと考えたが、その目的を自身に伝えない意味が分からなかった。


 だが、意味のないことをさせるとは思い難い。 指示の少なさも相まって、違和感や疑問が積もる。


「……遅いな」


 いつもなら部屋に来ているであろう時間になってもミコトが来ていない。 少し不思議に思いながらも、行き違いになるのも防ぎたいと思い少しだけ待つかと考える。


 三十秒ほど待ったところで、自身の任務に対する焦燥もあり、ユツキは落ち着かない気持ちを封じるためにもミコトの元に向かうことに決めた。


 そう遠くもない部屋へと歩き、その扉を何度かノックするが反応が返って来ない。


 行き違いになったと思い振り返ったところで、焦げた異臭に気がつく。


 戸惑いや迷いもなく、ユツキは全力で扉を蹴り破壊する。


 壊れた扉からの異臭が強まり、中に入れば、ほんの少しだけ先ほどよりも乱れている室内に、異臭の源だと思われる、溶けた窓ガラスと焼け溶けたカーテンが目に入った。


「っ、四階だぞ、ここは」


 目を見開く、溶けた窓から外を覗き込むが人の影は生徒のものだけだ。


 カーテンやガラスはまだ熱を持っていて、白昼堂々としていることもあり、急いで向かえばまだ見つけられるかもしれないと思われた。


 携帯電話を取り出し、慣れた様子で連絡先を入力し、耳に押し当てる。


「真寺だ。 対象の高校の生徒の長井命が何者かに攫われた。 犯人の特定と追跡の許可を」


 ほんの少し語気が強くなっていることに気がつく。 扉を破壊したせいで廊下が騒がしくなっていることに気がつき、早く追跡をするべきだと考える。


「特定は既に完了している。 追跡の許可は出来ない」


 電話越しの男の声に、ユツキは考えもせずに口を開く。


「どこの人間だ。 追跡は何故出来ない。 まだ作戦の本行動は先だろう」


「それは答えることは出来ない。 真寺有月、現場にいるのならば、人に見られれば厄介だ。 早急にそこから離れたまえ。 以上だ」


 電話は切られ、ユツキは舌打ちをして命令に従おうとして窓から出ようとする。


 その時に、ここ数日で慣れ親しんだ、味噌汁の匂いに気がつく。


 味噌汁の入った鍋を見て、ユツキは口に出す。


「……遅かれ、早かれ。 どんな状況であれど、どうせ死ぬんだ。 助けに行く意味はない」


 ならば何故、それを自分に言い聞かせようと口にするのか。


 決まっていた。 助けたいと思っているからに違いない。


 もう一度携帯電話を手に取り同じ場所に連絡をし、同じように一言で拒否される。


「命令違反を行う。 意味はない。 生きても数ヶ月だ」


 ユツキは自分へと言い聞かせるように言うが、そんな言葉は誰にも届かなかった。 無論、ユツキ自身にさえも。


 頭の中では言い訳するための理由付けばかりが浮かぶ。 何故その場で殺さずに攫ったのか、何故特定まで出来ているのに追跡が許されない、何故先走りが許されている。


 もう一度、携帯電話を操作する。


「真寺有月 クドい。 答えることは出来──」


「守らないのは魔術師の仕業ではなく、別の存在だからか。 この誘拐が魔術師の存在が知れてしまう理由にはならないと思っているんだな。


 だが、塔と島の魔術師はこの付近に多くいて、デザインを殺そうとしている。 金のある連中が警察だけに捜索を任せるとは思い難い、デザインやその親の手先が散らばれば、街中が戦争になる可能性が高い」


「……判断に時間がかかる」


「追跡を行う。 手は出さない。 許可を」


「……許可が出るまでは手は出すな、分かったな」


 ユツキは携帯電話を閉じ、窓から飛び降りる。


「生の書:第六章【為すべきことがために】……より強く」


 ◇◇◇◇◇◇◇


 馬鹿げている。 と長井命は強く思った。


「出来ることならば、貴方自らが協力してくれることに越したことはないんですよ。


 ほら、健康診断って受けたことありますか? 落ち着いた環境でするでしょう? 走り回った後になんてしない。 暴れられたり、不安に思われると困りますから」


 車の中、手足は縛られていない。 窓を融解させて侵入するという手荒な誘拐で、問答無用であったが、妙な話、ある種の丁重さもあった。


「……分からない」


「何がですか? 私達が非合法であることは分かっていますが、悪党だとは思っていません。


 大多数の人間のために、世界を変えたいと思っているだけです。 もちろん貴方の幸せも望んでいますので、可能な限り誠実にお答えさせていただきます」


 ミコトの横に座っている女性、ミコトを直接持ち運んだ彼女は車内にある冷蔵庫から飲み物を何種類か取り出しながら、早口で答える。


 ミコトは宗教のようだと思いながら、女性を見つめた。


「……人のため?」


「はい、そうです。 多くの人を救うために貴方の協力が必要なのです。


 永遠の命を持った、【不死】のデザインである長井命様の協力があれば、多くの人の命が救うことが出来るのです」


「……私と似たの、作るの?」


「いえ、それは行いませんよ。 万能細胞というのはご存知ですか?」


「……移植に使う?」


「はい、その万能細胞で間違いありません。 博識ですね、長井様は」


 小さく謙遜したミコトに女性は続ける。


「従来の移植手術では、本人と同じ遺伝子を持った臓器などを移植します。ですが、それにも問題がありまして、例えば新たな腕を取り付けたとしても、ほとんど動かすことが出来ません。 幼い内の移植ならば大丈夫なのですが、高齢の方に施術を行いますとただの義肢と同じようになってしまいます」


「……うん」


「ですが、長井様の持つ【不死】の遺伝子を持った細胞を用いれば、従来のものよりも遥かに治りが早く適合しやすいと考えられるのです」


 ミコトは小さく頷く。 長井命の【不死】のデザインはただ寿命がないだけではない。 長く生きるために必要な不老、突然死しないための高速治癒、暗殺されないための薬物耐性、など……と、言ってしまえば腹に大砲で風穴を開けられても翌日には傷跡すら残らない化け物だった。


「長井様の不死の遺伝子をその方の遺伝子に組み込んでから移植をこの行うことで、今まででは不可能だった規模での再生医療が、非常に安価で安全且つ負担も少なく多くの人に行えることになります。


 歩けない子供が走れるように、幼い子の親が子供が独り立ち出来るまで生きられるように、目の見えなかった人が星の光を浴びて、音の聞こえなかった人が愛を語り合う。 ──そんな世界に、変えたいのです」


 いいことのように、ミコトは思った。


 デザインの最大の失敗である「格差」と「多様性の低下」は起こらない。


 治療が早くなり入院日数が減れば結果的に安価で提供出来るため貧困者にとっても都合がよく、移植しても生殖細胞に関わりはないので次世代以降の多様性がなくなるということもない。


 状況が状況だけにすぐに頷けるような話ではなかったが、ミコトには甘い言葉のように感じられた。


「……分からない」


 だからこそ、だった。 良い目的であるからこそに、その強引な手管に疑問が生じる。


「……話を通せば、いい」


「おたくの娘さんで実験させてください、って? 危ないことじゃないけれど、話を聞いてもらえるとも思えませんから」


「……私が今、断ったら」


「私達は捕まりますね。 知っての通り、誘拐ですから」


 ミコトは返してくれるのかということを確かめようとしただけだったが、予想外の答えが返ってきてたじろぐ。


「……分から、ない」


「研究に協力していただけなければ、研究すること自体が難しいですから」


「……確率、低いと思わなかった?」


 ミコトにはいつのまにか立場が逆転してしまっているように感じられた。


「研究をするのにあたり、私が捕まっても問題ありませんから」


 利己的というユツキの言葉を思い出す。


 彼女は反対のように思え、危うさを覚えるが美しいとも感じられたのだ。


 車は既に高速道路を走っていたが、ミコトの身体の丈夫さを思えば無理矢理飛び出しても重傷にはならないだろうと思えたが、窓や扉を開けられることはないだろう。


「……被害届、出さない」


「協力していただけないと、いうことですか」


「……困る人、いるから」


「なら、仕方ありませんね」


 女性は微笑み、運転手に戻るように伝える。


「……いいの?」


「はい。 仕方ないですから。 落ち着いて話を聞いていただけただけ、価値があったと思います」


「……もし、私のお父さんにこのことが伝わったら……」


「伝わりますよ。 ですから私達は、もう」


 ミコトは止めようかと迷い、その間に女性は告げる。


「終わりですね」


 その言葉と同時に、車が大きく揺れる。 女性と運転手は事故かと思ったけれど、ぶつかる物などなかった。


 ならば、何か。 それは車内ではミコトだけが分かっていた。


「ああ」


 車内で嫌に響く、男の声。 運転手の側面のガラスが割れ、男の手が伸びる。


「なっ!? 何が起こって──」


「──終わりだ」


 遅かった。 とミコトは思う。


 もっと早くに帰してくれることを知っていれば、どうにかして止められたかもしれない。


 運転手の首が掴まれる。


 割れた窓ガラスを蹴破りながらユツキが侵入し、ハンドルを奪い、車を壁に擦り付けさせる。


 大きく揺れ、女性とミコトの体がシートベルトに抑えられながらも振り回された。


「何者だ!?」


 強引に車が止まり、ユツキはシートベルトで動くことの出来ない女性を蹴ろうとし、避けられたことに目を見開く。


 何故、と考えた時に鼻に異臭を感じ、融解しているシートベルトに気がつく。


 何かの道具、否、見当たらない。 何かの魔術、否、そのような反応はない。


 女性の手に黒い炭と白い煙が見え、それがユツキへと伸ばされる。 ユツキが素手でその手を弾くと、手はガラスへと当たり、そのガラスがゆっくりと融ける。


 機械ではない、魔術ではない。 だが、それは……生身と呼ぶには異常過ぎた。


 ミコトは改めてそれを見たことで、誘拐された際の光景が見間違いではなかったことを確認する。


「……デザイン」


 異常な生身。 人間の機能を強化するだけであるデザインではあり得ないと思ったが、それ以外に説明のしようがなかった。


「なんだ、それは」


 ユツキは振り払った手が火傷を負っているのを見て、戦慄する。


 想定していた手合いではない。 女性の手が再びユツキへと伸ばされる。


 払えば手が焼ける。 避けるには狭い車内、受ければ死ぬ可能性すらあり得る。


 振り払うと同時に女へと蹴りだし、その腹を蹴った上で体重をかけて抑えつけようとしたが、靴が溶けたことを見て脚を引き、ミコトの身体を強引に掴み、扉を蹴り壊して車内から脱出した。


「なんだ、あれは!?  ミコト、何か分かっているのか!?」


「……たぶん、デザイン」


「あんなのまでいるのか!?」


「……見たことあるのだと、平熱が四十度ぐらいのデザインなら」


「それどころじゃないだろ」


「……魔術師?」


「それはない」


 二人で話していたところで、ユツキは周りを囲まれていることに気がつく。


「くそ、また塔の鬱陶しい連中か。 ハイエナのような行動をして」


 ユツキはミコトの身体を抱き寄せて持ち上げる。 そのまま高速道路から飛び降り、田舎らしい街並みの場所に着地する。


「……運転手の人は……?」


「殺してはない。 ちっ、ああ……クソ!」


 ユツキは無理に突っ込むつもりなどなかった。 あるいは見殺しにしてもいいと考えていて──。


 自身の考えが理解出来ずに、頭を掻き毟る。


「……助けにきて、くれたの?」


「殺すぞ。 ……命令があったから来ただけだ」


 ユツキは「塔」の魔術師が出てきたことに少しの安堵も覚える。


 後付けにはなるが結果として言い訳が利くのだから、出てきてくれて助かったとすら言える。


「……大丈夫?」


「お前は!」


 びくりと身体を震わせたミコトを見て、ユツキは背に彼女をやって周りを見渡す。


「大丈夫……か」


 ミコトは目をパチクリと動かして、すぐに答えようとしたが口を動かしても驚きで上手く発声出来ずにいると、ユツキが拳銃を手に持っていることに気がつく。


「……ユツキ、くん」


「追われている。 都合が良かったんだろうな、攫われて人気のないところまできたことが」


「……魔術師の人?」


「ああ、塔の馬鹿共だ」


 ユツキは何度か発砲したあと、舌打ちをして拳銃をしまう。


「対策してきたか」


「……ユツキくん」


「生の書の身体強化を期待してるなら、無理だと言っておく。 あと、殺すなという意見も……」


 ミコトは珍しく、あるいはユツキの前では初めて彼の言葉を遮って声を発した。


「……さっきの人が、デザインだから危ない」


 ユツキは一瞬、少女の言葉の意味が分からず、言葉の意味が分かってもそう言った理由が分からない。


「……助けたい」


 理由が分かっても、彼女の気持ちが分からない。


 力尽くで自分を誘拐した相手だ。 ストックホルム症候群……誘拐した相手に好意を抱いてしまう病は知っていたが、それには少しばかり時間が短過ぎた。


 ユツキが動かずにいると、ミコトは頭を大きく下げる。


「……ありがとうございました。 ユツキくんは、一人で、逃げて」


 そう言ってミコトは先程いた場所に戻ろうと小さい体で走る。


 車内からここまで来たのは一瞬であったが、ミコトの運動能力の低い小さな身体では戻るのに時間がかかるだろう。


 ユツキは反射的に引き止めようとして、だが止める意味がないことに気がつく。


 塔の魔術師が殺したところで、殺した犯人は誘拐犯のデザインであると警察は判断するだろう。


 その場合には多少違和感が出るかもしれないが、その程度の状況操作は簡単であり、そうすれば魔術師の存在がバレることなくミコトの殺害が可能になる。


 不安要素となる魔術師とデザインの親の衝突も起こらない。


 ユツキの所属している組織としても、ミコトは早かれ遅かれ殺すことが決まっていて、ミコトを殺したところで魔術の存在が公にならないのであれば、魔術師同士で争ってまで助ける意味はなかった。


 ミコトは女性の元に走りながら、目の横に赤い炎を見る。 これぐらいなら死なないと、自分の身体の性能を頼りに走り抜けようとして、後ろから首を掴まれて足が止まる。


 その後ろにいた人物がミコトに覆い被さるように抱きつき、火がその人影を焼く。


「……なんで」


 ミコトが唇を震わせながら言えば、苛立ったようなユツキの声が聞こえる。


「何故だ」


「……なんで」


「何故だ」「……なんで」「何故だ」


 繰り返し言い合い、ユツキは炎を振り払い、苛立ったように燃えた上着を投げ捨てる。


「馬鹿か。 馬鹿ばかりか、あいつらも、お前も、何もかも! 理解出来ない!」


 ユツキは吠えるように、手を伸ばす。


「虚の書:第九章【■■■・■■■■・■■■】!」


 聞き取れない、理解出来ない。 そう考えることすら奪う魔術がユツキの手により発動した。


 言語を奪う魔術。 それは声を出した言葉も、紙に書いた文字も、内心に秘める内言すらも奪い去り、範囲内の人間の言語を全て消失させる魔術だった。


 内言とは、心うちで考える言葉だ。 物の認識にさえ言葉があることで深く認知することが出来、それを失った人間の動きは酷く精彩さを欠く。


 あるいは、神への祈りすらも届かなくさせる魔術である。


 混乱、と読んで字の如く。 味方の認識と敵の認識が混じり、動きは乱れる。 まさに混じり乱れた塔の魔術師は、言葉を奪われたことで魔術を発動させることすら出来ずに慌てふためく。


 意思表示の必要がある規則の取れた集団であるほど効果を発揮し、どうするべきかも考えれずにミコトを背負って走るユツキを見送ってしまう。


 ユツキはそのままミコトを攫ったデザインの方へと駆けて、橋の上へと登る。


「くそ、おい、逃げるぞ! 車を動かせ!」


 女性は意味が分からないといった様子でユツキを見て、ユツキは女性に拳銃を向ける。


「いいから、早く!」


 女性は手をユツキの拳銃へと向けて抵抗の意思を見せた。


 ミコトがユツキの背から降りて、女性に頭を下げる。


「……お願い、します」


「ああ、もう、意味分からない! 乗って! 動かなくても知らないから!」


 ミコトの頼みに女性は手を降ろす。 盛大に事故を起こしたばかりの扉が取れてガラスが割れている車にミコトと女性は乗り込み、ユツキは車の上に飛び乗る。


 運転手の男がついていけないとばかりに盛大にため息を吐き出しながら、車を走らせた。


 ユツキは動いたことに安堵しながら、追ってきている車に目を向ける。


 相手も虚の書の効果範囲外に出たことで統制が取れて手早く動いたのだろう。


 ユツキは生の書により身体能力を強化し、拳銃を発砲しタイヤを撃ち抜く。


 これで追ってくることが出来ないと考えて安堵したユツキは、急激な車の揺れで体勢を崩しながら車の屋根にしがみ付く。


「何が……っ! 島の!」


 以前にユツキが逃げた大男の魔術師が道の真ん中に立っており、それを避けようとして動いたらしい。


 車が大男の隣を通り過ぎようとするが、何も起こらないで済むとは、ユツキもミコトも考えていなかった。


 大男の巨大な巻物が開かれる。


「また会ったな、二重螺旋!」


「島の魔術師!」


 車の走っていたアスファルトが崩れ、ガタガタと壊れた道に変わる。


 止まることはないが否応なしに減速させられ、その後、車の前のアスファルトが坂道のようになり、車が止められる。


 運転手や女性が生きていることに安堵したミコトは彼等の手を引いて逃げようとして、どうしても違和感が拭えずにいた。


「……なんで、壁を出さなかった?」


 アスファルトを動かして車を止めたのは、この前、襲ってきた大男の魔術師の魔術であることは間違いないだろう。


 なら、壁を出せばついでに攻撃にもなるのに何故、それをせずに安全に止めたのか。


 ユツキが車の上から飛び降りたところで、大男とユツキは睨み合う。


 ミコトは車から降りて二人を見たが、大男がこちらに一目もくれないことに気がつき、疑念が深まる。


 ユツキの言葉を思い出すと、彼は自分を殺そうとした「塔」の魔術師ではなく「島」の魔術師らしい。


 あの際は混乱しており、二者共に同じような存在だと思っていたけれど、実際は目的が違うのではないか。


 止まった車がまだ動けるような状態であることを見て、ひとつの仮説に行き着く。


「塔」の魔術師はすぐに殺す、ユツキ達は吟味して殺す、「島」の魔術師は殺さないのではないか。


 ユツキ達と違い、デザインを殺す気がない。


「管理者気取りの、馬鹿共が」


「邪魔しかしない、島の田舎者が」


 大男が巻物を広げ、ユツキが二重螺旋の文字を浮かび上がらせる。


 明らかに、どちらも相手を殺すつもりであり、その戦いが始まれば止めようがないだろう。


 ミコトは死ぬことを覚悟しながら、震えた足で、一歩、また一歩と歩く。


 無視をしていた二人だが、どんどんと近づいてくるミコトを無視することが出来ずに、ミコトに目を向ける。


「……貴方は、私に攻撃しないんですね」


 大男に少女は言い、大男は顔を顰めた。


「……島の魔術師は、デザインを殺させないように、している」


 大男は頷き、ミコトはユツキを見る。


「……今、争われたら、巻き込まれて、私は死にます。 ユツキくんも、貴方も、殺す気がないなら、それを納めて……ください」


 虚勢を立てることも出来ていない。 ミコトの脚は震えていて、怯えを隠すことも出来ずにいた。 声も小さく震えていたが、不思議と強い意志だけはしっかりと感じられる。


 大男が巻物を消し、遅れてユツキが二重螺旋を消す。


「名前は」


 大男がミコトを見て、尋ねる。


「……長井 ……命」


「長井、言うと、そこの二重螺旋よりも俺の方が遥かに強い。 戦えば俺が勝つ」


 ミコトは頷く。 以前、ユツキは大男と相対してすぐに逃げの一択を選んでいた。 わざわざ勝てる戦いに逃げるような人には見えない。 実力に差があることは分かっていた。


「そこのやつはいずれお前を殺すつもりだ」


「……うん」


「何故助ける」


 大男の言葉に、言葉を続けることが出来ず、だが確かに真っ直ぐとミコトは大男を見る。


「理由が分かりもしないのに、自分を害する者を助けるのか」


「……うん」


「死にたいのか。 それともただの馬鹿か」


「……ううん。 でも」


 ミコトはユツキに目を向ける。


「……みんな、幸せに、なって……ほしい、から」


 大男はミコトを見て一歩前に出る。 アスファルトが隆起し、ミコトへと襲い掛かり、ボロボロと彼女の目の前で崩れ落ちる。


「馬鹿らしいな。 それが幸せになれるはずがないだろ」


「……ううん」


「知らないかもしれないが、人を殺すためだけに生まれてきた化け物だぞ」


 ミコトはユツキが食事すら、マトモにしていなかったことを思い出す。 変な知識ばかりで食券の買い方も分からない、ともすれば人を殺す以外に何が出来るかと考えても、まだ幼子の方が優秀なぐらいだった。


 だが、ミコトは頷いた。


「……知ってる、ユツキくん、隠すの、下手だったから」


「色恋沙汰に高揚しているのかもしれないが、そいつは理解出来ないぞ」


「……そういうのじゃ、ないよ」


「そいつは、死ぬぞ」


「……人は、いつか死ぬ。 私だけ、ずっと生きるのは」


 大男はミコトの頑強な意思に困ったように頭を掻いて、ユツキを一目見てから諦めたように口にする。


「そうじゃない。 魔術管理院の奴等の目的は、デザインの殲滅だ」


「……うん。 分かってる」


「分かってねえんだよ!」


 吐き捨てるように大男は言って、魔導書である巻物を生み出す。


 ユツキが対抗するように二重螺旋の魔導書を顕現させて、ミコトを庇うように前へと出る。


「こいつは──」


 大男は、感情を露わにして、悲痛に叫ぶ。


「──【魔術】のデザインだ」


 一瞬だけ、ミコトの思考が止まる。


 あるいは叫んだ大男すら、その感情が溢れて動きが緩慢になっていた。


 デザインとは、遺伝子を改変した人間の総称だ。


 頭脳や運動能力は当然として、病気にかからなくすることや、不老すらもあり得た。 どんな事柄であろうと、人工的な遺伝子の改変により人間としての能力を強化することが出来る。


 当前のように、それが非科学的な【魔術】という存在であろうと、可能であった。


「──それが、どうした」


 ユツキの感情の籠らない声が、嫌に静かな道路に響く。


 どうした、と切り捨てられることのはずがなかった。 ユツキの所属している組織は、全てのデザインを殺すのだ。


 その尖兵であるユツキがデザインだとすれば、彼はデザインを殺し終えれば死ぬことになり、それが叶わなくとも負けて死ぬことになる。


「……そん、な……だって、あまりにも……」


 ミコトはフラフラと歩いて、ユツキの服の裾を握った。 ユツキはそれを振り払い大男へと向かおうとして、ミコトに後ろから力強く抱きしめられて動きが止まる。


 あまりにも、身勝手な話だ。 残酷なことだ。


 殺すためだけに作り、役目が終わったら殺すことが決まっているなど……。 何よりも、それをユツキが当然のことのように受け入れてしまうように育てられたということが、酷すぎるとミコトは感じた。


「……見逃して、ください」


「そいつは、殺した方がいい。 生かしておく意味がない。 相手にしてはいけない奴だ」


 ミコトはユツキの身体に縋り付きながら、大男への懇願を続ける。


「……見逃して、ください。 お願い、します」


「見逃してどうする。 お前や、お前の知り合いを殺して、殺して、殺し尽くして、それでこいつも死ぬ。 何の意味がある」


「……させません、から。 私が、見てて」


「止められるはずがないだろうが、化け物だ。 子供一人でどうにかなるようなものではない」


「……お願い、です。 やめて、やめて……」


 ミコトの言葉は大男に向けたものだったのか。 あるいはユツキに言ったものなのか。


「だから、そいつは!!」


 ユツキら涙を流して懇願するミコトを一瞥する。


 大男はそのユツキの様子に何度か目を瞬きさせたあと、後ろを向いて舌打ちをし、歩いてその場を離れていく。


「警察がそろそろ来るだろうから撤退する。


 次、会った時はそれは殺す」


 ミコトは泣いてユツキに縋る。


 しばらくして警察が現れ、アスファルトが崩れて隆起しているあり得ない高速道路の惨状に驚愕しながら、誘拐されたと見られる高校生の二人を保護をしたが、犯人と見られる人物はその場にはいなかった。


【生きる意味≠生きること】


 日記帳に鉛筆の先が当たりはしても、それが動くことはない。


 小学生になる前から続けている日課だった。 普段シャープペンシルを使うようになってからも、日記帳に書くときだけは変わらず鉛筆を使うことが習慣になっていた。


 ミコトは、父母に実家へと連れ戻されると思っていた。 普段から父が開けっ放しの家から通わせるのよりかは、寮から行った方がまだ安心出来るとのことだったのか、ミコト寮住まいは継続している。


 それは、寮住まいの生徒を狙ったものではなくミコトを狙ったものだからだと、父が分かっていることをミコトは察した。


 本人が狙われるなら、警護が多く付けられる分だけ寮の方がマシだろうという判断だろう。


「……はぁ」


 ミコトはため息を吐き出して、いつもはどうやって日記を書いていただろうかと、ページをめくって思い出を遡っていくと、ここ最近はユツキのことが多いことに気がついた。


 そういえば、昨夜は実家に泊まっていて、今日の昼は学校を休んだのでまだ彼に会っていない。


 書くことならたくさんあるはずなのに、とミコトは自分の日記帳に苦笑をしながら、日記帳を閉じて立ち上がる。


 パタパタと動いて、キッチンでお味噌汁を作る。 時間を見たらいつもより遅いけれど、まだ起きているかもしれない。


 味噌汁用に買った水筒に詰めて、一日で修繕され新しくなった扉を開けてユツキの部屋へと向かう。


 ミコトの小さな手が扉をノックし、不機嫌そうなユツキの声を聞いて中に入る。


「……ユツキ、くん」


「ひとつ、気がついた」


 ユツキは大きなベッドの縁に腰掛けて、ミコトを見る。


「お前のことが、嫌いらしい」


 ミコトは「うん」と頷いて、彼の横に座る。


「……知ってる」


 そう答えた。


 用意していた味噌汁をお椀に移し入れて、ユツキに手渡す。 ユツキは少しだけ慣れた手つきで箸を持ってそれに手を付ける。


「……美味しい?」


「分からない」


「……今度ね、文化祭って、いうのが……あるから」


 ユツキはミコトを見て顔を顰める。


「文化祭ってなんだ」


「……学校でする、お祭りみたいなの。 劇をクラスでしたり、出し物をしたり、部活で屋台をしたり」


「生徒がか?」


「……うん、みんなでね、用意するの」


 ユツキはため息を吐き出して、座っている距離の近いミコトから少しだけ離れる。


「酔狂なことだな。祭りなどしなくとも、幾らでも欲しいものが手に入るだろ」


「……お祭り、楽しいよ」


「馬鹿げているな。 祭りがしたければ、金をかければ手を煩わさずに幾らでも出来る」


 ユツキの言葉に、ミコトはにこりと笑う。


「……みんなで、するの、特別……かも」


 人とする。 ユツキはその言葉を聞いて、理解したからこそ少女の正気を疑った。


「お前達を殺そうとしている、俺がか?」


 ミコトは頷いて、一年生の頃にあった文化祭のことを語る。


 展示品のアレがすごかった、こんな屋台が美味しかった、自分は裏方だったけれど自分達がした劇は成功した、漫才をしている生徒がいて面白かった、ダンスを踊っていたのがかっこよかった、音楽をしている生徒が素敵だった。


 ユツキは興味なさげにそれを聞き流す。


「それで、それはいつするんだ?」


「……六月、だよ」


「六月のいつだ、何日」


「……二十日日、ごろ?」


「正確に」


 ミコトは携帯電話を取り出して確認する。


「……開催は、十八日から二十日まで、興味、あるの?」


「毛ほどもないな」


 ミコトはならなんでそんなに正確さに拘るのだろうと首を傾げて、ほんの冗談がてら自分の髪を指先でくるんと巻くように触る。


「……ユツキくんは、毛、フェチ?」


「毛フェチ?」


「……髪の毛に、興味があるの?」


「ない。毛ほどもっていうのは、毛に興味があるかないかの言葉ではない。


 毛にも、文化祭にも興味はない」


「……本当は?」


 ユツキは少し間を置いてため息を吐き出す。


「ないな。 用意とかもあるなら面倒だと思っただけだ」


「……また、クラスで話があると、思う。 何するかも、決めるから」


 ユツキが頷いたのを見て、ミコトは彼から視線を離す。


 彼の部屋の隅に漫画が数冊あることに気がついて目を向ける。 どうやら少女漫画らしく、意外に思って彼を見ると、面倒そうに口を開いた。


「この隣の部屋の奴から借りた漫画だ。 借りたというか、押し付けられたというべきか」


 感想を言うのが面倒くさいと言いながら、ユツキはそれを手に取った。


「……どうだった?」


「まだ読んでないな。 明日には返す約束になってるから読まないとな……」


「……他の人とは、仲良くするんだ」


「まぁそれが任務でもあるしな」


 ユツキは興味なさげに漫画を開いて、ミコトは横からこてんと首を傾げて、それを覗き込んだ。


 ゆっくりとページが捲られて、主人公の少女が元気よく動き回る姿を見る。


 二人とも無言で読み進めて、一巻目を読み終えてユツキはため息を吐き出した。


「邪魔だ。 帰れ」


「……いいところだから」


「これ、面白いか? 正直、意味が分からないが」


「……ふふん、ユツキくんには、恋は早かった、ね」


「お前は……大人だな」


 ユツキは感心したようにミコトを見て、小さくため息を吐き出しながら、二巻に手を伸ばす。


 そうやって読み進めた後、半端なところで三巻が終わって、妙な心残りを覚えながらそれを片付けた。


「そろそろ帰れよ」


「……送ってくれる?」


「同じ建物だろ」


「……前は、送って、くれたのに」


「俺は今から感想を考える必要があるから忙しい」


「……考えて、あげるから」


 ユツキは少し考えてから立ち上がり、扉を開ける。


 面倒だと思うが、自分よりもミコトの方が分かっていることが多そうなので頼った方がいいという判断だった。


「それで、どういう感想を持った」


「……よく、考えたら、男の子とは、感じ方違うものかも」


「今になって言うなよ」


「……えへへ、仲良くするなら、自分で考えた方が、いいよ」


 それはそうだが、とユツキは眉を寄せてため息を吐き出す。 ユツキにとっては完全に騙された形だ。


 ユツキは咎めようかと思い、小さく笑っている彼女を見て頭を抑える。 どうにも、ユツキの瞼の裏には泣いている彼女の姿が見えて強く言いにくい。


 いつまでも扉を閉めないミコトを見て、ユツキが扉を閉める。


「……また明日、ユツキくん」


「ああ、またな」


 少しばかり、ユツキは苛立って歩く。


 ミコトは漫画が良いものであることが分かっていた。 恋愛を主眼においた少女漫画において、その良さが分かるというのは、とどのつまり恋の擬似体験が出来たということに他ならない。


 少女であるミコトの場合は、主人公に自己投影して、相手役の男と恋に落ちることで……。


 それだけが少女漫画の楽しみ方ではないだろうが、ユツキの少ない知識ではそうとしか考えられなかった。


 苛立ちながら歩き、自室に入って漫画を取り出してから隣の部屋に行き、ノックをして部屋の主を呼ぶ。


「ん? おお、真寺か。 漫画読んだ? どうだった?」


 真寺は隣の部屋に住んでいる、鮎川カケルの屈託のない笑顔を見て、今まで考えていた言い訳じみた感想を忘れて本音を口にする。


「相手の男、神奈川だったか」


「ああ、あの金髪イケメンな」


「本気でぶっ殺したい」


「分かる」


 二人は意気投合した。 ユツキはカケルの部屋に上がり、眠気をインスタントコーヒーで誤魔化しながら、夜通し少女漫画のキャラクターの悪口を語り合った。


 そこには殺害しなければならない使命や、仲良くしなければならない情報収集の対象という打算もなく、嫉妬心と不快感に蝕まれた男達の友情だけがあった。


 ◇◇◇◇◇◇◇


 ミコトはユツキが帰ったのを見て、これで日記が書けると頷いて机に向かう。


 いつものように美味しそうに味噌汁を食べていたことを書いて、一緒に漫画を読んだことも書こうとして、その手が止まった。


「……隣の子……羽村ちゃん、だっけ」


 ミコトは左隣のカケルではなく、右隣の後輩の少女のことを思い浮かべる。 まさか男のカケルが男のユツキに貸しているとは思っておらず、ミコトは羽村が少女漫画を貸したと考えた。


 仲がいいのだろうか。 自分は邪険にされているのに、その子は漫画を課すような仲で、感想も考えてあげようと思われているのだ。


 当然、二人でイケメンの悪口を言って盛り上がっているなど想像もせず、ミコトはえんぴつを投げるように机に置いて、ベッドに倒れ込んだ。


「……別に、いいから」


 ユツキが誰と仲良くしようとも関係ないことだ。


 ミコトは不快さを示すようにバタバタと手足を動かして、枕に顔を埋めてため息を吐き出す。


 関係ないことだ。 勝手に仲良くしていればいい。 自分に言い聞かせるようにそう言って、ミコトはベッドから立ち上がる。


「……お風呂に、入ろう」


 気分の悪さを変えるにはそれが一番だと、ミコトは着替えを用意して脱衣所に向かった。


 ◇◇◇◇◇◇◇


 教師は放課後の、誰もが早く部活に行きたい、あるいは帰りたいと思っている時間にクラス全員を引き止めた。


「ゴールデンウィーク入る前に、文化祭でやること決めるぞー、ほら、学級委員のカケル、まとめてくれ。 俺は寝てるから、決まったら起こしてくれ。 ああ、被るかもしれないから第一希望から第三希望まで出しててな」


「了解です。 あー、眠い」


 カケルはイケメンの悪口で睡眠不足の目を擦りながら、自分の椅子を持って前に出て、気だるそうに前で座りながら口を開く。


「二年目だし、おおよそどんなことをやるか、どれぐらいの予算が出るかは分かってると思うから省くな。 説明しても面白くないだろうし。 真寺は長井にでも聞いてくれ」


 カケルはこれでクラスのみんなも早く話が終わって勝ち、俺も楽で勝ち、ユツキもミコトと話せて勝ち、と一石三鳥だと思いながら、ユツキにウィンクをする。


 ユツキは無視をした。


「んじゃ、何かやりたいってのあったら言っていけよー、熱意があるならプレゼンしてもいいぞ」


 カケルの言葉に男子生徒が手を挙げる。


「はいはい、メイド喫茶!」


 お調子者の言葉で教室の中で小さく笑いが起き、カケルは手早く黒板にそれを書く。


「お化け屋敷とか!」


「面倒だし、なんか展示品とか」


「劇とかどう? 僕の半生を劇にしたらみんな喜ぶと思うんだけど」


「マグロの解体ショー」


「焼き鳥焼くとかでいいんじゃね」


「……お味噌汁、バー」


 マグロの解体ショーと味噌汁バーを除いた意見が黒板に書き込まれ、カケルは他に意見がないかを尋ねる。


「もう教室に椅子置いて休憩室とかでいいんじゃね」


 カケルは大きく頷いてからその意見を黒板に書き込んだ。


「多数決で決めてもいいけど、まぁ軽く纏めると、喫茶店、お化け屋敷、劇、食品屋台、休憩室、ってところか。


 どうせ細かい内容は後々変わるだろうから、大まかな方向性を決めてから細かいの詰めていくな」


 そうまとめたあと、カケルは利点やら欠点、予算の都合や必要な人でや日数を簡単に説明していく。


 ユツキはほとんど理解出来ずにいると、いつのまにか隣に立っていたミコトがユツキの?を摘んだ。


「どうした?」


「……分かってないかも、って」


「まぁ、ほとんど意味が分からないな。 メイド喫茶ってなんだ。 メイドというのは、給仕の女のことだろうが」


「……そのメイドさんが、ウェイトレスしてる喫茶店。 格好が可愛い」


 ミコトがその服を着ているところを想像し、ユツキはその想像を打ち消すように首を横に振る。


「……どう、したの?」


 ミコトはこてんと首を傾げる。


「お化け屋敷は嫌だな。 こいつらにさせるのはちょっとばかり悪趣味だ」


 ユツキはミコトにだけ通じるような悪い冗談を口にして、ミコトは意味が分かったのか少し顔を顰めて、咎めるようにユツキを見る。


 そんなことをしている間に、一人の女子生徒が劇をしたいと言って、周りの女子がそれに同調する。


 ミコトにも「劇がいいよね」という問いが来て、ミコトは仕方なさそうに頷く。


「劇でよかったのか?」


「……多数決で決まるから、あとで嫌われないように」


「面倒だな」


 ミコトは曖昧に笑って、投票した結果を見て劇に決まる。 男子生徒がバラバラに投票したのに反して、ほとんどの女子が劇に投票したことで決定的したのだ。


 そのあとは第二希望と第三希望が決められ、脚本を書きたいという女子生徒が名乗り出たところで話は終わった。


 ユツキは「劇か」とため息を吐き出して、隣にいたミコトに尋ねる。


「こんなものなのか?」


「……そう、かも。 女の子の方が、結束してる、から」


 ユツキは結束というよりかは同調圧力なのではないかと思ったが、他の生徒がいる前で言うことはせずに首を横に振って済ませた。


 おそらく、劇が嫌というわけではないだろうが、ミコトとしてもこうやって一人の意見が強すぎることは、良くないと思っていることぐらいはユツキにも分かった。


「……がんばろ、ね」


「勝手にやってろ」


 ユツキはクラスメイトの女子がミコトの方にやってきたのを見て、荷物をまとめ始める。


 ミコトは手に持っていたカバンを床に下ろしてクラスメイトの方に目を向けた。


「みこっちゃんはどんな役がしたいの?」


「……裏方が、いいかな。 大きい声、出ないから」


「あー、そっか、でも、子供役とかやったらリアルでいいんじゃないかな? セリフを減らしてもらってさ」


 ミコトは曖昧に言葉をにごし、誤魔化そうとする。


 クラスメイトはそれを肯定と取ったのか、あるいはそもそも聞く気がなかったのか頷いて自分の友人の元に戻った。


 そのクラスメイトとは違う、ミコトの友人がぞろぞろと集まって、小さな声で「劇はちょっと恥ずかしいよね」とミコトに言う。


「あ、それはそうとね。 この前テレビで紹介されてた占いの本買ったんだけど、本当によく当たるのっ! ハナちゃんも占ったんだけど、本当に先輩と付き合えたの!


 みこちゃんも占いたいよねっ!」


 ミコトは少し考える仕草を見せて首を横に振る。


「……いいや」


「えー、じゃあ真寺くんはどう? 前世いっとく?」


「前世ってなんだ?」


「……ユツキくんが、生まれる前に、生きていたもの。


 生物の魂が、使い回されてて、死んだら生まれ変わって、って繰り返すという、考え」


 ユツキはミコトの説明に首を傾げる。


「俺にもあるのか?」


「……ある、のかな」


「そりゃあるでしょ! ほら、真寺っちも占うよ」


 クラスメイトの女子に言われて、幾らかの質問に答えたり、謎のカードを捲られたりして結果が出る。


「真寺くんの前世は織田信長だね」


「それ、何パターンあるんだ」


「十六タイプだね」


「おおよそ、世界の十六分の一が、前世が織田信長なのか」


「……分裂しすぎ」


「多分、パラレルワールドの織田信長なんだよ」


「……パラ信長」


 それはもはや織田信長ではないのではないかと思いながら、クラスメイトの説明を聞く。


「えーっとね、貴方は自分の意思が強く、自分の意思を曲げることはあまりありません」


 ああ、誰にでも当てはまることを言って当たっていると思わせるものかと、ユツキは興味をなくして聞き流す。


「好きな食べ物はお味噌汁です」


 ユツキは目を見開いてクラスメイトの女子の顔を見る。


「なっ!?」


「クラスで二番目ぐらいに足が速いでしょう」


「……すごい」


 ミコトは感心したようにクラスメイトの説明に頷く。


「物はあまり持たないタイプで、勉強はあまり得意ではないでしょう」


「当たっているな」


 ユツキは占いというものがここまで正確なものなのかと感心しながら話を聞く。


「好きな異性のタイプは小柄で守りたくなるようなタイプ! だってさ」


 ミコトは顔を顰め、クラスメイトの持っていた占いの本を横から読もうとしたが、クラスメイトは見せないようにと持ったまま逃げるように離れる。


「……見せて」


「いや、私が読むから大丈夫だよ」


 クラスメイトは手を上へと伸ばして、ミコトはそれを取ろうとぴょんぴょんと跳ねる。


「何をしているんだ……。 ああ、鮎川に部活見学に誘われていたから、そっちに行ってくる。 帰るつもりなら先に送るが」


「……私も、見学する」


「ひゅーひゅー、お熱いねー!」


「……怒るよ」


「はーい。 じゃあ私も部活行こうかな」


 クラスメイトの女子と別れ、二人で鮎川のいるらしい陸上部に向かう。


 第二グラウンドでやっているらしく、遠目で見ていると、どの競技も二つに分かれていることにユツキは気がついた。


「……入るの?」


「ロボットの性能博覧会に出る趣味はないな」


 デザインのことをロボットと呼ぶ、わざとらしい悪態に、ミコトはユツキを悲しそうに見つめる。


 馴れ合った時間が増えたせいか、表情の変化が少ないミコトの顔でも、ユツキはその表情を理解することが出来た。


 あるいは、表情の変化がいつもよりも大きかったのかもしれない。


「憐れむな」


「……ごめん、なさい」


 ユツキが今まで散々言っていた悪態は、すべて魔術師のデザインであるユツキにも刺さっていた。


 そのことをミコトは知り、自分に言われた時よりも強く、その言葉に心を痛める。


 自分よりも、遥かに傷ついていた。 あるいは傷つく事すら出来ずに生きてきた。


 そう思えば、どうしても彼のことを救いたいと思ってしまう。 それが、彼が望んでいないことであろうと、ミコトはそう望んだ。


 ユツキは悲しそうなミコトから目を逸らしグラウンドに目を向ける。


 二つに分かれているのは、デザインとそれ以外であることは競技のレベルを見れば分かり、気持ちが悪いとユツキは思いながらも不満げに口を歪めるだけで終わる。


 こちらに気がついたらしいカケルが手を振り、ユツキはそれに合わせて手を挙げた。


「楽しそうだな」


「……好きなこと、しているから」


「どの競技でも、デザインならその設計でおおよその限界値は分かっているだろうに」


「……そうかも、ね」


「遺伝子のコピー、偽物の複製品。 ……意味があるのか?」


「……偽物でも、たぶん、価値はあるよ」


 ミコトの言葉は、嘘ではないが本心でもなかった。


 あくまでもユツキを慰める言葉だっただけだ。


「もう行くか」


「……見なくて、いいの?」


「別にいいだろ。 顔は出したしな」


 ユツキが帰ろうとした時、強い風が吹き、校舎の三階の窓から白い紙が舞い落ちる。


 紙が地面に落ちるより速く、窓から金の髪を一つ結びにした女性が大きく乗り出して、手をパタパタと動かすが、紙をを掴むことは出来なかった。


「おーい、そこの二人、ちょっと拾ってて!」


 ユツキは仕方ないと思いながら、その紙を空中で掴むと、上から拍手の音が聞こえる。


「ナイスっ! ちょっと待ってて!」


「……持っていく?」


「ああ、ちょっと待っててくれ。 持っていく」


 返事をした後、校舎の中に入って落ちてきた窓の部屋に向かう。


 白い紙に目を向けると、何かの人型ロボットの絵が描かれていた。


「……ロボット、だね」


「上手いな。 何の奴かは分からないが」


 多少感心しながら二人で向かうと美術室の前に付いた。


 軽くノックしてから入ると、先程の金髪の女性が恥ずかしげに笑う。


「あっ、長井さんと……真寺くんだっけ」


「……はい」


「知り合いか?」


「……先生、だよ。 美術の」


 ああ、とユツキは頷いた。 この高校では、美術の授業は二年からないらしく二年生から転入したユツキが知らないのも当然のことだった。


 対して生徒と変わらないような幼さの残した女性は、へらりと笑いながら紙を受け取る。


「恥ずかしいね、子供の時に見てたアニメのを書いてたんだけど、窓を開けっ放しにしてたから」


 ミコトは美術教師に頭を下げながら、小さく微笑む。


「……お久しぶりです、シャーロット先生」


「そんな固くならずにシャルでいいよー」


 ユツキは早々にシャーロットから興味を失って飾ってある美術品に目を向ける。


 大きな肖像画や石膏像などを見て、少し感心したようにユツキは頷く。


「あの絵は、先生が描いたのか……ですか?」


「えっ、よく分かったね」


 教室の後ろに飾ってあった天使の絵を見てユツキが尋ね、シャーロットは少し驚いたように目を開けてユツキを見る。


 先程のロボットの絵を見て、何となく似ているように思って尋ねただけだった。


 だが、絵を見ているうちにユツキは少し気に入り、近づいてその絵を眺めた。


「……先生、やっぱり、すごいです」


「そんなことないよ。 担当してる美術部も、私が入ってから急に廃れて潰れそうだしね……」


 シャーロットはため息を吐き出す。


 ミコトが不思議に思っていたら、シャーロットは簡単に説明をする。


「今、部活の時間なんだよね。 一人も来てないけど。 部員は規定人数いるんだけど、流石に実態がなさすぎて」


「……なんで、ですか?」


「んー、みんな良い子なんだけど、変わった子が多くて集めきれないんだよね……。


 ずっとギター弾いてたり、漫画読んでたり、ほかの部と兼部してて在籍してるだけとか。 そんな感じかなぁ」


「……おつかれ、さまです」


「やや、やることないから疲れてないよ。 暇すぎて適当に落書きしてるだけだし」


 ミコトは頭を下げて美術室から出ようとしたが、ユツキがぼうっと眺めていることに気がついてそちらに向かう。


「……ユツキくん?」


 反応がなく、袖を引くとユツキは驚いたようにミコトを見た。


「ああ、帰るか」


「……いても、いいよ?」


「いや、帰った方がいいだろう」


「……そっか」


 ミコトはそれ以上食い下がることはせずにその日は寮に戻った。


 それから授業の合間の休み時間に、ユツキがいつのまにかいなくなっていることが増えた。 ミコトが何の気なしについて行けば、その天使の絵を眺めているユツキの姿があり、彼女はすこしだけ驚いたようにユツキに尋ねる。


「……その絵、好きなの?」


「どうだろうな。 嫌いではない」


 少し眺めるが、ミコトにはその絵の良さが分からなかった。


 天使の絵、というのは珍しいものでもないだろう。


 美しい絵ではあるが、それよりも良いと思える絵はたくさんあり、それが特別とも思えない。


「……美術部、入る?」


「いや、いい。 描けるとも思えないしな」


「……やりたいか、どうか、だよ」


「任務とは関係ないことだろ」


 最近は任務をしている様子はなく、情報を集めているようには見えなかった。


 ミコトはユツキが何を考えているのか分からず、困ったように微笑む。


「……じゃあ、私が入ったら、入る?」


「まぁ、考えはする」


 ミコトは頷いて、放課後に職員室に入部届を取りに行くことに決める。


 放課後になり、二人で入部届を受け取り、すぐに書いて提出すると、居合わせた担任の教師に意外そうな目で見られた。


「絵とか描くのか?」


「……授業では」


「描いたことはないです」


「なんだそれ、まぁいいや。 頑張れよー、書いたら見せてくれ」


 ユツキは見せる気もなく頷き、ミコトは困ったように頷いた。


「シャル先生には俺から伝えようか?」


「いや、今から行ってきます」


 やる気があるのは結構なことだ、と担任は笑みを浮かべて二人を職員室の前まで見送る。


 美術室に向かった二人は、シャーロットが絵を描いているのを見て邪魔をしないようにと美術室の前で手が止まるまで待とうとすると、中から招き入れる声が聞こえた。


「また絵を見にきたの? 照れるね、こう熱心に来られると」


「……入部、させて、もらおうと」


「入部届は出したので、出来るなら今日からでも」


「あっ、そうなの? 真寺くんを誘っても断られてたからてっきり無理かと。 えっと、どうする? 何かしたいことある?」


 ミコトは少し考える。 ユツキがしたいかと思って入っただけで、考えなしの行動だったからだ。


「……絵、描きます」


「そりゃそうだけど、とデッサンからしてみる? 真寺くんも」


 ユツキは天使の絵を一瞥して、シャーロットの目を見る。


「興味はないですが、描くなら」


 シャーロットはユツキの失礼な物言いを気にした様子もなく頷く。


「本物を、描きたい」


 本物、と言われても……とシャーロットは思いながら、部員のために用意されていた画材を取り出して、二人の前に並べる。


「本物って? 実物そっくりの写実的な絵ってことかな」


「いえ、それは写真でいいと思っていて、俺は……本物が、その、何と言えば伝わるか」


 戸惑っているユツキの姿を初めて見たミコトは驚きながらも、部活に入って良かったと思う。


 迷うというのは、自分で考えているからだ。


 シャーロットは微笑ましそうに見る。 ユツキの言葉は失礼な物言いではあったが、その中には火種のような小さい熱が見えていた。


「まぁ、いいよ。 絵ってのは表現だからね。


 言葉で表現出来ないってことも、絵では伝えられる。 私はそう思ってるからね」


 シャーロットに勧められるまま、二人は紙と鉛筆を持って自由に描くように言われて固まる。


 指導するにしても、実力が分からなければ教えようもないからだ。


 ミコトは戸惑いながらも近くにあった花瓶と花を描き始めたが、ユツキの手は動くことはない。


「真寺くん、大丈夫?」


「はい。 ……大丈夫です」


 そうは言っても筆が進むことはなく、シャーロットはそれを気にした様子もなく小さな声で語る。


「私って、隠してたんだけど元々日本人じゃなくてね」


 シャーロットの小ボケに二人とも反応せずにいて、彼女は困ったように続けた。


「母国語も違うんだけどさ、違う言葉だと、思ったように話せないの。


 ちょっとしたニュアンスの違いとか、細かい意味の違い、足りない言葉もあったり。


 でも、それ以上に、人格とか自分のことを伝えるのは、もっと難しい」


 ミコトは、日本人でも英語を話していると、口の開き方やアクセントなどにより明るく見られがちになるという話を思い出して頷いた。


「母国語でも自分を表現ってのは多分誰にも正しく伝わらないと思うけどね。


 絵だったら、言葉よりほんの少し、うまく伝えれるかもしれない。 もちろん、練習も必要だけどね」


 ユツキは頷きもしないが、えんぴつを少し動かした。


 あまりに下手すぎるためか何を描いているのかも分からない絵と、花瓶と花の絵と謎のデフォルメされた可愛らしい猫の絵を提出されて、シャーロットはこれは教え甲斐があると隠すように笑う。


「よし、まず真寺くんはえんぴつの持ち方から変えようか。 綺麗な線が引けないのも、持ち方を変えて練習したら良くなるから。


 長井さんもそこからする?」


「……うん」


 それから軽く指導を受けて、少し絵を描いて初日の部活動は終わった。


 並んで歩く帰り道で、ミコトは何の気なしにユツキに尋ねる。


「……ユツキくん、何の絵だったの?」


「分からないな」


 その返答は妙なものだったが適当に描いていたということではなさそうだったので、ミコトはユツキのことを認めるように頷く。


「……そっか。 本物、描いてたの?」


「分からない。 描けていたのか」


 ミコトはユツキの言葉を思い返す。 本物というのは、あの美術室の中だとシャーロットの描いた天使の絵だけで、他は偽物らしい。


 それでいてユツキの絵はどちらかも分からない。


「……ユツキくん、私は、本物?」


「偽物だろ、どう見ても」


「……シャル先生は?」


「本物だろうな」


 デザインは偽物で、普通の人は本物、けれど美術に置いては天使の絵だけが本物だった。


 ミコトは頭を悩ませながら、学校のプリントを取り出して首を傾げる。


「偽物だ」


 ミコトはその横に自分の名前を書き込む。


「それは、本物だな」


 なるほど、とミコトは納得がいってユツキを見る。


「……複製品とか、真似っこしたのは、偽物?」


「ん、あ、ああ、そうだな」


 ユツキ自体もその言葉で自分が納得したらしく、少しすっきりとした顔で答えた。


「……そっか、本物、オリジナルとか、好きなんだ」


「普通のやつは、そうだろう。 紛い物も、複製品も大量生産品も好むやつは少ない」


「……うん。 でも、私は、嫌いじゃ、ないかな」


 自分まで否定する言葉に、ミコトは目尻を下げて悲しそうにしながらユツキを見る。


「……ユツキくん」


 ユツキは何かを言うことなく、ミコトを一瞥して歩いた。


 ◇◇◇◇◇◇◇


 ユツキの絵の上達は、歪ながらも短期間の割には目覚ましいものだった。


 暇なときにも描くようにしていたことや、シャーロットの熱心な指導もあったことで、少しずつだが、ユツキの描きたいと感じている何かに近づきつつあった。


 ゴールデンウィークの前日になり、ミコトは普段通りに味噌汁を作りながら、携帯電話の電源を切った。


 毎日、家に帰って来いと言ってくる父に耐えきれなくなったのだ。


 もしかしたら家に帰った方が、ユツキにとっても気が楽になったり、あるいは任務がしやすくなったりと良いかもしれない。


 作り終えたけれど、少し時間が早いかったかもしれないとミコトは思い、少し待つことにする。


 その空いた時間は、友達に借りた占いの本に目を通すことにした。


 確かユツキくんは織田信長……と思い出して見ていくが、織田信長というタイプはなく、そもそも前世がどうとかのものではなかった。


 騙されたと思いながらも質問項目は同様だったので、ユツキの回答を思い出して系統分けしたあと、自分のも見てため息を吐き出す。


 いいとも悪いとも言えない、どちらかと言えば悪いという、微妙な結果だった。


 返してしまおうと思って、友達の部屋に向かってノックをする。


「はーい、おっ、みこちゃんどうしたの?」


「……本、返しに」


「読むの早いね。 あれ、本は?」


「……あっ……忘れた」


 ミコトは自分の間抜けさに驚愕し、友達は笑いながらミコトを招き入れた。


 ユツキのベッドに占領されたおかしな間取りの部屋とも、ミコトの小綺麗に片付いた部屋とも違う、可愛らしい小物が散らかされている部屋だ。


 ミコトはぬいぐるみの一つに目を奪われながら、用意された麦茶に口を付ける。


「あれでしょ、真寺くんとの相性が微妙だったから、ショックで忘れたんでしょ」


「……違う」


 とりあえず否定したけれど、それが信じてもらえるとはミコト自身も思っていなかった。


 こくこくと麦茶を飲んで、友達の方へと目を向ける。


「……本当に、違うよ。 ミナちゃん」


「はいはい。 私も彼氏ほしいなぁ、彼ピッピ」


「……付き合っても、ない」


「いや、割とごつい人の方が好きだから、彼ピッピより彼ゴッゴの方が……」


 噛み合わない会話に苦笑していると、ミナはやれやれと首を振りながらミコトの方を見る。


「まぁ、みこちゃんにはまだ難しいかもね。 恋愛っていうものは」


「……そんなこと」


 恋人がいたことがなく、特に好きな人も好かれた経験もないミナは、わざとらしいため息を吐きながら口を開く。


「あれだよみこちゃん、一緒にいたいって思ってるでしょ? それで、他の人と話してるのを見るのも嫌でしょ?」


「……うん」


 ミコトも普段から友達の恋愛を指南しているミナが経験がないとは、まさか思うはずもなく、誤魔化せないかと頷いた。


「それで笑ってると嬉しいってなると、それはもう完全に恋だね。 あとは自覚するだけだよ。 応援してるからね!」


「……応援されても、困る」


 それから文化祭やゴールデンウィークの話、誰と誰が交際しているという話を一方的に聞いたあと、ミコトは味噌汁をユツキに届けるために部屋に戻った。


 作っている途中で蓋をしていた物を仕上げて、いつものように水筒に詰める。


「……知ってるよ」


 まだほんの少しいつもより早く、ミコトは時計を見ながら小さくため息を吐き出した。


「……言われなくても、分かってる」


 いつのまにか分からないけど、好きになっていた。 恋愛などしたことがあるはずもないけれど、これが噂に聞く恋心であることは分かる。


 好きになった理由は分からなかった。 守ってくれたからかもしれない。


 一度目ではなく、二度目に助けに来てくれたとき。


 その救出が任務に必要ではなかったことは、聞いてはいなくとも、状況を思えば簡単に想像が付いた。


 あれほど悪態を言っていたのに守りに来てくれたことは非常に嬉しかった。


 けれど……それは理由とは、なんとなく違うように思う。


 もしも、好きになったことに理由を付けるとすれば、酷く、悪く、辛いことを言っていたからかもしれない。


 何にせよ、理由などに意味はなかった。 どのような思いがあれど、いかな理由があろうとも、恋慕の情をユツキに言うことは出来ない。


 知ればユツキは、自分を殺しにくくなるだろう。 それでも殺すだろう。 そして、深く傷つくだろう。


 絶望で、死なせたくはない。 何も対抗出来ないなら、せめて、幸せにはなれずとも不幸になれず死んでほしいと思った。


 ミコトは水筒を持ってユツキの部屋へと歩き、ドアをノックして返事を待つが、声が聞こえることがなかったのでドアノブを回してみると、鍵がかかっていなかったらしく簡単に開く。


 今はいないのかと思って中を覗き込むと、黙々と集中して絵を描いているユツキの姿があった。


 邪魔をしては悪いかと思ってドアを閉めようとしたとき、ユツキの目がミコトの方に向く。


「ああ、ミコトか」


「……うん」


 結局邪魔をしてしまったと思いながらユツキのとなりに向かって、ぺたりと床に座り込む。


「……絵、描いてたの?」


「ああ、一応な」


 当初より遥かにマシになってはいるけれど、上手いとは言い難い絵だった。


 その絵を見て、ユツキの努力を思い、ミコトは思わず声を普段よりも大きくして話す。


「……ユツキくんは、生きてほしい」


 自分は何を言っているのか、とミコトは思いながらも続ける。


「……ユツキくんは、逃げれる。 強いし、速いから、ここから離れて、暮らしたら。 追ってくることは、ないって思う」


「何を馬鹿な。 俺がいなくとも他のやつが殺すだけだ」


「……分かってる。 でも、逃げて」


 利己主義だ。 ユツキが嫌悪していた、自分が大切にしているものだけ優遇しようとする卑怯な行いだ。


 あのときは、多少はユツキに同意していたけれど、自分がその立場になれば簡単に意見など変わってしまう。


 大切な人には、何があろうと幸せに生きていてほしい。


「お前が何を言いたいのかが分からない」


「……ごめん、なさい。 お味噌汁作ってきたから」


 ユツキにはその想いは通じない。 そもそもが生きることや死ぬことに価値を見出していないのだから、伝わるはずもなかった。


 死ぬように育てられているのだから、長く生きるように生まれたミコトの言葉は遠すぎた。


「ああ、ありがとう」


 ユツキはいつものようにそれを口に含み、ため息を吐き出した。


「美味いな。 ……美味い、多分」


 ユツキが初めて「美味い」と口にしたことに目を丸くしたミコトは、そのことに言及はせずに日記に書き込むことを決める。


 ユツキが描いていた途中の絵を見ると、竜のようなナメクジのような、あるいは百足のような、あるいは何物にも似ていない妙な長い生物が描かれていた。


「……何の、生き物の、絵?」


「知らない。 特に生物というわけでもない」


「……そっか」


「暇つぶしに描いているだけだ。 時間がかかるから都合がいい」


 暇つぶしというけれど、おかしな話だ。 それほど時間に余裕があるはずもなく、その言葉が嘘であることはミコトには見破ることが出来た。


「そういえば」


 と、ユツキは味噌汁を飲みながらミコトの目を見て、すぐに目線を逸らす。


 ミコトは彼から話を広げることが珍しいと思いながら、少しはにかみ耳を傾ける。


「連休の間はどうするつもりなんだ」


「……聞くの、遅くない? 明日からだよ」


「軽率な行動はしないだろうから、あまり確かめる必要はないかと思っていた」


「……家に帰るか、迷ってる」


「帰ればいいだろ。 学校に通うことがないなら、家に篭っていた方が安全だ」


「……ユツキくんの、ご飯」


「それならあれがある。 そもそも栄養はあれで取っているから問題ない」


 ユツキにとって、味噌汁はあくまでも酒やタバコと同様の嗜好品という感覚である。


 別にインスタントでも問題がないと、部屋の横に積み重ねられているインスタント味噌汁のダンボールに目を向けた。


「親と会う最後になるかもしれない。 だから帰った方がいい」


 珍しく、優しい言葉だとミコトは思った。 他の人が聞けば悪態に聞こえたかもしれないが、ユツキは、口は悪いが素直なものであることをミコトは知っていた。


「……ユツキくんは、どうするの?」


 だからこそ、ミコトの顔は顰められた。


「俺に会うような親がいると思うか」


「……いないの?」


「会ったことはないな。 ……そもそも、それも親と呼べるかは分からないが」


 ユツキが「それ」と言ったのは、彼の親と呼ぶのに最も近しいものだっただろうが、どうにもそうは思えないらしい。


「……デザインでも、結構な血縁関係はある。 それに、お腹から産まれたんだから……」


「なら、俺に親はいない。 そもそも会ったこともないから、いたとしても意味はないが」


 そう吐き捨てたユツキは、でかいベッドに寝転がる。


「……寝るの?」


「ああ、さっき睡眠薬を飲んだからな」


 ミコトは睡眠薬という言葉にほんの少しの忌避感を覚えた。 普通の人間が飲んでいても気にしないだろうが、ユツキは普段から謎の完全栄養食品で腹を満たしていたりと異様な生活をしている。


 それに加えて出所の怪しい薬を飲んでいたら、不安にもなるだろう。


「……ゴールデン、ウィークは……どうする、の?」


「適当に寮に残っている奴から情報でも集める」


 ミコトは頷いて、家に帰らないことを決める。 死んでしまうユツキを一人にさせたくはないと思ったからだ。


 ユツキは眠りそうになりながらミコトに言う。


「俺を殺してもいいからな」


「……おやすみ」


 ミコトは仕方なさそうにユツキを見て、彼が散らかしていたペンなどを纏めていく。


 彼の描いていた絵を見て、ぐちゃぐちゃだと思う。 技術は上手くなっているけれど、纏まりがない。


 元来、ユツキは何をしても優秀なのだろうけれど、その性能に反して絵は下手だった。 技術の問題ではなく、表現する力に欠けているからだろう。


 そういうことをする必要がなかったからだ。 自分で考える必要がなく生きてきたから、自分で考えて表現することは苦手らしい。


 せめて、自分が一緒にいてあげたいと思い、けれど自分が死ぬことでユツキには傷ついてほしくないとも思う。


「……本当に」


 殺した方が、彼にとってマシなのではないかと思ってしまう。


 もちろん、そんなことをするつもりは露ほどもない。 ただ自分の無力さを呪うばかりだ。


 仕方なく少し部屋を片付けようと思い、部屋の中を片付けているうちに、ユツキが食べ終えた後の謎の完全栄養食品のアルミパウチを見つけ、見つめる。


「……無地」


 何も書かれていない銀色のアルミパウチである。


 ベッドの下に潜りこんで、ダンボールを確認したが本来の市販品なら必要であるはずの食品表示がないことを確かめる。


 移し替えたというようには見えず、市販品ではないのだろうことが分かる。


 自分の部屋に戻り、友達に勧められて買ったが封さえ開けていなかった化粧品、ファンデーションを手に取ってユツキの部屋に戻り、ダンボールに入っている完全栄養食品の一つをハンカチで持ちつつ取り出す。


 ユツキの部屋にある筆を手に取り、ファンデーションの粉を先につけて払うようになぞっていく。


「……指紋がある」


 いくつか確かめてみたが同様に指紋が見つかった。


 一応、セロハンテープで指紋をより分かりやすく取り、ユツキのものではないことを確かめる。


 発送用にダンボール詰めする作業も機械化されて久しい、指紋があるということは、それを手作業で行う程度の中小規模の工場で作られたものだろう。


 アルミパウチの食品を扱っていて、あまり大きくない工場、ユツキの身の上を考えるとおそらくは国内産、それ以上は分からないけれど、中身を調べればおおよその検討はつくはずだ。


 何せ、人体に必要な栄養は多い、それを扱っている中小規模の工場がそれほど多いとは思えない。


 父親にサンプルを渡して頼めば、工場の特定も出来るかもしれなかった。


 後で頼んで一つもらおうと決める。


「……お化粧品、初めて使ったのが……指紋か……」


 ミコトはそれに気がつき、自分の女子力の低さを恨んだ。


 携帯電話の電源を入れ、大量に来ている父親からの留守電を削除して、そのまま連絡する。


「……もしもし」


「もしもし!! ミコト遅いよ……また何かあったんじゃないかと思って心配したんだからなー」


「……ゴールデンウィーク中は、帰れない」


「えっ、家族旅行に行くのが恒例だったじゃん! えー、行こうよー、ねー?」


「……ごめんなさい」


「何か用が出来ちゃったの?」


「……うん。 それでね、お願いがあるんだけど……」


 我ながら都合の良いことばかりを言っているように思えたが、今までは父母にワガママも言わず言うことを聞いてきていたので、と自分を納得させながら言う。


「まぁ、頼れるパパになんでも頼りなさい!」


「……アルミパウチしてある、一食分の栄養が取れる、食品があって」


「あー、カロリー取る系の?」


「……ううん、もっと、色々取れる」


「それがどうしたの?」


「……どこで作られたものか、探したい」


「普通にネットで検索すれば?」


 普通の食品なら会社ぐらい書いてあるだろうと、父親も当然のように思った。


「……市販じゃ、なさそう。 完全に、無地で」


「んー、市販じゃない食品? 何か危ないことしてる?」


「……危なくは、ないよ。 多分、栄養も普通だと、思う。 でも、多分……隠れて作ってる」


 父親はそのことを心配に思いながらも、下手に断るより。引き受けて関わっているものなどを確かめる方が娘の安全に繋がるだろうと考えて了承する。


「分かった。 サンプルはあるんだよね? じゃあ人を寄越すから、明日の昼にでも渡して」


「……うん、ありがと。 ……ごめんなさい」


 その言葉をワガママを言ってと取ったのか、父親は気にした様子もなくヘラヘラと笑う。


 そうではない。 幼くして、父母に何も返すことが出来ずに死ぬことを受け入れて、その謝罪だった。


 電話を切ろうとした時に、近くで眠っていたユツキが寝返りを打って、口を半開きにした。


「あ……みこと、そんなに飲めな……」


 ユツキの寝言に、電話先にいた父親が驚きの声をあげる。


「ちょっ、待て、ミコト、こんな時間に男と──ッ!」


「……切る、ね」


 ミコトは電話を切って、電源も切っておく。


 寝返りを打ったことでズレた掛け布団をかけ直し、自室に戻って日記を書くことにする。


 今日は少しばかり書くことが多そうだ。


 ◇◇◇◇◇◇◇


 ユツキは目を覚ます。 目を覚ましたといっても目を開けたわけではなく、薄れた意識が戻ってきただけのことだった。


 まず感じられたのは匂いだ、出汁と味噌が強く、ほんの少しだけ自分とは違う人間の混じった匂い。


 次に感じられたのはトントンと軽く心地よい音で、ユツキは自分の頭を掻きながら目を開ける。


 気にしたことはなかったが、後ろ姿だと綺麗な黒髪だということがよく分かる。 細く艶があり、流麗に整っている。


「何故、今いる」


「……朝ごはん、作ろうと。 思って」


「まぁいいか。 ……醜いな」


 長井命の容姿は美しい。 【不死】のせいもあり幼い姿ではあるが、誰がどう見ようと整った顔立ちで、見る者の目を引いて、心を寄せさせるかんばせだった。


 だから、こそ、ユツキは思ってしまう。


 人に愛されるための容姿だ。 そうなるように設計された。


「……ごめんね」


「寝起きから見たい顔ではないな」


「……うん」


 ミコトは頭を下げてから机の上に朝食を運ぶ。 結局、ほとんどの食事を完全栄養食品で済ませていたユツキだが、箸の練習は続けていたことと、味噌汁の具は噛んでいたことで、時間を掛けつつだが、朝食の米と味噌汁と焼き魚と漬物を胃袋に収める。


「……美味しい?」


「味噌汁は、悪くない」


「……よかった。 あ、さっき、鮎川くんが来て……一緒にプールに行かないかって」


 ユツキは考えることもせずに首を横に振る。


「いや、やめておく」


 その言葉にミコトは少し驚く。 楽しむかどうかは別として仲良くはしようとしていて、何かを断るということは少なかったように思えた。


「……かなづち?」


「いや、泳げる」


「……どうして?」


 ユツキはミコトが朝食の片付けをしようとしている手を止めて、軽く自分の服をまくって肌を見せる。


 鍛えられた身体……だが、それは異様な姿だった。


 黒、茶、白、あるいはそれらの中でもより細分化して分かれている色の肌。


 まだら模様の人間の肌など、ミコトは想像だにしていなかった。


 言葉を失ったミコトに、ユツキは服を戻して話す。


「奇怪だろ。 無理矢理に色々な要素を詰め込めばこうなる。 普通のデザインなら、異形にならないように調節するだろうが、俺の場合は必要がなかった」


「……その、顔とかは……」


「自前の肌だ。 別に人の皮を被ってるわけじゃない」


「……うん。 ……その、なんで顔だけ、それなら他のところも」


「ああ、顔だけ調節したというわけではない。 たまたま、顔の部分の肌が似たような色でまとまっていただけだ」


 たまたまという言葉におかしなものを感じながら、ユツキが腕を捲って見せた肌に痣のようにも見える色の違う肌があった。


「……たまたま?」


「いや、たまたまというのはおかしいか。 確実ではあるか」


 ミコトは最悪のことを思い、顔を青ざめさせる。


「……一人じゃ、ないの」


「いや、今は一人だ。 もしも徒党を組まれたら面倒だと思ったんだろう」


 今はということは、以前はそうではなかったのだろう。 間引くというユツキの以前言った言葉が頭に響く。


「……人は、まだら模様にはならない。 まだら模様になる遺伝子が、ないから」


 誤魔化すように、ミコトは適当な知識を話す。


「獣なりのを突っ込まれたんだろうな。 気色悪いだろう。 皮の下はお前達も大して変わらないがな」


「……ううん、そんなこと、ない。 ユツキくんは……普通だから」


 知れば知るほど、ユツキの出生が酷く救えないものであることが分かる。


 ミコトは気を重くしながら、洗い物をしてから彼の前に戻った。


「……その、それ、ちょうだい?」


「ん、ああ、別にいいが」


「……二つ、いい?」


 ミコトはユツキから完全栄養食品を受け取り、自分の鞄に詰め込む。


「昼食にするのか?」


「……うん」


「お前の身体を考えると少し量が多いから、一度に一つ全ては食うなよ。 半分ぐらいにしておけ」


「……うん」


 一つは本当に自分で食べるつもりだった。 ユツキは特に疑うこともなく、そのやりとりを終えて絵を新しく描き始める。


 本当に絵を描くことを気に入っていると思いながら、鞄から一年生の頃に使っていた美術の教科書を取り出して机に置く。


「……これ、ちょっとでも参考に、なるかなって」


「とりあえずもらうが、読むかも分からないな」


「……うん」


 そう言いながらユツキは教科書に目を通して、ゆっくりと文字を読んでいく。


 ミコトは一方的だな、と理解しながらも、どうにかして優しくしてあげたいと考える。 何が喜ぶのだろうかと考えるが、ユツキの好きな物など味噌汁以外思い浮かばない。


 それどころか、あるのかすら分からない。


 下手なことをして絵を描く邪魔になるのもどうかと思っていると、バタバタと廊下から人の足音が聞こえ、トントンとノックがされる。


「……いってくるね」


 ミコトは扉の方へと歩き、扉を開くと鮎川カケルや数人の男子がラフな格好をして立っていた。


「おーい、ユツキー、ナンパしに行こうぜー!」


「……呼んでくる?」


「お、うおっ、長井もいたのか」


「……うん。 呼んでくる、ね」


 ナンパという言葉を聞き、若干ながら不快に思いながらも、勝手に無下には出来ないためユツキを呼びに行こうとする。


「そういや、朝もいたけど付き合ってるのか?」


「……ううん、付きまとってる、だけ」


 カケルは不思議な関係だと思いながら、あれだけ一途に尽くしてくれる女の子がいることを羨ましく思う。巨乳派ではあるが、普通に羨ましい。


 奥から現れたユツキを見て、ニヤリと笑みを浮かべる。


「イチャイチャしてるところ、邪魔して悪かったな」


「イチャイチャ? いや、飯を食ったところだが」


 ユツキは誤魔化すようにそう言って、先程ミコトから聞いたことを思い出す。


「プールなら行かないが」


「えー、水着の女の子いるぞ?」


「いや……そうだな。 ……いや……やめておく」


「……迷いすぎ」


 ミコトは、ユツキがそんなにも女の子の水着姿が見たいのかと呆れる。 自分でも良いかと思ったが、たぶん気持ち悪がられるだろうと諦める。


「じゃあ別のにするか? ボーリングとかカラオケとか」


「歌は分からない、ボーリングはお前と俺ばかりが点を取ることになる……というか、わざとでもなければストライク以外取れないだろ。 合わせなくていいから、勝手に行っとけよ」


「いや、お前だけ置いていったりはしないな」


 ミコトはこれが友情かと思い感心していると、カケルの言葉が続く。


「俺が男と遊んでるときにお前が女子とイチャイチャしてると思ったらムカつくだろ」


「……友情、だね」


「どう考えても違うだろ」


「……近くのおっきいプールなら、他の施設も、併設されてる。 カフェとか」


「じゃあ、もうそこでいい。 行くか」


 胴体さえ見えていなければいいと、ユツキは考えて、プールに向かうことに決める。


 水着も必要がないので、特に持っていく必要があるものはないと思いながら、部屋に戻って財布と携帯電話だけポケットに突っ込む。


「おい、ミコトはどうする。……あれ、いないな」


 以前の誘拐のこともあり、ユツキは携帯電話を取り出して連絡しようとするが、いくら待っても通じない。


 苛立ちと共に探そうとしたところで、上着を羽織ったミコトに後ろから裾を引かれる。


「……行こっか」


「お前もくるのか……」


 ユツキはため息を吐き出す。 ミコトは当然といったように頷くが、水着などの荷物を持っているようには見えなかった。


 おそらくユツキと共にプール横にあるカフェで過ごすつもりだろう。


 ユツキは分かりやすく不服そうな表情をした。


 待ち合わせをしていた寮の入り口に向かうと、先程ユツキの部屋の前にいた数人よりも明らかに人が増えているらしいことに気がつく。


「……多い、ね」


「とりあえず、クラスのやつ全員に声をかけたら増えた。 あとで合流するのもいるけどそろそろ行くか」


 来る人が全員で一度にいけば道が混雑するだろうということで、ある程度ばらけて行くことにしたらしい。


 ミコトは少し離れたところにいた友達のミナを見つけてトコトコと歩く。


「……本、今日の夜に返すね」


「うむ、よききはからえ」


 伝わったのか伝わっていないのか。


 ミコトはユツキの方に目を向けると、自然に男の子達に溶け込んでいる姿を見て安堵する。


「また愛しの彼を見ちゃってー、私と一緒にいるときは、私を見てよっ!」


「……みなちゃんは、目を離してても……死なないから」


「真寺くんはみこっちゃんの中だとどうなってるの?」


「……もはや、我が子」


「愛が行き過ぎてるよ、みこっちゃん……」


 ユツキはそんな好き勝手な会話をしているミコトを横目で見ていると、カケルに半ば強引な動きで肩を組まれる。


「そういや、美術部入ったんだってな。 どんな感じなんだ?」


「絵を描いているな。 他の物には手を出していない」


「へー、どんな絵?」


「習い描きしかしていない。 練習に色々な技法やらを試しているぐらいだ」


「地道だな……」


「どんなことでも、そうだろ」


「そうなのか? 俺にはよく分からないが」


 ユツキはカケルのその言葉を聞き、薄らと理解する。


 カケルの脚は速い、それこそ、通常の人間ではどうやっても追いつくことが出来ないほどだ。


 ユツキは体力測定の百メートル走においてカケルに次ぐ二番目の結果を見せた。 だがそれは、一秒以上離れての二位である。


 カケルにとっての練習というのは地道なものではなく、すればするほど簡単に伸びるものなのだろう。


「まぁ、なんでもいいか」


 ユツキはデザインの優位性に再認識をしたが、その不快さを自身の中でまともに取り合わなかった。


 発言のように、なんでもよく、どうでもよかった。


 何せ、水着だ。 水着である。 水着なんだなあ。


 カケルを含めた他の男子も浮かれている。 暑くなってきた今日この頃、室内プールで浮かれるのも楽しければ、クラスの女子も参加していて水着が見れるのも嬉しい。


 何より、あと何日も浮かれたまま過ごせるのだ。


「いやー! 本当楽しみだな! ユツキ!」


「ああ、そうだな」


 ユツキは興味ないけれど適当に相槌を打った風にしようとしたが、興味がありすぎたせいでモロバレであり、ただのスケベになった。


「本当に長井には感謝だな。 女子も誘ってくれて」


「あれが誘ったのか?」


「意外だよな。 まぁ、ユツキについて行くのに、女子一人だと心細かったとかじゃないか?」


 そんなに気弱ではないだろうし、人が多いのも好きではないだろう。 ミコトの行動を妙に思いながら、やはりそんなことはどうでもいいとさらりと流す。


 ユツキはこれから初めて見る女子の水着にテンションをこの上ないほどに上げていた。


 ぱっと見テンションが分かりにくいからこそ助かったが、表現の方法を知っていれば喜びの舞を披露し、女子どころか男子生徒にまでドン引きされることは間違いない。


「おっ、あれかー、一年の時に来たけどやっぱデケエな」


「スポーツジムに、フードコート、温泉、ホテル、カフェ、他にも色々あるな」


「住めるよな」


 住みたい。 とユツキは思いながら、テンションを上げて中に入る。 レジャー施設など初めての経験であり、若干の警戒はあったが、色々と分かりやすく問題はなさそうだった。


 早々に更衣室に着替えに向かったクラスメイト達にユツキとミコトは置いていかれる。


「……あのカフェ、プールにも繋がってる、みたい」


 水着を着た客や、私服の客がプールサイドにも机や椅子の並べられているカフェでまったりと過ごしているのが見えた。


 クラスメイトとさほど離れることもなく時間を潰すにはいい場所だ。


 二人でカフェで紅茶と水を注文し、プールサイドの席に腰を下ろした。


「……お金、ないの?」


「いや、支給額に制限は付けられていないが」


「……なら、なんで、お水?」


「匂いや味のついた水が気持ち悪い」


「……お味噌汁、は?」


「それは別だ」


 二人で待っていると、クラスメイトが着替え終わり、プールに入って行くのが見える。


 水着姿のクラスメイトを見ているユツキに、ミコトは眉をひそめながら、紅茶を飲む。


「暑くないのか?」


「……うん」


「水着は肌が見えるが、恥ずかしくないのだろうか」


「……着たことないから、分からない」


「そうか。 ……まぁ、なんでもいいか」


 ユツキは水着の女子と近くで遊んでいる男子を羨ましく思いながら水を飲み、塩素の匂いに顔を顰める。


 二人して険しい表情をしながら、眉をひそめているミコトは顔を顰めているユツキに尋ねた。


「……そういえば、文化祭で、絵、描くの」


「ああ、文化祭の展示か。 時間がないから無理だな」


「……間に合うと、思う」


「そこまでするものではないだろ。 そもそも何を描くかも決まらない」


「……来年は、ないから」


「だから、無理をするなんて馬鹿らしい」


 何をするにしても無駄だった。 結局、死ぬのだから意味はない。


 一人で本気になって泳いでいるクラスメイトを見ながら、ユツキはため息を吐き出した。


「お前も、どうせ死ぬんだから、楽しめばいい」


 こんなところにいる必要はないと伝えるが、ミコトは首を横に振る。


「……人はみんな死ぬんだから、そんなのは、理由にならないよ」


「自棄になる理由にはなるだろ」


「……自棄になって、ユツキくんと一緒にいるの」


 ユツキは胸の大きい女子を見ながら、メモ帳を取り出して退屈そうに絵を描いていく。


「……おっぱい、描いてるの?」


「そんなもの描くか」


 ミコトが覗き込むと、半端な機械の手がいくつも絡み合って何かを求めているような絵で、悪趣味に見えた。


「……ユツキくんには、世界が、そう見えてるの?」


「そんなわけあるか」


「……本物、の、絵?」


「分からないがな」


 なんとなくだが、何枚ものユツキの絵を見てきてミコトは理解しだしていた。 ユツキは見たものの絵は描かない。


 彼なりに気分を表現しようとしているのだ。


 とりわけ多く見えるのは、カクカクとした人間らしくない特徴を持った身体の絵や、害虫や嫌われ者の生物の特徴をもった何かを、一貫して心地よいものではないことは確かだったが、ミコトはそれでも理解の一助となるので好んで見ていた。


「……機械の手に、大きい丸いもの……」


 機械の身体はユツキを表しているのだと考えられる。


 大きい丸いもので、何かしら良いもの……。


「……そんなに、おっぱいを、触りたいの?」


 ミコトはジトリとした目でユツキを見て、ユツキはピクリと反応する。


 ユツキは何故バレたのだろうかと考えるが理由は分からない。まさか自分の絵を読み解かれたと考えることはなかった。


 そもそも、ユツキ自身が自分の絵が心情を表していることに少しも気がついてておらず、心を読まれた理由が分かるはずもなかった。


「……ごめんね、おっぱい、ない」


「いや、揉みたいなどと言ってないだろ」


「……揉みたいって、聞いてない」


 誘導尋問……! とユツキはミコトの手管に恐れるが、ミコトにはそんなつもりはなく、自分の膨らむ予兆さえ見せない胸をしぼませるようにため息を吐いた。


「……豊胸手術を、受ければ……!」


「偽物は嫌いだ」


「……手厳しい」


 ユツキは胸から目を離して、ソフトクリームを食べている子供を見る。


「……ソフトクリーム、だよ」


「ああ、知っている」


 ミコトはユツキの言葉に驚く。 味噌汁や焼き魚などの、簡単な料理すら知らなかったのだ。


 当然別の国の料理を知っているということでもなく、妙な完全栄養食品で腹を満たしているだけの食生活だったはずだ。


「名前と形を軽く知っているだけだがな」


「……よく、知ってたね」


 絵を描いていたユツキの手が止まり、ペンと手帳が机に置かれる。


「以前、幼い頃……十年ほど前に、同年代の子供と話す機会があってな。 上層部の人間の子だったらしいが、規則を破って探索している時に俺と会ったんだ」


「……女の子?」


「いや、その時の俺は性差を理解していなかった……というよりか、人間が男と女に分かれているとは知らなかったからな。 分からない」


「……そう」


「おそらく五分ほどの、大した時間じゃなかったけどな、まぁ同年代と会うこと自体が少なかったこともあって印象には残っていた。


 そいつがソフトクリームを食べたことがないのはもったいないと言っていたから、覚えていたというだけだ」


 学校の売店にも売っていることをミコトは思い出す。 結構ユツキも抜けていると思いながら、ミコトは財布を取り出す。


「……買ってこよう、か?」


「どうしたものか」


「……なんで、迷うの?」


「冷たい物だと聞く。 内臓を冷やすのは健康に害を与え、パフォーマンスを下げる可能性がある」


 ミコトは察する。 こいつ、初めての物にビビってるな、と。 まぁユツキがアイスやらを食べる姿は想像つかないので、似たようなものも食べたことがないのだろう。


 仕方ないのかもしれない。


「……買って、くるね」


「いや、いい」


「……なんで? 楽しみだったのに」


「生きる気がなくなる気がしてな」


「……もともと、ない」


「作戦の実行まで、生きるのが面倒だな、と」


 ミコトはあまり驚きもせず、ただ悲しそうにする。


 元々、死ぬことが前提でも動けていたユツキだ。 ある種、それは自意識を持った人間として当然なのかもしれない。


 何をしようと、死ぬ。


 何を積み上げていこうが、失われる。


 その状況で何かをする気になるというのも不思議なものだった。


「間違っていたのかもしれないと、思うことがある」


「……デザインを、その、すること?」


「どうだろうな。 安易な考えに逃げているだけかもしれない」


 ユツキは迷っているのだろうか。


「……死にたくないなら」


「違う。 俺は、組織の正しさが分からないだけだ」


「……逃げても、いい」


「俺が逃げても作戦は実行される。


 逃げれば、終わるまでに時間がかかる。 そうすれば、余計な人が守りに来て、余計に人が死ぬ」


「……殺したく、ないの?」


「違う。 やるべきことだから、やらなければならない。 だから、それまでは生きる必要がある」


 ミコトは立ち上がって、ソフトクリームを二つ購入して、駆け足で戻る。


「……ユツキくん、食べて」


「いや、俺は」


 手渡されようとしているソフトクリームは拒否されるが、ミコトはそれを押し付ける。


「……私は、ケーキが一番、美味しいと……思う」


 無理矢理、ソフトクリームを手渡されたユツキはミコトのよく分からない言葉を聞いて呆気に取られる。


「……チョコレートのケーキ。 甘くて、ほんの少し、ほろ苦い。 だから、今度は、それを……楽しみにして」


 ユツキはあっけに取られながら、子供の真似をしてソフトクリームを食べる。


 冷たい感触に顔を歪めたが、フワリと柔らかく、不快な冷たさではなかった。


「なんだよ、それ」


 ユツキは少し笑い、ミコトを見る。


「……美味しい?」


「そういえば、この前、庇ってくれた礼を言っていなかったな。 ありがとう」


「……美味しい?」


「甘くて、不慣れな味だ」


「……えへへ、そっか」


 甘い、とミコトは思う。 バシャバシャとプールではしゃいでいるクラスメイトを見ながら、少しずつソフトクリームを舐める。


 それすら下手なユツキの口の周りをハンカチで拭いて、少し笑う。


「……今は、休もうよ」


「ああ……少しだけ、疲れたからな」


 ユツキはソフトクリームを食べ終えて、再び絵を描く。 大して上手いものではなければ絵柄も気持ち悪いものだけど、ミコトはその絵がなんとなく、好きだった。


 いつもより、ほんの少し、柔らかく見える。 ほんの少しだけだから、勘違いかもしれないが。


「……あっ、あの女の人、今落し物、してたから」


 ミコトは席から立ち上がって女性の元に行くが、落し物は見当たらなかった。 何かを拾うような仕草をしたミコトが女性に手渡すと女性は驚いたような表情をして頭を下げる。


「暇だな」


 ユツキは戻ってきたミコトにそう話すと、ミコトは頷いて、鞄から大型のタブレットを取り出す。


「……リバーシ、する?」


「なんだそれは」


「……ボード、ゲーム。 黒と白をひっくり返す」


「意味が分からないが」


「……やってみる」


 やれば分かるとばかりに、ミコトはタブレットでリバーシが出来るようにして机の上に置く。


 ミコトは簡単にルールを説明しながら、暇つぶしにいいと言ってリバーシを始める。


「なるほど、たくさんひっくり返したら勝てるんだな」


「……ふふふ、そう甘くもない、さ」


 しばらく続け、ユツキは顔を顰めて悩んだ様子を見せる。


「角に置くといいんだな」


 一戦目の終了時にそう言い、回を重ねるごとにミコトの技術を吸収していくが、何度繰り返そうがユツキが勝つことはなかった。


「お前、強すぎないか?」


「……努力の、賜物」


 ユツキがもう一戦、と言ったところで、ユツキの頭に濡れた手が置かれる。


「うっす、お前らは遊ばねえの?」


 カケルはリバーシを覗き込みながら話す。


「……遊んで、る、よ?」


「いや、プールにきてんだし、オセロをしててもあれじゃね? まぁ、そろそろみんな疲れた頃だけど。 ボーリングとか行くか?」


「……この人数だと、お店困る」


「あー、占拠しちゃうな。 まぁばらけて二次会的な。 あっ飯食ってからの方がいいか」


 ミコトはユツキに視線を向ける。 未だに上手く食べることが出来ないユツキが外食をすることに不安を覚えているのだろう。


「飲み物やソフトクリームで腹が膨れているからな。 行くなら後で合流するが」


「すげーマイペースだよな、お前ら」


「……ユツキくん、だけ」


「いや、長井も相当な。 まぁ色々相談してくるな」


 カケルは他のクラスメイトに声をかけにいき、ミコトはユツキの頭から垂れた水に少し笑う。


「……いい人、だね」


「まぁ、俺にとっては都合がいいな」


「……手にかけるのは、辛く、ない?」


「感情でどうにかなるものでもない」


「……うん」


 ミコトは小さく微笑む。 誤魔化したのではなく、ただ「感情では殺したくない」とユツキが思ってくれていることが嬉しかっただけだ。


 水着のままカケルが駆けてきて、二人に言う。


「俺たちはカラオケ行くことになったから!」


 ユツキの常識のなさをどう誤魔化したものかと、二人で目を見合わせた。


【偽物と本物】


「ユーツーキーくーんー!」


「……なに?」


「うわっ、影からロリ彼女が!?」


「……あい、あむ……のっと、ろり」


「彼女でもねえよ。 それで、どうした」


 寮の裏庭でゆっくりと絵を描いて過ごしていた二人の元に、クラスでも中心となっている女子が訪ね、ユツキの描いている絵を覗き込む。


「あっ、風景画じゃないんだ。 あっ、アブラムシの絵?」


「いや。 それで、なんだ?」


「二人って美術部だったよね? あっ、みこちゃんの風景画かわいい」


 ミコトが頷くと、女子のクラスメイトは喜ぶように大きく頷いた。


「背景とか小道具とかお願い出来ない? あんまり絵が上手い人いなくてさ」


「……私も、我が子も、最近入っただけ」


「彼女でもなければ親でもねえよ。 ……見れば分かるだろうが、下手だぞ」


「いや、大丈夫大丈夫! お願いしていい?」


 ミコトはユツキの方を見たが、既に絵を描く作業に戻っていてどう思っているのかが分からなかった。


「……私は、大丈夫」


「そっか! じゃあ、二人ともお願いね!」


 ユツキくんはどうか分からない、と言外に伝えたつもりだったが、その考えは伝わることなく去っていってしまう。


「……ごめん、ね」


「何かしら任されるなら、裏方の方が荒が目立たなくていいだろう」


 もう一度、謝ろうとしたミコトだが、ユツキが構わないと言ったことに遅れて気がつく。


「……ありがと」


「何の劇だった?」


「……正式には決まっていないけど、人魚姫だって」


 ユツキは当然のように首を傾げ、ミコトは手に持っていたスケッチブックに簡単なデフォルメされた絵を描きながら、風に揺らされるような小さな声で話を始める。


 けれど、小さな声でも近くにいるユツキにはよく聞こえた。


「……人魚の王の末娘、人魚姫は海の上を見ていると、船に乗った美しい人間の王子を見つけました。


 恋い焦がれた彼女ですが、人魚である自分と人間の王子は別の場所でしか生きることが出来ません」


 自分の言葉じゃなければ饒舌なんだな、とユツキは感心しながら、童話に聞き入り、ミコトの可愛らしい素朴な絵に見入る。


「……その日の晩、大嵐が発生して、王子は海に投げ出されてしまいました。 人魚姫は王子を助け、浜辺まで運びました。


 王子が修道女に助けられたのを見送った人魚姫は海の中に帰りましたが、彼女は人間のこと、王子のことを忘れられませんでした」


 ユツキは神妙に聞き入り、ミコトは気分を良くしながら筆を走らせる。


「……そこで人魚姫は魔女の家に息、声と引き換えに人間の脚をもらいましたが、王子に愛されなければ海の泡になってしまうとのことでした。


 人魚姫は王子の元に行きました。


 王子と人魚姫は打ち解け、結婚の話も持ち上がっていましたが、隣国の姫との縁談があり、人魚姫は王子と結婚出来なくなりました」


「人魚姫、泡になるしかないな」


「……姫を泡にしたくない人魚姫の姉達は魔女に頼み、姉達の髪と引き換えに短剣をいただきました。


 その短剣で王子を刺すと、人魚姫は海の泡にならずに人魚に戻れるというものでした」


「性格悪い魔女だな……」


 ユツキの素直な感想に思わず笑いそうになりながら、ミコトは最後の話をする。


「けれど、王子を愛する人魚は、王子を殺すことが出来ず、身を海に投げ捨てて泡になってしまいました。 おしまい」


 分かりやすく顔を顰めているユツキの頭をミコトは撫でる。


「……嫌いだった?」


「そりゃあな。 不快な話だろう。 だが」


「……だが?」


 ユツキはため息を吐き出しながら話す。


「選べたなら、満足だろう」


 存外に情緒が豊かだったのか、あるいはこの高校に来てからそうなれたのか、ユツキは登場人物に自分を重ねていた。


「……ユツ、くん」


「なんだ」


「……人魚姫役、やる?」


「誰がやるか」


 クスクスとミコトは笑って、彼の顔を見た。


 ふてぶてしい表情は前のままだけど、以前よりも幾分か柔らかな雰囲気をしている。


 あとどれだけ続くか分からないけれど、こうした時間がいつまでも続けばよいとミコトは思う。


 死ぬのは怖いけれど、ほんの少しでも和らぐ時間だった。


 不意に、携帯電話の呼び出し音が響く。


 ミコトは自分のものではないことを確認してユツキを見ると、彼の表情は酷く強張っていた。


 彼の手は電話を取ろうとせずに、ミコトへと伸びる。 追い詰められたようなユツキの顔に、ミコトは怯えた声を出した。


「……ユツキ、くん」


「っ……悪い、電話が来たらしい」


 ユツキは逃げるように立ち上がり、ミコトから離れながら電話を取る。


 半ば抜けてしまった腰で追いかけようとするが、ユツキが寮の壁に体を隠すようにしたところで、姿や音を見失う。


「……ユツキくん」


 ミコトはその場に腰を落として、息を吐き出す。


 殺そうと、していた。 ユツキは自分を。


 あの様子を見れば、まだ命令があったわけではないだろう。 何かは分からないが連絡があっただけかもしれない。


 分からない。 と、ミコトは膝を抱える。


 何故、ユツキは自分を殺そうとしていたのか、楽しんでいるような様子はなく、それどころか、苦しそうにしていた。


 泣きそうになりながらその場にいると、少しして、ユツキが戻ってきた。


 いつもよりかは顔も強張っているが、先程よりかは幾分もマシだ。


「……組織の、人?」


「その質問はするな。 素直に答えられるはずはなく、答えられなければ、答えているのと同じだろう」


 それは答えているようなものだったが、ユツキはミコトの横に腰を下ろす。


「この寮は綺麗に整備されていていい。 この芝生も心地いい」


「……うん」


「ミコトは……死ぬならどこで死にたい」


「……たくさんの子供と孫に、囲まれて、老衰」


「老衰出来ないだろ、お前は」


 何の気のない質問というわけではなかったのだろう。 


 ユツキはミコトの可愛らしい顔を見て、困ったように微笑んだ。


「そうか、老衰か」


「……それが無理なら、死因だけ変えて……ユツキくんが、死ぬ前に」


 結局、無理な話には変わりなかった。 ミコトを殺すのは、あと数ヶ月もないほどであることは、互いに分かりきっていた。


 だからこそ、ミコトは血なまぐさいプロポーズ紛いなことを口に出来たのだ。


「俺の妄想かもしれない」


 ユツキは頭を掻き毟りながら言葉を吐き出す。


「こうあってほしいから、こうだと言っているだけかもしれない」


「……うん」


 ミコトは頷いた。


「塔の連中とは協力が可能なはずだ。 それをせずに三つ巴になっているのは、それ以外の目的が働いているからだと思う」


「……目的?」


「分からない。 あるいは、ただついでに他の組織の魔術師を減らしたいだけかもしれない」


「……内輪揉め……?」


「完全に別のところだ。 常に小競り合いが続き、収まっていないはずだ」


「……上の考えが、分からないって、こと?」


 ユツキは頷く。 こんなことを話していいはずがないと、ユツキ自身も分かっているだろう。


「問い詰めるのも、隠されればしまいだ。 それどころか、こちらが疑っていることを知られることになる」


 ユツキの手をミコトは握り、小さな顔の大きな目をユツキに向ける。


「……私の部屋に、きて」


 どうした、とユツキが聞く前にミコトが立ち上がろうとして、腰が抜けていたことを思い出してユツキの身体に倒れこむ。


「……ごめん」


「持つぞ」


 ミコトの身体をユツキは持って支える、ミコトは恥ずかしさに顔を赤らめながら、支えられたことでなんとか歩くことが出来た。


 すぐに二人でミコトの部屋に向かうと、ミコトは携帯電話を取り出して、ユツキに見せる。


「……ユツキくんに、隠れて……繋がりを、作ってた」


 ミコトは話が分かっていないユツキに向けて、指を三つ立てる。


「……私の、お父さん」


「頼れる場所ということか? ……悪いが、頼りにはならないな。


 通常の人間が完全装備をしていたとしても、魔術師には対応出来ない。 単純な身体強化の魔術を持っている魔術師が近代的な武器を持てば、一面を焼き払う程度しなければ仕留められないからな。


 弱い魔術師でも、戦闘ヘリ程度の戦力はある」


「……そこまで、強いの?」


「ああ、そうか。 お前は俺の魔法ぐらいしか見ていないからな。 俺のは対魔術師に向いているから、さほどでも無いように見えるだけだろう」


 ミコトはよく分からないが、否定する必要もなかったのでこくこくと頷いておく。


 ミコトは二つ目の指を折った。


「……二つ目が、この前の誘拐犯の人」


「ああ……ん? はぁ? あのデザインと連絡を取っていたのか!?」


 珍しく驚いているユツキに、ミコトは少し勝ち誇った顔をする。


「……最近、連絡出来たの」


「どうやってだよ……」


 ユツキの言葉に、ミコトは最後の指を折る。


「……最後は、島の魔術師達」


「えっ、いや、どうやって……」


 ミコトは自慢げに胸を張るが、胸がないことが強調されたばかりだった。


「……この前の、プールの時。 デザインをたくさん連れて行って、見張り……というか、護衛に来てたお姉さんに、連絡先を渡して、連絡してもらった」


 ユツキは、ミコトがプールで落し物をしたと言って何かを女性に渡していたことを思い出す。


 そもそも、内気気味なミコトが人を大量に誘うこと自体が不思議だったが、そのような意図があったのかと、腑に落ちたように思う。


「大量に釣り出せるのは理解出来るが、よくそれが島の連中だと分かったな」


「……管理院なら、ユツキくんが気にする。 塔なら、襲ってくる。 なら、島の」


「そもそも魔術師かどうか」


「……その、服が……ここの辺りだと、珍しい……その、安めの生地、だったから。


 ここの近く、お金持ちばかりで、遠くから遊びに来るにしては、一人だったから」


 推理能力が高いと感心してしまう。 それ以外の可能性もあるだろうと思ったが、実際にそれで会えているのだから否定のしようもない。


「……この前の、男の人が、誘拐犯の人を保護してるかなって、聞いたら、してるらしくて」


「島の連中があのデザインを囲いやがったのか……。 まぁ、人数が少ない島の連中が、守るつもりのデザインを仲間にしてもおかしくないか」


 誘拐犯が車の壊れたあの現場から逃げ果せたことが不思議だったが、魔術師の仕業ならばそれほど不思議ではない。


 島の判断の早さには驚かされるが、少人数なら一人の裁量も大きくなるのだろう。


「……私は流れで、魔術を知ったから、島の人にとっても都合がいい」


「内部に協力者がいた方が都合がいいのは分かるが、俺に話しては意味がないだろう」


「……そうかも、多分、すごく嫌がられる」


「俺から話が流れる可能性も高い」


「……うん。 そうだね」


 ミコトの話して後悔していないという態度に、ユツキは額をを手で押さえる。


「馬鹿が」


「……電話、しても、いい」


「直接、島の奴と話せと? こちらも相手も、両方信用していない話し合いに意味があるか」


「……信頼、出来る人。 信頼してくれる人」


 ミコトは電話番号を打ち込んで、しばらく呼び出し音が続くがそれを待つ。


 ユツキは止めることが出来ず、急な話に顔を強張らせながら、連絡をしてしまったことに不安を覚える。


 これは背反行為だ。 裏切りと呼んでも過言ではない。


 訓練をさせられ、生まれ育ち、今まで生きてきたユツキの世界すべてと呼んでも過言ではない管理院を──裏切る。


「……もしもし、はい、長井です。 ……はい。 はい。 ……その、今、ユツキくんが、隣にいます」


 ミコトはユツキに目を向けるが、顔を青くさせているユツキはミコトの方を見ることはない。


「……ごめんなさい、少し」


 ミコトは電話越しにそう言って、携帯電話を机にカタリと置いて、ユツキの手を握る。


 ユツキは触られたことに驚きながら、ミコトを見つめる。


「……大丈夫、だよ」


「ああ……そう、だな」


 ユツキはその言葉と、握られた手に感じられた仄かな温もりに落ち着きを取り戻す。


 ミコトが手を離して携帯電話を手に取ろうとしたとき、ユツキはミコトの小さな手を掴んで握りこんだ。


 ミコトは少しだけ驚いたような表情をして、手を握り返す。


「……おまたせ、しました」


 片手で握った携帯電話に話しかけながら、ミコトは小さく会釈をする。


「……ユツキくんに、代わります」


 ユツキはミコトと握り合っている手の力をほんの少し強めながら、空いた手で携帯電話を受け取る。


「真寺 有月だ」


「二重螺旋か」


 聞き覚えのある声で、野太く威圧的に感じる。


 島の知り合いなどユツキには一人しかおらず、過去二度の邂逅は共に敵対していたこともあり、ユツキは身体を強張らせる。


「島の大鬼……」


 巻物の魔導書を持った大男、ミコトの言葉でユツキを見逃した魔術師だった。


 信頼出来ると言っていたことを思い出し、ユツキはミコトの正気を疑うが、ミコトは頷くばかりだ。


「おう」


「ああ」


 当然のように話が詰まる。 ユツキにとっても、大男にとっても、気楽に話せるような間柄ではなく、言葉が続かずにいた。


「……話して」


 と、ミコトの助言に従い、ユツキは誤魔化すように口を開く。


「ほ、本日はお日柄もよく……」


「そうだな、行楽日和と言えるな」


「えっと、そうだな。 ……ご趣味は?」


「旅行を少々……」


 ぎこちないユツキの手をミコトは引っ張った。


「……お見合い、か」


「お見合いなのか?」


「……違う。 話して」


 ミコトに言われて、ユツキは気まずそうに口を開こうとして、先に大男が話したことにより機先を取られる。


「二重螺旋、お前が俺に連絡を入れたことを、俺は疑っている。 騙そうとしているのではなきかと、あるいは管理院の命令ではないかと、思っている」


「ああ、分かっている」


「その上で、お前に尋ねる。 お前は管理院に敵対するのか」


 大男の言葉にユツキの息が止まる。 ミコトは話が分かっていなかったが、ユツキの様子を見て、両手でしっかりと彼の手を握りしめた。


「……大丈夫」


 ユツキは荒れた息を整えながら口を開く。


「分からない。 敵対、出来るか」


「なら、島とは」


「分からない。 敵対したくは、ないと思っている」


「分からないばかりで、埒が開かないな」


 そもそも信用出来ないというのに、この問答に何の意味があるのだろうか。


「二重螺旋、お前は──長井命の味方になれるのか?」


 ミコトとの出会いは仕事の上だった。


 先走った塔の魔術師から守っただけ、その時に思ったのは、生に執着がない変な娘だと思っただけだ。


 次に会ったのは、翌日の教室だった。 たまたまクラスメイトになり、鬱陶しいぐらい世話を焼かれた。


 なんだかんだと行動を共にして、油断から誘拐を許した。


 そして、自分の命が脅かされそうになっても人を守ろうとして、ユツキを守ろうとした。


 理解出来なかった。 自分のことよりも何かを優先するというのは。


 ユツキ自身は自分の命を大切にしていないが、それは生きる道がないからだ。


「ミコトだけには、生きていてほしい」


 大男はその言葉を聞き、吐き捨てるように言う。


「それは利己的な考えだろう。 管理院は、その利己的な考えを嫌っていたはずだ。 国が滅びる原因になり得ると」


「それは……分かっている」


「そいつだけ守って、他は殺すのは道理が合わない。 どこからも狙われることになる」


 大男の言いたいことはユツキにもよく分かった。


 ミコトを生かすには、裏切るしかなかった。


「俺がそちらについても、戦力差は明らかだ。 勝てるとは到底思えない」


「そうかもな」


「無為に、死人を増やすだけだ」


「そうなる可能性は高いな」


「死人は、増やしたくない」


 ミコトが嫌がるだろうと、ユツキは口にはしなかったが、大男には確かに伝わった。


「ならお前は、腐っていろ。 二人で逃げても、俺たちは追わない」


 電話が切られ、ユツキはそれをゆっくりと机に置く。


 救いはなかった。 長井命は作戦が開始すれば確実に死ぬ。 抗おうが、逃げようが、生き残ることは出来ない。


 ユツキが彼女の目を見ると、自分が死ぬしかない状況だと言うのに、心配そうにユツキを見つめていた。


「お前は、どこまでも……馬鹿だ」


「……ユツキくん、逃げる?」


 ユツキは迷う。 逃げ続けることは不可能でも時間は稼げるかもしれない。


 魔術師と不老のデザインをのうのうと逃すはずはないので、いつかは死ぬだろうが……もう少しの時間は、一緒にいられるかもしれない。


「見殺しにしてもいいのか」


「……どちらにしても、生きられないなら」


「少し、考えさせてくれ」


「……うん」


 ユツキはミコトの手を離し、立ち上がって外に出る。


「……大丈夫?」


「ああ、大丈夫だ。 ……文化祭の準備でもするか。 部屋に何か画材を取ってくる。 場所を使うなら、屋上でいいか」


「……何作ればいいか、聞いてくるね。 迎えに行くから」


 逃げてもいいのだろうか。 逃げてしまえば、それの方がよほど幸せかもしれないと、ユツキは歩きながら考えた。


 多少の瑣末ごとはあるだろうが、まだ生きることが出来、美味いものを食うことも出来れば、まだ上手く出来ない絵を描くことも上達するだろう、笑うことも上手く出来るかもしれない。


 何よりも、ミコトを殺さずに済む。 あるいは別の誰かに殺されずに。


 自室の前に来てドアノブに手を触れた時に、大きな音が聞こえて手を離して身構える。


 ユツキが少し落ち着いてみれば、隣の部屋から楽器の音が鳴っているだけであることに気がつく。


 あまり上手いものではないが、自分の部屋に入って音を聞こえにくくするには惜しいようにユツキは思う。


 どうせ画材を取るのに時間がかかるわけもなく、ミコトの来訪を無駄に待つことになるだけだ。


 しばらく楽器の音を聞いていれば、音が止んで隣の部屋の扉が開いた。


「うお、ユツキか。 部屋の前で何してんだ?」


「カケル、お前、楽器を弾けたんだな。 まぁ、金持ちの子供は教養に習うことが多いと聞いたが」


「いやいや、そういうのはこんなギターとかじゃなくて、ピアノとかバイオリンとかじゃねえの? これはただ俺が好きでやっているだけだ」


 好きでという言葉にユツキは顔を顰める。


「意味がないだろ。 お前は運動能力が高いのだから、そちらに集中した方がいい。 それが仕事になるわけでもないんだしな」


 ユツキの言葉にカケルはへらへらと笑う。


「いや、これでもプロ目指してるからな。 親とは喧嘩になるかもしれないけど、どっちかに集中してやるならこっちだ」


「……正気か? 成功が約束されているだろう」


「俺にとっての成功はそれじゃねえからな。 そんなのより、今度文化祭でバンドやるのが重要だ。 ユツキも見に来いよ」


 カケルは階下にある自動販売機に飲み物を買いに行くらしく、手を振って廊下を歩いていく。


 自室に戻って画材を取り出したところでミコトがノックする音が聞こえて外に出る。


「……シャル先生が、今なら教えてくれるって」


「教わりながらか。 まぁそちらの方がいいか」


 ユツキもミコトも絵を描き始めたのは最近のことで、大した画力が求められているわけではなく単純に劇の登場人物をやりたがらないから割り振られただけのものだ。


 それほど丁寧にする必要もなかったが、指導を断る意味もなかった。


 ユツキはクラスメイトからも大根役者の棒演技しか出来ないだろうと思われており、ミコトも声が小さい棒演技しか出来ないと思われていた。


 それは二人も頷く事実であり、棒演技で劇を棒に振るのはクラスメイトだけではなく、ユツキやミコトにしても勘弁願いたいものだ。


 初夏の暑さに顔を顰めながら二人で学校へと歩き、薄着になっている女子生徒を見て鼻の下を伸ばしているユツキの手の甲を、ミコトは小さな力でつねる。


「なんだ。 つねって」


「……べつに、なんでもない」


「ならするなよ」


 それも尤もだとミコトは思い、自分の行動に苦笑する。


「……嫉妬しちゃったから、つねっちゃった」


「馬鹿が、始めからそう言え」


 ユツキはそれだけ言って不機嫌そうに歩いて行くが、学校に近づいて女子生徒が増えていくが、短いスカートや袖に注目することもなく進む。


 そんなことを気にする義理はないだろう。 付き合ってもいないのだから、とミコトは自分が言っておきながらも思った。


 それでも嬉しかったのか、微かに不機嫌そうな表情はなくなり、小さく微笑んでいるようにも見える。 表情が小さすぎてじっと見つめても分からない程度ではあるが。


「……ユツキくんは案外、普通」


「何の話だ」


「……常識がないだけの、普通の人だと、思う」


「お前は普通の範囲が広すぎる」


「……だって、そういう風に生まれて、そんな感じに育てば、そうなる……と思う」


 だから、普通。 そう言って学校を見ながら微笑んだミコトに、ユツキは珍しいミコトの無表情ではない横顔に見惚れる。


 そんな表情が出来るのならば始めからしておけば良いのに、とユツキは微笑みを向けられたのが自分でないことを不満に思いながら考える。


「生まれと育ちが人の全てだろう。 ……生まれという言葉も、育ちという言葉も範囲が広すぎるせいだが」


「……そうかも」


「お前の理屈だと、全員が普通だ」


「……間違ってる、の……かな?」


 どうなのだろうかと、ユツキは考える。 人は遺伝子という設計図を元に発生する。


 親や、それに準じたものに食事を与えられ、たまたま会った者や物に影響されて育つ。


 何かを自分で決めるとしても、自分では選ぶことの出来ない遺伝子と育った環境を元にして決められる。 言ってしまえば、「自分で選択する」というのは、どうやってもあり得ない。


 もっと言えば、原子や、もっと小さい陽子や電子、中性子……あるいは光など、ありとあらゆるモノは決まった振る舞いをする。


 その決まった動きをするモノの塊により世界が出来ており、当然唐突に法則が乱れるなどということはない。


 だから、「変」というものは突き詰めては存在しておらず、会って当然のものでしかない。


「間違っているとは言えないな」


「……じゃあ、ユツキくんは、普通の男の子、だね。 すごく不器用で、結構ぶっきらぼうで、かなり頑張り屋さんの、とっても優しい、普通の」


 ミコトの言葉を聞いて、ユツキは自分の考えた結論とは真逆のことを語った。


「お前は、変なやつだな」


 美術室の前にきたミコトはくすくすと笑う。


「……「変」なんてないって、話したばっかりなのに」


 そうだったらいいと、ユツキは思っただけだ。


 先程の結論を認めれば、見えもしない運命が全てを決めているようで気分が悪い。


 美術室に入ったユツキはシャーロットがいないことを確認した後、真っ直ぐに後ろに飾ってある絵を見に向かった。


 天使の絵を見たユツキはしばらく眺めて、ため息を吐き出す。 この絵は美しいと、ただ思う。


「……そんなに好き、なの?」


「悪くはない」


 この絵は本物だ。 と考え、本物とは何かと思いを巡らせる。 模写やデッサンは違う、存在しないような物を描くような、自分の考えを表すようなものこそが、本物だ。


 そう考えていたユツキの頭が白い手でポンポンと撫でられる。 ユツキが振り返ればシャーロットがニコリと笑っていた。


「人魚姫の舞台を描くんだよね?」


「……はい。 そんなに場面多くないけど、大きいから……大変ですか?」


「んー、まぁ大きい絵を描かない方法はあるけどね。 小さい絵をパソコンに取り込んで、プロジェクターで映すとか。 まぁでも、光の調整が難しいからオススメはしないね。


 大きく描くとしたら布に描くのがオススメ。 紙だと畳むとぐちゃぐちゃになるからね」


 シャーロットはとりあえずどんなのを描くかを普通の紙に書くように言い、ユツキとミコトは相談しながらそれらしくなるように描いていく。


 簡易な絵だがそれらしいものが完成していき、ミコトが携帯電話で写真を撮って劇をまとめている女子生徒に送る。


「……オッケーだって」


「早いな。 他のやつに相談とかないのか」


「……まぁ、過半数は取れるから」


「本来の民主主義というのは、全員一致だぞ」


「……とりあえず、材料集めてこよっか。 布とか」


 ミコトが椅子から立ち上がろうとしていると、いつのまにかいなくなっていたシャーロットが美術準備室から出てきて、丸めた巨大な布をいくつも美術室の床に並べた。


「去年とかもっと前の時の文化祭で、余ってるのあるから使ってもいいよー。 あっ、結構な値段するから書き損じとか出さないようにね」


「……分かりました。 ありがとうございます」


「脚本も出来ていないから、必須だろうやつからやっていくか。 多少変わったとしても海の中がなくなることはないだろう」


「……今更だけど、海の存在、知ってたんだ」


「知らないわけがないだろ」


 簡単な下書きをするにしても、二人で同時に描くわけにも行かないためユツキが大きく描きながら、ミコトが簡単な指示を出したり、細かいところを描き足したりとしていく。


 大まかな形が出来たところで、色を塗るところを分けるための線を引いていき、不必要な線は消していく。


 それだけ終えたところでミコトの携帯電話が鳴る。


「……あ、お父さん。 ごめん、今切るね」


「いや、出ろよ」


 珍しくユツキが真っ当なことを口にして、ミコトは渋々といった様子で電話に出ながら廊下に向かう。


 勝手に新しい作業に入るのも良くないかとユツキが身体を解し、また天使の絵を見つめる。


 シャーロットはユツキの隣に来て、彼の?を指先で突く。


「そんなに気に入ったの?」


「まぁそうだな。 あれは本物だ」


「ん、真寺くんの言う本物って、模写とかじゃない絵ってこと? いや、違うかな。 現実を含めて、真似じゃないってことかな?」


「そうかもしれない」


 シャーロットはユツキから目を逸らして、絵を見つめる。


「じゃあ、あれは偽物だよ。 あの絵ね、私の妹がモチーフなんだ」


 ユツキが怪訝そうにシャーロットを見ると、彼女は自嘲するように語る。


「昔、仲良くない妹がいてね、仲良くしようとしてたけど、交通事故で」


「そうか。 ……随分、美人だったんだな」


「惚れちゃったの? 長井さんかわいそう」


「いや、先生が描いたんだな。 あの絵」


「上手でしょ? 尊敬しちゃった?」


 軽口を言うシャーロットを見てユツキは頷いた。


「不思議と、それでも嫌いになれない」


 自分が嫌っていたはずの偽物であると思っても、なお変わらずに美しい絵だった。


「真寺くんはこだわりが強いんだよ。 特別な物があって、それがいいって思ってる。


 実際は、何かのデッサンでも描く人がどんな技術を持ってるか、どういう気持ちで描くか、どんな風に見てるか、どんな人か、全然違う絵になる。


 特別じゃない、本物じゃない、そんな絵は、存在しないって、先生は思うな」


「そうかも、しれない」


 特別じゃない物は存在しない。 それは先程のミコトとの話、普通じゃない物が存在しないのと食い違うようで、同じ意味のように聞こえる。


 特別であり、普通でもあるというのが、普通なのだろうとユツキは考えた。


「文化祭、自分の絵も描いてみたら?」


「少し、考えてみる」


「何を描くかを?」


「ああ、少し迷う」


 ユツキの返しにシャーロットは少し驚きながらも嬉しそうに頷く。


「頑張ってね。 真寺くん」


「……よく分からないんだ。 何をしたいと」


「そんなの私にも分からないよ。 真寺くんが自分で考えないとさ。


 好きなものの絵でもいいし、ただ思い浮かんだものの絵でもいいよ、嫌いなものを書いてみるのも面白いかもね。 私、真寺くんの絵が好きだから楽しみにしてるね」


 美しい絵ではないだろうと、ユツキはため息を吐き出して思う。


 いつまでここにいられるのか、あるいは生きていられるのかも定かではない。


 ミコトが戻ってきて、ユツキが一歩だけ扉に向かう。 ミコトがその様子に首を傾げるとユツキはわざとらしく顔を歪めた。


「……どうしたの?」


「お前は……嫌いだな、と」


「……私は、ユツキくん、好きだよ」


 簡単に描くものが決まった。


 続けて劇用の絵を描いていき、ほんの少しだけ進んだところでシャーロットが帰るように二人を促した。


 二人は劇の絵の話をしたり、文化祭でのことを話をする。 一緒に文化祭を回ろうという約束をしてミコトの部屋の前で別れる。


「……ユツキくん」


「なんだ。 もう帰りたいんだが」


「……ユツキくんは、私に気を使っていうことを聞いてくれたり、しないよね?」


「当たり前だろ、なんで気を使ってやる必要がある」


「……そっか、なら。 ……もう少し、お話ししようよ」


 ユツキは少しミコトの部屋で話をしたあと、部屋に戻り携帯電話が鳴ったことを確認する。


 六月十八日、決行。 それ以外の内容はユツキの耳に入ることはなく、知る必要もなかった。


 隣から聞こえる楽器の鳴る音に、手に握られていた劇の下絵。


 大きく出そうになった癖のため息を飲み込み、服の中に隠していた拳銃を取り出して、ゆっくりと整備していく。


 覚悟は、決心は、あるいは諦めはついた。


【日々という日】


「……ユツキくん、楽しみだね」「ああ」「……ユツキくん、怖いね」「ああ」「……ユツキくん、一緒にいたい。 ずっと一緒に」


 その言葉に返事はなかった。


 ミコトが思っていたよりも、ユツキとの日々は普通だった。


 普通に学校に通い、文化祭の用意をしたり、友達と話したり、部活を頑張ってみたり、一緒に帰ったり、休みの日にはみんなで遊びにも行った。


 充実した日々かもしれない。 特別なものではなく、ただ普通に、面倒くさいと思いながら、思い出せば楽しかったと思うようなそんなことを積み重ねるようなものだった。


 だから、文化祭当日の朝、教室にいない彼を思っても不思議と思うのに時間がかかった。


 劇までには時間もあるし、美術部の絵も飾り終えていたから、ユツキが約束を忘れて一人で回っているのかと考えて教室から出る。


 昨日、書き終えたらしい絵を持って来なければいけないはずだから来ていることには来ているはずだ。


「お、みこっちゃん、彼とは一緒にまわってないんだね」


「……ユツキくんとは、付き合って、ないよ。 約束してたけど、いないから探してたの」


「ユツキくんは見てないなー。 見つけたら声かけとくよ」


 ミコトは礼を言ってから学校内を回っていると、音楽が聞こえてそちらに目を向ける。 どうやらユツキと仲の良いカケルがバンドのメンバーとリハーサルをしているらしかった。


 少し待ってから音楽が止んだところで近寄ると、カケルは楽器を持ったままミコトに近寄った。


「……ユツキくん、見なかった?」


「あいつ? いや、見てないな。 会ったら探してたって伝えとく……てか、そっちも会ったらライブ見に来いって伝えといてくれよ」


「……うん、一緒にくるね」


「おう! 最高の演奏を聴かせてやるぜ!」


「……ふふ、頑張ってね」


 すぐにまた歩くと、また別の人に会う。 どの人もユツキのことを知っていて、色々な思い出や約束をしていた。


 色々と移動しながら人と話をしているうちに美術室の前にたどり着いて、ほとんど人気のない部屋の中に入る。


「あっ、長井さん!」


「……シャル先生、ユツキくんは見ませんでした?」


「いや、見てないなー。 一回来てるはずなんだけどね、ほら」


 シャーロットは指を美術室の後ろの壁に向けて、ミコトもそちらを見る。


 昨日にはなかったはずの絵、少女の後ろ姿を描いた絵がかけられていた。


「あっ、ガラガラなのは例年そうだから気にしなくて大丈夫だよ!」


「……あっ、はい。 それで……」


「ユツキくんの絵だと思うんだけどね。 ほら、多分長井さんだしね」


「……そうかな。 ちょっと背が高いし、背筋もピンってしてる」


「若干ユツキくんの願望とかが入った感じかなぁ。 すごく似てるし、ここの制服だから間違いないと思うよ」


 ミコトが絵を近寄って見ていると、絵の下に小さく題名が書いてあることに気がつく。


「……【祈りのない日】。 ……私の、絵……だと思います」


「でしょ! やっぱりね! デレデレだね、ユツキくん」


「……多分、嫌われてたのかな」


 ミコトはシャーロットに背を向けて、ゆっくりと?を伝せるように涙を流す。


 シャーロットは突然後ろを向いたミコトを見て不思議に感じたが、何かを尋ねることはせずに、その後ろ姿を眺める。


 その絵はおそらく「デザインではないミコト」を描いたものだったのだろう。 それをなんとなく分かったミコトは、初めて自分の生まれを恨んだ。


 彼が今日いないということは、一人で逃げてくれたのだろうか。 そうだったらいい、自分が死んでも、ユツキが生きていればいい。


 そう思おうとして、涙が溢れかえる。 当たり前だ、一緒にいたいに決まっている。


 泣けるような場所は、この浮かれた文化祭の中にひとつもありはせず、ただ人から隠れるように涙を流した。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 日々という日はない。


 思い返せば普通の日でも、喜んだり悲しんだり、思うようにいかなかったり、不安だったり、いい日もあれば悪い日もあり、日々とは結果を知ってから名前を付けただけの代物だ。


 いや、いい日も、悪い日も後から付けるものだろうか。


 だから、今日は普段の日々かもしれない、いい日かもしれない、悪いかもしれない。


 拳銃に不備がないことを確認し、魔術が問題なく使えることを確かめる。


「ああ……行くか」


 壁に描いた絵をかけて、その絵を撫でる。


 あと一日でいい。 あと半日でいい。 あと一時間でも、その半分でも、一分でも、あるいはほんの一瞬でもよかった。


 ミコトに会いたい。


 だが、会えば鈍ることは分かっていた。 ミコトと話せば、人を殺すことが難しくなるだろう。


 何人殺せるだろうか。 壊滅は不可能だが、二十人も魔術師を殺せば文化祭までは作戦が決行されることはないだろう。


 欲を言えば百人も殺せば、ミコトが大人になるぐらいまでは保つかもしれない。 殺せば殺すほど、ミコトの命は長いものになる。


 窓から飛び降り、ユツキは走った。


 思えば思うほどに、ユツキは自分の気が狂っていると感じる。


 自分を育てたところを裏切り、何十人も殺して少女が生きれる短い時間を作るだけなど、馬鹿げていて、意味がない。


 何より、ただひたすらに利己的だ。


 普通のビルに見える場所。 その地下に組織があることは知っている。 正面から入れば不意を打つことが出来ないだろうと裏から回ろうと路地に入ろうとした時、ユツキの耳に靴が地面を踏みしめる音が入り込む。


 全力で後ろに跳ね飛ぶと同時に乾いた発砲音が響く。


 ユツキの視線の先に線が入り、若干の熱を感じられる小さな風が鼻先を撫でていく。


「ッッッ!!」


 早すぎる。 あまりにも。


 一人、殺さなければ敵対するつもりだとバレないとユツキはタカをくくっていたが、何故かバレているらしい。


 大鬼がバラしたのかとも思ったが、そもそも場所がバレていたような配置自体おかしい。


 裏切ると知ってもここから侵入することが分かったいたかのような動き、念を入れて服や備品などは、強度の問題で物を仕込めない拳銃を除くすべては管理院からの支給品ではないものにしていたはずであり、ひとつの結論に至る。


「ッ! 身体の中に仕込んでいたなッ!!」


 体内にGPSの発信機を仕込まれていたのだろう。 最近のことではない、そのようなことが出来るのは、物心がつくより以前、赤子の頃からだろう。


 その位置情報で裏切りを察知したのだと察し、ユツキは苛立ちを吐き出すように魔法を発動する。


 生の書による身体能力の一時的上昇、地面を蹴り、壁を蹴って跳ね飛ぶのと同時に拳銃を先ほどの路地に向けて、引き金を絞る。


 覚えがあるものよりも重い引き金。 実際の重さは変わっていないはずだが、嫌に重く、酷く握りにくい。


「死ね」


 発砲音と共に人が倒れ、倒れた人から銃を奪い取る。複数人の足音を聞いて周りを見渡せばトイレの窓を見つけ、それを蹴破って中に侵入する。


 下水の臭いがするのは長らく使っていないせいで排水トラップに水が溜まっていないからだろう。


 挟み撃ちにされては敵わないと考え、その場から走って廊下に出る。


 足元に違和感を覚えて上に跳ね飛べば床に大穴が開く。 魔法による仕業と判断して周りを見渡すが、術者は見当たらない。


 走って逃れようとするが、角を曲がれば窓もない行き止まりだった。


 そんな構造のビルがあるはずもなく、床に大穴を開けた魔術師と同様のやつだろう。


 全力で壁を殴りつけて破壊し、術者位置の特定を諦めて突き進む。


 壁の破壊により身体にガタが来たことを感じ、生の書により治癒を行う。


 生の書の特徴は身体の操作だ。 自身の強化や相手の弱体化、あるいは治癒が可能だ。


 虚の書は目視した相手の感覚を奪う、識字などを奪うことで魔術師を相手に魔導書の発動を防ぐことや視界を奪ったりも出来る。


 弱点こそ少ないが、そのどちらもが破壊力には欠けている。


 新たに眼前に現れた壁を目にして、ユツキは表情を変えずに拳を握った。


「……邪魔だな」


 振るわれた拳が壁を破壊することはなかった。


 潰れた骨が血と共に露出し、アドレナリンが多量に分泌されてなお、警笛のような痛みがユツキの脳に響く。


 痛みという危険信号に返されたのは舌打ちがひとつだけだった。


 ユツキが薄い壁ならば破壊出来ることを知った敵の魔術師は、壁の厚さを変えることで対応したのだ。


 振り返ったユツキの目には同様の壁があり、蹴って破ろうとするが、返ってきたのは脚の骨にヒビが入った感覚のみで、壁は揺らぐこともなかった。


 すぐにユツキは周りにある背後の壁や上下左右の壁が彼へと迫って来ていることに気がつく。


 敵はユツキの魔術の欠点を知っており、押しつぶすつもりなのだろう。


「……少しばかり、舐めすぎだ。


 虚の書:第二章【暖かさに意味はない】……安寧を奪え!」


 虚の書は相手を目視出来なければ、発動することが出来ない。 それが前提であり、だから管理院の魔術師も相性の良い魔術師を当てがったのだろう。


 だが、魔術師には《格》の違いがある。


 圧倒的な情報量を持つ魔導書の全てを読み込むことは不可能であり、読んだとしても理解しなければ発動は不可能。


 常人ならば才能に溢れていて一章を読めるかどうか、多くの魔術師は三章から四章止まりである。


 このコンクリートを扱っている魔術師は幼い頃から「非凡」「天才」「神童」と持て囃され、負けたことのない人生を歩み、七章までの発動が可能となった。


 一章違えば倍の魔術を使う力と戦力差があるとされるため、単純計算で通常の魔術師十六人分の戦力である。


 魔術に必要なものは、魔術の知識と、操る物への理解だ。 だから、まだ足りない。


 たかだか「非凡」、せいぜい「天才」、所詮は「神童」。 「その程度」が【魔術】のデザインである真寺 有月の相手になるはずがなかった。


 壁の外にはユツキの血痕、肉体の破片がある。


 それが寄り集まるようにして球体になり、周りの血が剥がれ落ちるようにして眼球が生まれる。


 ユツキの扱う治癒の魔術による眼球の生成。 それからグロテスクな管が伸びて、その管が壁に張り付く。


 壁が徐々に狭まっているということは、その中にある空気が圧縮されることであり、そうなれば壁を壊す可能性のある圧力を増やしてしまうこととなる。


 それをなくすために空気穴が必要であり、ユツキも気圧が高くなっていないことから空気穴が開いていることが分かっていた。


 一通り見回し、一目では見えない空気穴があることを確認したことから、見えないほど細かな穴が大量にあると判断し、その穴から神経を通して壁越しに眼球と手のひらを繋ぐ。


 そして、壁の外にいた魔術師を「目視」する。


 その瞬間、コンクリートの動きが止まり、水で固められた砂山のようにゆっくりと崩れていく。


「……確か、【工】の書は触らなければ発動が出来ないんだったか」


 触感を奪う魔術、それひとつで完全に魔術を封じられる。


 男は急いで懐から拳銃を取り出そうとするが、触感を失った身体ではまともに物を掴むことすら出来ず、ユツキが落ち着いた動作で取り出した拳銃を見て命乞いをしようとしたが、乾いた発砲音に掻き消された。


 ユツキはため息を吐き出して、後悔を振り抜くように駆け出しす。


 ユツキは虚の章を第九章まで、生の書を第六章まで読むことが出来た化け物だ。 神童程度では相手にすらならなかった。


 魔術師が壁の向こうに出ていたのは、魔術の効果範囲内全てのコンクリートでユツキを封じ込めており、自分の身を隠すものがなかったからだろう。


 日々という日はない、良い日も悪い日も、所詮は後付けに過ぎない。


 俺は今日、死ぬ。


 後付けをすることは出来ない。 良い日とも、悪い日とも言えないだろう。


 本拠地のすぐ上で、目立つ音と振動を発する魔術師を相手に短くない戦闘したのだ。


 来て当然だった、敵の増援も。


「よお、ユツキ、久しぶりだな」


「……今日はいい日だ」


 八人の魔術師に、通常の銃を持った十数人の人員。 その魔術師の誰もが、先程の【工】の魔術師よりも章の進んだ魔術師だった。


「死ぬにはか?」


 顔見知りだった男が気分良さげに、品がなく口を開けた顔で尋ねる。


 ユツキがほんの数ミリだけ口角を上げて、男を見返す。


 今日は文化祭だった。 あまり上手くもない絵も描き上げ、劇の小道具も出来上がった。 今は、友人が下手な演奏をしている頃か、下手な劇を披露しているか、下手な絵を笑っているか。


 目をほんの少し閉じれば、まるで見てきたことのように、瞼の裏にしっかりと浮かんだ。


「……ああ、間違いない。 死ぬにはいい日だ」


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「……死にたくない」


 少女は電話越しにそう言った。


「だから、助けにいくと確実に死ぬ。 無駄死にを増やしたくないから、俺は止めている。 ここまでは分かっているか?」


「……分かってるから、どこにあるのか……教えて」


「聞いてどうするつもりだ。 行くんだろ? 行ったなら死ぬんだ。 死にたいのか?」


「……死にたくない」


 電話口の相手、大鬼は近くのビルからミコトを見下ろしながら大きなため息を吐き出す。


 ユツキが出て行ったのを確認してからも、継続して学校の生徒達の護衛をしていた大鬼だったが、ユツキの居場所である管理院の位置ぐらいは分かっていた。


 分かっていることと教えることは全くの別だったが。


「俺は可哀想な人間を見たくないだけだ。 だから理不尽な「大人の都合」で作られ、殺されるデザインを見たくないと思っている」


「……いい人なのは、分かってる。 あの時も、見逃してくれた」


「俺はいい人だから、わざわざ若者を殺そうとは思わんな。 だから聞かれても答えない」


「……ユツキくんが、死んじゃう」


「お前が行っても死体が増えるだけだ」


 ミコトはしばらく口を開かずに考えを巡らせる。 電話越しに突然黙りこくった少女の言葉を、三分以上も待った大鬼は確かにいい人なのだろう。


「……ひとりでは、死なせたくない」


 それだけ考えて出した答えは、自殺と呼んでも過言ではないものだった。


「そんな言葉を吐くから、行かせられないんだろうが」


「……だって、どうしようも……ないから」


 彼女の言葉の通り、どうしようもないのがユツキの運命だった。


 予定通りにデザインを殺せば自分も殺され、裏切れば当然死ぬ、逃げようと追いつかれる。 ミコトの知っていることではないが、ユツキ自身に発信機を埋め込まれているので逃げることすら不可能だ。


 何年も昔から、あるいは生まれたときから、ユツキが死ぬことは決まっていたのだ。


「……救えるなら、救いたい。 一緒にいたいし、話したい。 悪口とか、悪態とか、ちょっとムッとしたりして」


 ミコトは自分が思ったよりも冷徹な人間なのかもしれないと、涙も出ずに話していることを疑問に思う。


 好いた人の生き死にのことなのにと。


「……生きたいけど、どうせ生きられないなら」


 それはやけっぱちの言葉だったかもしれない。 ミコト本人も電話口の男を説得出来るとは思っていなかったのは確かで、自覚こそはしていないが八つ当たりに近いものだったとすら言えるだろう。


 大鬼は学校へと迫る人影を複数見つけ、魔導書である大巻物を生み出し、片手で持った携帯電話に向けて声を発する。


「無理矢理にでも生かしてやる。 どうしても死にたいなら、デザインも魔術師も関係なく自殺でもすればいい」


「……私はっ! ……ただ、だって」


 電話がプツリと途切れ、代わりに遠くから破砕音や地面への若干の振動を感じる。


 大鬼が塔の魔術師と接敵したのだろうか。 誰にも死んでほしくないとミコトは思っているが、どちらかが……十中八九は塔の魔術師が死んでしまうだろうとは思った。


 そんな中で、遠くにいるユツキの安否だけが気になる自分は酷く利己的なのだろう。


 自分が大切なものだけが大切で、それが脅かされていると目の前の人の命には関心すら抱けない。


「……ただ、ユツキくんが……幸せになってほしいだけで」


 電話は繋がっていない、そもそも電話に口を近づけてすらいない。 ただの独り言は、遠くの戦闘音と共に文化祭の喧騒に掻き消えた。


 どうすることも出来ない無力感。 結局、父に頼んでいた管理院の発見は出来ておらず、製造工場は分かったものの、搬入先は全国散らばり多すぎて判別が出来ない。


 頼りの大鬼も塔の魔術師から自分達を守ることで手がいっぱいであり、ミコトが無意味に死にに行くことも認めないだろう。


 どうしようもないのだ。 泣こうが、騒ごうが、諦めようが、進もうとしても、意味がないことが分かる。


 現実から逃げるようにフラフラと歩いていれば、いつのまにか慣れた道を歩いていたのか自分のクラスの前だった。


 喧騒から逃げるように中に入り、ユツキの机に手を当てると、まだ机の中には彼の荷物が残っていることに気がつく。


 何の気なしにその荷物を取り出せば、雑多に纏められたプリントに暇つぶしに描かれた落書きが残っていた。


 あまりいい趣味ではないが、虫やらナメクジやらの気持ちの悪い生物の絵が多い。 まともなものは最後に描かれたミコトの絵ぐらいのものだろう。


 珍しい模様の蜘蛛の絵を見て、ミコトはほんの少し疑問を覚える。 産まれてこのかた、こんな模様の蜘蛛は見たことがない。


 ユツキの完全な創作なのかと思っていたが、他の絵は見たことがあるものに似ている。


「……これ、は……」


 別の絵でも本物は見たことがない虫を見つけ、ニュースで外来種がきたと話題になっていたものであることに気がつく。


 ユツキがニュースを見たとも思えないので、実際に見たことがあるものだろう。


 だとすれば、絞れる。 大まかにではあるけれど絵に描かれている虫の生息地域でどの辺りにユツキが住んでいたのか、今いるのかが分かる。


 教室の床に紙を広げながら、ミコトは電話を手に取り、以前自分を攫ったデザインに連絡を取る。


「……後で、何でも協力するから、すぐに高校まできてください」


「えっ、何がですか? もしもし? おーい、長井さ──」


 これで大丈夫だろう。 とミコトは電話を切って絵を眺める。


 虫の種類はおおよそは見たことがあるものばかりなので、そこまで離れた場所ではないだろう。


 携帯電話からインターネットに接続し、検索エンジンに見たことのない虫の特徴を書き、名前を調べてから生息場所を探していく。


 徐々に狭まっていった地域を頭の中でまとめながら、校門に向かう。


 運が良かったのか、丁度同時刻に到着した女の子車に乗り込んで、混乱している様子の彼女と運転手にミコトは告げる。


「……北に、お願いします。 細かい場所は、今から探しますから」


 絵を見ては場所を絞りと繰り返し、生息場所と搬入先から十つほどの場所に絞られ、それから都会の街中では出ないだろう虫もいるので、山の近くに限ることで候補の場所が半分になる。


 そのどれもがここよりも北にあったので、しばらくは時間を無駄にすることもなく進むことが出来るだろう。


「あの、急にどうしたんですか?」


「……ユツキくんが、危ない」


「あ、あの男の子が?」


 軽く頷くだけで、半ば女性のことを無視しながら、思考を巡らせる。


 あと五箇所だけだ。 そのうちのひとつに絞ればいいだけで……今まで散々ユツキと話してきたのだから、何かしらの情報はあるはずだと必死に思い出す。


 方言、癖、何か……ないか。 何かあるはずだ。 だって今まで散々いっしょに過ごしてきたのだから──。


「……何も……ない」


 ミコトは絶望したようにそんな言葉を吐き出した。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 白銀と赤の軌跡がグラデーションとなって宙に浮き上がる。


 腕が断ち斬られたと知ったのは、痛みからではなく視覚からだった。


「ッ……! 馬鹿みたいな格好をしやがって!」


 ユツキは腕を【生】の魔術で接合しながら、時代外れの片手剣を持った男に向かって吠えた。


 打ちっぱなしのコンクリートの建物の中に片手剣を持った男がいるのだから、当然のように馬鹿のように見える。


 だが、【時】の魔導書を持つ彼にとっては最も適した武器だった。


【時】の魔術は手に触れた物のみを対象として発動出来る。 銃などの自ら射出する遠距離武器は、魔術の利点を消してしまうのだ。


 ユツキが破れ被れに放った弾丸を見て、剣の男はマントを翻す。


 マントは不自然に舞った状態で静止し、弾丸に当たっても揺らぐことすら起きない。 時間の停止による絶対防御だ。


 魔術を封じようとしたユツキが口を開いたところで、後ろから大量の弾丸が浴びされて一瞬怯む。


 それでも魔術を唱えようとしたが、異常な速度で振られた剣が喉を断ち切って、ユツキの詠唱を封じる。


「ぐっ!! らぁ!!」


 それでも一歩前にユツキが進み、男の首を掴み握りつぶそうとする。 だが、その腕が鎖に捕らわれ、地面へと引き倒されてしまう。


 関節を力任せに外し、皮膚が削れながらも無理矢理に鎖から逃れて体制を立て直そうとした瞬間、ユツキの全身が燃え上がる。


 ひっきりなしの攻撃で、反撃の隙もない。


「虚の書:第八──ッ!」


 肺が熱された空気に焼かれるが、魔術による治癒で声を発することが出来る。 焼けて治り、また焼けてとと繰り返しながら、ただ一瞬だけ発語出来ればいいと詠唱しようとしたが、焼けていた空気すら失われる。


 炎も一瞬で消え失せ、息すら出来ない環境で白銀が舞い、その後を追うように赤い血が溢れ出る。


 魔術による治癒、身体の破壊、再生、燃焼、回復、斬殺、蘇生──いつまでも終わらないと思われるような長時間の一方的な戦闘だったが、ついにそれは終わりを告げた。


 魔術の発動限界。 生の魔術による治癒が発動しなくなったのだ。


 そう、ユツキの身体が完全に焼けて失われた時に、敵対していた魔術師のひとりが思った。 思って、しまった。


 斬り落とされた腕が、炎の魔術師の足首を掴む。 そこから植物が伸びるように身体が生まれていき、上半身も出来ていない状況で、発生したそれは吠える。


「虚の書:第八章【高等なる吠え声】。 安息を忘れろ!」


 何かが起こった。 と、ユツキの声を聞いてその場の誰もが思い、何も起こらないことに疑問を覚える。


 魔術の不発はあり得る。 散々魔術を使っていたのだから、限界が来たのかもしれない。 だが、と全員が警戒し、それ故に誤った。


 まずひとりの服が発火し、それに気がつくのが遅れたせいで火が全身にまわる。


「……死ね」


 ユツキは掴んだ足首を引っ張り上げて、全力で持ち上げて振り回す。 燃えている男に投げつけて、距離を置くためにユツキは後ろへと跳ねる。


 二人程度欠けたところでまた増員が来ると思い、ユツキへと迫ろうとした剣の男は盛大に足を滑らせて転倒した。


【高等なる吠え声】は苦しみを奪う魔術だ。 火がまわっていようが、足を強く握られようが、痛みを感じていても実感が湧かずに反応が遅れる。痛かろうが、意識が薄れようが気にすることが難しくなる。


 男達は狭い室内に炎にがあることによる不完全燃焼により発生した一酸化炭素により、意識が奪われていく。


 少し離れた場所にいた男も、気付くのが遅れたことにより、対応することも出来ずに倒れる。


「なに、が…………」


 倒れているものを見ることなく、ユツキはその場から離れる。 猛毒の空気はユツキにも同様に働き、魔術で治るにせよ意味のない無駄遣いは出来ない程度には切羽詰まっていた。


 逃げるべきである。 と、ユツキは思ったが、発信機が体内に仕込まれているのに、どこに逃げられるというのか。


 裏切った時点で、どうやろうとも死は避けられない。 いや、裏切る以前から、この時期の死は決まっていた。


 拳銃は壊れたため、殺した人の手から銃を奪い取り、せめて少しでも服を剥いで着ながらビルの地下へと続く地下へと足を運んだ。


 空気がひずんでいると気がつく。 それはユツキの思い込みかもしれなかったが、そう感じることがおかしくないほどには嫌な薄暗さや気持ちの悪いカビの臭いがしみついていた。


 不快感から眉間のしわが寄り、以前見たときと比べずいぶんと雰囲気が違うことに若干の疑問を覚えたユツキだったが、思い返せば元々このような場所にも思える。


 変わったのは場所ではなく、自分の目かと思い。 ユツキは死ぬ前と分かりながらもそれを誇らしく感じる。


 細かいことすら不安に思うほど弱くなったのかもしれないが、悪くない。 怯えているのは人らしく生きられている証拠のように思えた。


「例えばのことなんだけど──」


 若干油断していたユツキの耳に、反響した声が響く。 警戒を強めた彼は足を止めて、奥の暗闇に目を凝らす。


 簡単に本拠地である地下にまで入り込めたのは、灯りを消して暗闇にすることで虚の書の発動を封じるためだろう。


 それを証拠にか、先ほどまで絶え間無く襲ってきていた魔術師達が自然光の入る階段までにはきておらず、暗闇に紛れている。


 生の書のみでは勝ち目が薄い。 ユツキの強みは二つの魔導書を持っていることであり、もっと言えば虚の書で相手の魔術を封じた上で、生の書で一方的に魔術を使うことだ。


 一切の光源がなければ相手も魔導書を読めず魔術を使えないだろうが、そうなれば人数の多い管理院側が圧倒的に有利になる。


 生の書の魔術はしばらくかかりっぱなしだろうが、追加しなければいつかは切れ、その時点で死亡が確定する。 相手も持続して発動する魔術を使ってくるだろうことを思えば、光源がなくなることでの不利は圧倒的にユツキが被ることとなってしまう。


「──ここで心を入れ替えてくれたら君の命は助けてあげるって言ったらどうする?」


 ユツキがどうするにしても不利は変わらないが、無策で突っ込めば犬死にするだけだ。


半歩足を後ろに擦らせた瞬間、上から入り込んでいた太陽光が失われる。


「……ッ!」


 闇を作るために光の入り口を塞ぐのなど、考えれば当然のことである。


 ユツキを驚愕させたのはそれではなく、その光が消えた一瞬、視覚に頼った外部情報の取得から、聴覚による状況判断に切り替えた瞬間に首を掴まれるという攻撃を受けたことだった。


 光が遮断されることはユツキにとっても想定内のことであったが、敵側のゼロコンマ一秒以下のズレもない同時行動などあり得ないと判断していた。


 ほんの少しでも首を狙うのが早ければ、ユツキが姿を見て反撃出来ただろう。


 ほんの少しでも遅ければ、ユツキは音を聞いて風の揺らぎから反応していただろう。


 視覚と聴覚の切り替えの隙間を狙い撃つ。 異様とも思える技術に驚愕するのよりも先に、ユツキの腕は動いていた。


 治癒の魔術がかかっている間は細胞は死滅せず、常に栄養があるのと同様に動くことが可能だ。 それは息をせずに酸素が足りなくなったとしても変わらない。


 首を掴まれても衰えないユツキの反撃の腕を相手の男は躱し、手首を掴み、階段へとユツキの身体を叩きつける。


 実際の柔道のように受け身が取れるような優しい投げ方をされるはずもなく、受け身も取れず叩きつけられたユツキの背骨が異様な音を立てて折れた。


 だが、治癒の魔術があれば、その程度の致命傷はあってないも等しく、そのことはユツキも……当然のこと、相手も理解している。


 狙いは叩きつけたことによるダメージではなく、寝技による拘束。


 階段上で揉み合うようになるが、人間らしい技術の有無が大きな差を生んだ。


 柔道の関節固め技。 ユツキが関節を外しても動くことが出来ることや、階段の上であることから既存の技からはかけ離れていたが、人間を超えた魔術師同士のぶつかり合いは人間の技によって終わりを迎えた。


 魔術、銃、体術、ユツキには抵抗する術はなく、押さえ込まれながら縄で縛られる。


 目隠しの上、暗闇の中で引き摺られていった。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 見つからない。 思い出も、情報もなく、ただまぶたの裏に見えるのはユツキの仏頂面ばかりだ。


 泣きそうになるのは、焦燥のせいだろうか。 あるいは、長く過ごしたつもりで何も知らずにいたからだろうか。。


「次はどこに行けばいいんですか?」


「……分から、ないです」


 ユツキがどこにいるのか、何を考えていたのか、ここからどこに向かえばいいのか。


 女性は困り顔になりながらミコトを見つめる。


「……どうしたら、いいか。 こうなるって、分かってたのに」


 ミコトは俯きながら、どうしようもない現実を呪うように喉を震わせた。


 自分は、あまりに無力すぎる。 自分だけが生き延びる【不死】など、本当に利己的なだけだ。 人のためには、何も出来はしない。


「……ここで、いいです」


「えっ、山の中だよ? 何かありそうにもないけど……」


 停められた車からミコトは降りて、運転手の男と女性に頭を下げた。


「……デザインの方は、殺されるので、国外に逃げた方がいいです。 普通の飛行機なら、ダメだと思います」


「殺され……って、この前のあの人達と関係しているんですか?」


 ミコトが後ろに下がろうとしたことを察した女性は離れようとしていたミコトの手を握り、逃げられないようにして尋ねる。


 力を入れても動かないことをミコトは確かめたあと、頷く。


「……魔術師、不思議な力を使う人がデザインを殺そうとしています。 なので、逃げないと危ないです」


 ミコトの言葉に女性は苦そう表情を浮かべて、続けて尋ねた。


「長井さんはどうするつもりなの? ここから逃げたり出来るようには思えないんだけど……」


「……私は、ひとりだけ逃げたくないから」


 けれど、立ち向かうことも出来ない。 そう思いながらも口にすることはなかった。


 望みはない。 たったひとつ、妥協に妥協を重ねた「せめて、ひとりぼっちでは死なせない」ことすらも叶わず、ヤケになっているだけかもしれない。


 そんなミコトを瞳に映した女性は、ゆっくりと息を吐き出す。


「話が上手く飲み込めないけど……。 わざと死ぬのは良くないよ?」


 当然なことを、大袈裟に言うものだとミコトは思いながら、そんな当然なことを考えてすらいない自分に気がついた。


 それは、簡単に「人を殺す」と口にするユツキと過ごしていたからではなく、ただ生まれつきそうだった。


 自分にとって、命はさして重要な意味を持っていないことにミコトは気がつく。


 それは自分が【不死】のデザインだから普通だと考えもしていなかったが、それもおかしくはないかと疑問に思う。


 人格とデザインに影響はあれど、相関はない。 運動神経のいいデザインはスポーツが好きなものが多く、知能の高いデザインは学力が高いものが多いが、それは親の勧めや成功体験が元になっているからだ。


 決して才能と好みが直接結び付いているわけではない。 それを考えれば、親の勧めやら成功体験などあるはずがない「生への執着の薄さ」が何の理由もなくあるはずがない。


「……死ぬのは良くない。 ……ですか」


「そりゃそうだよ。 それに研究に付き合ってくれる約束もあるんだからさ、生きてよ、ね?」


 何故自分は死を恐れないのだろうか。 生きていたいのが当然で、だからこそ【不死】を両親が多額の費用をかけて生み出したというのに、おかしいだろう。


 何か重大な見落としをしているようで、しかしながらそれを知れば自分の根源を否定することに繋がるようで、酷く、強く、深く……恐れてしまう。


 思考から逃げようと目を上にした瞬間に、女性の顔が目に入った。


「……あ、れ?」


 足元が崩れてしまうような、空が落ちてくるみたいな、そんな感覚。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 目隠しで目は見えず、縛られているために動くことも出来ない。 ユツキは強く放られた感覚で、どこかに到着したことを知る。


「久しぶりだな。 真寺 有月」


 男の声を聞き、ユツキは見えないと分かりつつも顔をあげる。


「……早く、殺せ」


「殺そうとした攻撃で縄が解けることを期待しているのか? 下手なことをしてもリスクがあるだけだからな、治癒するための魔力が尽き、飢えて死ぬまで幽閉させてもらう」


 ユツキが知っている限り、管理院のトップである男が出てきて、やることが幽閉だけ、ユツキがそのことに疑問を覚えていると、男はため息を吐き出した。


「頭がきれるな。 そんな風に設計していなかったんだがな」


「……何をするつもりだ」


「大したことは出来ないな。 ただ、お前を失うのは惜しい、説得でもするかと思ってな」


 ふざけるな。 と吠えかけた口を閉じる。


 説得されたフリをすれば、解放されてもう一度戦える可能性もある。 ユツキはそう思いながら、ゆっくりと口を開ける。


「……話すことなど」


「ああ、「説得」されるつもりになったのか。 何も考えずに吠えてくれればまだ可愛げもあるんだがな」


「……クソが」


 思惑を見透かされた。 これでもう解放されることはないだろうと思いながら、ユツキは目隠しを外そうと頭を地面に擦り付ける。


「無駄なこと、と思わないか?」


「……少しでも、可能性があるなら!」


 ユツキの言葉を聞き、男は無感情な目を向けた。


「そうじゃない。 守ろうとすることがだ。


守ろうとして死ぬ価値があるだろうか。 そいつらがいなくなれば、少しは日本もマシになるんだ」


 国を滅ぼす要因となり得る少子化を加速させる原因。 と、ユツキは聞いていて、そう信じている。


 だが、あの高校へと通い、本当にそうであるかを疑問に思った。


「……俺の友人には、馬鹿な奴がいる」


 ユツキの口から吐き出された言葉を聞き、男は訝しげるように眉を潜めた。 吐き出した息が聞こえるほど静かな中、押さえつけられながらもユツキは立ち上がろうと足掻き、もがく。


「……約束された成功の道は、あるだろう。 それは確かだ」


 必死に立ち上がろうとして、組み伏せられる。


「だから、人は妬み、嫉み、羨み、憎む」


 男はつまらなさそうに告げた。


 関節が外されるもすぐに治癒され、また立ち上がろうとする。


「……馬鹿な友人は、ギターで食っていきたいんだと、語っていた」


 縄を力づくて振り解こうとして、血が縄に染み込んでいく。


「……下手なギターだ。 才能なんてない。


馬鹿な奴だ。 誰からも尊敬され、賞賛される道があって、それを選ばない」


 血反吐を吐き、組み伏せられながら、ユツキは言葉を続ける。


「クラスメートに頭がいい奴がいて、運動部で頑張っていた。 意味のない文化祭にやる気を出してる奴も、適当に遊んで過ごしている奴も……」


 ユツキは立ち上がる。


「……不死を持って生まれて。 あと数ヶ月も生きない俺のために、死のうとしてくれた奴がいた」


 複数人に取り押さえられ、頭を地面に打ち付けて血を流す。


「約束された成功の道をッ! 辿る必要がどこにあるッ!!


生きたいように生きるなら、デザインも何も関係ないッ! 才能があるか、成功するかも分からないただのド素人だろうがッ!!」


 流されていた血液が寄り集まって、眼球の形を成す。 治癒の魔術による異様な光景だが、取り押さえていた男の一人がそれを踏みつぶそうとして、その転がる眼球の硬さに目を見開いた。


「ッ! これはッ!」


「虚の書:第一章【あるべ……ッッグァ!」


 詠唱を寸前のところで喉を裂かれることで止められ、ユツキはその際に飛び散った血液と肉を「治癒」し、細かな骨の欠片のようにして反撃する。


「俺は、確信している。 あいつらは上手くいかない。だが、それでも幸福に生きる。 理想通りにいかない、普通の馬鹿な奴らだ」


 縛られたままユツキは立ち上がり、目隠しで見えないながら、男を睨む。


「……あいつらは、ミコトは殺させない。 全員生きて、そんなつまらない、子は思い通りにいくと思い込んでる馬鹿共の妄想をぶち壊してやる」


 さあ、吠える。 そうユツキが決めた瞬間に、男の小さな声が、飛んでいる羽虫を嫌がるかのように面倒臭そうに響く。


「まぁ、少子化とかどうでもいいんだけどな。 必要なのは労働力だけで、労働力など機械で事足りるからな。 人なんて減ってくれて結構だ」


「……は」


「別に誰も国内に留まる必要もないからな。 ある程度上になれば、別の国に行っても生活は変わらない」


 この男は、何を言っている。 ユツキは理解出来ず、言葉が右から左へと通り過ぎていく。


「遺伝子のプールが足りないってのもどうでもいい。 そんなもん適当に遺伝子情報保管してりゃ済むだけだろ? 人一人の遺伝子情報なんて800MB程度、そこらへんのUSBメモリにでも突っ込めば終わる話だ」


 空が落ちてくるかのような、非現実的な感覚。 得体の知れない、腕が千切れたときよりも強い痛みが頭に響いた。


「……なら、何故だ」


 ユツキの呆然とした問いに、男はつまらなさそうに笑う。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 【熱】のデザインとでも呼べる女性が目の前にいる。 熱に強く、熱を発するなんて、日常生活で役に立つとは到底思い難い。


 ユツキとは少し戦っていたが、戦う力にはなるとしても武器を使った方が確実で手っ取り早いだろう。


 そもそも……熱に耐える身体は温暖な地域に向いていて、熱を発する身体は寒冷な地域に向いたものだ。 設計思想の段階で、異様としか思い難い。


 地球上にいて、役に立つデザインとは到底思い難かった。


 少なくとも「子供のため」ではないことだけは確実である。


「……あなたは、何のために……」


 いや、聞くまでもなく、考えるまでもなく分かることだ。 地球上にいて役に立たないのだとすれば、地球上ではない場所に向かわすためのデザイン。


「……宇宙」


 女性の瞳にミコトの顔が映る。 酷く幼い顔が、呆然と揺れる。


 あるいは自分の存在目的も……何百光年と移動する年月を生き延びるための、設計なのかもしれないと気がつく。


 まともな人間ではありえない目的のために作られたのではないかと、ただ思う。


 ミコトの言葉を聞き、女性はほんの少しだけ驚いてから小さく頷いた。


「……私ばかり、狙っていたのは」


 【不死】というデザインが、デザインの象徴となっているからと聞いていて、そうなのだろうと思っていたが、考えてみれば、わざわざ最初に殺すことを拘る必要はない。


 管理院が塔の魔術師と敵対してまでミコトを守らせたのは、後で殺すなんてよく分からない理由ではなく、自分を手に入れるためだったのだろう。


 思い出してみれば、塔の魔術師は最初から鎖の魔術で捕縛しようとしていた。


 違ったのだ。 ユツキが聞かされていたことは事実ではなかった。


「……宇宙で開拓をするため?」


 そのまま使うのか、あるいは女性達のように研究をして【不死】の遺伝子を用いるのかは分からないが、殺すつもりはなかったのだろう。


 初めから、宇宙開発の競争だった。


 どうするべきなのかが、ミコトには分からなかった。


「……ユツキくん」


 自分がどうしたいのかも定かではなく、ただぼうっとしているばかりだ。


 そもそもがこの目の前の女性も、本当に味方なのかは分からない。 今、協力してくれていたのも……。 そう考えるほどに、ミコトは呆然としていた。


 このままここにいれば、島の大鬼が対処しきれなかった人達がやってくるかもしれない。 けれど、行く場もなく、ユツキの居場所が分からないのも変わりない。


「逃げる? 一緒にになるけど」


「……分からない。 ユツキくんは、喜ぶかもしれないけど」


 ミコトが逃げ延びれば、ユツキは喜ぶことは確かだ。 そのために彼は命を賭けて戦っているのだから。


 だが、それは……ユツキを見捨てるということなのではないだろうか、とミコトは感じていた。


「ワガママには付き合うよ。 鬱になられたら、こっちも困るしね」


 ユツキの意思を尊重して、彼を見捨てるか。 自分のために、意味もなく自分も犠牲になるか。


 どうしようもない二択を前に、ふと、頭にユツキの絵が浮かんだ。


 自分よりも少しばかり背の高い自分。 デザインを嫌っていたユツキが描いた、デザインではない自分だと思っていた。


「……あ」


 実際にそうかもしれないが、もしかしたらただの単純な未来のミコトを描いたものだったのかもしれないことに気がつく。


 少し背が高く、胸を張って生きられている自分を、ユツキが望んでいたのかもしれない。


 ユツキのために生きなければならない。 そう思い、同時に、酷く怯えるように身体を縮こませてしまっていることにも気がつく。


「……生きないと、私は」


 【不死】のデザインだから死ぬことが恐ろしくないとか、生きる価値観が違うとか、そういうことではないのだ。


 生きていてほしいと望む人間が、何人いる。


 だから、ちゃんと、しっかりと、前を向いて生きよう。


 ミコトは顔を上げた。


 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「……宇宙開発……だと」


 ユツキの目は酷く濁る。 病名を告げられた患者のような、一瞬だけ理解の出来ない感覚。


 彼の動きが止まるのも仕方のないことだろう。 本当に何も知らずにいて、唐突に告げられたのだから、理解が追いつかないのも当然だった。


「驚くほどのことでもないだろう。 現状の技術で開拓出来るような星は限られていて、法整備もないから早い者勝ち。 少なく見積もっても一国を作れるほどの金銭が発生する競争だ。 利権の争いで人死にが出ることなど、珍しくもない」


「……理解しがたい」


 ユツキは駆け引きもなく、そう口にした。


 彼にとって金というものの価値は薄い。


 それは彼が金銭に触れる生活をしてこなかったこともあるが、それ以上に、多くの金銭など必要のない幸福を知っていたからだ。


「……下手な音楽でも聞いて、下手な絵でも描いて、面倒な勉強や仕事をして、つまらないことで笑って、美味い味噌汁を啜る。 それでいいだろ?」


 心の底から、男の言葉が理解出来なかった。


「……何故、膨大な金を欲しがる」


「とりあえず欲しいから手に入れる。 んで、手に入れたら好きに生きれるだろ。 誰だってそうしている、俺だってそうする」


 尊敬していたのだろうか、とユツキは落胆、失望している自分を知り、ひとごとのように思う。


 騙されていたことへの憤りは、わざとらしく感じようとしなければ忘れてしまいそうなほどに小さく、ただ純粋につまらないと思うばかりだ。


 金の価値などユツキには分からない。 あれば気にすることなく味噌汁を飲める程度以上には、使い道を知らない。


 そこまで徹底して知っていなかったのは、ユツキが金に関心を持てば目的を悟られる要因になったからだろう。


 「……ひとつ、分かったことがある」


 万が一にも勝ち目はない。 それはユツキも、男も、あるいは周りにいる誰もが分かっている事実だった。


 魔術師として鍛えられた技量が、男に従えとユツキに命じる。


 ユツキは押さえつけられながらも身体に力を入れた。


 「なんだ」


 格闘の技術が、勝てないと悲鳴をあげた。


 目隠しをされながらも、その布の奥で声の方を睨み付ける。


「……つまらないことだ」


 理性が逃げろと叫ぶ。 身体が限界を伝えて、頭の中は苦痛を避けようとし、負け戦をしてどうなるのだと経験が説得を試みる。


 格好良く立ち向かうことなど出来なければ、勝つための策など思いつくはずもない。


 ただ、たったひとつ、ちっぽけな何かがあった。


 恋心と呼ぶには未成熟で、憧れと呼ぶには少し見下している。


 立ち上がる。 ユツキはいつのまにか自分がミコトの口調を真似ていることに気がつき、口を開けて笑う。


「何が、おかしい」


 ユツキの中の何もかもが逃げろと、逃げろと、逃げろ逃げろ逃げろと、悲鳴をあげている。


 ただ、たったひとつ、一月か二月ほどの短い記憶、それを惜しむちっぽけな心だけが、今にも消えいりそうな囁き声で言っている。


「抵抗するようなら……!」


 ユツキの体から、二つの文字列が浮かび上がる。 それは螺旋状に渦巻き、ユツキの異名の元となった【二重螺旋】を形作る。


 魔導書はどのような形であっても良いが、書物である以上は情報伝達の手段とならなければならない。


 本の形である必要はない。 巻物でも構わない。 携帯端末やパソコンでも問題ない。 楽器や石版も確認されている。


 ならば、ユツキの二重螺旋は何の情報伝達物だ。 考えるまでもない、本よりも古い、人よりも古い、最古の記録。


「っ! やれっ!!」


 放っておいてはならないと、ユツキの様子に焦った男は命令を下す。


 自身が何故、殺すのではなく捉えるのを選んだのかも忘れて。


 ユツキの全身に剣が突き刺さり、稲妻が走り、重力に押し潰される。


 そのユツキの体が動かないことを確かめて安堵した男の背に、トン、と振動が伝わった。


「……怯えたな」


 男の首が背後から万力のような力で締め上げられ、苦痛からか、恐怖からか、酷く男の表情が歪んでいく。


 ユツキの体は未だに男の視界の中で倒れている。 まさか幻覚のはずもない。


「……全身の細胞が潰れ、電流で焼けた。 生の魔術はあくまでも細胞分裂を繰り返す。 ……残っている中でもっとも大きい部位から、再生することぐらい知っているだろう」


 男は掴まれている腕で振り返ることも出来ず、全身に鳥肌を逆立てさせた。 男にとって何年ぶりの感覚だろうか、少なくとも、男の記憶の中にはないほど昔に感じたきりだろう。 怖い、とは。


 ユツキは男の身体を床へと叩きつけた。


「お前の神に祈れ、死後は金が欲しいと」


 目隠しはなくなったが、既に電源が落とされたせいで魔導書を読むことが出来ない。


 それは相手も同じ条件であり、今ユツキが魔術による攻撃を喰らわずにいられているのは、そのためだろう。 銃撃がないのは、足蹴にしている彼等の長のためだろうか。


 ユツキは一度、この男を仕留めれば計画は中断せざるを得ないだろうと考えたが、体が動くことはなかった。


 仕留めれば、撃たれ続けて死ぬかもしれない。


 死を覚悟してこの場にきて、この瞬間、初めて死が恐ろしくなった。


 理由は分からない。 と、ユツキは自覚していなかったが、そう難しい感情のためではない。


 腹が減っていた。 毎日この時間には味噌汁に舌鼓をうちながら過ごしており、体が思い出していたというだけのことだ。


 戦闘中に「味噌汁が飲みたい。 ミコトの作ったやつ。」などと馬鹿げたことを自分が考えているなんて、思いもしないようなことだった。


 そんなありえないマヌケな一瞬が、命を救った。 ユツキか、あるいは男の。


 風の流れを感じたユツキは、全力でそちらへと駆け出す。 自由な身体であれば、身体能力の強化されたデザインであるユツキの脚力に追いつけるはずはない。


 背後からの銃撃をいくつか被弾しながらも、ユツキはその場から駆けて逃げ出した。


 一般の職員は避難を終えていたのか、暗闇の中に人の気配はない。 体の中に仕込まれていただろうGPSも、身体を一度全て失ったので問題なくなった。


 逃げることが出来る、とユツキは思いつく。


 ここから逃げて、ミコトを攫い、どこか遠くに行く。


 以前教えられていたデザインを皆殺しにすることが真実ではなく、金儲けのためだと言うのならば……見つけるのに時間も金もかかる海外であれば、追ってこないかもしれない。


 競争相手もいるのだから、悠長に失敗した作戦を続けることはないだろう。 放っておいてもカケル達も無事だ。


「ここから出て、ミコトに会えれば……!」


 ミコトを幸せにしてみせる。 馬鹿な俗物どもから守ってやれる。


 そう思いながら見つけた階段を駆け上がり……ユツキは、唯一の通り道である階段が崩れる音を聞く。


 壊れたコンクリートの破片がユツキの頬を裂いて落ちる。 先ほどまで感じられていた微かな風も感じられず、崩されたコンクリートの砂埃の匂いだけがその場に残った。


 唯一の出入り口を封じられたのだ。 対人戦では強力なユツキの魔術は、大規模な破壊には向いていない。


 それは、ユツキがこの施設から抜け出す方法はないということだった。


 人の足音を聞いて、近場の扉の中に逃げ込む。 どうやらパソコンがあるらしく、ブレーカーを落としていても、バッテリーのためか動いている際に発光するランプが点灯して、若干の光度が部屋の中に保たれていた。


 灯りがあるとは言えど、若干物の輪郭が分かる程度で、魔導書を読むことは難しい。 パソコンを操作して画面を表示させれば魔術も可能だろうが、そうすれば灯りで場所がバレてしまう。


 ユツキは息を潜め、扉を背にして座り込んだ。


 死にたくない。 そう思ったのは初めてだろうか、それとも感じないようにしていただけか。


 少なくとも安易にパソコンを操作して魔術を使用しなかったのは、正解だっただろう。


 ユツキの背に、扉の向こう側の足音が伝わっていた。 息を潜めたユツキは、その振動を感じながら、自身の魔術を扱うための力が減っていっているのを感じる。


 長時間の使用に加えて、何度も無理な回復を繰り返していたことで尽きかけていた。


 せめて消費を抑えようと、振動を感じなくなってから魔術を解除して、何か使えるものはないかと部屋の中を漁る。


 どうやら更衣室も兼ねていたのか、ロッカーがあり、その中には衣服と菓子があった。


 ユツキは意味がないとは思いながらも服を着て、菓子をもそもそと食べていく。


 咀嚼が苦手なのを克服していて良かったとユツキは思いながら、失敗したかもしれないと思った。 最後の食事がこんな菓子で腹を満たしただけというのは味気ない。 最後ならば、ミコトの作った味噌汁が良かった。


 馬鹿なことを思っているとユツキは自覚しながら、座って身体を休める。 もう逃げ場がないことや、ここも時期にバレるだろうことを気付かないふりをして。


 死にたくない。 だが、生きることが難しいのは明らかだった。


 どうしようもない状況が、扉が開かれたことで悪化する。 入ってきた人が気付く前に仕留めようと音もなく忍び寄り全力で拳を振るう。


 無力化には成功したが、倒れたことでロッカーにぶつかって音が鳴る。


 すぐにこの場から離れなければならないと、ユツキはパソコンをコードから引き抜いて駆け出す。 すぐに見つかるだろうと分かっていたが、生きたいと自覚したユツキはほんの少しの可能性を考える。


 通気口、水道と何か穴はあるはずだと考えて移動し続けた。


 少しずつ、逃げられる範囲が狭まっているのが分かる。 身体の性能が良いことで先に見つけて離れることが出来ているため、決定的なことは起こっていないが少しずつ確実に追い詰められている。


 一度見つかれば、出口がないために逃げることが出来ず、死ぬまで戦い続けることになる。


 ユツキは逃げ隠れるしかない。


 また適当な扉に入ったところで、ユツキは心身の疲労で膝をつく。 あとどれだけの時間生きられるのか。


 自分の死後、ミコトは幸福になれるのだろうか。 そればかり考えて、彼女の顔を思い出す。


「ミコト……」


 数々の暴言を謝りたい。 生きたいと思わせてくれたことに感謝したい。 また、彼女の作った味噌汁を飲みたい。


 ユツキはそう心の中で叫び、顔を歪める。 望んだところで会えるはずもなかった。 自身の望みが何かを変えることなどあるはずかないと知っていた。


「……ユツキくん?」


 だから、これはユツキの望みの結果ではなかった。


 表情がひどく歪む。 ほとんど存在しない明かりだが、持ってきていたパソコンの小さなライトで輪郭だけが目に映る。


 小さく細い、華奢な身体。 輪郭だけでも制服と分かるほど、ユツキには見慣れた格好の少女だった。


 ユツキは自分の正気を疑うように瞬きを繰り返し、何故かその場にいたミコトを見つめる。


「何故……ここに。 捕まっていたのか」


 いや、捕まっていれば、いくらデザインとは言えども魔術師でもないミコトが逃げ出せるはずはなかった。


「……ユツキくんを、助けようと思って」


「いや、まず何故ここの場所を知っている」


「……ごめんなさい。 ユツキくんにもらった食べ物の工場から、搬入してるところを探して、ユツキくんの話とかから推測して……きました」


「何故、そこまで……」


 ミコトはユツキを見つめた。 もしかしたら光度がないことでほとんど見えていなかったかもしれない。 けれど、見つめていた。


「……ユツキくんが、好きです。 たぶん、伝わらないと思うけど、全然分からないと思うけど」


 あなたが好きだから来た。 そう、ミコトははっきりと伝える。


「馬鹿が……俺が何のためにここにきて、裏切ったか」


「……ごめんなさい」


「逃げられないんだ。 階段が潰されていた。 他の道も同様だろう」


 ミコトは頷きながら、ユツキの持っていたパソコンに目を向けた。


「……まだ、手はあるはず」


 ミコトはユツキの手を握る。 大丈夫だと、真っ直ぐにユツキに伝えてみせた。


「生き残れるとでも、思っているのか」


「……うん。 ユツキくんに、会えたから」


 隠す気もない信頼を受けて、ユツキは困ったようにため息を吐き出した。 状況など、ミコトが脚を引っ張る可能性を思えば、悪くなっているだけのはずだというのに不思議と安心してしまっている。


 弱い少女に、心を救われていた。


「最悪な日だ。 今日は」


 ユツキはその日が終わるまで、評価をしない。 いい日も、悪い日も、なんでもない日も……振り返って思うものだからだ。


だからユツキは、今日はどんな日でもないと思っていて、今は最悪な日だと思うことが出来た。


 ミコトはユツキの持っていたパソコンを開き、ユツキは急いで光が漏れないように扉の隙間を塞いだ。


「そんなものを開いてどうする」


「……逃げ道を探す。 ……こんなに大きい施設なら、地図のデータとかあるかもしれないから」


「それはそうかもしれないが、それも塞がれているとしか……」


 ミコトはパソコンに付箋で貼ってあったパスワードに気がつき、若干の呆れを覚えながらそれを打ち込む。 手慣れた様子でキーボードを弄りながら、ユツキの問いに答えた。


「……出入り口を閉じてたら、ご飯がいつかなくなる」


「それは普通に魔術師がいれば簡単に直せる。 コンクリートを操る魔術師もいるからな」


「……うん。 普通の道なら、簡単に直せると思う」


 ミコトは思った通りの地図が見つかり、ユツキに見せる。 それは、ミコトにとって、この場所を特定することの出来た情報から考えれば、当然のものだった。


「それは……ロケットの、開発設備」


「……ユツキくんは、知らないかもしれないけど。 ここは宇宙開発のための施設だから」


 当然のように開発のための設備も存在している。 発射台はまた別に用意されているだろうが、諸々の物を運び込むための出入り口があるだろう。


「それは先程知ったが、それも壊されているかもしれないだろ」


「……ううん、たぶん、大丈夫。 だって、エレベーターは魔術じゃ直せないから」


 壊すことは容易かもしれないが、直すことは難しい。 物を搬入するためのエレベーターであれば、それが壊れることによる被害は非常に大きいだろうことが予想出来る。


「……たぶん、壊してない。停電で使えないかもしれないけど……」


「俺なら垂直でも、穴があるなら簡単にできる登れるな」


「……エレベーターの位置、分かった」


 ユツキはパソコンをミコトの手から取り、閉じて左手に持つ。


 右手をミコトに伸ばすが、暗闇で見えていないらしくミコトは一人で立ち上がり、伸ばされた手に気がついた様子もなくユツキに手を伸ばした。


「……いこ。 はぐれないように」


「ああ、いこう」


 二人で移動する場合、隠密行動というものは難易度を増す。 ミコトという運動能力の低い少女を連れていれば、なおのことである。


 それが分かっているから、ユツキはある程度の覚悟を決める。 自分が盾になり、守り通す、と。


「……ユツキくん、足引っ張ってる?」


 ミコトは握られた手の感覚からそう尋ね、ユツキの手の力が少し強くなるのを感じる。


「当たり前だ。 ……いや、違う、そう言いたかったのではなく……」


 足を引っ張っているかと尋ねられれば、嘘を吐かないならそう答えるしかない。 動きにくいのは間違いなかった。


 目的のミコトを守るというのも難しくなっていて、言い訳のしようもなく足は引っ張られている。


 けれど、その問いの答えには不適当なようにユツキは思った。


「足を引っ張られているか。 ……答えにはならないだろうが、お前には会いたかった」


 足音が聞こえ、ユツキはミコトの身体を引き寄せて影に隠れる。 無理な隠れ方だったが、灯りがないことが有利に働き見つからずに済んだ。


 ミコトの手を引いて、ユツキは地図にあった搬入用のエレベーターへと向かう。


 近づいたところで、暗いながらも複数人の気配があることに気がつく。 恐らくは魔術師、それにユツキと同じく持続型の魔術を持っている奴等だろう。


 パソコンの光量では心許無く、それに壊れれば終わりだ。 ユツキの虚の書による魔術も持続型の魔術とは相性が悪く、身体能力と生の書のみでミコトを守りながら突破するのは不可能だろう。


「……身体を強くして、駆け抜けるのは?」


「エレベーターから通るにしても、難しいな。 扉が閉まっているだろうから破壊する必要がある」


「……出来ない?」


「数秒はかかる。 ……その間にやられるだろうな」


「……電源を付ける?」


「それをしても、途中で止められるだろうな」


 思っていたよりも警備が厳重で、なかなか突破口はなさそうだ。


「ずっと潜んでおくか、無理矢理に進むか」


「……潜んで、どうにかなるの? あ、冷蔵庫の中が腐るからあっちが困る?」


「俺がいつも食ってる奴は常温で問題ない。 というより、俺たちの方が早く腹が……」


 そう言ったところで、ユツキは気がつく。 存在している、他の道が。


 ユツキはミコトの手を引いてその場から離れる。 ほど近い場所に、向かうと、薄い灯りがそこにあった。


「……ここは、開発設備?」


「というよりか、組み立てる場所らしい。 電源を落としても大丈夫な場所も多いだろうが、絶対に落とすことの出来ない精密機器が多くある」


 そのため当然のように人が多くいるが、この場所であればユツキは十全に戦うことが出来、反対に守らなければならない相手の魔術師達は動きに制限がかかる。


「……でも、外に抜けられないよね?」


「ここは人が多い。 多少動き回りながら話していても大丈夫だろう」


 隠れながらだが、着実に進んでいく。


「開発するに当たって、有毒なガスが発生する可能性がある。 単純に内部の液体が気化するだけで死亡事故に繋がりかねないからな」


「……大規模な換気口がある?」


「だろうと思われる。 常に稼働しているだろうから、その場所も風を辿れば分かるだろう」


 もちろん、有害なものが蓄積されている可能性もあるが、ユツキもミコトも、毒への耐性が高い。


 しばらく二人で換気口を探し、呆気なく見つかる。


 見ても暗くて分かりにくいが、天井に大きく空いていた。


「……たぶん、入れないようにはなってるよね」


「それぐらいなら俺が破れる」


 問題は見つからずにそこまでいけるかどうかだが、高く暗いとは言えど天井に張り付いている人間がいればバレるだろう。


「リスクはあるが、一番マシな筈だ。 もっとも、どう見ても危険な場所を通ることになる。 俺を信じられるか?」


「……うん。 大丈夫」


 迷う仕草もなくミコトは頷いた。 ユツキは手早く魔術を発動して身体を強化してから、ミコトを抱き上げる。


「捕まってろ」


 ミコトは頷き、ユツキの背に腕を回す。 そんな自分の重さを感じていないかのようにユツキは動き出し、天井まで壁を登っていく。


 すぐに下が騒がしくなる。 発砲がないのは、ここが重要な設備だからだろう。


 だが、しばらくしてからユツキの身体が異常な重さで下に引っ張られる。 魔術による圧力がユツキの腕に悲鳴をあげさせる。


「……ユツキ、くん」


「大丈夫だ。 お前は必ず帰す」


「……私はじゃなくて」


 ユツキの腕がミシリと音を立てる。 皮膚が裂けて、血が流れていく。


「……治癒魔術を……」


「そこまで余裕がない」


 けれど、治さなければ、換気口を壊したところで上に登ることが出来ず、意味がないだろう。


 ミコトにはユツキが何を考えているのか分からない。 どうやっても地上まで辿り着くことが出来ないのではないかと疑ったが、ユツキの目には嘘が見えなかった。


換気口に辿り着き、ユツキはその蓋に拳を振るう。 血が流れながらも人が通れる分だけは開けられた。


 だが、その上には人ひとり分の大きさはありそうな換気扇が回っており、これを破壊しようとすれば人の体なんて簡単に潰れてしまうだろう。


「……力は、あるの?」


 不安げにミコトは尋ね、ユツキは頷く。


「地上に……お前を運ぶ程度には」


 それは、とミコトが尋ねる前にユツキは換気扇に拳を振るい、自身の体と引き換えに破壊していく。


 肉が千切れていく痛々しさに目を背けそうになるミコトは、これがなければ二人で帰れないと必死に止めるのを我慢する。


「……二人で、帰ろう。 お味噌汁、作るから」


 ユツキは止まった換気扇を見て、安堵の息を吐き出した。 ミコトは大丈夫なのだと安心し、ユツキはその表情を見て笑みを浮かべた。


「悪い。 上まで運ぶ力が足りない。 ひとり分しかないんだ」


 時が止まったような感覚がミコトを襲う。 またユツキと離れ離れになってしまう。 そんなことは、耐えられないと思い……抱きつこうとした身体が血だらけの手に止められ、見たこともない優しげに笑うユツキの顔が見えた。


 嫌だ、と、叫んだ。


「生の章:第六章【為すべきことがために】」


 嫌だ、と、泣いた。


 ユツキの身体がゆらりと揺らめいて、ミコトの目から離れていく。 貧弱であるはずのミコトの身体はしっかりと壁に張り付くことが出来ていて、その全てが終わるような感情とは逆に、全身には異様な力が漲っていた。


 嫌だ、と、乞うた。


 離れていくユツキの目が静かに閉じていき、遠くに行ってしまう。 ミコトだけでも生き残れと、ユツキは伝えたのだろう。


 それが分からないほどミコトは頭が悪くなく、それに頷けるほどミコトは賢くはなかった。


 嫌だ、と、落ちた。


 馬鹿なことをしていると、ミコトは自覚しながら、逃げ出す機会を放り投げて、身体を強化された力で放るように下へと向かい、ユツキへと追いつく。


「馬鹿……が」


「……知ってる。 でも、ただ生きたいんじゃなくて……ユツキくんと、一緒に」


 ミコトの小柄な身体を抱きしめたユツキは、ただ生きたいと願う。 こうまでして、自分のために命を投げ打ってくれる人がいる。


 救わなければならない。 生きなければならない。 生きたい。 生きたい。


 ユツキは地面を睨みながらそう願う。


「俺は、お前のために!」


 生きたい。 と、思うことが出来た。


 魔術を扱うのに必要なものは、魔術の知識と、操る物への理解。 ユツキは魔術の知識は足りていた、だから虚の章は九章まで読めていたのだ。


 生体への知識もあった。 当然のように可能な限り学ばされていたからだ。


 ならば、何故ユツキは六章までしか生の書を読むことが出来なかったのか。 果たして、【生】の理解とは、生体についてのみで良かったのか。


 間違いが、あらわとなった。


「生の書:第七章【変わらず生きるために】! 固まれ!!」


 ユツキとミコトの身体が硬化する。 組み立てられていた途中のロケットにぶつかり、地面に叩きつけられる。 通常なら間違いなく死ぬような状況で、ミコトの体には傷がつくこともなくその場に落ちた。


「……生きてる?」


 魔術師は一章違えば圧倒的に実力が変わる。 単純に、魔術を扱うのに必要な力が増えるからだ。


 当然、読むことが出来れば、その分は増える。


「ミコト、逃げるぞ」


 ユツキは手早く身体を直し、ミコトの手を引く。 不幸中の幸いか、あの状況から生きているとは思われていないだろうことや、魔術を扱う力の増加もある。


 首の皮が一枚繋がっただけなのは間違いないが、それだけでも充分だった。 先ほどの場所は注目されているだろうから、通ることは出来ないとユツキは思い、エレベーターの方に向かう。


 当然のように先程いた魔術師のほとんどはその場にいたが、様子を見に行ったためか少し人数が少なく見える。


「……ユツキくん、どうする……?」


「携帯電話、持っているよな。 それでライトを点けてくれ」


「……見つかるけど」


「正面突破する」


 ミコトが頷き、灯りを点けたのと同時にユツキが魔術を発動する。


「生の書:六章【為すべきことがために】! 生の書:七章【変わらず生きるために】! 行くぞ!」


 身体強化と身体硬化、二重の魔術によりユツキは駆け出すと共に気がついた魔術師を、完全に視界にも入れずに、一直線にエレベーターを破壊する。


 硬化したことにより威力を増した拳は容易に扉を破り、ワイヤーのある縦穴に入り込む。


 同時に強化されていたミコトも遅れて入り込み、ユツキに抱かれる。


「ッ!! 速ッ!! 追ええええ!!」


 魔術師の中でもリーダー格の男が叫び、上に登っている二人を追う。 途中でユツキ達の前にエレベーターの箱が塞がるが、一瞬でそれを破壊し、また駆け上がる。


 だが、その一瞬が命取りになる。 相手も魔術師、手元に持っていたらしい懐中電灯の明かりを元にして、魔術を読んだのだ。


 多くの魔術が二人へと迫り、ユツキはミコトを庇うように身体を覆い隠す。 抱きしめられる視界の横で、ミコトは落ちてくる影を見た。


「……大鬼、さん……?」


「生きる気があるなら、最初から言っとけ」


 巻物が開く。 大男と呼ぶにも厳つい顔つきの男が恐ろしげに笑う。


「よくやった。 馬鹿どもが」


 ユツキは大鬼に一度視線をやり、礼も言わずに駆け上る。


 残された大鬼は自由落下に身を任せながら、魔導書である巻物をしまう。


「ッ! 島の大鬼ッ!! 何故貴様がッ!!」


「あー、この程度か。 来た意味もなかったな」


 迫り来る魔術を横壁を蹴ることで回避し、落ちる勢いのまま魔術師を蹴りつける。 よく見れば全身に傷があり、大鬼も塔の魔術師を相手にして疲弊してることが見て取れた。


 だが、大男はへらりと笑い、余裕があるようにゆっくりと瞬きをする。


 ユツキはミコトを抱えて穴を登り続ける。 魔術を使う力に限界がきたのを感じ、魔術を切って自分の腕力でワイヤーを掴み、脚で壁を押しながら登る。


「あいつ、何で助けにきたんだ」


「……多分、あの人がここの場所を教えたんだと、思う」


 息を切らしながらユツキが登り続けていると、近くに明かりが見え始める。


「あの人?」


 ユツキが疑問を口にすると、出口から思いもよらない人が目に入る。


 ミコトを攫おうとしていた、誘拐犯であるデザインの女性が、安心したような表情で二人を出迎えたのだ。


「あっ! 二人とも! 良かった!」


 この前、敵対していたばかりだろうとユツキは思いながら、融解しているエレベーターの出口を通り抜けて、その場に倒れ伏した。


「……ユツキくん! 大丈夫!? ユツキくん、ユツキくん!!」


 初めて焦ったミコトを見たな、とユツキは少しだけ笑って意識を失った。


【祈る人なんて】


 思えば、敵ばかりだったように思う。


 女性は自分を励ましてくれ、施設まで運んでくれ、大鬼を呼んでくれたけど、元々は誘拐犯だった。


 大鬼も最初は殺されると思っていたぐらいで、助けてくれてここまでいい人だとは思いもしなかった。


 命を賭けて、必死で救ってくれたユツキも、ずっと自分のことを悪く言っていて、殺そうとしていた人だった。


 不思議なことに、自分を助けてくれた人は敵ばかりだった。


 ミコトはそんなことを考えながら、トントンと軽快に野菜を切っていく。 後ろからもトントンと、急かすような足音が聞こえる。


「なぁ……まだか?」


「……作り始めたとこ。 んぅ、登校までまだ時間あるんだから」


 一日でほとんど回復出来るとは、魔術とは便利なものだとミコトは思った。 ミコトは魔術により散々な目に合ってきたが、ユツキが早く元気になるなら、憎む気にもなれなかった。


 少女は自分の小さな手を見て、同じだと思う。


 デザインも便利なところもあれば、悪いところもある。


 手に持っていた包丁を見てもそう思う。 何であろうと、同じことだろう。


 良い使い方も、悪い使い方も出来るものだ。 何であろうと、使い手次第、心の持ち方が重要だ。


 少なくとも、自分が手に持っている包丁は嫌いになれない。


 ユツキを喜ばせることが出来るのだから。


 ミコトは買っていた魚も焼いて、分かりやすい和食にしてユツキの前に並べていく。


「おい、味噌汁だけでいいんだが」


「……あのご飯、もう食べられないんだから、ちゃんと食べないと、ね?」


 ユツキは組織と縁が切れている。 当然、ユツキの主食にしていたアルミパウチの完全栄養食品はこれ以上補充することが出来ず、まともな食事を摂ることが必須になっていた。


 不満そうな顔をしているユツキの横にミコトは座り、手を合わせる。


「……いただきます」


 その言葉にユツキの声が混じっていて少し驚くと、ユツキは仏頂面で味噌汁に口を付けていた。


「文化祭……一緒にまわるんだったか」


「……いや、なの?」


「少しな」


 相変わらずだな、とミコトは微笑むと、ユツキは続ける。


「もう少しだけ、ここでゆっくり過ごしたい」


 その言葉にミコトは耳を赤くして、ご飯をパクパクと食べていく。


「……お、おお、大鬼さん達が見にくるそうですからっ! ちゃんと、行かないと。 お礼も、言わないと」


「分かっている。 ……そういえば、俺を好きと言っていたが」


「……今、その話をするの。 ……空気というものがあると思う」


 ミコトが恥ずかしそうにそう言って、ユツキは意味が分からずに頬を掻く。


「……そ、そもそも、ユツキくんが先に私の絵を、描いてた。 だ、だから……告白は、ユツキくんから、してる」


「どういう理屈だ、それは」


 ユツキは焦るミコトを見ながら、少しだけ口角を上げて微笑んだ。


 デザインは、金のため、我が子のため、と利己的な考えによって生み出されたのかもしれない。


 あるいは、普通の人でもそうだろう。 けれど、その利己的な考えを、悪とするのも善とするのも人次第なのではないだろうか。


 利己的に人の幸せを願い、利己的に人のために生きることも可能だろう。


 などと、ユツキはミコトの幸福を静かに祈った。



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