灰色の怪物

 アンはこの日をずっと待ちわびていた。

 白き神と黒き神の終わらない戦いが、灰の王の出現によって終わろうとしている。それは聖典に書かれた予言の成就であり、そのために生きてきた自分が報われる日でもあった。

 ようやく自分は報われるのだ。

 そのために無辜の民を敵国に襲わせ、世界樹のもとへも還した。彼らに人としての死を使命のためとはいえ与えてしまった。

 そんな罪を重ねた自分が、救われるときがきたのだ。

 アッシュを伴ったアンは、聖堂の奥深くへとその歩みを進めていた。永久凍土に覆われた螺旋階段を彼らは静かに降りていく。会談は聖堂の地下へと続いており、その到達点は闇に覆われて窺うことはできない。

 「君は、今日この日のために生まれてきた。人を殺め、その殺めた母の子を愛し、そしてその子のために君は死んだ。でも、君はそのこのためにこの場所にいる。彼女は、グラインはまさしく僕らの聖女だ」

 手を繋いだアッシュを振り返り、アンは紅潮した顔を彼に向けてみせる。アッシュは色のない眼を不機嫌そうに歪めてみせた。

「凄いな。意志を持たない廃人形になっても、君は感情を持っている。それでこそ、僕らの王に相応しい」

 アンが嗤う。その笑い声は螺旋階段が纏う闇へと消えていき、蒼く輝く氷の壁に反響する。アッシュは黙ってそんな彼を見つめるばかりだ。

「大丈夫、君は君を取り戻せるよ。彼女が、それを可能にしてくれる」

 アンの言葉と共に、二人は螺旋階段の終わりへと辿り着く。そこは、巨大な硝子の結晶が無数に鎮座する穴の底だった。

 薄い笑みを浮かべる吟遊詩人を閉じ込めたそれらは、月光の光を浴びて蒼く蒼く澄んだ輝きを放つ。その中央に立つ一際大きな硝子柱を見てアッシュは大きく眼を見開いていた。

 濡れ羽の髪を白い肢体に纏った女が、その柱には閉じ込められている。薄く眼を開いた彼女は夜色の眼で、じっとアッシュを見つめていた。

 そんなアッシュを見つめながら、アンは喜悦に顔を綻ばせる。やっと彼に自分の最愛の人を紹介できる。それが何よりも嬉しかったのだ。

 そっとアッシュの手を振りほどき、アンは自分の愛する女性の元へとかけていく。自身の最愛の妻の元へと。

 そっと柱に両手を巻きつけ、アンは愛しいその人を抱きしめてみせた。後方にいるアッシュへと顔を向けると、彼は唖然と自分たちを見ているではないか。

「あぁ、君には話していなかったね。ウィッシュは僕の妻なんだ。だから、君が育てた君の娘の実の父親は、僕ってことになる。グラインは、僕の娘なんだよ」

 アンは眼の前の青年に嗤ってみせる。彼にはずっと愛しい妻を占領されてきた。彼女はあろうことか自分を愛するのではなく、血も繋がらないアッシュを選んだのだ。自分たちには、グラインという愛の結晶がいるというのに。

 だから、アンは彼女を殺した。彼女の最愛の息子であるアッシュに彼女を殺させた。殺して、廃人形として人柱に閉じ込めることで彼女を自分のものにしたのだ。

 そして、愛娘ももうじきここにやって来る。

 その前に、やらなければならないことがある。娘の花婿たる彼を、目覚めさせるという仕事が。

「ほら、思い出して御覧、アッシュ。君の罪を、僕の妻を殺した、君の罪の深さを」

 紡ぐようにアンは言葉を放っていく。アッシュは蒼い眼を震わせながら膝を折る。

「あぁああああああああ!」

 彼の口から咆哮があがる。それは氷の壁に虚しく反響していく。その咆哮にアンは嗤っていた。おかしすぎて、笑いが止まらなかった。

 笑い終わって彼を見つめる。彼は苦しそうに息を吐きながら、地面に倒れていた。

「起きるんだ。アッシュ、自分の罪を思い出せ」

 鋭く蒼い眼を細め、アンはアッシュに語りかける。びくりとアッシュは体を痙攣させ、それきり動かなくなった。



 アッシュの幼い記憶は、いつも灰色の空から始まる。そして、その灰色の空を背に、いつもアッシュの耳には彼女の言葉が聞こえていた。まだ、名前もないあの頃、彼女はアッシュを灰色の化物と呼んでいた気がする。

 殺せと、誰かがいつも囁いていた。

 殺せと、自分の内側の誰かがいつも自分に命令していた。

 だから、見たものすべてをその灰色の化物は殺してきたのだ。たくさん殺せば殺すほど、自分の内側にある声は大きくなっていく。

 殺せ。たりない。もっと殺せと、彼女は叫ぶ。

 もうどこにも殺すものがいないと答えると、彼女は雪の平原に点在する歪な硝子の結晶に赴けといった。

 そこに、生きている者がたくさんいると。その者たちを根絶やしにしろと自分の中の彼女は言う。

 灰色の怪物は、よろよろとその硝子の結晶の中へと入っていった。結晶の中は外とは違い驚くほど温かかった。空腹に自分が倒れると、驚いてかけよってくる生きている者たちがいる。

 大丈夫と、その女性は自分に語りかけてくる。そっと抱き寄せられたその女性の体温の温かさに灰色の怪物は蒼い眼を見開いた。

 殺せと、彼女が囁く。

 やめてと、化物は彼女に言った。

 殺したくないと、彼女に思いを伝えた。

 それでも彼女は囁く。

 殺せと。殺せと。

 ただひたすらに、殺し続けろと――



 気がつくと、自分の喉元を締め上げる。一本の手があった。自分はその手に喉元を掴まれ、宙に浮いているらしい。霞む視界に灰色の化物は漆黒の女を映し出す。

 夜色の眼をつまらなそうに細め、女は自分の喉元を掴むその手に力を込めた。

 めりっと音がして、灰色の怪物は苦痛に呻き声をあげる。それは、怪物が初めて感じた『苦しさ』だった。

「あぁ……」

「え、私の民たちを虫けらのように殺しておいて、自分は苦しいってかこの糞餓鬼が。たっく、アンも厄介なものを押しつけてくれたよ」

 するりと女の指が怪物の首から離れていく。押されていた気道が一気に広がって、怪物は大きく息を吸い込んでいた。次の瞬間、体中に衝撃が走って怪物は硝子のタイルの上に転がっていた。

 そんな怪物の視界に夜色の眼が迫ってくる。にぃっとその眼は嗤って、怪物の灰色の髪の毛に覆われた頭に触ってきた。

「なるほどねぇ、これは内側に恐いものを飼ってるな。でも、その恐いものにお前は抗う術をしらない。そいつが、お前に人を殺させたのか?」

 女の言葉に、怪物は蒼い眼を見開いていた。この女はなぜ彼女の存在に気がついたのだろうか。驚く自分をよそに、女はそっと自分の頬に触れてくる。

「その怪物に、お前は抗いたいか?」

 女の言葉に怪物は大きく眼を見開いていった。こいつは何を言っているのだろうか。あの声に抗うことなんて、自分は考えたこともなかった。

「殺さなくて……。いいの?」

「殺すか殺さないか、決めるのはお前だ。それだけのことだ」

「どうしたら……できる……?」

 怪物の言葉に女ははぁっとため息をつく。そんなことも分らないのかと、女はぼやいて言葉を続ける。

「お前、名前は?」

「かいぶつ……はいいろの、かいぶつ……。こえがいってた」

「だったら、お前の名前はアッシュだ。雪の降る空の色の名前。灰色。アッシュ。それが、お前だ」

「あっしゅ……ぼくは、あっしゅ……」

「そう、お前はアッシュ。お前の主はお前自身。他の誰でもないお前がどう生きたいのか決めて、どう死にたいのか選べばいい。私が教えられるのはそれだけだ 」

 女が眼を細めて笑う。その慈悲の宿った夜色の眼差しから、アッシュは眼が離せなかった。



 女の名は、ウィッシュといった。魔女を意味するその言葉のごとく、彼女はこの世で最高の吟遊詩人と称される女性だった。黒く長引く髪は漆黒の闇を想わせ、夜色の眼はさながら喰らい冥府を想わせる。

 その容姿のごとく、彼女は死者の国の異名を持つ根の国の出身者であった。

 そんな彼女が、硝子細工を行き来する輸送船や、硝子細工の民たちを殺していた灰色の化物を手なずけた。

 敵国の女が他の吟遊詩人では太刀打ちも出来なかった化物を手に入れたのだ。彼女が裏切ったらどうするのかと声を上げる者たちがいた。

 そんな吟遊詩人の長たちの求めに応じ、ウィッシュは中央聖堂に召喚された。硝子タイルで飾られた床には、白き竜の意匠が施されている。その中央に立つウィッシュの周囲には、吟遊詩人たちの長が集まっていた。

「さて、件の化物を君はどうするつもりかね」

 赤毛の吟遊詩人が声をあげる。愛弟子であるダルムの父だ。吟遊詩人の長たちは聖典に定められた協定に従い、中央聖堂を治めるアンの指定した者に子を弟子入りさせる習わしがある。

 西方の硝子細工を治める彼は、もともと根の国の出身である自分に子を託すことを快く思っていなかった。アンの取り決めに従い、彼はしぶしぶ我が子をウィッシュに託した。

「化物ねぇ……。まぁたしかに人を皆殺しにする姿は化物だが……。これは、化物と呼べるのか?」

「ママ……」

 自分の腕に抱かれた幼い少年を見つめながら、ウィッシュは困惑に笑ってみせる。ウィッシュの腕には、数日前まで灰色の化物と恐れられていた少年が抱かれていた。

 幼い少年は大きな蒼い眼を不安げにゆらし、ウィッシュを縋るように見つめている。出会ったときは返り血と埃に塗れていた総髪も、今は整えられ愛らしい灰の三つ編みとなっていた。

「おししょうさま……オレも抱っこ。アッシュばっかりズルい……」

 そんなウィッシュの足元には、赤毛を後方に流した幼い少年もいる。愛弟子のダルムだ。

「お前が妻に先立たれ死んだことは知っている。ただ、私も二人の餓鬼を抱えて本当に大変でな……。息子の面倒を私が見るのが嫌なら、引き取って……」

「やだぁ、パパこわいっ! お師匠様と一緒にいる!」

「ダルムっ!?」

 ウィッシュの言葉に、ダルムは泣きじゃくりながら彼女の脚に抱きつく。そんな我が子を見てダルムの父は思わず叫び声をあげていた。

「ママ……きつねたべたい……。あと、おしっこ……」

「ちょ、お前ここでかっ!? すまん、話し合いはまた後でっ!!」

「いやー、おししょうさまっ!」

「お前も来いっ!」

 二人の幼子を両脇に抱え、ウィッシュは中央聖堂にあるトイレへと駆けていく。そんな彼女たちを吟遊詩人の長たちは唖然と見送ることしかできない。

「まったく、あの灰色の化物を手なずけるとは……」

 ダルムの父親は去っていく彼女を見つめながら、苦笑していた。他の吟遊詩人たちも毒を抜かれたように笑ってみせる。その笑いはやがて爆笑へと変わり、腹を抱えながら彼らは大いに笑いこけた。

 幼子とともに話し合いに戻ったウィッシュが大いに荒れたたことは、話さなくても分かるだろう。



 甘い乳の香りが鼻孔をくすぐって、子供用の寝台でダルムと寝ていたアッシュはぱちくりと眼を開けていた。寝台の柵に手をかけ、アッシュは匂いのする方向へと顔を向ける。

 束ねられた黒い長髪の女が、竈の前にたっていた。彼女は暖房用にも重宝する墨を竈の中でかき混ぜている。火掻棒を墨の中から取り出し、彼女は竈に置かれた鍋へと顔を向けた。鍋の中には真っ白な乳が注がれ、その乳に動物の肉が浮いている。

「起きたか! 大ぐらいの怪物」

 にぃっと笑いながら、鍋をかき回すウィッシュはアッシュに声をかける。彼女は小さな器に鍋の中のスープを盛りつけ、こちらへと近づいてきた。

「ほら、大ぐらいのダルムが起きる前に、味見してみろ」

 肉の掬ったスプーンをアッシュの顔もとに差し出し、彼女は優しく語りかける。 アッシュはウィッシュの言葉に従い、ぱくりとスプーンに乗った肉を口に含んでいた。柔らかな肉の弾力と美味しい肉汁が口のなかに広がって、アッシュは驚きに眼を見開く。

「おいしい……」

 今まで食べていた獣たちの生肉とは、比べ物にならないほどの美味しさだ。

「雪狐の牛乳煮だよ。小さい頃によく、弟に作ったんだ」

「きつねじゃない。あじが、ちがう。おにくたべても、こんな味しなかった」

「それは、お前の料理の仕方が悪いんだよ。なんでも順序を踏んで物事に取り組めば、こういう美味しい料理もできるんだ。お前がただの子供だったのと一緒だ」

「ぼく、こえがきこえなくなった」

「お前に必要のないものだから、消えたんだよ。もうお前は、自分の言葉で生きていける。それだけのことさ」

「ぼく、いきてるよ」

 ウィッシュの言葉の意味がわからず、アッシュは首を傾げてみせる。

「そうだな。お前は生きてる。生きてるんだ」

 ウィッシュの夜色の眼が優しく笑みをつくる。彼女は柔らかなアッシュの髪をなでてくれる。

「だからアッシュ。お前は、お前のために生きるんだ。もし、私が邪魔になったら、私を殺してでも生き延びろ」

 



 アンの高笑いが耳朶に響き渡る。あぁ、煩いなとアッシュはその声に苛立ちを覚えていた。

 やっと目覚めたというのに、また少年の姿をしたこの老害に自分は跪いている。彼から、大切な人を二度も奪われたのに。

 一度は、自分の親であったウィッシュ。そして、もう1人は――

「グライン……」

 廃人形であるはずの自分が言葉をはっすることができる。その事実に驚きながらも、アッシュは顔をあげていた。

 そんなアッシュを見て、アンが驚愕に眼を見開いている。

「自分が誰か分かるのか?」

「灰色の怪物……。そう、あなたたちは俺を呼んだ。俺をあの声のように化物だと畏れた」

 蒼い眼を見開くアンを見すえながら、アッシュは起き上がる。そっと眼を瞑り耳を澄ませる。自分の体内から心音が聞こえることはなく、アッシュは眼を開けて嗤っていた。

 本当に自分は死んでいるらしい。死んでいるのに、ちゃんと意識はあって、言葉すらはっしている。

「頼みがあります。母さんから離れてください、老害。それは、お前のふれていい人じゃない」

 アッシュの言葉にアンは怯えた様子でウィッシュの閉じ込められた結晶を抱きしめる。アッシュはそんな彼を静かに見すえ、口を開いた。

「Die《死ね》」

 容赦のない祝詞の言葉に、アンは眼を見開く。その言葉が放たれた刹那、アンの片腕が爆音と共に吹き飛んだ。

「あぁああああああああ!!!」

 アンの喉から悲鳴が迸る。吹き飛んだ腕の切断面から、アンは鮮血を吹き出し続ける。それでもなお吟遊詩人たちの長は、灰の王を睨みつけた。

「アッシュ!!」

 アンの怒声に応じて、吟遊詩人たちを閉じ込めた壁が淡く光輝く。その輝きは増していき、壁の硝子は崩れ、そこに閉じ込められていた彼らも地面に落ちていく。

 そんな彼は眼を大きく見開き、大口を開けて雄たけびを上げ始める。

 獣のごとく地面に着地した彼らは、犬歯を覗かせながらいっせいにアッシュに踊りかかった。

 アッシュが眼前に自分の掌を掲げる。乾いた爆音が辺りに響き渡り、アッシュに踊りかかった彼らは四肢を裂かれて地面に伏した。

「人柱になったとなった吟遊詩人を廃人形として攻撃に使うとは。さすが老害なことはある。そうやって、僕を殺してあなたは思いのままに操りたかったんだろ?」

 低いアッシュの声が硝子の穴蔵に響き渡る。ひっとアンは小さな悲鳴をあげて、地面にへたり込んだ。そんなアンをアッシュの蒼い眼が嘲笑う。

「けど、僕は怪物だ。祝詞なしに世界樹の力を行使できるのも僕だけ。廃人形になっても意識を保っているもの僕だけ。あなたの思い通りになる相手じゃない……」

「なんなんだ! なんなんだ! お前は!!」

 震える指でアッシュを指さし、アンが叫ぶ。アッシュはそっと眼を細めて、彼に言葉を送った。

「ただの、娘思いの父親だよ」

 

 

 

 

 




 







 

 

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