第4話
次の日から、調教はベテラン騎手が乗ることになった。
年はうちの番頭より少し下で、先生の弟弟子でもある。この人ならゴーヘーを預けても大丈夫だろう。
先生も俺も、そこの考えは一致していた。
とにかく能力試験に持っていくことがとりあえずの目標。
この人ならやってくれるはずだ。
調教に出て2時間後。
だいたい予定通りでゴーヘーは戻ってきた。
引き綱を持って出迎えると、騎手は珍しく汗だくだ。
ゴーヘーも相当に怒ってる様子。相当やっつけられたんだろう。
「いやあ元気があっていいねぇ。久しぶりに若い頃を思い出したよぉ」
ベテラン騎手は妙に笑顔を作って俺に言う。
相当暴れたんでしょうと聞くと、彼はうんうんと頷きながら続ける。
「このくらい元気ないと将来に楽しみがないからねぇ。背中の感じは重賞クラスだ。がんばって作って行こうなぁ」
ゴーヘーが褒められて、こっちも嬉しくなる。
番頭も先生も今までで一番と口を揃えてたし、騎手からもこう言ってもらえたらやっぱ嬉しいもんだ。
思わず、引き綱を持つ手に力が入る。
お疲れさん。やっつけられて悔しかったかい?
こんなことを言いながら洗い場へとゴーヘーを連れて行く。
その後ろを、同僚がついてくる。
もし俺になにかあってもすぐ取り押さえられるように。
洗い場にゴーヘーをつないでシャワーを使う。
こうしてるとどこにでもいる馬なんだけどなぁ。
お前なんで暴れるのよ。
俺にはちっとも悪さしないのになあ。
後ろでは同僚が作業しながらこっちに目を配る。
まだ未出走のゴーヘーには十分すぎる待遇。
暴れるから仕方ないんだろうけど、同じ待遇もらうにはうんと強くならなきゃいかんのだぞ。
ゴーヘー、わかってんのか?
こう言いながらシャワーを顔にかけると、ゴーヘーは目を細めて口を開ける。
まるでうまいからもっと飲みたいって言ってるみたいだ。
午後の仕事が終わった大仲。
みんな集まって競馬中継を見てる。
うちからの出走はないけれど、誰がどのレースで勝った負けたは把握しておかなくちゃいけない。
次に自分の馬と当たることもあるから、なおさらだ。
俺がコーヒーをいれようとと席を立とうとした途端。
テレビの中で一頭の馬がもんどり打って倒れ込んだ。
騎手が投げ出されてる。
故障発生はたとえ自分に関係がなくても嫌なもので、みんな黙り込んでしまう。
俺はというと、中腰のまま画面の騎手から目が離せないでいた。
落馬したのは、ゴーヘーに稽古をつけてくれるベテラン騎手だったから……。
その日のうちに連絡が来た。
ベテラン騎手は骨折で2ヶ月は乗れないらしい。
この報せで先生も番頭も頭抱えたことは言うまでもない。
俺も当然ガックリ来た。
これから調教どうするんだろう。
俺が心配することではないのだけどね。
俺がやるのは、誰が乗ってもいいようにゴーヘーを世話すること。
ただ、そこまでに至ってないから心配になるだけでね。
夕飼いをつけて大仲に戻ると、番頭が悲壮な顔つきで「明日から俺が乗る」なんて言い出す。
「稽古もつけられんで何が調教師補佐だ。明日から俺が乗る。多少の怪我は覚悟の上だ!」
番頭に怪我でもされたら厩舎が回らないのはみな承知してるので、全力で止めにかかる。
横でスマホの通知に気づいた先生が画面を見て、苦笑いしながら番頭に言う。
「まあまあ、仕事熱心なのはわかってるが、ここは俺に任せてくれないか」
「先生が乗るんですか?それこそ無理はさせられないじゃないですか!」
番頭が気色ばんで先生に突っかかる。ゴーヘーのことでこんなに熱くなるんだなぁ……。
普段は割とクールなのにな。
「いやいや、俺が乗るんじゃないよ。ちょっとしたツテに頼るだけさ」
先生、ニッコリと笑って出て行った。
次の日の始業前。
「おはようございまーす!」と大きな声が響く。
声の主は最近減量が取れたばかりの若手騎手。
早速俺を見つけると近寄ってきた。
「先生からゴーヘーの調教を頼まれました。馬装つけるの手伝っていいですか?」
返事をする間もなく、俺から調教ラグを奪い取るように掴んでゴーヘーの馬房に近づく。
こいつ暴れるからな。あんま簡単に近寄んなよ。
こう声を掛けたが、彼はゴーヘーに近寄り、拳を鼻先に差し出す。
「今日から乗るよ。頼むね」
そう声をかけてる。
俺はゴーヘーが今にも噛みつきに来るんじゃないかと思って、急いで騎手の側に寄った。
噛まれて怪我でもされたらシャレにならん。
……ところが。
ゴーヘーは拳の匂いを嗅ぐと、後は大人しくしてる。
俺以外にこういうところを見せるのはたぶん初めて。
てっきり大暴れしてくれるかと思ってたので、逆に拍子抜けしたぐらいだ。
「俺が来る前に来てたか。さすが」
声に振り返ると、先生がニコニコしながら立ってる。
「もしかしたらこのアンチャンがゴーヘーに合うんじゃないかって、所属の先生に頼んだのよ」
それでOKもらえたんですね。
「ああ、好きにこき使ってやれってさ」
こう言って先生は笑う。
でも、どうしてゴーヘーに合うってわかったんで?
こう聞くと、先生は俺の顔を見て続ける。
「あのアンチャン、雰囲気がキミに似てるんだ。だからなんとなくだな」
そんなもんなんですか……。
俺が先生と話をしてるうちに、騎手が馬装をほとんどつけ終わってる。
俺はゴーヘーの側に寄り、頭絡をつけてハミを噛ませる。
そうしながら「アンチャンだからあんまり暴れたりすんなよ」とゴーヘーに言う。
ハミを口に入れたゴーヘーはうんうんと頷いた。
馬房で騎手を乗せてから曳き運動に出る。
ゴーヘーは大人しくしたまま。
これなら行けるかなとは思ったが、念の為だ。
何しでかすかわからんから気をつけて。願います。
鞍上にこう言ってから引き綱を離す。
ゴーヘーたちはゆっくりと馬場に向かって行った。
予定より少し遅れて、ゴーヘーは帰ってきた。
「乗りやすいですねぇ。全然悪さしなかったですよー」
騎手はそう言って顔をほころばせてる。
ゴーヘーはと見れば、怒った様子は見せてない。
うちで一番の暴れん坊なのに、おかしいねぇ。
そんなことを言いながら引き綱をつける。
どうやら、先生の見立ては間違ってないらしい。
「本番でも乗れるように、先生にお願いしなくちゃですよー」
騎手はいかにも嬉しそうな顔で続ける。まるで宝物を見つけた子供みたいだ。
乗ってくれるのはありがたいが、本番でかぶって乗れませんじゃ困るよと俺も返す。
「大丈夫です。この仔だったらこっちが予定空けますから」
こんな嬉しいことを残して、騎手は大仲へ入って行った。
ヤネも決まりそうだし、良かったな。
ゴーヘーに声を掛けながら洗い場へ向かう。
ゴーヘーも大人しくしてる。
8月の朝はもうすでに暑い。少しバテ気味かもしれん。
これで能力試験に持って行けるかな。うまいこと行くといいんだけど。
そんなことを考えながら、ゴーヘーを洗い場へつないだ。
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