【1960年代 (2)】米国テレビに登場した鉄腕アトム

 1961年に念願のアニメ制作スタジオ、虫プロダクションを設立した手塚治虫は、テレビアニメ『鉄腕アトム』を制作。1963年1月からフジテレビで放映されました。スポンサーは明治製菓。毎週放映される続きものの30分番組という、現在にも引き継がれている形式のテレビアニメとしては日本初でした。(テレビアニメでも単発のものや、もっと放映時間の短いものはアトム以前にもありました。)

 『鉄腕アトム』はまだ白黒のアニメです。


 このとき手塚は、赤字覚悟の「ばかみたいな安値」で契約してしまい[1]、のちに宮崎駿がそれを下のように批判したのはアニメに興味のある人にはよく知られていると思います。[2]


 >>昭和三十八年に彼は、一本五十万円という安価で日本初のテレビアニメ「鉄腕アトム」を始めました。その前例のおかげで、以来アニメの製作費が常に低いという弊害が生まれました。<<


 もちろん手塚治虫は、米国のテレビアニメが作画枚数の少ないリミテッド・アニメーション方式で作られていることを知っていましたので、『鉄腕アトム』の制作もこの方式で行いました。

 しかし限られた予算とスケジュールでは、リミテッド・アニメーションといえども容易には作れません。その出来について、大塚康生は次のように批判しています。[3]


 >>「3コマ撮り」とは言いますが、3コマに1枚の絵どころではなくて「止め」「バンク(同じものを兼用して使う)」の連続で、ロボットだからとはいえ、ポーズの変化に乏しいキャラクターたちは印刷されたものと大差なく、アクションは直線的で細部に工夫がありません。<<


 さて、この『鉄腕アトム』の存在を米国のNBCエンタープライズ社が知るのは、東京にいた社員がたまたまテレビで『アトム』を目にして、「米国に持ち込んだら当たる」かもしれないと連絡を入れてきたためだといいます。

 ただ実際の契約に関しては、ビデオ・プロモーション社の藤田潔という人物が仲介に入って交渉を持ち込んだようです。その経緯についてはややこしい部分もあるのですが、日本で放映開始した63年のうちに契約を結び、秋には米国でも放映が始まっています。[4]


 このNBCエンタープライズという会社は、米国のいわゆる三大ネットワークの一つのNBCそのものではなく、その関連会社。NBCが自社のネットワークで放映し終わった番組の放映権を、他のネットワークに属していない独立局に売ること(シンジケーション)を業務としていました。このシンジケーションの市場では、ネットワークで放映されたのではない新規の番組も売りだされており、『鉄腕アトム』はそのようなシンジケーション番組として売られたのです。[4]


 NBCが『鉄腕アトム』を自社のネットワークで全米放映しなかったのは、やはりそこまでのコンテンツだとは評価していなかったためでしょう。ネットワークで全米に放映される番組の方が格が高いという位置付けがあります。

 実際、フレッド・ラッドも「虫プロから送られてくるフィルムは動きの作画枚数が極端に少なかった」、そしてリミテッド・アニメーションで制作されたハンナ・バーベラ作品と比べても「どうしても虫プロ作品は見劣りする」と述べています。[4]


 先に述べたように、当時の米国テレビ界には子供向けアニメのコンテンツ不足という状況がありました。そのため『アトム』の吹き替えを引き受けたフレッド・ラッドは、ヨーロッパのアニメを買ってきて米国のテレビ用に仕立て直す仕事を『アトム』に関わる前にしていました。

 そして、テレビ用にリミテッド・アニメーションを製作していたハンナ・バーベラ・プロダクションなどと比べても、日本のアニメは安かったというのが輸入に踏み切った理由のようです。安価なコンテンツという扱いだったのは、吹き替えの予算がとても低く、担当したフレッド・ラッドが工夫を重ねて収録のコストを削ったエピソードからも、うかがわれます。[4]


 手塚治虫の自伝には、それまでの日本製のフィルム番組はすべて外国では買い取り契約で、「極端にいえば、製作スタッフを全部アメリカ人の名にしてしまおうが、フィルムをバラバラに編集しなおそうが自由」だったのに対し、『鉄腕アトム』の配給契約では、クレジット・タイトルに虫プロと手塚やスタッフの名がはっきりと出るし、無断でフィルムをいじることもできないと、ちょっと誇らしげに書かれています。[1]

 しかし、米国で『鉄腕アトム』に手を入れなかったわけではありません。(手塚の了承は取っていたようですが。)


 まず、アトムをはじめとする登場人物の名前が米国の視聴者に馴染みやすいように変えられました。

 アトムには「アストロボーイ (Astro Boy)」という名が与えられました。英語の隠語で atom は「おなら」の意味なので使えないとNBCのウィリアム・シュミットに説明されたという、手塚の自伝に書かれたエピソードはよく知られています。自伝には、シュミットの子供が「アストロボーイ」と名付けたともあります。[1]

しかしフレッド・ラッドの記述では、NBCの重役ビル・ブリーンの提案で『ピノキオの宇宙大冒険』という作品に登場する宇宙クジラのアストロというキャラクターから名前を取ったとなっていて、「おなら」について言及はなく、少し話が違います。[4]


 草薙聡志が紹介する説によると、当事の米国のアニメやコミックスには、Atom Ant、The Mighty Atom、The Atom、Mr. Atomといったキャラクターがすでに存在していることから、atom が隠語であるせいで禁句だったとは考えにくく、むしろ先行するキャラクター名(おそらく The Mighty Atom)と重なるのを避けるのが目的だったのではないかとされています。[5]


 他のキャラクターの例を挙げれば、お茶の水博士はその大きな鼻を象に見立てて Elefun博士、ヒゲオヤジはその性格から Mr.Pompous と名付けられました(pompousは「威張り屋」の意)。[4]

 手塚はこれを喜んだそうですが、たぶん手塚のネーミングの趣味に合っていたんだと思います。


 『鉄腕アトム』の主題歌は有名ですが、実は日本で最初に制作されたときは歌はなく、オープニングはオーケストラ演奏だけでした。しかし米国の子供番組は歌で始まるのが定番だったので、フレッド・ラッドの発案で米国版には歌を付けました。


 There you go, Astroこえ Boy


 ラッドによると、それを知った手塚は驚き、また喜んで、日本でもオープニングに歌を付けさせたということです。(ちなみに作詞は詩人の谷川俊太郎です。)『鉄腕アトム』の初期のオープニングには歌が付いていません。[4]

 オープニングは歌で始まるという形式は、今の日本のテレビアニメにも引き継がれていますね。


 『鉄腕アトム』には、日本では普通に放送されたものでも米国の基準では放送できない回もありました。NBCの内部の規定に引っかかったためで、修正できるものは吹き替えと編集で修正した上で放送しました。

 作品内では絶対に誰も死んではいけないということで、人が死んで倒れている場面では、アトムの台詞は「気を失っている。急いで病院に」と差し替えられました。悪人が人に銃を突きつけるカットも暴力的すぎると削られました。悪人が銃を出して脅すのはいいが、銃口をこめかみに突きつけるのは暴力的すぎるというラッドの説明には、虫プロのスタッフも困惑したようです。[4] これは銃が身近にある国と、そうでない国の感覚の差かもしれません。


 しかし吹き替えや再編集でごまかせないものは、その一話分がまるごとボツになってしまいます。

 フレッド・ラッドは、「動物虐待、裸の描写、人種や宗教の冒とく的表現は日本では問題なしでも西洋社会では論外だ」と述べています。具体的には、「ある科学者が生きた動物を実験に使う話」、「独身男性が自分のスケッチ帳に壁いっぱいに裸の女性が彫り込まれた図面を書き込む話」、「逃走中の犯罪者が」「子分たちに自分の居場所を知らせるために十字架のキリスト像の片目に秘密の伝言を彫り込む」話が放映不可となりました。[4]


 ラッドの著書には「一本分まるごと却下となると、虫プロにとっては大損害である。目の飛び出るような量のドルが無駄になって、問題の六本分の代わりを新たに用意する費用が発生するからだ」とあるので[4]、このような場合は虫プロ側が負担する契約だったわけですね。契約時にはそんなリスクはあまり警戒していなかったのかもしれません。


 他にもラッドは、米国視聴者の感覚に合うように細かい修正を加えています。「大事なのは吹き替えてそれで終わりにせず、徹底して米国仕様にすること」というのが、彼の方針でした。


 NBCエンタープライズ社は、『アストロボーイ』が日本製だということはなるべく伏せるようにしていました。「日本製かと訊かれたら否定はしないが、大っぴらに触れまわるのも避けたい」という姿勢です。

 その理由の一つは、「日本が第二次世界大戦のときの旧敵国だったことを根に持っている人間を相手にする可能性がある」こと。もう一つは、日本製と知ったら「粗悪品」と思われるし、「安く買いたたかれる恐れがある」ことでした。[4]

 当事の米国では「日本」にはネガティブな印象が強く、戦時中の敵国とか、粗悪品というイメージと結びついていたことが読み取れます。

 ラッドは訪日した際に、「劇中に出てくる銀行やホテルや警察といった看板の類を Bank、Hotel、Policeと英語表記に再撮影してほしい」と虫プロに要望していますが[4]、これも単に字幕を付けるだけで済ませないのは、日本製という匂いをできるだけ消すためかもしれません。


 こうして出来上がった『アストロボーイ』は全米各地で高視聴率を取りました。

 NBCの作ったパンフレットには、「例えば、アトランタのテレビ視聴率45%、メンフィスで38%、チャールストンで37%、ニューヨークで30%、ジャクソンで65%、他の多くのマーケットでもトップの視聴率です」とあります。[5]


 米国版の『アストロボーイ』をもとにスペイン語版が作られて、メキシコでも放映されたということですが[4]、残念ながら詳しいことはわかりません。米国版ができると、そこからメキシコへ番組が行くのは当時から容易だったのかもしれません。ラテンアメリカの日本アニメ事情は、わからないことが多いんです。


 このとき『アストロボーイ』に夢中になった子供の中には、やがてアニメ関係の仕事につく者も現れました。そうした人たちは子供の頃のアストロボーイ体験を、「この世で最も面白いやつだと思った」、「ビジュアル的にも大したものだったし、ストーリーと来たら、それまでまったく見たことがないようなものだった。なぜならとても複雑で……うわーっと言いたくなった。アニメーション映画の形で提示された小説みたいなものだ」などと語っています。[5]

 作画の質はギリギリだったはずですが、ラッドによれば「物語に人を引き込む力があってわくわくするし、カットつなぎも歯切れがよくてきびきびしている」とのことで、ストーリーに惹きつけられた子供たちには気にならなかったようです。


 アニメが人気だったため『アストロボーイ』のコミックスも出版されましたが、それは原作の翻訳ではなく、手塚に言わせると「アメリカの画家が描いた、ひどい絵のもの」でした。手塚の描いた原作には「ゲタをはいた人物やタタミの家なども出てくるので」使えないのでした。[1]

 ここでも『アストロボーイ』から「日本」の匂いは消されています。


 日本でも米国でも好調だった『鉄腕アトム』。日本側は二年目の契約も望みますが、実はNBCは二年目以降の『アトム』を買うつもりはありませんでした。

 困ったのは日本側で、NBCからの収入をあてにしていたのです。それにはNBC側からの要望を受けて制作体制の水準を上げていたという理由があります。それなら日本側が他局に『アトム』を売るとなると、今度はNBC側が困ってしまいます。せっかく人気番組になった『アストロボーイ』を他局で流されたら流石にたまりません。

 交渉の末、NBCは買うつもりのなかった『アトム』の二年目を買うが、三年目以降は買わないし、日本側も余所に売らないという約束になりました。[4]


 なぜNBCは二年目を買うつもりがなかったかのでしょうか。米国では、番組を数十話分まとめてライブラリーとして売買し、買った方は一定期間(『アストロボーイ』なら3年間)の放映権を得るという形式で取り引きしていたのです。『アストロボーイ』を買った局には、日本のように一年目の番組をかけ終わったら二年目の新作を流すという考えはなく、契約期間中は再放送を繰り返すつもりだったのです。

 また、アニメ番組は各話完結が前提で、シンジケーションの場合、放映の順番は各局で勝手に変えるのが普通でした。[4]

 日本とは放送のやり方が違い、したがって視聴のしかたが違ったのです。


 日本で「週刊少年マガジン」と「週刊少年サンデー」が創刊されたのは1959年。同年には「朝日ジャーナル」「週刊現代」「週刊文春」が創刊されるなど、出版界では週刊誌化の盛んな時期でした。

 評論家の呉智英によると、創刊後数年間の漫画週刊誌には「月刊をただ週刊に四分割しただけという作品」が多く「売れ行きは必ずしも好調ではなかった」のですが、60年代後半になると週刊誌の漫画は、週刊という形式に合った内容に変わっていきます。[6]

 66年には「少年マガジン」の発売部数が100万部を達成。60年代末には「週刊少年ジャンプ」や「週刊少年チャンピオン」も創刊され、少年漫画の主流はそれまでの月刊誌から週刊誌に変わります。

 日本ではこの時期に、漫画やアニメで“次の話を毎週楽しみにする子供たち”が生まれたと言えるでしょう。そして毎週、新しい「次の話」が見られるという形式は、物語の中身にも影響を与えることになりました。


 ところでNBC側が『アトム』の続きを買いたがらなかった理由ですが、実はもうひとつ考えられることがあります。

 当時、米国では日本より一足早くテレビのカラー化の波が押し寄せて来ていました。ヒット作の続きとはいえ、白黒アニメの『アトム』をこの先、抱え込むことになるのは避けたいと判断したのかもしれない、ということです。



[1]手塚治虫『ぼくはマンガ家』角川文庫、2000年(底本は大和書房、1979年。オリジナル版は毎日新聞社、1969年)

[2]宮崎駿『出発点 [1979〜1996]』徳間書店、1996年(初出は「Comic Box」ふゅーじょんぷろだくと 1989年5月号)

[3]大塚康生『作画汗まみれ 改定最新版』文春文庫、2013年

[4]フレッド・ラッド/ハーヴィー・デネロフ著、久美薫訳『アニメが「ANIME」になるまで 鉄腕アトム、アメリカを行く』NTT出版、2010年(原著2009年)

[5]草薙聡志『アメリカで日本のアニメは、どう見られてきたか?』徳間書店、2003年

[6]呉智英『現代マンガの全体像』双葉文庫、1997年(オリジナル版は情報センター出版局、1986年)

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