第二章 王を佐ける人々

伏する女、その顔は

 貂蝉は驚いた。それはそれはとても驚いた。本当に驚くしかなかった。何故ならば、王允が籠絡するはずの呂布がこの楼桑村に来ていたからである。貂蝉が劉備達と別れ、翌日に楼桑村を立たなければと色々考えていた時にこれである。非常にまずい事になった。法正はこの事を知らない。既に策の一角が綻び始めている事を伝えなければならない。

「王允殿からの手紙だ。お前に渡して欲しいと言われた」

 貂蝉は庭で呂布と会っていた。洛陽に居た時と同じように、夜に隠れて彼と密会する。それは二人だけの秘密であり、董卓には絶対バレてはならない事である。

「ありがとうございます、奉先様。でも、手紙のためだけに?」

 貂蝉は手紙を受け取り呂布の真意を尋ねる。もちろん手紙のためだけに来る男ではない事くらい知っている。目的はもっと別のところにある。

「いや、私は義父上(董卓)に忠告しに来た。洛陽で袁紹が宦官を大量に殺害し、義父上暗殺を企てている。反董卓連合なんてものも出来ている……洛陽では俺の部下や義父上の軍が抵抗し続けているが……」

「仲穎様の身が危ないのですね。仲穎様には?」

「まだだ。だが、一度洛陽から退くのがいいと俺は思う。受け入れてくれるかはわからんがな。そもそも、義父上は今新しい女と寝室だ。しばらくは話せないだろう」

 新しい女――辛憲英の事だろう。劉備達と作戦決行のため別れた後、貂蝉は辛憲英を董卓へ紹介した。忙しい董卓のために周囲を世話する下女――として。もちろん董卓の事、彼女を見ればそんな事だけで傍に置くはずがない。すぐに憲英とお茶をし、あの手この手で彼女の機嫌を取ればすぐに寝室へ連れて行ってしまった。貂蝉からしたら今が暗殺出来る最高の機会だと思う。

 貂蝉は劉備が危険になろうがどうでもいいと思っている。かといって彼が死ぬ事は臨んでいない。董卓さえ殺せば劉備も貂蝉も楽になるのに、それをしない劉備に違和感しか残らなかった。そして法正も、劉備に従っている。何の力を持たぬ子供に。それが不思議で堪らない。いっそ今、狙ってみようか――いや、こんなところで策を乱してはダメだ。貂蝉は自分に言い聞かせた。

「奉先様は仲穎様の事、どうお思いですか?」

「何だ、いきなり」

「何となくです。どう思ってらっしゃいますか?」

 そうだな、と呂布は腕を組み斜め上を眺めた。彼の考える癖である。そしてすぐに視線を貂蝉へ戻し言葉を低音の声色に乗せる。

「私は……義父上の蛮行は少々やり過ぎではないかと思う。身内に高い爵位を与えて重用したり、皇帝専用の馬車で乗り回したり――と他にも色々あったな。周囲もついに耐えきれなくなったのだろう。詮無きことだと私は思う」

「……では奉先様も仲穎様を――」

 少し顔を綻ばせた。あの呂奉先が味方になってくれるのならこれ以上に頼もしい事はない。天下無双の呂奉先。人中の呂布、馬中の赤兎と言われるくらいの男。この天下、武だけなら呂布に敵う者はおるまい。だが呂布は貂蝉の希望とは反対の事を告げた。

「いや、私は義父上を裏切らぬ。……今後どうなるかはわからないが、今はまだ義父上をお守りする。貂蝉、私はお前の考えている事が手に取るようにわかるぞ」

 はっと顔を強ばらせた。だが呂布は優しげな笑みを漂わせて貂蝉を抱き締める。そのぬくもりは酷く貂蝉を安心させたのだ。彼の男らしい匂いも、服から漂う彼の残り香も何もかもが貂蝉を抱いた。

「貂蝉――私はお前を手伝ってやる事は、今は出来ない。だが、お前を守る事は出来る。王允殿の手紙に記されている事は洛陽へ向かえという指示だ。そこには曹孟徳(曹操)殿が待っている。お前を保護してくれるそうだ」

 そして曹操と共に反董卓連合として知恵を振るえという事だろう。確かに曹操達と合流し情報を与えれば確実に勝てる可能性は高まる。しかし、董卓を殺さずして失脚させるという目的は達成する事が出来なくなるだろう。そうなればこちらの策がバレる可能性がある。曹操と合流しても勝てるとは限らない。失敗する可能性だってあるのだ。そして曹操へ導くという事は王允から事の次第は聞いているのだろう。それでも呂布は断った――つまり王允は呂布の籠絡に成功はしていないという事か。貂蝉は少し考えた後、呂布から離れた。

「ありがとうございます、奉先様。でも私、義父に恩返ししたいのです。ですから、奉先様は細君とご息女を守るために戦ってくださいませ」

「貂蝉、わかっているだろう。私はお前を守りたい」

「私も同じ気持ちです、奉先様。だからこそ私は……孟徳殿の下にも、あなたの保護も受け入れられません。私、こう見えて強い女なのですよ」

 呂布は少々不安げに顔を歪めた後、わかったと頷いた。そして貂蝉の右手を取りその甲に口付けを落とす。必ず、必ずお前が幸せに暮らせる天下にしてみせる――と宣言し、彼は貂蝉の横を通り過ぎて行く。貂蝉はその後ろ姿を眺めながら一人呟いた。

「……困難なあなたの道に幸あらん事を」

 呂布の道は辛く険しい。貂蝉はその道を理解しながら彼を止める事が出来なかった。全ては彼のため、そして天下のため。呂布の背中が消えた事を確認すると貂蝉は一先ず再び法正に会うために劉備の家へ向かった。

 その様子を誰かが見ているとは知らず。


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