第10話 敦盛と忠度
笛の名手として知られ、家伝の名笛『
彼もまた海上に逃れるべく、岸辺へ向かっていた。
「なぜだ、我らは勝っていたはずではないか」
後ろ髪を引かれながら海岸へ向かう敦盛は、郎党からも離れ一人になっている。
そのきらびやかな甲冑はいやでも人目をひいた。
「敵に背を向けているのは、どこの卑怯者ぞ!」
背後から大声で呼びかけられた彼は、その若く端正な顔を歪めた。
振り向くと一騎の武者が彼を追って来ている。九郎と共に一ノ谷への逆落としを決行した
もう一度海上に目をやる。迎えの船はこちらへ向かっているが、これは間に合いそうになかった。
敦盛は馬を返した。
十六になったばかりの彼は、これが初めての実戦だった。もとより武芸の
だが、彼もまた武家の子だった。卑怯者と呼ばれ、それでも逃げるわけにはいかなかった。
この恥辱を
黄金造りの太刀を抜き、その源氏武者に突進する敦盛。だが歴戦の直実に敵うはずもなかった。馬同士が激突した瞬間に彼は落馬していた。
直実は素早く馬を降り、転倒した敦盛にのし掛かった。
彼の首許に太刀を突きつける。
その手が止まった。
(これは我が子、小次郎と同年代ではないか。それに何と美しい……)
彼の顔を見た直実から殺意が消えた。
「名を、聞かせてもらえませぬか」
直実の言葉に、敦盛はふっと笑った。すでに命への執着を捨てた者の、静かな笑みだった。
「人に名を問うのなら、自ら名乗るべきであろう」
敦盛の毅然とした態度に、直実は素直に詫びた。
「鎌倉殿の軍において、物の数に入るものではござらぬが。武蔵国の住人、熊谷次郎直実と申す」
「そうか」
敦盛はすでに興味を失った声で言った。彼にしても、もののはずみで訊いただけだ。板東武者の名など知るはずも無かった。
「では、疾く首を取るがいい。人に問えば、すぐに身元は知れよう」
直実は手が震えた。
我が子のような、この若武者を殺したくないと思った。
「船が、……船が参ります」
直実は海上を見て、言った。もう間もなくこの海岸に着くだろう。
「あれに、お乗りください」
そうすれば、この若者は救われるのだ。
だが、その船は目前で方向を変えた。また沖に向かい漕ぎ始めた。
「なぜだ、なぜ戻っていく」
直実は山側を振り返った。
「梶原……平三かっ」
梶原景時率いる源氏の一団がこちらへ向かっていた。平家の船は、それを見て引き返したのだ。
「もうよい、そなたの厚情には感謝する。疾く、首を」
これ以上、辱めを受ける訳にはいかぬ。そう言って目を閉じた。
直実は太刀を握った手に、力を込めた。
この敦盛という武将は、織田信長が好んだ謡曲『敦盛』でその名を知られる。
あの、「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり」という有名な文句であるが、これは決して敦盛自身について唄ったものではない。
彼は五十年どころか、わずか十六才でこの世を去った。これは彼を討ち、その後出家した熊谷次郎直実の慨嘆であると云われる。
☆
同じく、この西側の防衛を任されていたのは薩摩守
(まったく、主人を置いて逃げるとは。困った郎党どもだ)
「仕方がないか。彼方此方から掻き集めた者共ばかりだからな」
自嘲とも諧謔ともつかぬ口調で呟いた。
「おい、そこの者」
声を掛けられた忠度は、振り向き眉をひそめた。
おそらく東国の者だろう。いかにも野卑な顔つきの男が騎馬で駆け寄ってくる。
「お主は、敵か、味方か」
その男は大声で呼びかける。
敵か、味方か、だと?
戦場でこんな馬鹿な問いを発する奴がいるとは。忠度は苦笑するしかなかった。
「ああ、味方だ」
そう言ってやった。
「貴様、それは歯黒というものであろう。わしを騙そうとしてもそうは行かんぞ」
忠度の顔をのぞき込んで男は得意げに叫んだ。
「さては怖じ気づいたな」
やれやれ、と忠度は肩をすくめた。こんな馬鹿を相手にしたくはないのだが。
男は太刀を振りかざし忠度に迫った。
その切っ先を軽々と
よろめく男の顔に拳を叩きつける。
男は簡単に落馬した。
「ま、待て……まだ終わっておらぬ」
顔中血まみれの男は這いずりながら、去り行く忠度を呼び止めようとする。
しつこい。忠度は言いしれぬ不快感を覚えた。
だから武家は嫌なのだ。
忠度は馬を下りた。鎧通しを抜き、止めをさそうとする。だが、その男が暴れて手こずっているうちに、男の郎党が駆け寄って来た。
忠度は舌打ちをして、その男を突き放そうとした。
しかし、彼の右腕は男に掴まれていたのだ。
奇声をあげて、その郎党が太刀を振り下ろす。
「がっ!」
右肘から忠度の腕は切断され、鮮血が
さらに斬りかかろうとするその男を蹴り飛ばし、忠度はうずくまった。
迂闊だったな、俺としたことが。
彼は薄れ行く意識のなかで思った。
これは、左手で文字を書く練習をせねばならんではないか。
あの女に、手紙や歌を送らねばならぬのに。この様では、難儀な事だ……。
忠度は、京に残した恋人の事を思い、微かに笑みを浮かべた。
『行き暮れて
これが、薩摩守 平忠度の辞世となった。
作者註:平家物語「敦盛」「忠度最後」より
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