後篇

 月――――

 英語ではムーン、仏語・リュヌ、独語・モーント、ラテン語・ルーナ、サンスクリット語・チャンドラ、ギリシャ語ではセレーネーと言う。

 月は地球の唯一の衛星で、太陽系の衛星の中では5番目に大きい。また地球から見て太陽に次いで明るい天体だ。

 昔は太陽に対して太陰などと呼ばれていて、また日輪(太陽)に対して月輪と呼ばれることもあった。

 平均軌道半径は約38万㎞、赤道直径は3400㎞くらいだ。表面重力は0.165G、地球の6分の1ほどである。


 古来より夜空に輝き続けた白色光を発するこの衛星は、人類にとって特別な意味を持つ。古代ギリシャでは既に観測がなされていたようで、強い関心があったことを窺わせる。信仰の対象として崇められることもあり、女神の人格が付与されていた。

 西洋では時に人を狂気に誘う魔的なものと見做されることもあった。英語で狂気を意味するルナティックは月から来ている。また満月の日に人狼は人から狼に変身するのだとか、魔女たちが黒ミサを開くなどと、月には魔性を齎す力があると考えられていた。


 人類による初の到達は1969年、7月20日、アポロ11号の月着陸船イーグルの「静かの海」への着陸だ。そして船長のニール・アームストロングと着陸船操縦士のバズ・オルドリンが初めて月に降り立った。この時のアームストロングが遺した言葉は有名である。


「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」


 アポロ計画はその後も続けられたが、1972年、12月19日に着陸に成功した17号をもってミッションは終了している。

 以後、半世紀以上もの間、人類が月に降り立つ事はなかった。


 しかし2010年代以降、NASAなどの有人火星飛行計画の開始とも相まって再び月を目指す気運が高まった。先進各国が競って探査計画を発表、実行に移す。まずは無人探査機が数多く送られた。

 そして2037年、NASAは月への再着陸に成功。これは日本やEU、ロシアなどとの共同計画であり、以後 月の開発は国際的な共同事業にシフトする。先進各国が連携して宇宙機を飛ばし、数多くの人材と資材を月に送り込んだのだ。そして月開発基地を幾つも建造し、それは拡大していった。

 2050年代、月を含めた宇宙開発は国連に設立されたUNASA(国連航空宇宙局)が担うようになり、先進各国による共同開発事業が引き継がれた。より大きな資金と人材などを手にして月での開発は更に進んだのである。

 そして2062年の“今”、月では都市と呼びうるほどの規模の開発基地も建造されており、それは地球以外での完全な居住圏の獲得を意味していた。

 月の開発は更に進み、この天体を足掛かりとして、火星や金星、そして太陽系全体への人類の勇躍を期待させる状況に達していた。

 そんな時代だった――――



「今の俺にとっちゃ、それどころじゃない。ここを生き延びなければ、全てがオシャカだ」


 激しさを増す空気漏れの音を背に、男は作業していた。頭の中では色んなことが渦巻いていたが、手は止めず作業に没頭している。


「くそっ、月で稼ぎまくってカネを貯めて、そんでもって起業して一旗上げようと思ってたのに! こんなところでくたばってたまるかよぉっ!」


 手先は止めていない、繰り返すが止めていない。かなり激しく叫び、罵倒口調になっているが、作業無自体は淀みなく続けている。

 彼はツールボックスから引きずり出した断熱シートを切断していた。ある程度の長さの帯のようにしている。ペラペラの質感で、銀紙のような印象があるが、材質は結構 丈夫でしっかりしたもののようだ。男はそれを超振動ナイフを使って素早く切断していたのだ。

 その目は大きく見開かれ、歯を強く食い縛っているところから、酷い緊張状態にあるのは一目瞭然だ。汗が流れ出て、手元に落ちていく。しかし落下速度はゆっくりとしたもので、見ようによっては停止しているかと錯覚させる。月の重力が地球に比べてかなり小さいからなのだが、男の意識が高速で回転していたので、周りのものの動きが遅く見えるようになっていた効果もある。

 そのせいなのか、男は汗の粒の動きがよく見えるのに気づいた。汗粒は真っ直ぐに落ちない。緩やかにカーブを描き、やがて操縦室前方の制御卓コンソールの方に飛んでいくのがありありと観察できた。

 思わず汗粒の後を目で追うが、それが制御卓コンソールのところで衝突、より細かく弾け飛ぶさまが目に入った。作業を忘れたようにジッとして その様子を見る。

 シュウシュウいう紙を擦るような音、頬を撫でる気流――髪の毛を乱すほどに強まっている。そして汗粒の描いた軌道と終着点――その意味するものを、彼は嫌というほどに理解する。

 床が揺れ、ガタガタいう音が聞こえた。そして窓からはビキビキいう音。


「くそっ、時間がない。今すぐにでも崩壊しちまいそうだ!」


 男は切断作業を終える。

 続いて帯状にした断熱シートを顔に巻き始めた。頭のテッペンから首辺りまでグルグルに巻き付け、宇宙服の首のところには端をギュウギュウ詰めに押し込んだ。一片の隙間なく覆い尽くす為だ。しかし目元だけは開かせていた。

 次に彼はツールボックスから溶接作業用の遮光ゴーグルを取り出し、目にかけた。これは遮光というが入射光の強さに反応して自動的に明暗調節するものだ。だから光量がさほど強くない操縦室内では普通のメガネなどと変わらない状態になっている。

 次に壁から顔を覗かせているジェルシールド散布カプセルに手を伸ばす。半球形のそれを掴み、2、3回左右に回転させる。するとスポッと簡単に抜け落ちてしまった。手にはボール形の散布カプセルが握られている。一部にはチューブが繋がっていて、それはさっきまで散布カプセルが嵌っていた壁の空洞に伸びていた。

 男は散布カプセルをゴーグル近くまで持っていって、一言――――


「ジェルシールド、緊急散布!」


 すると散布カプセルの一部が左右に別れ、中からジェルが噴き出してきた。男は慌てたようにジェルに頭を寄せて接着させようとした。彼は以後も何度も音声コマンドを発してジェルを散布させる。その度に頭から被るようにしてジェルを浴びて断熱シートやゴーグルに接着させた。


 ゴワゴワしたやや赤味がかった寒天みたいなものをつけた人の頭が完成。見ようによっては20世紀の空想科学ものに出て来る宇宙人みたいな恰好になってしまっていた。


「また趣味の悪いものになったな」


 窓に映る自分の姿を見て男は苦笑した。彼は断熱シートやゴーグルの隙間をジェルで覆って固めたわけだが、これによりできうる限り真空曝露から身を守ろうと考えたのだ。

 そう、彼はこの恰好で外に出ようとしているのである。


「距離、約200m――」


 窓に映る自分の姿の向こうに半球形のドーム建築が見える。彼が訪れる予定だった無人観測基地だ。そこまでの距離が200mくらいと計測されている。

 見つつ思考を走らせた。


 たしか200m走の世界記録は2062年現在で18秒ちょっとだった筈……(2016年現在では19秒19、世界記録保持者はウサイン・ボルト、2009年8月20日、ベルリンで出している )

 世界記録に迫る速さで走れば、生きたままあそこに到達できる……


 重力の少ない月ならより速く走れるかと錯覚しそうだが、それは違う。重力が小さい分、より大きく飛び上がってしまうことになる。ヘタするとかなり高く飛び上がってしまい、再び月面に脚をつけるまでに恐ろしいくらいの時間を要してしまう結果を招きかねない。そうなったら、フワフワ浮きながらオシャカという結末になる。


 だからよく考えなければならない。低く、スピードを落とさないように月面を蹴る走り方をしなければならない。少しでも間違えれば、命とりだぞ!

 遊びで月面での短距離走をやったことがあるが、あの時の経験が役に立つかな……


 娯楽の少ない月面でオフの時にどう過ごすか、月面駐留者たちはよく考えたものだ。少なければ自分で考えればいい。その1つが月面での運動会、重力の少ない環境での運動能力の競い合いだ。

 男も何度か参加していた。そして彼は学んだのである。

 重力が低いからといっていい記録が出せるとは限らない。異なる重力環境に相応ふさわしい身体の動かし方をしなければいけないことを知った。その1つが走り方。より低く、決して飛び過ぎないように地面を蹴る走り方だ。


 その経験が活かせるのか、正念場だ。

 それにしても上手い具合にムーンバギーが停止したな。皮肉とも言える。

 距離約200m、人間の脚力が実現できる最速のスピードで到達すると、約20秒。それは真空曝露の中での生存限界だとも言われる。

 この絶妙の距離に位置した意味は何だ?


 挑戦の意志を試されている――――

 男はそんな風に思った。


 生き延びる意志はあるのか?

 チャンスは与えたぞ。さぁ挑んでみせろ!


 神か何かが自分を試していると思えてきたのだ。


「やってやる、人間を舐めるんじゃねぇぞ!」


 男の目は燃え上がっていた。



 観測基地の姿がぼやけて見えてきた。それを見て男は激しく動揺した。彼は窓から目を離して操縦室内を見回す。室内全体が霧に覆われている状態になっているのを確認、そして霧は激しく渦巻いているのが見えた。

 ドンという音が響き、室内が傾く。男はバランスを崩し倒れそうになったが、何とか踏みとどまる。紙を擦るような音が更に激しさを増し、心なしか鼓膜に刺すような痛みが現れているように感じた。気圧の低下が加速したのだ。


「くそっ、もう細かく計算している時間がない!」


 男は叫び、エアロックへと駆け込んでいく。

 内扉を閉め、気密ロックをかけた。紙を擦るような音は影を潜め、静かになる。このことからエアロック内の気密は保たれているのだと分かる。


「いっそここでジッとしていて救助を待つ――」


 しかし言葉は途切れた。また大きな音が響いて、揺れたからだ。隣の操縦室の騒音が激しくなっているのが壁越しでも分かる。


「いやダメだ、操縦室が崩壊する時にエアロックがどうなるかも分からない。それに上手く気密の維持が保たれても、救助が来るまで空気が持つ保障もない」


 ――というより完全に持たないだろうと確信していた。

 だからこそ男は飛び出す決意を固めたのだ。無人観測基地めがけて、まっしぐらに駆け込むしか生き延びるすべはないと考えたのだ。


 だが真空へ――真空曝露の状態で飛び出すということは―――


 壊れたヘルメットの代用として断熱シートやゴーグルをジェルシールドで固めて保護したのだが、それは完全な気密保護を実現するものではない。真空曝露を逃れられないのだ。

 そんな状態で月面に飛び出したらどうなる?

 速やかな死が訪れるのは必定。しかし、それは一瞬には起きないのだ。


 男は大きく息を吸い深呼吸を繰り返す。これは肺に空気を満たすというよりも、血液中の酸素濃度を高める為の行為だった。

 彼は開閉ロックに手を伸ばしオートを解除、マニュアルを始動させた。そしてレバーを引き回そうと力を込める。


 ――行くぞ、この野郎!


 心の中で叫び、いよいよ扉を開けようとした瞬間、その声が聞こえてきた。


〈警告、あなたは気密保護が十分ではありません。気密保護を万全とするか、開閉作業を中断してください〉


 バギーの制御AIによる警告だ。それを聞いて男は悪態をついた。


「そんなコトしてたら、こっちはお陀仏なんだよ!」


 邪魔をされたように感じ、腹の底から怒りが湧いたのだが、一方では仕方がないなとは思った。制御AIはただの機械、プログラムに従った職務を遂行しているのに過ぎず、そこに何の感情も込められていないのだ。男の行為は人工知能にとっては規定に違反したものと映り、警告するのは当然。寧ろ当たり前な機能を果たしていると言え、事故で大破状態の中でよくやっていると言えた。

 とは言え、男は従う訳にはいかなかった。従えば確実に死が待っていると確信していたのだ。


「警告には感謝するよ」


 そう言い、男は口を開け息を吐き出した。肺に満たしておこうとはしない。

 間を置かずレバーを勢いよく回す。そして猛烈な暴風に見舞われた。


 地球上の3分の2とは言え、ゼロ気圧と比べればそれは凄まじい差だ。減圧もせずに一気に解放されたエアロックからは猛烈な勢いで中の空気が吐き出されたのだ。男はその台風並み、或いはそれ以上とも言える暴風に呑み込まれ、吹き飛ばされるようにして車外に飛び出した。

 だが男は翻弄された訳ではない。この事態は想定ずみ、寧ろ利用すべく敢えて選択したのだ。


 ムーンバギーは上手い具合にエアロックの扉を観測基地に向けた状態で停止していた。僅かに軸線がズレているが、これは修正可能な範囲。

 減圧せずに扉を開けたので中の空気がトンデモナイ勢いで吹き出すのは当然、この力を利用して加速するのだ。問題は飛び上がり過ぎないように姿勢を低く維持、月面での最初の一蹴りを効率よく行うべく飛び出していくのだ。


 轟っという暴風の騒音が男を包み込んだが、それは直ぐに収まり、代わって底知れぬ静寂が訪れる。真空の領域に飛び込んだ事実を実感する。

 バギーの一面から白い蒸気が激しく噴出するのが見える。まるでバギー自身が呼吸しているみたいだ。その中を妙に赤っぽい色の大きな頭をしたオレンジ色の宇宙服姿をした者が飛び出している。その者はかなりの前傾姿勢を維持し、月面に対してほぼ平行の軌道を維持して飛んでいた。

 やがて彼を覆う蒸気の白い幕は拡散、速やかに消滅していく。キラキラとした光点が見られたが、恐らく凍結したのではないかと思われる。


 男は僅かに光点に目をやるが、直ぐに視線を外し、続いて足元に向ける。そして右足を大きく踏み出し、月面へと接地させた。即座に姿勢を落とし、前傾を更に極端にさせる。倒れ込むように移動し、素早く後方へと蹴り出した。

 大きく、しかし低く、月面を移動――走り始めた。

 そして彼の目の前に、直ぐそこにあるように銀色のドームが迫る。目に映る人工建築物を見て、彼は興奮を収められない。


 いける!

 空気の噴出の力を利用した作戦は成功した。これなら18秒と言わず、それ以上の記録でゴールでき――――


 何もかも上手くいったと思い、歓喜すら心を占めようとした瞬間、彼は思わぬ圧力を背後から感じた。猛烈な力が背中に直撃し、彼は大きく飛ばされてしまった。


 何だ?


 直撃の圧力は耐え難い苦痛を生み出す。痛めたアバラが軋み、切り裂かれそうな激痛が全身を走って気絶しそうになった。それでも何とか耐え抜き、意識を保つ。

 身体を捻じらせて背後を見やり、そのまま絶句する。

 バギーが完全に崩壊していたのを目撃。無数の破片があちこちに散乱し、原型を留めぬほどに壊れていた。破片の一部は自分の方に飛んできているのが見えた。

 身体を上手く動かして破片を避けるのには成功したが、事態が桁違いに悪化した事実を確信し、歯噛みした。


 くそっ、エアロックの解放が刺激になったんだ。それが切っ掛けになってあちこちの亀裂が一気に拡大し、遂にバギー全体が吹っ飛んでしまったんだ!


 空気も一緒に吹き出した。一部は砲弾のような感じになって男に直撃したものと思われる。それは速度を高める効果を及ぼしただろうが、しかし――――


 男は頭を回す、そして斜め右に離れつつある観測基地を視界に捉えた。その意味するものを彼は嫌でも知る。


 外れた、軌道を外された!


 真っ直ぐに走っていた筈なのに、今の空気の一撃で方向をズラされてしまった。このままでは基地に到達できない結果を予測する。


 くっ――!


 男は足を伸ばして月面を掴もうとした。しかし約6分の1Gでゆっくりと降下するのでなかなか叶えない事実に狂乱するものを憶える。それでも必死に伸ばし、何とか着地、すぐさま月面を蹴る。

 軌道を変更、改めて無人観測基地を目指し、走り始めたのだ。


 

 その目を何と表現すればいいのだろうか。大きく見開かれた両眼は赤く充血し、血管すら浮き上がる。真空曝露に遭い、皮膚よりもどうしても脆弱な粘膜が影響を受けた結果だ。ゴーグルをジェルシールドで固化接着させているので絶対真空ではないが、それでも厳しい環境下にあるのは否めず、ダメージが強く現れるのだ。

 だが、それでも男はカッと見開き、目前にあるかに見えるドーム型建築を凝視する。


 彼は諦めていない。決して諦めず走り続けんとする。

 それが充血した目に現れていたのだ。



 ゴホゴボいう騒音、耳の奥に鳴り響き決して収まらない。血液の沸騰が始まったのか? そんな筈はない。真空曝露に遭えば確かに血液が沸騰するなどと言われるが、それは即座に訪れないはずだ。まだいい、大丈夫だ、その筈だ――――

 ちくしょう、肌がヒリヒリするぞ。無数の針でも突き刺さっているみたいだ。破裂なんかする訳がないが、何やら身体の中が膨張するように感じられるぜ……

 胸が痛い、急減圧の影響か? 肺を痛めたのか? 飛び出す時にあらかじめ空気を吐き出しておいたが、不十分だったか? 肺胞を痛めたのかもしれないぞ。

 目や耳の痛みも大きい、体腔内に空気が残り過ぎていたのかもしれないな。くそっ、空気を惜しんだんだ、それが命とりになるかもしれないのに……


 必死に思考していたが、それも覚束なくなっていた。意識が朦朧とし、何も考えられなくなる自分を自覚した。それでも彼は気を張り、意識を保たせようと努力していた。


 不意に目に入る蒼い星、視界がぼやけていて形が崩れて見えたが、それが地球だということは分かる。観測基地のドームの向こうに上っているのが見えたのだ。

 漆黒の空に浮かぶ蒼は際立つ存在感を見せる。朦朧として不明に堕ちつつある意識にも、その美麗は心打つ効果があった。

 男は手を伸ばす、有らん限りの力を込めて、まるで星をその手に掴み取らんとするかのように――――

 彼は叫ぶ、心の中で叫ぶ、決死の想いを力を込めて――――


 死んでたまるかぁぁぁぁぁっ!


 そして全ては暗黒の淵に――――






 激しい騒音が耳につく。無数の羽虫でも飛び交うように聞こえ、その余りのうるささに耐えられなくなった。


「うる・さ……はっ――」


 しかし声が上手く出せなかった。

 続いて胸の奥から何かがこみ上げる不快感を感じ、思わず呻き、激しく咳をした。男は横向きになり、身体をエビのように折り畳んで咳き込み続けた。暫く繰り返していたが、やがて収まったのか静かになる。

 そのまま動かなくなり死んだようにジッとしていたが、突然目を開いて跳ね飛ぶように起き上がった。しかし直ぐに倒れそうになる。それでも何とか堪え、彼は壁に背を預けて座り込んだ。

 頭に両手を当てて目を顰めているが、頭痛にでも襲われているようだ。彼は暫く頭を押さえてウンウン唸っていたが、やがて静かになる。頭痛がマシになっていったのだろうと思われる。

 男は頭から手を離し、ダランと両手を下した。そして壁にもたれかかり、天井を見上げる。


 天井?


 羽虫の飛び交うような音は収まっていた。今は静かなものだが、かすかに電気設備の稼働する雑音が聞こえていた。


 電気……、音?


 すると男の目に力が宿るのが見てとれた。見る見る大きく見開かれ、目の中に喜色現れるのが見えた。そして彼は叫んだ。


「エアロッ……やった……はっ、生き延びたん……」


 正確には叫ぼうとしたと言うべきだ。上手く声が出せず、叫ぼうとした瞬間に胸に激痛が走って再び咳き込んでしまったからだ。彼は身体を丸めてもんどりうって床を転がった。激しく咳をしていて身体の不調がかなりのものと思われた。しかし――――


「はっ、は、ゴホッ! やった……グハッ、ぞっ――」


 咳の間にも何か言おうとしている。目の喜色は拡大していて、これが咳き込む者の現わす表情かと疑わせるものがある。

 そう、彼は喜んでいた。心の底から歓喜にむせいでいたのだ。


 生き延びた、生き延びたぞ!

 何とかして無人観測基地のエアロックに辿り着いたみたいだ! 最後の方は憶えちゃいないが、無意識にやったんだろうな。凄ぇぜ、俺! 大した執念だぜ!


 声にするのはさすがにしんどいので心の中で叫ぶことにした。やがて咳も収まり、彼は床上に大の字に横たわる。

 そして断熱シートとゴーグルを剥がし始めた。固化したジェルシールドが接着していたので難儀したが、何とかできた。現れた顔は傷だらけで、所々が黒ずんでおり、唇は膨れていて紫色になっている。真空曝露に遭った後遺症だと思われる。恐らく生体バイタルチェックを受けると色々と問題のある項目が出てくるかもしれないが、それでも男は満足げな笑みを収めない。


 そしてゆっくりと息をする。噛みしめるような呼吸には彼の想いが溢れている。


 いいなぁ、空気って。

 いつもはあるのが当たり前になっていたけど、こんな目に遇うと有り難さが身に染みるぜ。ああっ、生き延びた――――


「ゴホッ、ほぅっ――」


 再び胸に刺すような痛みが走り、彼はまたしても咳き込んでしまった。しかし、その顔には満足げな笑みに包まれていた。


 男は生き延びたのである。それが嬉しくて仕方がないのだ。これからも人生が続けられることに感謝を憶えていたのだ。

 彼は真空の世界を走り抜け、再び空気のある世界に帰還した。見事に無人観測基地のエアロックに辿り着いたのだ。


 左手を上げて手首に装備されている宇宙服のデータ表示機能をオンにした。幾つか現れる項目の中からクロックタイム表示を選んだ。


 21.27秒


 こう記されていた。これは男がバギーから飛び出して無人観測基地に辿り着いた時間だ。彼はタイムを計測していたのだ。

 最後のゴールがどうやって押されたのか憶えていない(無意識に押したと思われる。多分 不正確な計測だ)が、まぁいいと彼は思った。


 世界記録は塗り替えられなかったみたいだけど、自己新はとったしね……

 

 彼はゆっくりと起き上がり、エアロックの内扉を開ける。

 新鮮な空気が肺を満たすのを感じ、彼はそれだけで至福に包まれるのだった。




 人間は真空曝露に遭っても即死するとは限らない。風船みたいに膨らんで破裂して死んでしまうように思われるが、これは間違いだ。人間の皮膚は意外と頑丈でゼロ気圧に曝されても内圧で破裂してしまうことはない。

 また血液などが沸騰・気化して死亡すると思われるが、この沸騰という現象も瞬間的には起きない。やはり血管や細胞の防護は結構 強くて中の血液や細胞液をある程度は守れるのだ。勿論それは永続するものではなく、徐々に気化していくことになるだろう。それから影の部分に入ると絶対零度に晒されることになるが、やはりと言うか、凍結も瞬間的には起きない。

 死ぬとなると、それは窒息死になる。沸騰や凍結などはその後、ゆっくりと訪れるのである。


 真空曝露による死亡の時間的猶予に関しては定かでないが、昔、SF作家のアーサー・C・クラークが20秒くらいだと言っていたのを記憶している。

 ともかくも、対処が的確で迅速ならば生き延びる可能性はあるのだ。物凄く綱渡り的になるだろうが。


 付け加えるが、1960年代、アメリカ空軍で真空曝露の実験が行われたらしい。地上の真空施設で行われたもので絶対真空という訳ではなかったが、それでも限りなく真空に近い環境に生身の人間を閉じ込めたのだ(本人の了解はあったと思う)。何てことをしてたんだと驚いたものだ。

 被験者は破裂することもなく、窒息することもなかったらしい(短時間だったからだろう)。被験者は実験の感想として、「唇がピリピリする」と言っていたのだそうだ。

 え、それだけ? 感想があっさりしていたので、驚いた記憶がある。

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