失名グラナイト

第1話 石でも話ができるらしい

「なあ、なんか思い出した?」


 僕らはじっと机の上を見つめる。ガラス製のローテーブルにはハンカチが敷いてあって、そのさらに上にはごろんと灰色の拳大の石が転がっている。少しざらざらした、不思議な割れ方をした石だ。僕はさっきからこの石に話しかけているのだが、あいにく石は返事をよこさない。


 あらかじめ言っておきたいのだが、僕の頭がおかしくなったわけじゃないんだ。それは信じてほしい。


 話は、一時間ほど遡る。




 僕、三田村真也みたむらしんやとクラスメイトの伴礼央ばんれおは特に部活に入っていないので、塾とかバイトのない日は教室でぐだぐだしたり、さっさと引き上げてどこかに寄ったり、いろいろだ。もちろん他の友人とバラバラに別のことをしていることだって多い。ひとりでいたいことだってよくある。


 その日は予定とテンションが合っていたので、二年二組の教室に少し残って映画の話なんかしていた。クライマックスは多少強引でも、テーマ曲が流れるとうっかり感動しちゃうよな、とかそういう話だ。長瀬夜子は事務所の留守番があるとかでさっさと帰ってしまっていた。彼女の好きな映画の話なんかも聞きたかったのだが。


 午後四時が近くなると、残っていた生徒たちも少しずつ帰宅していく。『かわいい』を解禁して以来、以前とは別の方向で女子に人気がある伴は、伴くんバイバイ、なんて声をかけられてひらひら手を振り返していた。それはいいけど、あ、三田村もじゃあね、とかおまけみたいに言われたのはちょっと解せない。


 同じような黒髪セミロング、同じような制服の着こなしのグループが、楽しそうに騒ぎながら教室を出ていく。後ろ姿だと区別がつかないと評判で、二の二5ファイブなんて言われている子たちだ。数字が多くて語呂が悪いので、微妙なあだ名だと僕は思う。


 十一月の窓の外は少し風が強く、寒そうだったのでつい長居をしてしまった。陽が傾いて空が薄い橙色に染まり出す。そろそろ帰ろうか、と僕らは立ち上がった。


 僕はスマホからイヤホンを外してぐるぐる巻くとポケットにしまい、前髪にバッテンにしたピンをつけた伴は、羊のぬいぐるみが揺れる鞄を肩にかける。月末には期末試験があるが、もう少しだけ僕らには全てを忘れて自由を謳歌する猶予がある。ずいぶんひんやりとしてきた空気の中、そろそろ家までの分かれ道に差し掛かる、という時のことだった。


「伴さ、そういや現文の時の……」


 僕がふと授業のことを思い出して、背の高い友人の方を振り向いた時だった。


 少し硬い感触が足にぶつかった。何か小さな物を蹴ったらしい。僕の方に痛みはなく、蹴られたものはごろりと地面を転がったようだった。あ、なんか落ちてたかな、と思う間もなかった。


「痛っ!」


 その瞬間、女の子の声がしたのだ。僕はぎょっとして前を向く。誰もいない。立っている人はいないし、ましてや地面に転がったりもしていない。


「何もう、三田村じゃん。前向いて歩いてよ」


 僕と伴は、ぽかんと口を開けてその声を聞いた。歩道には、拳大くらいの石が転がっていた。それくらいしか僕が蹴飛ばせそうなものはなかった。そして。


「何? その顔。なんかおかしい?」


 どこか気の強そうな女の子の声は、どうやらその石から出ているようだった。


「ごめん、落ち着いて聞いてほしいんだけど、ちょっと今僕ら、君が誰だかわかんない」

「えーと、妙なことが起こってるんだけど……」


 伴はごそごそと鞄から、プラスチックの白い手鏡を取り出す。


「お前鏡なんて持ち歩いてんの」

「百均のやつだよ」

「そういうことは聞いてない」


 鏡を向けられた石は、少し沈黙した。目も鼻もないように見えるが、僕がわかったのだから見えているのだろう。知り合いの女子の誰なのか、声だけではわからない。状況と口調から、長瀬夜子ではなさそうだ、というくらいだ。驚くだろうな、と思う。僕も伴もそうだったからだ。だが。


「ああ、へー」


 そういうこともあるか、というくらいの軽さで、石はそう呟いた。


「そっか。今あたし石なんだ」

「びっくりしないんだ? 前にもそういうことがあったりとか……?」


 僕は人が何か別のものに変身してしまうという現象に、少しだけ縁がある。他ならぬ僕が、今でもまだ猫に変わることがある。隣にいる伴なんて、かわいい女の子だ。だから、この子もそういう経験がある子なのかと思ったのだが。


「ううん、初めて。言われてみるとびっくりだよね。なんかわかるなって思っただけ」

「わかる……?」

「気分的に納得というか。それより……同じくらい困ったことに気がついたんだけど」


 声はようやく、少し弱った調子になったようだった。


「自分のこと、ほとんど覚えてないみたい。ね、教えてほしいんだけど。あたし、誰?」


 そんなのは、僕らの方が聞きたかった。




 『呉探偵事務所』に僕らが駆け込むと、ソファ脇の観葉植物に霧吹きで水をやっていた長瀬夜子が目をぱちくりさせた。今日は長い黒髪をハーフアップにして、カジュアルなカットソーに下は黒のパンツ姿だ。彼女はシンプルな格好がよく似合う。


「びっくりした。何かあったの? 今は末明すえあきさんはいないけど」

「ああ、そっか、電話番か……。でも長瀬さんの方がいいかも。この子誰かわかんないかな」


 僕は、伴の小鳥の刺繍入りのハンカチにくるんで運んでいた石を、長瀬向けて突き出す。


「……何? 誰って?」


 石は当然ぴくりとも動かないし、口も開かない。長瀬の顔に疑問符が浮かぶ。僕は少し焦って石を揺らした。


「おいちょっと、なんか言ってくれよ。僕がおかしくなったみたいじゃん!」

「……え、えー。あー」


 ようやくぼんやりした声が聞こえた。


「ごめん、寝てた。移動楽だなーって。あ、長瀬さんだ」


 つまり、いつものやつね、と長瀬は即座に理解したようだった。


「どうも僕の知り合いみたいなんだ。伴と長瀬さんのこともわかったから、クラスの子っぽいんだけど。自分のこと覚えてないんだって」

「そういうのってよくあるのかな。治せる?」


 僕と伴が口々に言うと、長瀬はふむ、と顎に手を当てる。


「一度見たことある」


 やっぱり、と僕らは揃って声を上げる。長瀬は少し真面目な顔になった。


「わりと良くないと思う。変わった後の姿に引っ張られちゃってる、ってことだから。早く思い出さないと」

「長瀬さんは心当たりは……」

「ない。声聞いたくらいじゃわからないし、それに私、友達が少ない」


 いない、ではないのが嬉しかったが、まだ手がかりは少ない。長瀬は僕の手の中をじっと見つめる。


「なんでもいいんだけど、覚えてることない? 教室でどこの席とか、何部だとか」

「そう言われてもなー。部活のことは覚えてないから、帰宅部じゃないかなあ」

「うちのクラス、帰宅部多いんだよな」


 僕らの高校はそれなりに緩い公立で、あまりスポーツとかで張り切る方ではない。去年柔道部が地方予選で準決勝に進んだとかで、ちょっとした騒ぎになったくらいだ。文化部だってたかが知れている。


「あ、そしたら長瀬さん。あれ持ってる? クラス名簿」

「え」

「可能性低そうな奴から消してけば、少し整理できるでしょ」


 伴が言って指で空中を四角くなぞると、長瀬夜子は少し狼狽したような顔になった。


「……持ってるけど。ちょっと、その、落書きが……」


 少しだけ渋ってから、彼女はぱたぱたと住居の方へと駆けていく。バタン、とドアの音が聞こえ、長瀬の姿は消え、しばらくしてまた戻ってきた。普段はきりっとしている眉毛をぐっと八の字にして、なんだかどうしようもなく恥ずかしそうな顔で。


「あの、あのね。書き込むならそこでコピー取った方がいいと思うし、その、あんまり気にしないでほしいんだけど。でも、緊急時だから仕方がないし……」


 僕は、こんな長瀬は初めて見たな、と思いながら名簿を受け取る。出席番号と名前の一覧だけが並ぶ、シンプルなやつだ。ただ、そこにはカラフルなボールペンでたくさんの書き込みがしてあった。


『新井秀徳→野球部。坊主頭。足が速い』


 長瀬の文字だろう。見た目に合った端正な筆跡は、生徒ひとりひとりの特徴を書き留めているようだった。僕は僕の名前を探す。


『三田村真也→よく音楽聴いてる。わりと静か』


 そして、『あんまり知らない』の文字は線で消され、代わりに赤でこう書いてあった。


『黒猫。友達』


 横には猫のシルエットのイラストがあって、吹き出しで『にゃあ』と鳴いていた。


「おい三田村、痛いって」


 気がついたら、伴の背中をばしっと叩いていた。『かっこいい。かわいい。友達』らしい伴は口を曲げる。


「転入してきたから、い、いろいろちゃんと、クラスのこと覚えなきゃって思ってずっと書いてて、それで。あんまり役に立ってないけど……」

「長瀬さん、あたしよく知らなかったんだけど、いい子だね?」


 石が言う。そうだよ! 今頃知ったかよ!と僕は石に叫びかけて、どうにかボリュームを下げた。


「そうだよ今頃知ったかよバーカ」

「うわ、いきなり何囁いてんの気持ち悪」


 どうもこいつ口が悪いな、と思う。伴がふにゃっとお人好しに笑った。


「できたら、元に戻ったら仲良くしてあげてね」


 僕もそれには全面的に賛成だ。

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