第2話 頼朝のもとへ

「まさかあの源三位さまが、と、最初は信じられませんでした」

 弁慶は、ぽつりと言った。


 京の都で反乱を起こしたという、その男。

 名を源三位頼政げんざんみよりまさという。


 三位というのは朝廷内での位階のことで、決して低くはないが、もちろん平氏一門とは比べようもない。

 まあ、そこそこ高位、といったところだろう。


 頼政といえば、ぬえ退治で有名だった。

 夜な夜な宮廷を騒がす鵺という妖怪を弓で射落としたのだ。


 頼政は武人としてはもとより、和歌にも造詣が深く、その道でもよく知られていた。自分の境遇を嘆くことばを織り込んだ歌を詠み、見事、昇進につなげたという話もある程だ。


 ちなみに鵺とは、頭は猿、手足は虎、尻尾は蛇という異形の代物である。正体のよく分からないモノの例えにも使われる。


 この鵺を退治したのが、武家でもあり公家でもあるという頼政ぬえなのだから、なにかそこに象徴的なものを感じさせなくも無い。


 彼は源氏でありながら、平氏が支配する朝廷の中を実に上手く泳ぎ渡っている、といった風に聞いていた。もう現状に満足しているだけの老人だと。


 それが、平氏に叛旗を翻すとは。

 噂とは、当てにならないものだ。弁慶は痛感した。


 皇族の以仁王もちひとおうという方を担いで挙兵したのだが、結局破れて命を落としている。

 だが、平氏に対する反乱の動きは、この頼政の蒔いた火種が、大きく拡がったといって間違いない。


 ☆


「さすが弁慶さま、お詳しいのですね」

「いや、これは皆ただの噂話です。どこまで信じて良いのやら……」


 かつて比叡山で暮らし、京の事情に通じている弁慶の話を、しずかは興味深そうに聞いていた。目がキラキラしている。

 彼女にも京への憧れは強くあるらしい。


「おい、こら弁慶。しゃべくってないで、この縄をほどかんかっ」


 庭の大木に縛り付けられたまま、九郎が喚いている。

 性懲りもなく、再び脱走を図り閑に捕まったのだった。


「あら。どこかで季節外れのセミが鳴いているようですわ。おほほ」

 明るく笑う彼女に、は、はは。と弁慶は追従笑いを返す。


 ☆


「奥州十七万騎というではないですか」

 九郎がこの館の主、そして全奥州を統べる陸奧守むつのかみ藤原秀衡ふじわらのひでひらに詰め寄っている。


 弁慶はそれを何とか押し留めようとしていた。

「お止め下さい。これ以上は失礼に当ります」

「うるさい。今日こそは、はっきり言わせてもらう」


「おれに、兵を貸してくれっ」

 九郎は叫んだ。

「十万とは言わぬ。それこそ千でもいい。頼む秀衡どの」

 九郎はその老人を睨み付けた。


 普段は、周囲に春風が吹いているような雰囲気の秀衡だが、この時ばかりは様子が違う。まさに奥州の国主の顔になっていた。

 秀衡の心情としては、この若者のためなら奥州の全兵力を出しても決して惜しくはなかった。

 だが。


「むざむざ、九郎どのを死地に追いやることはできぬ」

 秀衡は、頑として首を縦に振らなかった。

 全てにおいて、九郎、そして関東の源頼朝は未知数であり過ぎた。


 それに、と秀衡は少し肩をおとした。

「奥州十七万騎というが、それは馬だけの話だ」


 秀衡の言葉に、分からない、という顔の九郎。それは弁慶も同じだった。それこそ、京にいる時から伝説のように聞かされてきたのだから。


「奥州は広い。とてつもない広さだ」

 秀衡は両手を横に拡げて言った。そして、手を下ろすと小さく拳を握った。

「だが、人はあまりに少ない」


 弁慶はその瞬間、秀衡の苦悩を理解した。

 守るべき広大な土地に比べ、なんと人の少ないことか。急速に開墾を進めて来たものの寒冷な気候が災いし、到底、関東や京畿ほどの人口を養うには至らない。

 陸奥みちのくの太守は固く目を閉じた。


「九郎の殿。ここでわしや閑と暮らさぬか」


 懇願するような秀衡の表情に、弁慶も胸を打たれた。

 ああ。それは何て幸せな将来図であるだろう。だが、九郎の顔を見た瞬間、それは儚い夢と気付かされた。


「わしは、一人でも兄の元へ行く」

 弁慶はため息をついた。


 この方は自分の思いが強すぎて、他人の想いを汲み取ることができないのだろう。だから、これからも、こうして事ある毎に誰かを傷つけて行くのではないか。

 だがそれが、良くも悪くも、源九郎義経という男なのだ。


 ☆


「その頼朝さまは、九郎どのの異母兄弟という事になるのですか」

 しずかが小刀で細長い木を削りながら問いかけた。どうやら新しい木刀を作っているところのようだ。


「ああ。熱田神宮の宮司の娘が、その母だと聞いたが」

 九郎は思い出しながら答える。他に範頼のりよりという兄もいた筈だ。これもまた母親が違う。


「実は、わしも三兄弟なのだぞ」

 母は、常磐ときわという評判の美人だった。ただし、身分がそれほど高くなかったため、正妻にはなれなかったらしい。


「幼名は、わしが牛若うしわかで、長兄は馬若うまわか、次兄は鹿若しかわかだ」


「それ、絶対嘘ですよね」

 閑は唇を尖らせた。

「なぜ分かったのだ」

 馬鹿にするにも程があるからだ。


「ところで、九郎どの。何か話があるのでは?」

 そう言いながら、すでに秀衡から聞いているのだろう。閑の表情に諦めの色が濃い。

「ああ。わしは、兄の所へゆく。秀衡の殿にも許しを貰った」


 彼女は、色が無くなるほど強く唇をかみしめた。

「……必ず、帰って来て」


 あ? と九郎は閑の顔を見た。

 初めてみる少女の顔が、目の前にあった。

「閑。お前、泣いているのか」


「必ずここへ帰って来いと言っているのだ。……誓え!」

 閑は涙で濡れた顔を逸らすこと無く、もう一度言った。

 九郎は、ふっと笑った。

「わしは、平家との戦いで死ぬだろう。もう、ここへは帰らぬ」

 そう言うと、九郎は颯爽と立ち上がった。


 ☆


 悲鳴を聞いて駆けつけた弁慶は、折れた木刀らしき物を持った閑と廊下で出くわし、思わず道をあけて平伏した。


「弁慶どの。お体には気をつけて下さいね」

 彼女は涙の跡が残る頬をこすると、かすかに笑った。


 へへーっ、と思わず奇声をあげてしまった弁慶だった。


 だが、九郎どのは動ける状態なのだろうか。

 絶望的に、不安に駆られた弁慶だった。

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