第8話 鵯越(ひよどりごえ)

 京の都で、木曾と鎌倉の源氏が争っているころ。


 平氏はその勢力を劇的に回復させつつあった。

 一旦は九州の太宰府まで後退した平家だったが、その本拠を下関に定めてからは破竹の逆襲を続けていた。

 瀬戸内沿いの豪族たちは先を争うようにその軍門に降った。


 元々、平家びいきの土地柄でもある。

 例えて言えば、今でこそ、その威容を誇る厳島神社であるが、平清盛の寄進を受けるまでは、ただの地方社でしかなかった。

 それが現在では、背景の弥山を含め荘厳な佇まいを持つに至る。

 清盛がこの地域に与えた恩恵は計り知れないのだ。


 まさに西国は平家によって成り立っていた。


 ☆


「是非とも、私に平家追討をお命じください」

 九郎は朝廷にあがり、後白河法皇にひれ伏していた。


 後に頼朝によって『大天狗』と評されるこの法体ほったいの男は、嘲笑をかみ殺すのに必死だった。

 なんと容易いのだ、この田舎者は、と。


「どうしようかのぉ」

 そう言って、少し焦らすだけで、この少年のような武将は泣きそうな顔でこちらを見上げている。

「ほっ、ほっ。それを頼朝は許しておるのか。んん?」

 わざと、知り尽くしていることを問うてみる。


「それは、まだ命令はありませんが」

 ひたすら身を縮める源氏の御曹司とやらを見て悦に入る。

 木曾義仲には、何度も何度も無礼を働かれ、まさに煮え湯を飲まされ続けていたのだ。その腹いせの意味もあった。武士など、そうやってひれ伏していればいいのだと思っていた。


「ですから、法皇さまのお力で……」

 九郎も普段の傍若無人さを完全に失っている。というよりも、この後白河という男に完全に気圧されていたのだ。


「では、このわしに忠誠を誓うか」

 その男は言った。

 つまり、鎌倉を裏切ることが出来るか、と訊いたのだ。

 九郎は沈黙した。


「なんじゃ、出来ぬのか。その程度の覚悟でよくもまあ……」

 後白河は得意げな顔を、急にこわばらせた。

 九郎の後ろに控えていた、小姓のような男が立ち上がったからだ。

「何だ、貴様。控えぬか」


 その男は、左右の者が制止するのも聞かず法皇の前に進んだ。

 そのまま胸ぐらを掴むと、ぐい、と引き寄せた。

 後白河は自分の勘違いに気付いた。

 それは男ではなかった。


「陸奧守 藤原秀衡の娘、しずかと申します」

 彼女は氷のような目付きで、唇の端を少しだけ上げて挨拶した。


「今ここで命令を下さるのか、それとも、この先二度と命令が出来なくなるのか、どちらをお選びになりますか。法皇さま」

 そうして、彼女はニヤッと笑った。

「あまり武家を甘く見ない方がよろしいですよ」


 すでに呼吸が出来なくなっていた後白河は、彼女の腕を手のひらで叩いた。

 今でいうタップ。ギブアップである。

「許す。みなもとの九郎、義経よ。平家を討て」

 脂汗を流し、苦しい息のなかで後白河法皇は九郎に命じた。


(おのれ。奥州の兵力を背にしておらねば、あんな小娘など)

 後白河は血が滲むほど唇をかんだ。


 ☆


 後白河法皇が返答を先延ばししていたのは、嫌がらせの意味だけではなかった。

 勢力を増してきた平家軍。その数、10万とも言う。

 対して、鎌倉軍は1万に満たなかったからだ。


 しかも、総大将というのはあの見るからに愚人という範頼のりよりである。下手に院宣を出して、平家相手に大敗でもされた日には目も当てられぬ。そう考えるのも当然だった。


「その命令は、鎌倉軍に向けて出されたものか。それとも九郎どの個人に出されたものか、どっちだ」

 皮肉げに言うのは梶原景時だ。

 目立ちたいなら一人で行けばよい、そう言わんばかりだ。


「よかろう、わしは一人でも行く。わしと共に行きたいものは一緒に来るがいい。ここで手を束ね、成り行きを見ていたい者は……」

 九郎は、かっ、と目を見開いた。

「この梶原どのと残るがいい」


 大勢は決した。


 ☆


 平家は海岸に沿って陣を敷いている。


 京に面する東側の生田の森を大手門とし、西は搦め手の一ノ谷まで続いた。

 六甲山脈を背に、瀬戸内海をほりに見立てた、全長10数キロメートルに及ぶ巨大な城郭と言ってもいい。


 この当時、街道は海沿いにしか無く、海に迫る山沿いの隘路を通るしか平家軍へ至ることは出来ないと考えられた。

 ましてや、源氏は軍船を一艘も持っていないのだ。

 平家の巨大船が海面を埋め尽くす瀬戸内海側から攻撃する事など、全く不可能だった。


 ☆


「山側から攻め込みたい」

 九郎の言葉を聞いた閑と弁慶は耳を疑った。集まっているのは、平泉から来た側近ばかりだった。結局また、九郎たちは別行動を取ることになったのだ。


「できるなら、最後方の一ノ谷あたりがいい」

 九郎は地図を見詰めながら、その最も西方を指さす。


「九郎さま、……おそれながら絵図の見方はご存知でしょうか」

 弁慶は目の前が暗くなる思いだった。何を無茶な事を言っているのだと。この周りは皆、急峻な崖ですけど。

「見方? おう、これは逆さまだったのか」

 何度も絵図面をひっくり返している。


「いや、そういう意味ではありませんが」

 弁慶は助けを求めるように閑を見た。

「面白い。それは面白いではないか、九郎どの」

「え」

 弾んだ声で同意する彼女に、弁慶は絶望の一歩先に追い込まれた。この姫が言い出したら誰も止められない。もう、お終いだ。


 やがて一人の男が連れてこられた。多田行綱ただゆきつなという、この付近を領地とする男だった。九郎は行綱に絵図面を見せ、詳しく説明を求めた。

「それで一体、何をなさるつもりなのです」

「もちろん平家軍の後方を襲うのだ」


 そんな無茶な、と言っていた行綱だったが、最後は閑の無言の迫力に負けた。


鵯越ひよどりごえを通れば、一ノ谷の真上に出ます」

 虚ろな目で、彼は言った。

「ですが、道など有りませんよ。けもの道ならありますが」


 ほう。九郎は楽しそうに言った。そうか獣は通るのか、と。

「それは熊とか鹿ですよ、勿論」

 行綱の言葉に、うん、うん。となぜか九郎は頷く。


「鹿も獣なら、馬も獣であろう。同じ獣なら通れぬ訳がない」

 それなら、こいつは馬鹿なのか。行綱と弁慶は同時に思った。


「行くぞ、鵯越へ」

 九郎は宣言した。そして小さく、付け加えた。


 梶原には内緒だけどもな。



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