【1960年代 (3)】カラー化するテレビとアトムに続く日本アニメ

 日本では、アニメ『鉄腕アトム』の成功を受けて、次々とテレビアニメが制作されました。そして、それらの作品は『アトム』と同じように米国に輸出されます。

 例を挙げると、『アトム』の米国上陸の2年後の1965年には『エイトマン』(英題:The Eighth Man)が、66年には『鉄人28号』(英題:Gigantor』)がシンジケーション番組として放映され、人気を得ました。フレッド・ラッドは、『アトム』の人気が下火になってくる60年代後半には『鉄人28号』の方がずっと人気度が高かく、また『アトム』と『鉄人』には及ばないものの『エイトマン』もヒット番組だったと評価しています。[1]


 『エイトマン』(原作 平井和正、作画 桑田次郎)も、『鉄人28号』(横山光輝)も、漫画が原作です。これ以後も、日本のテレビアニメでは漫画を原作とすることが一般的になります。

 小山昌宏によると「放送サイクルに企画原案が間に合わず、また人気マンガのアニメ化によっておきた視聴率競争から、一九六五年以降、放送サイクルの早いテレビアニメ界においては漫画作品をアニメ化することが常態化する」のだといいます。[2]

 また、漫画とアニメの今で言うメディアミックスによる相乗効果も生まれるようになってきます。


 『エイトマン』や『鉄人28号』はまだ白黒作品です。日本で白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫が「三種の神器」と言われたのは1950年代後半。そして、カラーテレビ・クーラー・自家用車が「新三種の神器(3C)」と言われたのが1960年代半ばのことでした。

 フレッド・ラッドによれば、「『鉄人28号ジャイガンター』の放映が始まった一九六五年は、全米の大手テレビ局が白黒からカラー放送に移行するまっただなか」でした。『鉄人』も「白黒じゃなくてカラーだったらさらに二五パーセント高い値段で売れたのに」というのが当時の業界の考えでした。[1]

 アニメ番組もカラー作品が求められるようになっていたのです。


 そうした状況で、手塚治虫は『ジャングル大帝』をカラーで制作することになりました。日本では1965年の放映開始です。

 『アトム』のときは、はじめは手塚も米国に売れるとは思っていなかったのですが、『ジャングル大帝』の製作にあたっては事前に企画書をNBC側に送っています。[1]

 NBCエンタープライズは、『ジャングル大帝』が暴力的な内容になるのではないかということを不安視していたようです。企画書を見て、主人公のレオが最終回で死ぬ展開は不可、レオが成長していって大人のライオンになるのも、レオが成長していくイメージを視聴者に抱かせるのも不可と、虫プロ側に要求しています。

 手塚がレオの成長を描こうとしているのに対し、NBC側はレオが大人(父親)になることで視聴者の子供たちが置いてけぼりにされてしまうのを恐れ、レオは幼いままでいることを求めているわけです。

 しかし、視聴者にレオが成長していくイメージを与えることすらNGというのは、正直ちょっと極端な感じがしますね。漫画やアニメで“年をとるキャラクター/とらないキャラクター”というのは面白い問題ですけど、ここでは深追いしないことにします。


 何にせよ、手塚は暴力性を抑えることを約束し、当初は26話までの予定だったレオの幼少期を52話まで伸ばし、全72話のうち52話分だけを売ることで対応しています。


 また手塚の自伝には、NBCから黒人をなるべく出さないでほしいと注文されたという話が出てきます。アフリカが舞台の話で黒人を出さないわけにはいかないと答える手塚に対して、NBC側は以下のように求めています。[3]


>>「では、やむを得ない。黒人はなるべく美男子に書いてくださいよ。背丈も八頭身で、ことに唇を厚く描かないでもらいたい。悪人はいっさい白人にしてください。白人は、どんなに醜くても悪辣でもかまいません。

 セリフに『ニグロ』ということばを使うのはやめてください。『原住民』も困りますな。そう、『コンゴ人』とか『ナイジェリア人』とか、その所属国の名をつけて呼ばせてください」<<


 これは現代にも通じる問題ですが、この時期すでに米国側は人種差別的表現に気をつかっているのがわかります。

 1960年代は公民権運動の時代でもありました。バス・ボイコット運動の引き金となったローザ・パークス逮捕事件が1955年。キング牧師の「I have a dream」の演説が行われたワシントン大行進が1963年です。

 しかし時代の違いを感じる部分もあります。黒人をなるべく出さないでくださいというのは、今日だったら問題になるでしょう。


 こうしてNBCの要望を容れながら制作を進めた手塚ですが、『ジャングル大帝』がネットワークで放映されることを期待していました。ハンナ・バーベラ・プロダクションを訪問した際には、ウィリアム・ハンナとジョセフ・バーベラの二人(『トムとジェリー』の制作者、ハンナ・バーベラ・プロの設立者)に、『ジャングル大帝』が米国のネットワークにのりそうだと伝えています。[4]

 しかし、結局『ジャングル大帝』(英題:Kimba the White Lion)は、シンジケーション番組に回されました。米国での放映は66年。草薙聡志は、「下請け作品を除けば、純粋の日本製アニメがネットワークに登場することはないという、決まりのようなものが読みとれてくる。そこに、日本側は気づかなければならなかったのかもしれない」と述べています。[4]


 なお、NBCは『ジャングル大帝』のスペイン語版をメキシコで制作させています。やはり米国版からの重訳です。[1] このスペイン語版の詳細も知りたいのですが、これもよくわかりません。


 1967年に『スピードレーサー(Speed Racer)』のタイトルで放映された、竜の子プロダクション(現タツノコプロ)の『マッハGoGoGo』も子供たちを夢中にさせました。子供時代に視聴していた人物(エリザベス・モラン)が振り返るには、「創造性、キャラクターの成長、美術監督、筋立て、音楽、効果などが、六〇年代と七〇年代初頭の米国製アニメーション番組より、はるかに勝っていた」とのこと。[4]

 2008年には実写映画化されて公開されましたが、監督のウォシャウスキー姉妹を含めて、この作品に思い入れのある人たちが根強く存在しているということの証でしょう。(興行成績は振るわなかったようですが。)


 タツノコ側は、当初から米国輸出を意識して『マッハGoGoGo』の暴力表現は抑えていたようです。米国側でも暴力性を和らげるように吹き替えや編集で修正を加えました。しかし、それでもなお暴力的だと批判されています。


 エリザベス・モランの言葉を引用すると、「『スピードレーサー』や他のジャパニメーション番組のアクションと暴力は、物語に本来備わっているため、編集不可能」なのだと言います。[4]

 つまり、ストーリーの本筋の一部として暴力的な場面が組み込まれているので、それを削ったり、別のものに変更してしまうわけにはいかないということです。


 米国社会の考える土曜朝の子供番組サタデー・モーニング・ショーのあるべき姿と、日本のテレビアニメの方向性は乖離していました。当時の米国では、市民団体が子供番組から暴力表現をなくすようにテレビ局や政府に強く求めるという状況もありました。[1]


 当時、これらの日本製アニメを熱心に観ていた子供たちは、それが日本製だということには気づいていませんでした。『アトム』のときと同じく、番組の売り手は日本製だということは積極的には言わないという方針で、フィルムの買い手であるテレビ局も米国製だと思っていたようです。[1]

 登場人物の名前が、米国人に馴染みやすいものに変更されたのも『アトム』のときと同じです。例えば『鉄人28号』の主人公、金田正太郎はジミー・スパークス。『マッハGo Go Go』の三船剛は、なんと、スピード(名)・レーサー(姓)です。

 また、物語の背景にはSF的なものなどが多く、日本の文化をあまり感じさせるものではなかったことも、日本製だと思われなかった理由に挙げられます。


 日本的なアニメのスタイルというのがいつから認識されるようになったのかというのは難しい問題なんですが、日本製と気づかれなかったということは、この時期にはまだ米国製アニメとのスタイルの違いは意識されていなかったと言えそうです。

 当時の日本製アニメについてのフレッド・ラッドの意見を引用します。


>>前から気が付いていたが、ジャパニーズ・アニメーションの話のペースは非常に--そして驚くほど--米国製作品に似ていた。手塚の『鉄腕アトム』が一九六三年に始まったときからそのことには気が付いていた。<<

>>ヨーロッパのアニメーションだと動きはゆっくり気味、内省的なのだが日本のはもっと速めで、ビュンと活気がある。日本製アニメーション--通称ANIME--が欧米でここまで人気を博すに至った一因ではないかと思う。<<


 日本製アニメのスタイルが米国製に近く、そのせいで受け入れやすかったのだろうと言っています。やはりまだ、日本独自のスタイルは意識されていません。


 1967年の『スピードレーサー』は、「この年代に米国で放送された日本製アニメのなかで一番の人気」になりました。[1]

 ところが、その後『科学忍者隊ガッチャマン』が放映される1978年までのおよそ10年間、日本製アニメは下請け作品を除けば米国からほとんど姿を消すことになるのです。



[1]フレッド・ラッド/ハーヴィー・デネロフ著、久美薫訳『アニメが「ANIME」になるまで 鉄腕アトム、アメリカを行く』NTT出版、2010年(原著2009年)

[2]小山昌宏「アニメ--人気作品を原作に」、竹内オサム/西原麻里編著『マンガ文化55のキーワード』ミネルヴァ書房、2016年

[3]手塚治虫『ぼくはマンガ家』角川文庫、2000年(底本は大和書房、1979年。オリジナル版は毎日新聞社、1969年)

[4]草薙聡志『アメリカで日本のアニメは、どう見られてきたか?』徳間書店、2003年

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