大事な話

 『庭』に来るきっかけは、タカユキが例の寝巻き姿で非常階段につながる扉から出てきたことからだった。最初は、退屈しのぎに病院内をふらついているのだろう、と思っていた。

 そんな考えを払拭したのは、もう10年前にもなる会で聞いた、同じ病院内で仲が良かったというリョウタという青年の話だった。彼は運よくドナーが見つかって退院できたのだという。今は念願かなって建築士の卵らしい。

「行かないっすよ、あんな場所。本当に何もないですよ」

 あ、でもとリョウタ君は前置きして話を始めた。

「退院してすぐの話なんですけど、オレ川に落ちたんすよ。で、何時間か浮いてこなかったらしくて結構な騒ぎになったらしいんすけどね。何で浮いてこなかったのかって、実はオレ、水路みたいの発見しちゃって。一か八かでその水路に飛び込んだんです。で気付いたら泉みたいのがある草原に寝かされてて。そこまで知らんオッサンに助けてもらっちゃって。本当にだだっ広くて雑草が植わっているだけのなんですけど、ちょっと人工的に刈り込んであったんで庭って呼ばせてもらいます」

 彼の話を要約すると、見知らぬオッサンの噴水工事を完成まで手伝って帰ってきたのだが数時間しか経ってなかったこと、その庭がタカユキが以前話していた不思議な庭にそっくりであることだった。

「タカユキがそんな話を?」

「元々タカさんが噴水とかに興味あってオレも一緒に本とか眺めるようになったんです。ちっちゃいころにでっかい噴水のある庭に行ったことがきっかけみたいで。それでその庭から帰ってきてからふと思い出して」

 リョウタ君には悪いが、思わず眉をひそめてしまった。その不可思議な出来事に対してもだが、大きな噴水にある庭に連れて行ったことはなかったはずだ。そのタカユキが噴水に興味がある理由も、あまりピンとこない。

「それ、自分も混ぜてもらっていいですか」

 今度はきゃしゃだがほどよく日焼けした青年、マモル君が話しかけてきた。彼は中学校までタカユキの同級生だった。都合のついた旧友たちは何人か来てくれたけれど、一報を知らせることができたのは彼だけだった。大学生になってからとある騒ぎを起こして少しだけタカユキと同じ病室に入院していたことがあり、それがきっかけで連絡先を交換したのだ。今は田んぼとトンボの共生について研究をしているらしい。

「小学生の時によくわからない隙間から庭に行くみたいな話を聞いたことがありまして。話を聞く限り立派な庭ですよ。

 例の昆虫採集に行った時のことを信じてくれたのがタカユキ君だけでした。で、今思ったんすけど、その途中で通った池のある庭がタカユキ君が言っていた庭に似ていると思いまして」

 フェンスの間を潜り抜けたら鬱蒼とした森に入って、すごく立派な庭を抜けて、いろいろな森をさまよっていたら崖から落ちた、という話をタカユキは信じたというのか。

 若人2人は立派な庭についての話を始めてしまった。驚くことに2人とも噴水の特徴や植わっていた花の様子が似ていることに気付いたらしい。すごーい、と2人の声が重なった。

 ただ、私も引っかかっていたことがあった。前の家に住んでいたころ、自宅の庭でタカユキはよく姿を消してしまうことがあった。ちょっと目を離した隙に、ふっといなくなってしまう。どこを探しても見つからず、近所を駆けずり回っても姿が見えない。そして見つかるのはいつも用意した晩ご飯がすっかり冷めてしまった頃、毎回同じ生垣の前である。当然不気味だった。そんなこんなもあり、夫の異動と同時に、通勤圏内ではあったにも拘わらず引っ越しを決めた。引っ越し先ではタカユキの姿が見えなくなることはなくなった。

 思い返せば前の家の近くにそんな立派な庭のある家はなかったはずだ。しかも話を聞けばその庭には子どもが喜ぶようなものは一切ない。そんな場所に一体なぜ? そしてどうやって?

「もしかして非常階段付近に入り口みたいのがあったのかもしれませんね」

 マモル君の考えに、リョウタ君がきっとそうなんですよ、結構いろんなところにあるのかもしれないですね、と相槌を打った。

 普段なら酔っ払い2人の考えを真に受けたりはしなかっただろう。でも、半信半疑で私はその庭の入り口とやらを探してみることにした。どうせやることも大してない。それならば、とタカユキが見ていたものについて、知りたくなったのである。

 タカユキがいた病院はつい最近建て替え工事を行ったらしく、同じ病院とは思えないほどきれいになり、間取りも変わってしまった。タカユキが見つけた入り口を探すのはあきらめ、自宅や職場など無理のない場所から始めた。やっとの思いで見つけた場所が夫の実家のトイレの天井上である。姑に掃除を手伝わされた時だった。何と皮肉な偶然だろう。

 初めて『庭』に来た時、世迷言だと思っていた彼らの話が、そのまま目の前に現れた衝撃を覚えている。

 さらに腰を抜かしたのは、タカユキがそこにいたことだ。私は腰を抜かして失禁するという醜態をさらしたことを昨日のように覚えている。二度と行くまいと思っていたが、今でもここに来るために定期的に義理の両親の家、今は姑だけの家に手伝いに来ている。幸いなことに、以前来た時の記憶はタカユキにはおぼろげになっているらしく、跡も見当たらない。

「随分、老けたね」

 タカユキはつぶやいた。

「まだ現役で事務職も力仕事もやっていけるわよ」

「そう」

 タカユキはむっくりと体を起こした。

「定年まであと何年?」

 まだあるわよ、とだけ答えた。定年があやふやになっている、いつまで働けば年金がもらえるかわからない、などと暗いニュースは聞かせたくない。

「多分、もう何度もここに来ているんだよね」

 私はそうね、と答えた。10回は超えているだろう。私は、何度も何度も試行錯誤しながら、ここに来られる方法を探っていたのだから。

「まさかさ、ここに来るために無理してる?」

「どうして?」

「何でわざわざ父さんの方のじいちゃんばあちゃんの面倒を見ているのかなと思って。仲良さそうでもないし」

 私は口をつぐんだ。図星だった。

「そんなことないわよ、こんなに素敵なお庭、何度でも見たくなるし」

 我ながら歯の浮くような返答である。しかし、実際豪邸にでもついているような十分立派な庭だろう。

「そう? ここさ、もう少しよくなると思わない? 花の植え方とか、噴水の勢いとか」

 タカユキは首を傾げた。

 改めて庭を見回してみる。タカユキの言う通り、中途半端な設計ではあるのだ。

 まず、花が雑多に植わっている。これではそこら辺の荒れ地と変わらない。しかも雑草が伸び放題の状態になっている。噴水もこれだけ大きな池なのだからもっと高く噴き出すことはできるだろう。

 さらに私が思うのは、噴水や花壇の周りの土がむき出しになっていることだ。レンガでもタイルでも敷き詰めればいいのに、この庭は噴水を作っただけで満足している。

 要するに、この庭は手入れがされていない。もしかして、造園師になりたいと言い出したのは、ここがきっかけだったのだろうか。

 言うなら今しかなかった。

「あなたの病を治す新薬が開発されたの」

 タカユキは、ゆっくりと上体を起こした。熱に浮かされた瞳が、じっとこちらを見ている。

「治験でも何人もの命が救われている。ベッドから降りて生活ができるようになる。あなたのやりたいことができるようになるのよ」

 手を差し伸べた。夢がある。やりたいことがある。いや、生きたい、それだけの理由があれば、手を取ってくれると信じ切っていた。

「この庭のことはさ、大体わかってきたんだよね」

 タカユキの言葉に、不穏な予感がした。

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