3

 家を出ると、もうお昼近いというのに息が白くなった。マフラーをきゅっと結び直す。


 海岸沿いを歩き、あの人の家へ向かう。


 気持ちは昨日より幾分明るかった。それはきっと、目的が違うせいであろう。


 今日もあの道には観光客が見える。このままだと「立ち入り禁止」のロープをまたぐのを見られてしまうな、と思いつつ、崖に近づく。


 分かれ道の前まで来ても、観光客はひっきりなしに現れた。


 仕方なく自分も観光客を装い、手すりにつかまり黄昏てみることにした。


 冬の海は夏に比べて、何となく灰色っぽく見える。昔この辺りを歩いた時、お母さんにそんな事を言った気がする。


 そうだね、確かに灰色に見える。そういう所に気付けるの、とてもいい事だよ。


 お母さんの言葉はとても暖かかった。


 でも今はどうだろう。


 胸がきゅっと痛くなる。そんな時代もあったな、と懐かしく思う。


 そんな事を考えているうちに、いつの間にか観光客が少なくなっていた。お昼時なのだろう。


 念の為もう一度辺りを見回してからロープをまたぐ。


 またいでみたら、恐怖感が急に強くなった。その場所自体が怖かった。


 そして、必死に走った。周りが見えないくらいに速く。気がつくとあの人の家のドアの前にいた。


 呼び出しのベルが付いておらず、ドアの前でおどおどとしていると、家の中から足音が聞こえた。


 扉が数センチ開く。その瞬間、ハーブの良い香りが鼻まで届いた。


「どうしてノックしてくれなかったの?びっくりしたよ。どうぞ。入って。」


 だって、普通は呼び出しのベルが付いているから…という言葉を飲み込む。


「コートとマフラー、脱いで。ここに掛けておくからね。」


 そう言うとその人は、私が脱いだコートを受け取り、棚の脇にある流木のようなものに掛けた。


 何故かこの家は、玄関から暖かい。


「じゃあ、ソファーにどうぞ。」


 相変わらずふかふかとしたソファーに腰を下ろす。そしてその人が、ソファーの対角線上の位置に座る。


「何から話そうか。いきなりだけど、自己紹介?」


「あっ、そうですね」と答える。


「よし。じゃあ僕から。名前はルイ。呼び捨てて構わないよ。君は?」


「あっ、私は須藤 明日花です。漢字は、明日に花と書きます。」


「明日花ね。呼び捨てでもいい?」


「あっ、はい。大丈夫です。」


 簡単な自己紹介が終わると、彼はおもむろに席を立ち、タオルとコップ、そしてお湯が入った木製のボウルを持ってきた。


「突然なんだけどさ、君の手、マッサージしてもいい?」


 素っ頓狂な申し出に驚いたが、特に断る理由も無かったので、「あっ、はい。」と言って右手を出した。


「ありがとう。じゃあ服の裾、ちょっとまくるね。汚れちゃうといけないから。」


 まくられた瞬間、悪い予感が頭をよぎった。右手をマッサージする、ということはその後左手もするはずである。


 左手には、肘から手首まで、しっかりと包帯が巻かれている。


 それを見られたら。どうなってしまうのだろう。


「大丈夫?ぼーっとしてるけど。嫌だったらここでやめる?」


「いや、大丈夫です。お願いします。」


 もうここまで来てしまったら、後戻りなんてできない。


 彼は、タオルをお湯に浸して私の手を拭いた。適度に温かいタオルはとても心地よく、昔の記憶が蘇るようだった。


「じゃあ次はマッサージオイル使っていくからね。ちょっとベタベタするけど、後で拭くから気にしないで。」


 そう言うと彼は、慣れた手付きで私の手をもみ始めた。心地いい。筋肉の奥までほぐされているような感じだ。


 昨日、私の手を強く握った彼の手。今日もその手は温かくて大きかった。


 気付いたら、もう彼はタオルでオイルを落していた。


 次は問題の左手だ。どうしよう。いや、どうしようもない。


「じゃあ次は左手。袖めくらせてもらうね。」


 そう言って、右手と同じように服の裾をめくった。


 包帯が露わになる。


 確実に彼の目にもそれが目に入ったはずだ。

 しかし、彼は何も言わずに、タオルで手を拭き始めた。


 その後は、右手と同じように左手の作業も進んだ。


 彼は、包帯の事について何も触れなかった。


 気づいているはずなのに。


「よし、終わったよ。お疲れ様。痛くなかったかな?大丈夫?」


「あっ、はい。大丈夫です。ありがとうございました。」


「君さ、普通の人よりかなり手に筋肉付いてるみたいだけど、楽器とかやってるの?」


「あっ、ピアノを小さい頃からやってます。」


「なるほどね。じゃあさ、一曲弾いていく?実は奥にピアノあるんだ。」


 そんなに私はうまい方ではないし、かなり迷ったが、せっかく弾かせてくれると言うのだから弾いていくことにした。


「おっ、嬉しいね。じゃあこっち。付いてきて。」









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