漸進エンドロール

第1話 道はいくつもあるらしい

 僕はふわふわと白い霧のようなものに包まれた、狭いのか広いのかもわからない変な場所で、寝起きのパジャマ姿のまま突っ立っていた。


 周りには何もない。ただ、目の前には一匹の黒猫がいる。尻尾の先だけ白い。僕じゃないか、と思った。変な気持ちだ。次の瞬間、さらに変な気持ちになった。


「運営よりのお知らせです。先日はアバター変更の不具合についてご報告いただきありがとうございました。今後のアップデートで改善させていただきますので、これからも当サービスをよろしくお願いいたします」


 猫は特ににゃあとは鳴かず、尻尾を軽く振ってそんなことを言い出した。可愛げの欠片もない。最後にぺこりとお辞儀のように頭を下げると、すぐに後ろを向いて僕から遠ざかる。


 白い霧の中に飲み込まれる瞬間、その後ろ姿は正月に初詣をした、あの稲荷神社の石の狐に変わって、すぐに消えてしまった。




 僕は目を覚ます。それはどうやら夢で、場所はいつもの僕の布団の中だ。アラームが鳴っていたので止める。いつもの時間だ。二度寝しようかどうか迷ってむくりと起き上がる。確認のために猫になるのはどうかと思ったので、ぼさぼさの頭を掻きながら長瀬にメッセージを送った。


『おはよう。お母さんって今日どんな感じ?』


 ややあって返信が来た。画像もついている。相変わらずつやつやした緑色の鉢植えの写真だ。


『おはよう。元気に光合成してるみたいだけど、何かあった?』


 改善してないじゃねえかよ、と思った。あれは単に僕の頭が勝手にこしらえた、妙なイメージだったのだろう。さもなくば、アップデートとやらはまだ先の話のようだ。




 その日は修了式で、僕らの学校ではひとりひとり短い面談がある日だった。出席番号順で終わった奴から帰っていいシステムだから、あ行の奴らが羨ましがられる。ま行の僕なんかはだいぶ遅い方なので、教室の席がまばらになっていくのを見つめながら待っていた。まだ春とは言えないが、窓の外には光が溢れる眩しい日だ。


 長瀬が行って、伴が行って、細野が行って。みんな悲喜こもごもの顔をして帰ってきては鞄を持って教室を出て行った。大会議室が終わった生徒たちの控え室みたいになっていて、みんなにはそちらで待っていると言われた。


 やがて、三田村、次、と前の奴が僕の名前を呼んだ。僕は教室のドアを開け、戸張先生の待つ面談室に入っていった。


 三田村です、と頭を下げると、眼鏡の戸張先生はさすがにちょっと疲れた顔で軽く肩を回した。三十人くらいを毎日見守るのだから、先生というのは大変だと思う。どんな仕事でもそうなのだろうけど。


 英語をもうちょっとがんばれとか、現国は上がったなとか、わりと無難に話をした。僕は少し悩んでから、こんなことを切り出した。


「あの、進路のことなんですけど」

「ああ、音楽関係な」


 あの調査用紙から僕は、これでもいろいろと考えた。父親の言葉が結構なヒントになった気もする。『なりたい』と『やりたい』だ。


「将来的なとこはそのまんまなんですけど。例えば関係ある会社に勤めるとして、音大とか専門に行くんでなければ、どこの学部に進まないとってのはないのかな、って思って」

「まあ、そうだなあ。アーティストやエンジニアそのものになるんでなければ、絶対に必要な知識や資格はないかもな」


 僕は頷く。それくらいは調べた。『なりたい』はそれとして、じゃあ『やりたい』の話だ。


「人について……ええっと、人の考えてることとか、思ってること、気持ち?について勉強できるのって、どんなところですか?」


 戸張先生はほう、と面白そうな顔になった。


「何かあったのかな」

「いろいろあったんで。心理学、とかですかね」


 まあ、詳しくは進路指導室でちゃんと話した方がいいが、と先生は前置きした。


「そうだな、一番は心理学科だろうな。あとは、もっと大きな視野で見たいなら社会学」


 ふむふむ、と僕は頷いた。何をするのかはよくわからないが、これから調べよう。


「それから、文学や哲学、宗教なんかは人の考えてきたことの記録だろ。福祉とか、教育学部の方に行くという手もある」


 ちょちょちょ、と僕は慌てて先生を遮った。


「ちょっと、多くないですか、それ」

「そりゃ多いよ。人の心なんてどこにでも関わってくる。脳とかに絡めるならもっと総合的な学部のある学校もあるし……」

「僕、だいぶ絞ったつもりだったんですけど!」


 ははは、と先生は愉快そうに笑った。


「でも、指針はできたんだな。安心したよ」

「……わかんないですけど、興味があるのってそっちかなあと」


 この半年あまり、いろいろなことがあった。猫になったり、友達を助けたり、友達ができたり……彼女ができたり。


 そんな中、僕はずっと他人や、僕自身の心についてあれこれ考えていたように思う。しんどいこともあったが、意外とこういうのは嫌いではないな、とついこの間思ったのだ。


 心とか、気持ちとかについて勉強すれば、もっと僕が助けたい人にちゃんと手を差し伸べられるのじゃないか、って。


 別に、カウンセラーとかの仕事をやりたい、なんて思いついたわけではない。ただ、自分の周りの人にはずっと幸せでいてほしい。そのために僕ができることってなんだろう、と考えてしまったのだ。


「どこもそうだが、学問というのは学んだから即便利に役に立つとかそういう話じゃないからな。まだまだ考えて決めろよ」


 はあい、と僕は力無い声で返事した。進路にまつわる僕の悩みは、どうもまだ終わりそうにない。




 面談室を出て、教室に戻る。成績自体は上がったり下がったりだ。親には少しばかり小言を言われるかもしれない。ドアを開けて、次の番号の奴を呼ぶ。教室にはもう五人くらいしか残っていない。さっきはもう少し、前の方の番号の生徒が戻ってきて喋ったりしていたのだが。うるさくして注意でもされたのかもしれない。


 自分の席に戻って辺りを見回した。明るい教室の中、少し前に余市卓の後ろ姿があった。


 彼の起こしたごたごたから、もう一ヶ月ほどが経つ。余市は少しずつ、また前みたいに冗談を言って笑うようになってきた。僕と細野は休み時間に話しかけることもあるが、伴や長瀬とはまだ距離がある。春になってクラスが替わったら、どうなってしまうんだろうな、と思った。今のうちに、ちゃんと話をしておきたい。


「余市」


 声をかけると、眼鏡の学級委員は振り向く。その耳には白いイヤホンがはまっていた。


「ああ、面談終わったのか」


 イヤホンを外しながら、余市は伸びをする。


「何聴いてた?」

「『モノクロファンタズマ』」

「結構ゴリゴリしたの好きなのな」

「前はあんまりだったけど、わりといけるようになった」


 一年の時ほど自然ではない。だが、僕らは時々こうして音楽の話をする。できるようになった。あの時、手を伸ばすことができて良かったとそう思う。


「進路の話さ」

「いきなりだなお前」

「ちょっとは決まったと思って話したら、また選択肢が増えた」

「嫌味か」


 余市は口を曲げるが、それでもそういうことを言ってくれるようになった。


「俺、期末でだいぶやらかしたからな。いろいろ言われるよ」

「……そういや、あの後親とは話したのか」

「話したよ。全部聞いてくれた。負担かけてすまなかったな、だってさ」


 いい親だな、と言ったら、最初からそう言ってんだろ、と返された。


「進路はどうすんの。変える?」

「いや。考えてると、やっぱりいい大学に行くに越したことはねえし、跡を継ぐのも別に嫌じゃねえなって話にしかなんなくてさ」


 外したイヤホンを手元でくるくる振り回しながら、余市卓は続ける。


「だから、やることは変わんねえな。まあ、でももうちょっと力を抜いてやってくよ。ゲームも解禁したし」

「細野に数学教えたりしてな」

「あいつやる気はあるんだけど、しょうもねえ計算ミスが多すぎなんだよ。大丈夫か? 大学行っても実験とかでバカやらねえ?」


 やらかさないとは言い切れないが、でも、あいつはきっと大丈夫な奴だと僕は知っている。


「まあ、よろしく見てやってくれよ」

「お前は長瀬をよろしくな」


 しん、と教室が一瞬静まり返ったので、残りの生徒が全員僕らの会話に耳を澄ましていたのでは、という錯覚に陥った。そんなことはない。みんなすぐに好き勝手話し出す。


「長瀬は……ええと」

「付き合ってんだろ」

「まあ、ますけど」

「幸せそうな顔してんじゃねえよ。嫌味か」


 お前はいいよなあー、と彼は椅子に寄りかかり、頭の後ろで腕を組む。ちゃんとはっきり言ってくれるんだな、と僕は気まずくも少し嬉しかった。ここでごめんな、とか言うのはきっと何か違う気もした。


「不純異性交友に繋がりかねないやつは……」


 今日で役目が終わる学級委員は眼鏡を押し上げると、そこまで言って自分で面白くなったのか、咳き込むように吹き出してしまった。


 余市卓は多分、本当の意味ではもう他の誰にもならない。たとえ姿が変わったとしても、きっと大丈夫。大丈夫だ。


 僕は光溢れる教室の片隅で、友人と笑い合った。高校二年最後の日にこの会話ができたことを、僕はきっとずっと忘れないだろう。

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