クリフ

芹生 湖白

1

 波打ち際を歩いていると、波の端々がオレンジ色のガーネットのように見えた。こんな事を思ったのは初めてだし、今まで気を使って見た事も無いのではないかと思う。


 今から向かうのは、ここをもう少し進んだところにある切り立った崖だ。風光明媚な場所なので、今日も平日だというのに観光客が見受けられた。


 口に何か塩辛いものが入ってきた気がした。でもきっと、海の潮だ。


 昔から、気がつくとこの海に来ていた。貝殻を探してあてもなく歩いてみたり、特に何もせず一人でぼーっとしたり。


 海があまりにも大きいものだから、自分の悩みなんてこの海に比べたらちっぽけで、意味の無いものだと思えた。


 でもいつからか、


 自分がこの世界に存在していることなんて、この海に比べたらちっぽけで、意味の無いものだと思い始めた。


 何となく生きて、ここまで来てしまった。


 観光客は普通、左側の整備された道を下る。その右横にはもう1つ道らしきものがあるのだが、そこにはロープと、細々とした字で「立ち入り禁止」と書かれている。


 幸いな事に分かれ道には誰もいなかった。気がついたら日が暮れており、辺りは薄暗かった。


「立ち入り禁止」のロープをまたごうとした時、何か一線を越えた気がした。制服のスカートがロープに引っかかり、行かないでと止めているようだった。


 磯の匂いが強くなった気がして、足元を見た。さっきまで宝石のように見えた波は、もうその輝きを失っていた。


 どの辺が良いのだろうかと、下を見ながら歩く。岩が多いところが良いのか、少ないところが良いのか。よく調べずに来てしまったが、最後くらい、楽にいきたい。


 突然、首に大きな衝撃が走った。大きく、暖かい手が、首の後ろのワイシャツをぐっと掴んでいた。


 悲鳴は言葉にならず、首に食い込んだボタンの手前で渦になる。


 その指にもう一度力が入り、今度は体が大きく後ろにのけぞった。気が付くと、背丈の高い雑草が視界を遮っていた。


「助かった」そう思った。記憶の中では陸にしかないはずの植物が、目の前に見える。


「君さ、」


 男性の声。


「本当は」


「まだこの世界で生きたいんじゃないの?」


 不意をつかれて何も答えずにいると、大きな手が視界に入ってきた。掴めということのなのだろうか。「ほら」といいながらグーとパーを繰り返している。


 恐る恐る手を伸ばす。気が付いたら死人のように冷え切っていた手を、不思議なくらい暖かいその人の手が掴んだ。


「こんにちは、いや、こんばんはかな」とその人は言う。


「手荒い真似をしてごめん。君が思い悩んでいるように見えたからさ。」


「とりあえず、こっちにおいでよ。」


 薄暗くて顔はよく見えなかったけれど、優しそうな人であると感じた。


 義務教育で教わった事を生かすとするなら、ここでこの人の指を噛み、走って逃げればいいのだろうが、もうここまで来たならどうなってもいい。そんな風に思った。


 手を繋いだまま、その人と崖を歩いた。その人はスーツ姿で、かなり身長が高かった。田舎にはそぐわない、ほのかな香水の香りもした。


 しばらく歩くと、崖の端に突如として建物が現れた。それも一般の家ではなく、まるでデザイナーが住むような家だった。


 小さい頃からこの小さな町に住んでいるのに、こんな場所に家があるなんて知らなかった。


 日本の家ではまず目にすることの無い、丸い形のドアをその人は開けた。


 その瞬間、甘く、でも爽やかでもあるハーブの香りが漂ってきた。「田舎にはそぐわない」と感じた香りは、香水ではなかったようだ。


 この時初めてその人は手を離し、「どうぞ」といって先に家に入れた。


 その人が家の明かりを付けると、お互いの顔が良く見えた。その人は日本人ではないような顔つきで、鼻が高く、肌は色白だった。


 部屋の中は、綺麗というよりは生活感がなく、ショールームのような雰囲気が感じられた。


 部屋の真ん中には大きめのソファーが向かい合わせに設置され、その人は、そこに座るよう、促した。


 ふかふかとしたソファーに身を任せていると、急に疲れが出た。眠る、と言うよりも気絶するように、意識を手放した。


 小一時間ほど眠ったのだろうか。気がつくと体の上にはブランケットがかけられ、体の疲れは大分取れたようだった。


「起きましたか。お茶でもどうぞ。」


 そう言って、彼は紅茶を入れてくれた。


 温かくて甘いその液体は、乾いた胃に染み渡った。意味もなく涙が溢れて、その後はしばらくしゃくり上げるように泣いた。


 泣きすぎて上手く息が出来なくなった。いつしかその人が隣に座っていて、大丈夫大丈夫と声をかけてくれていた。


 その人は、息を吸うことよりも吐くことを意識して、と言った。どうしてそんなことを、と思ったが、その通りにしているうちにだんだんと楽になった。


「そろそろ帰った方がいいかな。親御さんも心配するでしょう。」


 そう言われた。確かにもう外は真っ暗だったし、いい時間なのかもしれない。周りを見回しても、時計は無かった。


 早く帰らなくては。でも、その前に、この質問はしておくべきだと感じた。



 「あの…どうして止めたんですか?」



 ――― 沈黙。



 先程まで気にならなかった波の音が大きく聞こえる。ざぶん、ざぶんと心を抉るようだ。


「君、明日空いてる?」


「空いてますけど…」おどおどと答える。


「この家に、もう一度来られるかな。」


 今日は金曜の夜。明日は土曜日だ。


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