後編

俺 2007年10月

第1章

 札幌の中心部から少し離れたところに建つホテルに部屋を取った。決して広くなく、簡素な部屋ではあったが、ホテルが小高い丘の上に位置しているおかげで、五階にも関わらず景色はなかなかのものだった。


 昼間は当てもなくデパートをうろついたり、映画を観たり、あるいは部屋にこもって音楽を聴きながら本を読んだりした。一冊読み終えると書店へ行き、よさそうな本を見つけてそれを読んだ。村上春樹を読み、コナン・ドイルを読み、夏目漱石を読んだ。夜は最上階にあるバーへ行って三杯の酒を飲み、部屋の窓から少し先に見える札幌の夜景を眺め、二時になると布団にもぐった。すぐに眠れる日もあれば、朝まで眠れない日もあった。


 いずれにしても、やってきた新しい日を、俺はまたデパートへ行ったり、映画を見たり、本を読んだりして過ごした。そんなふうに、特に何もせず(あるいは今までにしたことのない多くのことをして)二週間を過ごした。時間は俺が思った以上に早く流れた。まるで誰かの一生の一部分を早回しで見ているような、どこか現実感のない不思議な日々だった。


 十五日目の夜も、俺は一冊の本を持ち最上階のバーへ行った。五十年代から七十年代の洋楽を流す(プレスリーとかビートルズとかクリームとか、そういう俺が生まれる前に作られた音楽だ)、居心地の良いバーだった。マスターは四十代半ばくらいのラテン系アメリカ人で、鼻の下に生やした立派な鬚がトレードマークの気さくな人だった。


 彼は日本人には癖のある日本語で話しかけ、外国人の客には英語を使った。その切り替えの速さは見事なものだった。彼は最初日本語で俺に話しかけたが、何度か行っているうちに親しくなり、俺が大学で英語を学んでいることを話すと、英語で話しかけてくるようになった。

「親しい友人とは英語で話したいんだ。それに君の勉強の助けにもなるしね」と彼は言った。


 扉を開けると、マスターがこちらを見、手を挙げた。俺は軽く微笑みながら会釈をしてそれに応えると、いつものようにカウンターの一番入口に近い席に腰かけた。スティーヴィー・ワンダーが「迷信」を歌っていた。扉を開けた時から気づいてはいたが、俺は席に着くと改めて横目にカウンターの壁側の席を確認した。奥から二番目の席に彼女がいた。


 彼女を初めて見たのはちょうど一週間前で、今と同じように彼女が左から二番目の席に座り、俺が一番右の席に座っていた。それから彼女はほとんど毎晩のように姿を見せた。彼女は必ず俺より先に来ていて、俺が帰る時もまだそこにいた。ひょっとしたら彼女は一日中ここにいるのではないか、と俺は半ば本気で疑った。彼女は左から二番目の席で、俺と同じように(あるいは俺とは全く違う理由で)一人で静かに酒を飲み、煙草を吸った。俺は名前も知らない彼女のことが気になっていたが、彼女が俺の存在に気づいているかどうかすら、俺にはわからなかった。


 マスターが俺の前にビールを置いた。その日の気分によって飲む酒は違ったが、一杯目はビールに決めていた。四日目から、何も言わなくてもマスターはビールを出してくれるようになった。

「それで、今日の気分はどうだい?」

 いつものように、マスターが渋みのある声で明るく訊いた。

「悪くないです」と俺は言った。「今日もこうしてマスターの出してくれる酒が飲めるし、スティーヴィーの声の調子も良さそうだ。これで隣に女の子がいれば言うことはないですよ」

 マスターは笑った。マスターのいかにも人の良さそうな笑顔のおかげで、俺はいつも安心してくだらない冗談を言うことができた。


「今度は何を読んでるんだ?」

 カウンターの上に置いた本を見ながら、マスターが尋ねた。俺はタイトルが見えるように本を裏返した。マスターは、知らない、というように肩をすぼめた。

「俺と同い年の作家らしいです」

「若いのに大したもんだね、彼は」

「彼女です」と俺は訂正した。「そのとおりですよ。俺がこうやって時間と金を浪費している間に、一冊の本を書き上げるんですから。本当に大したもんです」

「『こうやって』は余計だよ」とマスターが笑った。

「そんなつもりじゃなかったんですけど」と言い、俺も笑った。


「The time you enjoy wasting is not wasted」

「え?」

「ある偉人の言葉さ。誰だったか忘れちまったが、田舎のバーテンの心にも残る格言を言うような偉人だよ」

「もう一度言ってもらえます?」

 マスターはさっきよりもゆっくりとその言葉を口にし、人生には時間を無駄にすることも必要だってことさ、と付け足した。

「彼が正しいと信じたいですね。それが誰であれ」と俺は言った。

「実際のところ」とマスターが言った。「俺は、あんたも若いのに大したもんだって思ってるんだぜ」

「俺が?」

 俺は少し驚いて訊き返した。

「マスターが知ってる俺なんて、毎晩バーで酒飲んでるただの……」

「ろくでなし?」

「いや、怠け者って言うつもりだったんですけど……まぁ、すごく無骨に言うとそういうことです。怠け者のろくでなし」

 マスターは一際大きな声で笑うと、大してすまなくもなさそうに、「すまなかった」と言った。


「だが、重要なのは俺はそう思わんってことだ」とマスターは言った。「見たところ、あんたは悩んでる。そしてあんたくらいの年のころにはそれは必要なことだ。言い換えれば、若者はみんな悩んでる。もし悩まない若者がいたとして、私は彼と友人になりたいとは思わないね」

「それじゃあ、何が俺を『大したもの』にするんでしょう?」と俺は言った。

「逃げないことだ」とマスターはあまり考えることもなく言った。「あんたには強い信念がある。そしてそれに従おうとする強い意志がある。目を見りゃわかるさ」

「いくら褒めたところで、いつもより多く金を落としたりしませんよ」

「いや、真面目な話さ。いいか、物事が思うように進まなかったとき、人間はみなその原因を考える。そして、どうしてそうしたか、あるいはそうしなかったかを後悔する。でも、そこから先は二種類の人間に分かれる」

「つまり?」と俺は先回りする。

「つまり、後悔し続ける人間と、これからどうすればいいかを考える人間だ。後悔することは簡単だが、誰もがすぐに未来に目を向けられるわけじゃない」

「俺は後者だと?」

「私はそう思うね。君はどう思う?」


 俺はしばらく過去の自分を振り返ってみた。特に、葵がいなくなってしまった後の俺自身の行動と感情を。

「よくわかりません」と俺は正直に言った。「うまくいっていたときのことを思い出してばかりいる気がする」

「回顧と後悔は違う。回顧することは必要さ」とマスターは言った。「ところで、回顧することについては、また別のためになる話があるんだが、聞くかい?」

「今日は書くものがないから、明日ノートとペンを持ってきます」

 マスターが冗談で言ったのだと思い、俺はそう返したが、マスターのほうは「冗談半分」だったらしく、少し残念そうな表情を浮かべた。


「その代わりに訊きたいことがあるんですが」と俺は言った。

「私が答えられることなら、喜んで」

「原因を考えた結果、原因がわからなかったら?」

 マスターは一瞬俺に視線を向け、すぐに自分の手元に戻した。

「何もできることはないだろうね」と彼は言った。「ただ座って、車輪が回るのを見ているしかないさ。原因がないのにうまくいかないことなんて数えきれないくらいある」

 それから、「人生ってのはそういうものだってことさ」と付け足した。「まさか、すべて自分の思い通りになるなんて思っちゃいないだろ?」

「まさか」と俺は言った。


 それからしばらく、俺はアルコールをちびちびやりながら本を読んだ。一時間ほど経ったころ、ふと流れていた音楽が耳に留まった。

「これ、オアシスでしょう?」

 壁際の棚を離れ、こちらに戻ってきたマスターに向かって声を掛けた。


 店内を満たす音楽は、マスターが彼の父から受け継いだレコード・プレイヤーから流れていて、それは実に優しく、温かい音だった。と言いたいところだが、実際に曲を再生しているのは最新のポータブル・プレイヤーだった。文庫本よりもはるかに小さく、何千曲も取り込め、それでいて高校生でも手が届くほどの値段でどこの家電量販店でも売られている、あれだ。壁際の棚に置かれたプレイヤーでランダム再生された音楽を、天井のスピーカーから流しているのだ。ディスクを取り替える必要も、ましてや裏返す必要もなく、充電器につないで置けば延々と音楽を演奏してくれる。科学というのは素晴らしい。


「そうだよ。好きかい?」とマスターが言った。

「えぇ。でも、いつも流れてる音楽とはちょっと違いますよね?」


 先にも述べたが、いつもなら何十年も前のロックしか流れない。何十年も前の、ロックに世界を変えられるほどのパワーがあった(あるいは人々があると信じていた)時代の曲たちだ。もちろん俺はその時代に生きてはいなかったが、ここで彼らの音楽を聴いていると、その時代の雰囲気というか、息吹のようなものを感じられる気がした。


「『ロックは死んだ』なんて言われて久しいけど、彼らの音楽を聴く限り、私はそうは思わないね。彼らの音楽が違うのは、それが九十年代に作られたってことだけさ。そして、本当にいい音楽に歳月は関係ない。いい音楽には、生まれた時から何世代にも受け継がれてきたような古さがあり、何世代も経た後でもたった今生まれたかのような新しさがある。ただ生まれ、永遠に生き続ける。そうは思わないか?」

「思います」と俺は答えた。だからこそ二十一世紀に生きる俺がザ・フーやジミ・ヘンドリックスを聴いて、ウッドストックの熱気を感じられる。

「でも、今この曲をかけたのは、彼女のリクエストだからなんだ」

 マスターはそう言って、カウンターの端をそれとなく示した。奥から二番目の席の彼女は目を閉じていて、頭上から流れる音楽に聴き入っているように見えた。


 しばらくして曲が終わると同時に彼女は立ち上がり、会計をしながらマスターと二言、三言言葉を交わすと、そのまま店を出て行った。俺は腕時計を見た。いつも俺が帰る時間までまだ一時間以上あった。


「珍しいね」とマスターが言った。どうやら俺と同じことを考えているらしかった。「知り合いかい?」

「俺がですか?」

 俺は少し驚いて訊き返した。マスターは黙って頷いた。「いいえ」

 マスターは何も言わずに、彼女が出て行った扉を見た。俺もつられて同じ方を見た。


 日付が変わったころ、俺は帰ろうと席を立ち上がった。いつもと同じ時間だったが、いつもより一杯余計に飲んでいた。会計をしようと財布を出すと、マスターがそれを遮るように言った。

「お代はいらないよ」

「え?」

「さっきの女性が払っていったよ」

「女性って、壁から二番目のあの人? 彼女が俺の分を払った?」

「そうさ」とマスターは言った。「正確に言うと、一杯は私からのおごりになるけどね」

 俺はそれで初めて、マスターが「知り合いか」と尋ねた意味を理解したが、もちろん、彼女からおごられるような覚えはなかった。彼女と言葉を交わしたこともなければ、名前すらも知らないのだ。俺にはさっぱりわけがわからなかった。ただ一つわかったのは、彼女も俺のことを気にかけていたということだった。

「一体何者ですか?」

 俺の大仰な物言いにマスターは笑いながら、「あんたが知っている以上のことは何も知らんよ」と言った。

 俺は腑に落ちないまま、おごってくれたことについてマスターに礼を言った。


「酒くらいしかあげられるものがないからさ」と、扉に向かって歩き始めた俺にマスターが言った。「でも、彼女、あんたに気があるのかもな」

 俺が振り返ると、マスターがにたにたと笑っていた。

「わかってると思いますけど、『隣に女の子がいれば……』って言った、あれ、冗談ですからね?」

「もちろん、わかってるよ」

 マスターは笑みを顔の端々に残しながら言った。

「私には何の関係もないさ」

「どうですかね?」と俺は少し大げさに言った。

「自分で確かめることだね」とマスターは言った。


 別に期待はしていなかったと言いたいところだが、翌晩にバーへ行き、彼女の姿がないことにがっかりしたのは事実だった。

「残念だったね」とマスターは言った。

 そう言った顔に浮かぶ薄ら笑いを見る限り、俺の周囲に起こった新たな状況を少なからず楽しんでいるとしか思えなかった。

「白状するなら今のうちですよ」と俺は言った。「じゃないと、純朴な若者のもろい心を傷つけることになる」

「言っただろう。言いがかりさ」とマスターは言った。


 次の日も、その次の日も彼女は姿を見せなかった。

「もし、私が何かが起こってるように見せかけていて、実際には何も起こってないんだったとしたら、どうして彼女は来ないんだい?」

 確かにマスターの言うとおりだった。だいたいマスターは、しょうもない冗談で人を本気で困らせるような人ではなかった。


 俺は彼女のことが気になっていた。本を読んでいても、食事をしていても、ふとした瞬間に彼女のことを思い出した。一見したときに抱いたぼんやりとした興味には、今ははっきりとした質感があった。それが俺自身の頭の中で少なからず飾り立てられたものであることがわかっていても、俺はそれを振り払うことができなかった。

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