全てを踏み潰す

■■■■


 ――楼桑村、甘家。

 董卓の婚約者、甘梅は一人憂慮な表情を漂わせていた。その瞳に宿るのは己の事、甘家の事ではない。知ってはならない真実を知ってしまったからである。

「甘梅」

 己の室内に入ってきたのは白くなった髭を蓄えた甘家の当主・奉考だ。甘梅の祖父である。彼は甘梅を見ては申し訳なさそうな表情を漂わせ、歩み寄ってきた。やせ細った身体、骨しかない彼の体躯は董卓と正反対だ。

「おじいさま、私は大丈夫です。必ず甘家の名を轟かせてみせます。仲穎(董卓)様のお力を頂ければ甘家がのし上がる事も可能です。そのための婚約なのですから」

 董卓と婚約したのは甘家のため。彼を愛している訳ではない。二回り以上も歳の離れた相手と結婚する事に誰もが反対した。父も母もきょうだい達も。だが自分が辛酸を舐めれば、耐えれば、甘家は董卓の名声と力を使って朝廷へ入り込む事が出来る。卑しいと言われようと、どれだけ貶されようと、買官と罵られようとも朝廷に入り込んだ者が勝利を得るのだ。そのためならば董卓の妻にもなるし、彼の子でも何でも孕んでみせる。

「しかし、お前の母と父は……」

「それも詮無きこと。父母が殺されたのは残念ですが、父母などまた作ればいいのです。おじいさまが臨まれるのなら仲穎様に頼んで、養子を頂きましょう」

「……甘梅、嫌なら断ってもいい。わしはお前を悲しませたくはないのだ」

 甘梅と董卓の婚約を決めたのは目の前の奉考だ。甘家は、奉考は甘家の雄飛を願っていた。たまたまこの村に訪れた董卓が官吏で、官吏なら誰でもよかった奉考は提案したのだ。女好きである董卓に孫はどうかと。幸い甘梅の容姿は悪くはなかったし、董卓にも気に入られた。

 だが甘梅は董卓の愛妾・貂蝉が気がかりだった。

 彼女は何か大きな事を抱えている――人間離れした、彼女の雰囲気が甘梅は苦手だ。そしてそれは今でも変わらない。

「おじいさま、今更な事です。私はもう仲穎様の妻になります。甘家が羽ばたけるようお手伝いを出来るのなら、私はこんな嬉しい事ありません」

 奉考は何度も謝罪を繰り返しては小さく涙を流した。その涙が虚構のものであると甘梅は知っている。己のために息子である父すら董卓へ捧げる事が出来る男だ。だから甘梅は奉考が嫌いだった。甘家が朝廷に入り込み、董卓が天下を取った暁には、奉考を始末する。董卓に頼んで殺して貰う。甘梅はそれだけを目的に動いている。

「ところで、何か用事があったのではないのでは?」

「お、おお、そうだった。お前に会わせたい人がいるのだ」

 誰だろうか、会わせたい人だなんて。甘梅は椅子に腰掛けて女中に茶を用意するよう頼み、女中は出て行く。奉考が部屋を出てその人物を呼びに向かったため甘梅は待った。そして奉考と共に入ってきたのは黒髪の偉丈夫だった。彼は拱手し軽く頭を下げる。

「初めまして、甘梅殿。私は呂布と申す者。字は奉先。董仲穎と親子の契りを結んだ男だ。あなたとは母と子の関係になるだろう。よろしく頼む」

 大きな背丈、獣のような鋭利に研ぎ澄まされた瞳、力強く鍛えられた体躯。彼が武官である事はすぐにわかった。中々に端正な男である。胸が高鳴ったのはきっと勘違いだ。甘梅は呂布へ簡単な挨拶を済まし、腰掛けるよう促すが呂布は首を左右に振って断った。

「こっちに貂蝉が来ているはずだ。何処にいる?」

「貂蝉殿なら、先ほど外へ出て行かれたわ。……何か用事で?」

「うむ。私は王允殿から貂蝉への手紙を預かってきたのだ。離れて随分と経つ。養女とはいえ娘が仲穎殿の下でしっかりやれているか、気になるのだろう」

 ――貂蝉。その名前に甘梅は少し喉が詰まった。何せ真実を知ってしまったからである。言おうか言うまいか、どうしたものか。奉考に伝えれば貂蝉がどうなるかわからない。甘梅は、女中に呼ばれ部屋を出て行く奉考の背中を見つめながら思案する。

「甘梅殿、如何なされた」

「奉先殿、あなたを信じていいかしら。私は今、伝えなくてはならない事を伝えるか悩んでいるの。それはとても、とても、重要な事。ですが、誰に伝えればいいかわからないのよ」

 自分を抱くような立ち姿をする甘梅に呂布はもちろんだと頷いた。それを信じてみよう、呂布なら何とか出来るはずだ。董卓の息子である彼なら大丈夫だ――。

「実は――」

 甘梅は全てを話した。真実を、全て。それを聞いた呂布の瞳が大きく開かれ、鋭利な瞳が野性味を帯びて、更に獰猛な肉食獣のような雰囲気を醸し出されたのは言うまでもなかった。甘梅はそんな呂布に少し怯えた。恐怖した。

「――そうか、わかった。義父上(董卓)には伝えるな。事を静かに収めたいからな。私が全て終わらしてみせる。義父上の手を煩わせるまでもない」

 甘梅殿はいつも通り振舞っていてくれ。そう伝えた呂布は甘梅に背を向けて出て行く。ああ、これで良かったのだと甘梅は安堵した。これで何もかもが救われる。

 だが甘梅は気付かなかった。

 背を向けた呂布の顔は、悪鬼そのものだという事に。

 これが全ての始まり、悲劇の、絶望への始まりだった。誰もが気付く事はなく、ゆっくりと進んでいく。絶望の足跡すら気付く事が出来ずに。



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