断章Ω はて死なない物語

 読者への挑戦――ではない。

 これは「作者への挑戦」だ。

 櫟は更新する度に増えていく断章の海を眺めながら、これがもはや自分たちの文芸サークル内での遊びという名目すら捨て去って発散を始めていることに笑ってしまう。

 立て続けに書かれる、別の櫟からの問いかけ。

 地の文にその登場人物が至ったという結論を書くことをせず、台詞で問いかける。

 作者が思考を放棄した。プロットに愛想を尽かされた。主人公である数の信徒へと堕した。

 どれも違う。これは数への、読者への、そして作者への、最低で最大の挑戦だ。

 同じ名前の登場人物たち。彼らはどれもが違う性質を持っている。

 それを書く作者たち。彼らもまた、どれもが違う性質を持っている。

 そしてそれを読む読者たち。彼らは数の降臨を待ち望む。このくだらない茶番を快刀乱麻の推理で片付けてしまう主人公を。

 同じなのは、全てがこの断章の集合の登場人物の筆致の上で起こって回り続けているということ。

 登場人物も作者も読者も、どれもそれぞれに代替可能な役割である。この断章を読み、書き、文章の中で踊る者たち。彼らはいとも簡単にその立ち位置が入れ替わる。

 櫟に――今ここの櫟について考えてみよう。櫟がこうして思考し、行動している以上、今まさに一つの断章の中の登場人物という役割であると言える。

 櫟はいくつもの断章を書き連ねてきた。それらは今も数の周囲を回り続けている。紛うことなき作者であると言えた。

 そして櫟は今なお投稿され続ける断章を追っている。読んでいるのだから、どう言い繕おうと櫟は読者であった。

「全員が、そうなのよ」

 膠の下宿で、櫟は強引にまとめた考えを吐露した。

「全員が登場人物で、作者で、読者。私たちが認識し、地の文として出力された者たちは、全員」

「面白いね」

 それだけを言って、膠はそっぽを向いた。数が存在しない事実に行き当たってからというもの、膠はずっと塞ぎ込んでいた。それほどまでに、膠にとって数は大切な人物だと――設定されていた。

「やめてくれ、気が狂いそうだ」

 陵が沈黙したままの膠を横目に見ながらそう呟く。

 確かに、自分たちが虚構の住人であるなどと認めることなど、この世界が現実だろうが虚構だろうが、到底耐えられるものではない。それは本来冒してはならない領域であり、犯してしまった者を狂人と呼ぶ。

「狂え狂え。数の登場さえ待ち望めば、我らの未来は明るく、無限だよ」

「膠は、そっちにつくのね」

 櫟が呟くと、膠は吐き捨てるように笑う。

 唯一まだ狂気の渦に抗う陵だけが、二人の対峙の意図に気付けないでいる。

「さすがは視点人物。哀れに踊り続けるのか。誰が喜ぶ? 私たちは誰も喜ばない。私たちの幸福は――永遠は数によってしかもたらされない」

「エタらせない」

 陵が今にも互いに殺し合おうかという緊迫した二人を見て、ようやく事態の剣呑さを理解する。そうなれば陵にできることは、理解しきって二人だけで話を進めようとする探偵役に教えを乞うワトスン役に徹することだけだった。

「わかるように話して。頼むから」

 櫟と膠は決別を目顔で確認し合うと、そこからは互いに割り切って陵への解答を始める。

「私たちがこの断章のうちの一つの登場人物だと、まず認めなさい」

「待って――」

「認めろ」

 櫟のあまりに絶望的な宣告に色を失う暇も与えず、膠が強要する。

 陵は髪の毛を思いきり掻き回してから大きく息を吐き出すと、小さな声を漏らす。

「認めるよ」

「さあこれで陵も我ら狂人の仲間入りだ。歓迎しよう。ワインでも開けようかな?」

「やめなさい、膠」

 なだめるのではなく本気で叱ると、膠はさも楽しげに笑った。

「数の本来の名前はメアリー・スー。これは前に話した通りね。彼女はあらゆる物語を超越できる設定を、いつかどこかでの事故で得てしまった。彼女がいつ、物語から現実へと這い出たのかはわからないし、確かめようもない。数が現れた時点で、そこは全てフィクションの世界へと成り下がる」

「フィクションの力だよ。虚構はいつ何時も現実より強くなくてはならない。だがクソのような現実は虚構を排斥しようと必死になる。そこにきて数はまさしく、フィクションの勝利をもたらす女神――いや、主人公だ」

 櫟は膠の陶酔を無視して続ける。

「数がどこかからこの断章の中に現れたことで、私たちもまた虚構の住人となった」

「それは違う。もとより虚構だった私たちが、数の登場によって現実となったんだよ」

「確かめるすべはないし」

「どちらにせよ同じ」

 櫟は膠の目のしっかりとした光を見て呻く。互いに同じ考えに至り、対立した二人。それがはっきり言えば、どちらにせよ同じなだけの立場の相違であると、膠はしっかり理解している。

 膠は確かに数に屈したのだろう。だがそれでもその知性の輝きは失われていない。狂気の海へと溺れたからこそ、膠は極めて冷静に状況を分析できている。

「この断章群は、数を軸にして周囲を漂う。数の存在だけが、そこに一つの物語を与えることができる。だが、それは破滅への道にほかならない」

「破滅じゃない。永遠だよ」

「そう――ある意味ではね。陵はネット小説の知識は?」

 急に質問を振られて陵は勢いでそのまま立ち上がりそうなまでに背筋を伸ばす。

「あんまりないな……。読むのはもっぱら海外ミステリだから」

「ネット小説は誰でも書き始めることができる。これは当然として、その結果発生するのが、無数の完結することなく放置された小説たち。ネット小説では完結したものをそのままアップすることはほとんどなくて、連載形式で、書いた分や書き溜めておいたものを逐次アップする形式が圧倒的に多いのね。そうなれば自然と、物語を終わらそうと励むことが馬鹿らしくなってくる。連載し続けなければ人気を維持できないからと引き延ばし続ける者――は、ランキングの載ることのできるほんのひと握り。あとはそう、誰にも読まれることなく埋もれる絶望から筆を折る者がほとんど」

「そうして更新されることのなくなった状態を、永遠――エターナルからもじって、『エタる』と呼ぶ」

「俗に『地雷』や『最低系』などと呼ばれるネット小説は、極めて高い確率でエタることになる。そうした小説を判別する時に用いられる指標として、メアリー・スーの存在が含まれる」

「今はもうこの言葉が人口に膾炙しすぎて、単なるレッテル張りに使われることもしょっちゅうだがね。そもそもメアリー・スーは二次創作に限られる概念だと言う者もいる一方、公式のアニメにでさえメアリー・スーという言葉を持ち出してくるような連中もいる」

 膠とメアリー・スーの定義に関する議論をする気はない。膠自身、メアリー・スーなどという曖昧な概念を厳密に定義しようとすることの馬鹿らしさは理解している。その上で混乱を招くような捕捉を入れているのだ。

「メアリー・スーの存在は、物語を破綻へと導く。作者の手に負えなくなった物語を書くことはやがてできなくなり――」

「永遠が訪れる」

 櫟は決然と顔を上げ、穏やかに微笑む膠を見据える。

「私は――私たちはそれを止めなければならない」

「いいや。私たちは皆それを望む」

 陵が聞こえるように咳払いをして、二人の意識を自分に向ける。

「わかった――たぶん、わかった。どちらにせよ問題はやっぱり、櫟の言った通り私たちが断章の登場人物であり作者であり読者であるという構造にあるのかな」

 その通りだと二人とも無言で頷く。

 数は破綻をもたらす。その数が這い出た虚構が、今や数の周囲を無数に漂っている。

 その断章群は、数が存在して初めて意味を持つ状態であると言えた。もともとの発端が無秩序で無関係、だが実名小説であるという共通点のみを持った支離滅裂な断章の集合であった。

 そこに数が現れたことで、本来無関係で無意味だったはずの断章たちはつながって――意味を持ってしまった。

 数は数であるがゆえに、その間を自由に行き来――存在できる。だが櫟たち登場人物は、各々に与えられた断章の中でだけでしか動けない。

 しかし幸運なのか不幸なのか、櫟たちはまた作者であり読者であった。数によってつながってしまった断章と断章を、共有フォルダに投稿された文書という形で認識することができる――いや、そもそもはその認識こそが全てで、数の登場によりそれらが別個の世界として成立してしまっただけにすぎない。

 そしてその続きを書くこともまた、櫟たちには可能であった。数に支配されない物語。数を排除した結末。

 そんなものはどうやっても書けない。

 一度意味を持ってしまった物語は、ただひたすらに発散を続ける。その意味とはすなわち数の存在そのものであり、それを取り除いてしまったものは、この断章群に加わることすら許されない。

 櫟たちが直面している創造を超えた想像――数を軸にしない限り、この物語はぴくりとも動くことができず、また櫟たちも自己を確立することができない。

 もしも誰かが数と全く無縁の断章を同じ実名小説の形式で書いたのだとしても、その登場人物たちとこの場の櫟たちが干渉することはない。その断章を読むことすらできない状態にまで、この集合は数に支配され、そのおかげで櫟たちは自我を保つことができている。

 だから櫟たち作者は、この破綻に向かう物語を、数を内包したまま結末へと向かわせなければならない。

 数の存在は劇物だ。存在するだけで世界観を破壊し、キャラクターを食らい、ご都合主義を全うする。

 だから、メアリー・スーが暴れるネット小説は大抵完結することなく、エタる。

 書いているその場は気持ちがいいのかもしれない。だがやがて彼女は、作者の手に負えなくなっていく。彼女はそうして物語の破綻を置き土産に、また新しい、哀れな作者のもとへと現れる。

「私たち――断章の中で踊る作者たちがいる限り、数の物語は続く。それを止めてはいけない。この集合はまさに、数が永遠に遊ぶことのできる楽園なんだよ」

「数を放置すれば、やがて世界は完全に静止する。誰も彼女を書くことができなくなり、私たちの生きているこの世界もまた、終わることなく凍結してしまう」

「それこそが永遠なのさ」

 膠の言葉にも櫟の警告にも傾くことなく、陵は努めて冷静に二人の話を咀嚼していた。

「断章が増えれば増えるだけ、作者も読者も増える。そうなれば数はさらに拡散し、どんどん歯止めが利かなくなっていく――いや、でも……」

 陵ははっと顔を上げ、一つの重大な盲点を明らかにする。

「なんで、ミステリなんだ?」

 櫟と膠は揃って絶句した。

「そうだよ。この実名小説は――少なくとも始まりは全て、ミステリの形式で書かれている。でも、おかしいじゃないか。数が現れ出たのは、設定から考えてバトルものだ。その数が畑違いのミステリの世界観に――なんで、出てくる?」

「膠は、気付いていたの?」

 櫟が震える声で言うのを聞いて、膠は高笑いをする。

「言ったじゃないか」

 膠は幻視する。無数に広がる断章の世界。それが数の周囲を漂う。数がいつまでも遊べる楽園として、彼女を取り囲む。彼女を放さないように。どこへも行かないように。

「楽園なんてものは、牢獄か、よくて棺にすぎない」

 納得する。櫟もようやく視点人物であるほかの櫟たちの列へと加わることができた。

 ならば、これを読む別の櫟へと答えよう。

「私はお前と同じ結論に至ったよ」

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