メキシカン・スタンドオフ

鈴界リコ

第1話

 卑劣なヒロヒトが真珠湾を襲撃してはや半年。未だティファナは徹底的に低俗で、てんやわんやだった。国境を越え、くそったれな車へ燃料をねじ込もうとスタンドへ滑り込めば、近寄ってきたチビが睫を瞬かせ、賢しく誘う。「ぼくの姉さんを買わない? 14歳で、処女だよ」。おののく俺が大声で追い払う前に、ジャンピング・ジャックが運転席から疎ましげに唸った。「あっちへ行きな、ちび。こいつはインポだ」。冷たい突き放しに、古びて不潔なシャツ姿の少年は、憂い顔でうなだれる。

 姉妹を娼婦に仕立て金を稼がなければ、親に追い出される純粋なジャリタレ。余りにも哀れだ。俺は汚れた横顔を呼び止め、汗で悪臭を放つ上着の隠しから掻き出した一ドル札でいざなった。

「この数日、深緑色のランシアに乗った白人の男が通りかからなかったか。金髪で背が高い」

「お兄さん、ホモなの」

「違う、人探しだよ」

「グリンゴ(よそ者)、どうしてみんな白人ばかり欲しがる」

 汗ばむ頭から麦藁帽をむしり取り、少年はしょんぼり呻吟した。

「この国の女の子、可愛い。僕の姉さん、村一番の美人だよ」

「分かってるさ。じゃあ、この辺りで一番清潔で、フェラチオの上手い女がいる店はどこだ?」


 少年が示した進路から思考するに、目的地はここから遙か離れているらしい。もったりモスグリーン色をしたエアフローのエンジンが詠じ、ジャンプは舞い上がる砂にまみれた唇から粒を摘み取った。

「あの坊主、フェラチオの意味が分かったのかな」

 お口のお遊びがお好みなのはチャーリー・チャップリンだけじゃない。けったいな潔癖性や、救いようのない好き者。どちらに転んでも姑息だと言うのに、二つを兼ねたら語るに及ばず。マーク・リドリーは正真正銘の痴れ者だった。


 けれど二十世紀フォックスで苦りきるダーティなダリル・F・ザナックは、そう認識していなかった。タイロン・パワーの対抗馬をうかうか失いたくはない。ハリウッド一のハンサム、大したタイロンは切ない正義感に急き立てられ、勝手に海兵隊へ駆け込んだ。益荒男マークも、お上のお膳立てで立派に陸軍へ入る話がついている。

 元気なタイロンがゲイであってはならないように、男根の象徴マークが脱走兵であってはならない。


 撮影所の撮影助手へとくと問いただしたところ、手の掛かる坊やはティファナの周辺事情についてしつこく質問していたらしい。2、3日以内に逃げた二枚目へ追いつかないと、入営に遅れてしまう。映画界の偉いさん、残虐極まりないザナックが恐慌を来し、キンキンとうるさく訴える様なら、昨日のことのように記憶している。

「分かったかキルケア、あの阿呆を連れ戻せ、縛り上げてでも引っ立てろ。なんなら骨の一本くらい……そうだ、どうして最初からこうしなかったんだ?」



 泡を食うアジアをよそに、メキシコは目も眩まんばかりの太陽と戯れていた。大げさな大通り。白々しい白壁をしたコロニアル様式の構築物へ、カラフルな看板が掲げられる。西部劇のセットと高説を講じる広告の愉快な融合。荷車に日光で煮えた野菜を山積みした路肩の驢馬が、洒落た紳士の靴にクソを食らわせていた。

 派手な繁華街は、だが不快なほどの不潔だ。国境を越えた故国と異なり、この淫らな都に紳士協定という信条はない。名のある有名人がふしだらに遊興へ耽れば、お喋りどもは大喜びで情報を譲渡してくれる。

 まだ街は、ちんけな顔で沈黙していた。となると、奴は真の深部へ沈んでいる。

 石造りのいかした邸宅へ手を振り、脆い木造の集合住宅へ侵攻する。街から邁進すること一時間以内。地面の色がかさつき乾いた辛子色から、湿って沈み込むような渋茶色に変わり始めた。


「まったく、マーク・リドリーみたいな腰抜けがあんな事をするなんて。誰かの入れ知恵じゃないか」

 去りし日に栄えた農園の残す棕櫚が、湿った風でかったるそうに傾いでいる。ナイフのように長い葉がはためく様子を横目に、俺は運転席へ促した。

「クラーク・ゲイブルもヘンリー・フォンダも、みんなドイツ軍と戦うって言ってるのに、一人だけ逃げようったってそうは問屋がおろすか」

「自ら進んで弾へ当たりに行くなんて、馬鹿らしいと思うがな」

「共産主義者のユダヤ人め」

 ジャンプはじろっとジト目で、自意識を蹂躙する。四十前のシオニストは召集されない。だが33歳の颯爽としたハンサムは範疇に入りかねなかった。十年前に高所から転がり落ちて骨折して以来、股関節が故障しているとの診断書代は、やさぐれた藪医者との約定だと150ドル。

 栄誉ある映画スターは、世間の先達になるべきだ。しけた私立調査員に、責務が背負わされることはない。

「どうせ入隊したところで慰問部隊所属じゃないか、前線には出ない」

「タイロン・パワーは頭を瓶の頭型に刈り上げて、グラマン機の操縦を習ってるって言うぞ」

「同性愛者だって噂から逃げるには、男らしいふりをさせなきゃならないんだよ」

 今度こそ、ユダヤ人の憂鬱顔が許されざるべき愉快さに歪む。何なら殴りつけて、警告を献じることも検討した。だがパワフルなパンチで運転手を打ちのめし、膝までの低い石壁に激突したら、生き残る元気がない。ムカつくほど蒸れた車内で、モクをもくもく燃やしながら、俺は汗ばむ頭を不機嫌に振り立てるしかなかった。

「勇気も面の皮も厚さも持ってないなら、死ぬしかないさ」

 小市民の間に忍び隠れたいならば、しおらしく萎んでいればいい。

「血迷った事をしでかさなきゃいいんだが」

 胸中の気がかりを聞きつけたかのように、ジャンプが呟いた。

「こんなクソみたいなところから、早く出て行きたい」

 


 悪夢はあっさり形を象る。村落と尊称するには騒々しく、街道として語るには悲しい掃き溜め−−ミシシッピ川以南の荒んだスラムを撮影セット風に刷新したような、軋む木板と飛んでいきそうなトタンのよぼよぼした寄り集まり。ペプシコーラのホーロー看板が、崩壊しそうな軒下でのんきに揺れている。人差し指一つ分だけ開く、白く汚れた車窓から、淀んだ用水路じみた臭気が襲撃してきた。

 腐っているのは空気だけではない。車寄せの空間に集結する市民たちは、わあわあ喚き、巻き舌でまくし立てている。聴衆の中心で雄叫ぶ女が、目立って目も当てられない。皺だらけのシャツを激しくはためかせ、豊満な頬に涙を流す。

 痛む胃を叱咤し、シートから重い尻を渋々押し出す。怪しいスペイン語を操りながら輪へ分け入り、中で金髪の貴公子がきこしめしていないか聞いてみる。途端、女は恐ろしい素早さで進み寄ってきた。

「あのアメリカ人には耐えられない、早く引き取ってちょうだい」

 野次馬がやんやと揶揄する。俺は僅かも笑えなかった。ジャンプもすっかり竦み上がっている。


 その寂れた酒場は、うらぶれる裏庭へ続く通路でもあった。剥がれ落ちそうな羽板式のスイングドアをすり抜ければ、砂利の絨毯と末枝も疎らな松が、叩きつける太陽に干上がり、ひしがれている。家畜小屋もかくやといった貧相な平屋は、娼婦としけ込むか、酔いどれを宵越しさせる為に用いられるのだろう。

 泣きの涙に暮れる女へくっついて、野次馬もやってくる。女は長屋に並ぶ閉じられた扉のうち、一つを人差し指でしかと示した。しゃなりしゃなりと忍び寄る俺を盾にし、タマナシのジャンプも砂利をじゃりじゃり言わせて従ずる。

 ささくれた錆色のドアをどんどんど突いても、文句は戻ってこない。鍵は掛かっていなかった。


 心の底から怖がり動揺しながらドアノブを回せば、そこはあらかじめ誂えられていた悪夢、予想していた様相が待ち受けている。

「畜生、やりやがった!」

 一間限りの秘密基地には、寝台とナイトスタンドを兼ねる箪笥が一つずつあるだけだった。益荒男マークは新聞紙を敷いた寝台に沈んでいた。窓からの日差しに光る煌びやかな金髪。箪笥の上に大挙する素敵な睡眠薬、セコいセコナールと偉ぶったエチニールのくそったれ薬瓶。疎ましい薄暗さへ沈んだ室内へ、地響きじみた鼾が激しく反響する。

 これが途切れたら、鼓動も止まる。転がり込んで寝台にしがみつき、死にかけたスターを救おうとする。弛緩した肢体を引き回しひっくり返した拍子に、緩んだ指から小瓶が転げ落ちた。

 指をコーンウイスキーの口臭も濃い口から喉へと飲み込ませ、とろっとした吐瀉物を取り除けながら、死に物狂いに指示を出す。

「水を持ってこい」

 放ち終わるよりも早く、ジャンプは扉から飛び出していた。

 部屋へへばりつき、遠巻きに取り囲む連中は、手を差し述べるふりすらしなかった。何度も何度も流し込んだ水が、みっともない死の淵から不甲斐ない与太者を蘇らせたとき、歓声を被せるだけで。

 吐き戻し跳ね散った胃液や錠剤が、辺りへ甘酸っぱさをたっぷり漂わせる。スラックスをすっかり汚されたと気にする機会はまだ来ていない。定期的な手入れを停止され、ねっとり粘つく床の上で、指先が歪み、苦悶でくねる。多くの女を落とす媚薬じみた美声は、絡む顆粒で掠れていた。


 井戸水をバケツに一杯飲ませ、意地悪い罵声でいたぶり罵れば、精巧に整形された二重瞼が震える。火照った頬を平手で引っぱたいたところで、ようやく与太者は黄泉から呼び戻された。

「シド・キルケア、おまえがいるって事は、ここは地獄か?」

「まだまだ。入り口だよ」

 引き攣る膝が、ゲロの中に下落した。野次馬を厄介払いしていたジャンプを呼び戻し寄り添わせ、よれて横たわっていた体躯を縦にする。滴る小便の臭気が、危なっかしい歩みに合わせ辺りに溢れた。

「薬が抜けるまで歩かせろ。今夜中にここを出るぞ」

 明瞭な命令に、ジャンプは渋い顰めっ面。間抜けなマークは輪を掛けて我が儘を喚く。

「やれるもんならやってみろ! 絶対に……」

「心配しなくても、ザナックが金の成る木を手放すはずがないだろう。陸軍へはもう掛け合ってる。撮影中の国威高揚映画を撮り終えるまでに三ヶ月、それから訓練を始めればもう数ヶ月、その頃には黄色い小猿も白旗を掲げてるさ……どうして待てなかったんだ」

「僕は意気地なしだ……」

 乱れた身なりのまま、消極的な支柱役にしだれ掛かり、嘆きは長々と流され続ける。

「何もかもに耐えられない。待つことすら出来なかった……」

 嘘つきの腕を肩に担ぎ、ジャンプがあんよの歩みをうんざり促す。辟易してじめついた部屋を辞せば、邪悪なジャンピング・ジャック、元ヤク中の文句が未練がましく耳を打った。

「これ位じゃ死なないさ。俺はよく知ってる」

 


 騒動は掃討され、退屈した大衆はさっさと去っていく。酔客すらも姿を消した酒場へ再入場したが、馬鹿面のバーテン曰く、ウイスキーはラベルなしのバーボンしか売買していないらしい。二口含めば確信する黴臭さは逆に、痺れた舌をしゃきっとさせる刺激になった。


 ダブルと共にだらだら、神経を鎮めている暇はない。その若い女がちょっとずつ近寄ってきている事へは気付いていた。赤色も鮮やかなスカートは、隆起に富んだ輪郭をはっきりさせるよう、ぴちっと肌に張り付く。身体にたっぷり蓄えられる脂肪は、とろけた糖蜜を思わせる肌を、はちきれんばかりに張りつめさせていた。豊饒で放埒な、女神じみた雌犬。

 隣の席に到着しざま、女は白ワインを所望した。口紅の取れかけた唇は滔々と英語を詠じる。巻き舌にまみれた訛りもなまめかしい。

 すぐさま、所蔵されていたのが信じられないシャブリが、汚れたグラスに注がれる。

「俺の奢りだ」

 ちらと注視される前に、俺は先手を制した。流されていた涙は名残もない。あまり洗われていないらしい、汗ばむ黒い癖毛を、眼差しは艶やかに突き通る。

「あんたも役者なの?」

「いや」

 まさぐるような眼差しが、湿ったシャツへ新たな汗を与える。一生懸命祈っても、女は頑なに考えを変えなかった。

「いいえ、やっぱり見たわ。この前映画館で掛かってた……何年も前の映画だけど。カウボーイ役で、ならず者にさらわれた女を助けに、強盗の隠れ家へ一人で乗り込んで」

「古い話だ」

 耐えきれず叩きつける、この堪え性のなさ。スターの卵は巣立つどころか、孵る可能性すら与えられなかった。もしもあと少し才気が授けられ、運に疎まれなかったら、ヒーローとしてひた走っていたとの夢想すら無碍にされる、厳然たる現実。

「その仕事はとっくの昔に廃業してね」

「ハンサムなのに、勿体ない」

「ジョン・ウェインに競り負けたんだよ。今の任務は、阿呆をカリフォルニアへ連れ戻すことさ」

 敗者の儚い腹いせ、呆れ果てた足掻きと嘲られても、俺は汚泥を泳ぎ渡る。銀幕が吟じる仰々しい英雄をえせ笑い、星(スター)の輝きをかげらせないよう影で活躍する。善意と絶望を抱えていては、早く走ることが出来ないのだ。

 そうしたそうなそぶりを見せつつも、女は話題を脇へ置いた。

「彼が有名である事は間違いなんでしょう。映画雑誌によく載ってる」

「他言は無用。いや、問題ないか。気晴らしが終われば、奴は国を出るからな」

「気晴らしね」

 ノースリーブの白いシャツから覗く、肉付きの良い二の腕に、歯形を発見したのはその時だった。暗がりの中、鬱血が産毛を滑らかに均し、頑なな環状を描く。薄気味悪く、恐ろしく、うっとりするほどおぞましい。

「彼は口を開けば開くほど落ち込んだわ。終いに泣き出して、部屋の壁を殴り出したから、ウイスキーを飲ましてみたんだけど」

 盛り上がった胸が悶え、揺すられたかと思うと、谷間から手巻きの煙草が現れる。

「手に負えなかったわ。私の事を誰かと勘違いして、ルビータ、ルピータって口走りながら震えてた」

「君みたいな美人を前にして、勿体ないな」

 屈託なく繰り返したのは、滑稽みを高じさせてからコピーした言葉。彼女は嬉しげな様子も見せず、それどころか疎ましげにうっすら頷いた。バーテンがすかさず擦り寄り、グラスからアルコールを溢れさせる。

 掲げられた末端へマッチを翳ぜば、だが爪の割れた冷たい指先が、袖口にそっと沿わされるのだ。はみ出した葉が火花となって光り、浮かない上目の中で激しく弾けた。

「嫌な男よ」

「全くだ」

 死に損ないがしゃんとなるのは夕方頃、猶予なら有していた。いきる一物は今にも暴力的に勃起しようとする。クールさを崩すまいと、苦し紛れにくわえたラッキー・ストライクは、裸体崇拝の煩悩を暴圧させることが遂ぞ出来なかった。

「金持ちの癖に、細かいのを持ってないから、薬代を貸してくれって言うのよ。チップも少ないし」

「映画じゃ上品な役ばっかり演じてるが、実際はミネラル・ポイントの炭坑夫の息子だからな」

「あんたは?」

「虹の彼方のカンサスっ子。親父は田舎の牧場主さ」

「だから女性に礼儀正しいのね」

 胸の向こう側に無礼な態度をたくし込み、格好良いカウボーイを騙る。愛情とまでは言わずとも、彼女も悪感情を抱いたわけではなさそうだった。カウンターへ向けて身体が傾ぎ、膝が開く。奥で泳げそうなほど大きな下着に色気は抱かないが、包装されたモノについて妄想し惚けるにはあれくらいでちょうどいい。

 ワインに悪酔いしたのか、彼女はふくよかな太ももをふしだらに震わせた。愛想笑いは悪辣で、婀娜っぽい。

「とにかく、散々だったのよ。財布はすっからかんだし。このままじゃ病院に行かなきゃ」

「何なら今すぐ部屋に戻って、奴の財布を取ってくるぜ」

「馬鹿ねえ、そんなことしなくてもいいわ」

 煙草の吸い口に紅がべったり、それが目にするだけで、野郎が野蛮になると娼婦は知っている。俺は既に術へ蹂躙されていた。唇が苦痛を相手に与え、顔を渇望に固くさせたと確信してから、彼女は色っぽくいざなう。悩ましい流し――助けてくれ、堪らない。

「もっと他に……代わりの方法はあるでしょう、簡単なことが」

 カウンターの片側に、バーテンの肘が引っかけられる。彼は鍛え上げられた筋肉質な腕をしていた。丁寧に手入れされた手から、恐ろしや、大口の散弾銃が差し向けられる。


 俺が微動だにしなかったのは、びっくりしたせいじゃない。バーテンは女に指示され、示し合わせていたのだろう。神経質な視線は、しょうもない刺激で焦点を失しかねない。落ち着き払った面持ちでいれば、きっと相手の隙へ滑り込むことが出来る。

「あいにく金を持ってるのは上の人間でね。俺は一文無しさ」

「なら、違う人から慰謝料と治療費をもらうわ。この話を聞きたがる人は沢山いるでしょ」

 白ワインで舌を湿し、女は事も無げに答えた。

「世間にばらしてほしくないのよね。彼自身から聞いたわ」

 口の軽いくそったれ。性悪な娼婦が、知った醜聞へ知らぬ不利を示すわけがない。まさか酔眼が、このすべたを素晴らしき救い主として縋ったのか?

 俺はあらためてあばすれにまみえた。冷や汗を秘匿し、可能な限り涼しげに澄ましてみせる。灼熱に支配された南米の奈落で、哀れに足掻き続ける。

 おっかない女は、俺よりも天候に適応している。傍らの片棒へ、撃つよう促した。

「少し痛い思いをさせなきゃ理解できないみたいね。右足と左足、選ばしてあげるわ」

 思った通り、男は臆病者だ。下したままだった撃鉄はあっさり上がったが、引き金を引くのはちょっと躊躇する。

「それとも、左胸か右胸かね」

 女は苛立たしげな一瞥で、愛人を操ってみせる。銃口がじりじりと上昇し、胸をねちっこく狙う。滞留した大気へ、興奮で細切れの呼気がこぼれおちた。


「まずいぞ、シド。あの野郎は」

 駆け込んできた掛け声は、腐った空気を狂わせる。阿呆な相棒も、すぐさまのっぴきならぬ事を飲み込んだらしい。つやつや強気に光るコルトを腰から引き抜いた。昼下がりの赤熱した日差しを背負い、影の塊と化す中、その真っ黒なまなこと、重厚な銃身だけがきつく煌めいている。

「奴はどうだ」

「もう峠は越した。ベッドへ縛り付けてきたよ」

 穏やかに応じれば、平穏に返答される。怖がりの腰抜け男をこれ以上興奮させないよう、ジャンプは静かに室内へ進入してきた。引き結ばれていた唇を苦しそうに捻り、ほんのり微笑む。

「それでおまえは、ヘマをやらかしたわけだな」

 俺も我知らずと笑い返していた。やはり、表情が引き攣っていたことは否定できないが。

「動かないで」

 女が性急に制する。唸りに促されたかの如く、後ろの銃口が邪険な調子で、位置を一層近づける。

「ややこしい話には私もしたくないのよ」

「このお姉さんたち、金が欲しいんだとさ」

「くれてやればいいじゃないか」

 ジャンプの拘泥ない答えに、思わず大笑いしそうになる。

「俺はオケラ、お前も素寒貧。ザナックはどうかな」

「奴は財布の紐が固い」

「なら、答えは決まった」

 賢いジャンプは、それ以上語らずとも確信する。用心金に寄りかかっていた人差し指が、トリガーへ到着する。バーテンダーは馬脚を現し、これ以上は硬直して行動しない。


 姦しいカスどもを完封するのに呵責は感じない。この国において、人命の価格は尋常じゃないほど格安だった。頭に穴をあけられた貧しい町人(まちびと)を目の当たりにしても、警察は検分も大凡にしか行わず、さっさと去るだろう。

 やっちまえ、相棒。俺は心の中で懇願し続けた。奴がやり遂げられることなら、しっかり知っている。元ヤク中らしい度を超した度胸と、怜悧な冷酷さは、由々しきユダヤ人の硬直した心へ執拗にしがみついていた。


 あっぱれな相棒。惜しむらくは、往々にしておっちょこちょいを起こす。

 背後でトランクケースが取り落とされ、ふと振り返ったのが不憫。にじり寄る22口径と、甲高い金切り声へ、ジャンプはあえなく後ずさった。

 驚いたのは俺も同じことだった。煌めく黄色の絹のワンピースに、しなやかな肢体を収容した嵐のように荒ぶる阿修羅。

「こんなことだろうと思ったわ、シド・キルケア! このクソッタレ、悪魔め、地獄に堕ちろ!」

「ミス・ベレス?」

 驚いたのは俺も同じこと。往年の大物女優ルペ・ベレス、メキシコのかんしゃく娘は、未だ目を見張るほど可愛らしかった。もちろん炸裂する騒がしさも、かつてと変わらない。うねるうっとりするような黒髪をくねらせる姿に、すぐさま崇敬を覚える――尤も彼女は、かつてラ・マンとのランデヴーを勝手に隠し撮りされたせいで、俺達のことを叩きのめそうと企んでいる。


「そういえばジャンプ、お前、さっき何を言おうとしたんだ」

 何とか慰めようと、今更ながら掠れた声で語りかければ、竦み上がっている助っ人はこごもった声で答えた。

「ミスター・リドリーはミス・ベレスと付き合ってて、彼女をはらませた。唆されて逃げ出したあと二人で合流して、彼女の生まれ故郷で結婚するつもりだったらしい。ベレスは父なし子を産みたくないし、リドリーも扶養家族がいれば、徴兵を免れるからな」

 種明かしへ焚き付けられたのか、スペイン語による凄まじい罵倒が爆発する。靴の踵でかつかつ床を蹴り削り、銃口で眼前の背中をせっつく。ベレスのきらっと厳しい切れ長の瞳は、卑怯なアメリカ人へ悪態を浴びせ続けた。

 突発的に飛び込んできた登場人物に、バーテンダーはめっぽう面食らった。握りしめたショットガンから視線はそぞろに逸らされ、銃を構える手が心持ち降下する。これぞ好機、俺は脇に蟠っている小洒落たコルトを抜き放った。振り向きざま不埒な娼婦を締め上げようとすれば、なんと、すれ違うS&W。もしかしたら、彼女の腕は俺より上手なのかもしれない。突き付け合う銃口は情熱的にキスしあえる距離にある。実際、かちんと固い音で押しつけられた折りには、認めよう、抱き合い唾液を擦り付け合うよりも興奮し、鼓動が高じた。

 チャカは5丁。挑発はごまんと。火花はいつ閃いてもおかしくない。息も吐けないほど痛く張りつめた空気に、誰もが釘付けにされていた。いっそ自らが貴重なきっかけになってしまおうかと何度悩んだだろう。事実俺は、利己的ながら理解していた。なんとかなる。澄まし顔なのはスターだが、落ちぶれるのは俺じゃない。

 悶々とさせるのは、倫理ではなく臨床的な問題だった。タフな態度で食ってはいるが、弾を食らうのが楽しい訳じゃない。整髪剤混じりの清涼な汗が、頭を痺れるほど締め付ける。俺がジャンプの醜いほど見開かれた目を見つめ、奴が惨めに見つめ返し、すぐさま奴に真剣な視線で脅かされた女は口角を強ばらせ、側で卒倒しそうな相棒を仰ぎ見る。

 

 そして馬鹿者のバーテンは、引き金を引いた。


 中庭の嘆き。ヨチヨチよたつきながら横切ろうとした人影を、卑劣漢は怪物だと勘違いしたらしい。なすすべなくなぎ倒された情けない男に、ベレスが引き裂くような悲鳴を上げた。

 咄嗟に発射したコルトで、姑息な犯人のハンサムな顔をかち割る。女の人差し指が閃く前に、ジャンプが彼女の腕を撃ち抜いた。

 うずくまる女を押し退け、俺は中庭へなだれ込んだ。既にべそ掻きベレスがたどり着き、倒れ伏す逞しい姿に縋りつき、悲痛な悲鳴を響き渡らせている。

「ハニー、ああなんてことなの、しっかりしてちょうだい」

 ざっと座視した雑感では、根性なしが昏倒しているのは胃に居座るクソッタレな薬のせい。散弾は拡散し、微かに掠っただけのようだった。

「リドリーは死んだのか」

 まだ念入りに粘り、ハジキの鼻先を犯人へ這わせていたジャンプが、怖々声を上げる。

「いや、額をちょっと切って気絶しただけだ」

 間抜けなマークを必死に引きずりながら、俺は抱えていた感情をぎゅっと凝縮させ、どら声で怒鳴った。

「お前、こいつを縛り上げたって言っただろう。どんな縄のくくり方をしたんだよ、どあほう!」



 おおやけに出来ない恐ろしいお話。しみったれどもは、真実を秀逸に修繕した。

 喉元を過ぎれば何とやら。マーク・リドリーはかなりの活躍、第39特殊任務部隊の一員として若人を笑わせているらしい。生意気な日本人はなかなか逃げ去らないが、堂々、延々と道化を演じていれば、殺戮の最前線へ晒されることはないだろう。

 ルペ・ベレスは御子を身ごもっていなかったというのが、結局のところ決定付けられた見解だった。遠距離恋愛は永続せず、かんしゃく娘は可愛いスターを捨てる。数年後、本当に生理が静止したとき、彼女は卑怯なヒモに婚姻を請わなかった。代わりに自らの生命をセコナール一瓶でお見事に終わらせたのだ。


 秘密をひけらかし、陽の当たる場所からヒーローを引きずりおろすのは容易い。けれど今はまだ、俺は栄光とは縁遠い、どうしようもない溝鼠でしかない。ちっぽけなチンピラに過ぎない。

 機会が来たならば。崩落した星がぬかるみでぬかづく醜態を後目に、汚水へお気軽な爪先を突っ込み、落ちぶれ者へ汚泥をおっかぶせよう。負け犬をまんまと跨ぎ越えてやろう。

 俺はその時まで、光をひさぎ、闇を破り続けることを、爛れた魂へ躊躇なく誓う。


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メキシカン・スタンドオフ 鈴界リコ @swamp

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