第12話 診療所

 夜の暗い色が空に広がりだした頃。サミュエルに連れられ公園を後にしたブルーノは、彼の背をぼんやりと眺めながらゆっくりと歩みを進める。『えらい大変なことになるから』と病院に行くよう勧められたが、ブルーノは受診する気はほぼなかった。

 とはいえサミュエルにはアルフレッドのことで大層世話になっているから、断るのは義理に反するだろう。そんなふうに胸の内で考えたブルーノは、大人しくサミュエルの後に続いた。体は重いが、歩くこと自体は過酷な訓練で鍛えられているため、それよりは容易いと言い聞かせた。


 特に会話もなく歩いていたその最中、サミュエルがふと何かを思い出したように短い声を上げ振り返る。暗い中でアメジストの瞳が煌めいた。


「――あ、そういや、今から行くとこの先生の話ってしましたっけ?」

「……いや、聞いとらん」

「あっ、なら先に言ぅとかんと」


 サミュエルとのやりとりを少し思い返したが、特に言われた記憶はないことを確認し緩く首を振る。すると、彼は体をこちらに向けたあと、おもむろに病院の先生について話し始めた。


「今向かっとぉところって、俺がいつもお世話になっとぉ診療所なんですけど、先生が女の人なんですよね」

「……え?」


 サミュエルの言葉に思わず目を丸くき聞き返した。続けて、内容を確認するようにゆっくりと呟く。


「……女の人が、医者で、先生なん、か? あのー、看護婦さん……じゃなくて?」

「はい、看護婦さんじゃなくて先生です。……あ、あれですか? もしかして女の先生じゃ信用できんとか、女のくせにとか、そういうこと思って、ます?」

「あ、いや、ほうじゃないが……ただ、珍しいな、と……」


 サミュエルの言葉に、ブルーノは慌て首を振る。

 世の中の多くの人は医師といえば男性を想定し、女性の医療関係者といえば大方看護婦を想像するだろう。そのため女性医師はかなり珍しく、どれだけ優秀な医者でもそれだけで信用されないことが多い。二言目には『女のくせに』と言われることは想像に難くなく、恐らく男性医師以上に苦労を強いられる立場だろう。

 ここまで思って、ブルーノはサミュエルの今更の不安も頷けると理解した。もしブルーノがそういう思考であれば、双方にとっても全くいいことでは無い。

 だが、ブルーノは特に嫌悪等は抱いていなかった。単純に驚いただけで、想定した性別でないから受け付けないなんてことを言うつもりは無い。そういったことを伝えると、サミュエルは安堵したようによかった、と力強く口にした。


「そんならよかった! いやぁ、これで拒絶されたらどうしょうかと。先生は俺が心配するまでもなく、つよーい方なんでいいんですけど、どんな理由であれブルーノさんが嫌やって言うなら、良くないじゃないですか。だから、うん、嫌じゃないってんなら、ひとまずよかったです」

「……ほうか」

「んじゃ、早く行きましょ! 時間ギリギリになるかもしれないんで!」

「あ、あぁ」


 サミュエルは表情を安堵から溌剌とした表情と声に変えて話に区切りをつけ、ブルーノの案内を改めて開始した。彼の言うとおり空は随分暗くなっており、急がねばもう間に合わないかもしれない。焦る気持ちを胸に、歩くペースを少し早めた。


 それからまた歩いて、たどり着いたのは白っぽい壁と平屋の建物が特徴的で、出入口付近と玄関付近には『エルシアーノ診療所』と看板やプレートが掲げられていた。


「エルシアーノ……珍しい名前じゃの」

「ですよねー。あ、まだやっとぉみたいですね。とりあえず行ってみましょ」


 雑談を交わしながら淡い光が漏れる扉を開け中に入ると、眩しい光に目を灼かれた様な感覚になった。今まで外が暗かった分、余計につらい。

 心配するサミュエルに平気と返して中に入ると、綺麗に清掃された院内は、待合室用に何脚か椅子が並べられ、付近に置かれた本棚やラックには様々なジャンルの本や新聞が並べられていた。数名の患者がそれぞれ椅子に腰掛けており、本を読んだり泣き叫ぶ子供をあやしたりと様々だ。

 受付では女性が二人ほど事務仕事をしており、ブルーノとサミュエルの姿を見て短く挨拶をした。


「訓練後ですか? ご苦労様です」

「あ、はい、どうも……ありがとうございます……」


 年配の女性にそう声をかけられて、自分が軍服姿だったことを改めて思い出した。どこかいたたまれない気持ちになりながら、問診票を受け取り、適当なところに腰をかけた。子供の泣き声が頭に響くのを感じながら、あまり上手いとは言えない字で、フルネーム、生年月日、名前、住所、職業、既往歴、現在の症状等々を黙々と書いていると隣に座っていたサミュエルが、ちらりと用紙を見て、少し驚いた様な表情をした。


「……なんじゃ?」

「あ、いや、すみません勝手に見ちゃって。……えっと、今までかかった病気、多いですね……?」


 申し訳なさそうに眉を下げしどろもどろに零したサミュエルの様子を見て、あぁ、とブルーノは納得した。問診票には、幼年期から少年期にかけてのいくつもの病歴を書き綴ってある。その量が多くて驚いたのだろう。


「まぁの、わし、ちっさい頃はの、病弱でな」

「そうだったんですか? 体格的には結構丈夫そうやのに……あ、すみません」

「よぅ言われることじゃけぇ、気にせんでええ。……わしは昔はもっと細っこくて、病気にかかってばっかでの。……なのに、うちの村はあんまり発展してなくてな。じゃけぇ、なかなかちゃんとした病院行けやんくて、苦労したもんよ」

「そ、そうやったんですね……」

「今体格がええのは昔の反動じゃな」


 サミュエルの、少し驚いた声色が耳に届く。確かに現在かなりがっしりとした体格の男が、元々病弱だと知ったら驚くだろう。自分でもかなりの変化だと感慨深くなるほどなのだから。

 問診票の残りを書き、受付の者に手渡したブルーノは、椅子に腰を下ろして幼少期のことを静かに思い出す。

 ブルーノは、六人いる兄弟姉妹の中でも特に貧弱で、季節的な風邪から内臓に影響のある大病まで様々な病を患った。何かある度に両親は村の医師に頼り、ブルーノの病を治そうと必死だった。村の医師にもどうにもできぬ場合、様々な医師を訪ねることもあった。

 その分、家族には多大なる苦労をさせたため心苦しくはなるのだが――昔、誰かに言われたことを思い出す。

『君のお父さんとお母さんはやさしい人だからさ、君がびょうきになることでおこったりめいわくだっていったりしないよ。きっとだいじょうぶだって』

 安心感のある声でそんなことを言われた気がするか、果たしてそれはいつの話で、誰に言われたのだろうか。待合室でひとり物思いに耽っていると、漸く診察室の方から名前を呼ばれた。


「ブルーノさん、呼ばれましたよ」

「あ、あぁ、ん、ありがと」


 サミュエルの声掛けに朧気に返して立ち上がる。気づけば周りにいた患者は居なくなっており、自分たちが最後らしいと気づいた。診察室と書かれたプレートが提げられた部屋の扉を開ける。

 その先で目にしたのは、椅子に腰掛けて問診票に目を落とす、黒く長い髪の若い女性だった。その姿を捉えたブルーノは僅かに目を丸くする。


――ほんとに、女の先生じゃ……。


 胸の内でそんなことを思いながら短く挨拶をして椅子に腰掛けた。彼女からの応答を耳にしながらちらりと白衣の名札を見やる。そこには『“Tursテュルス Elcianoエルシアーノ”』と書かれていた。彼女はテュルスというらしい。

 テュルスは暫し問診票を見たあと、それを机に置いて、椅子を傾けて正面を向いた。彼女の黒いきりっとした左目がブルーノの方を向く。右目は医療用眼帯に被われていた。

 彼女と正面から向き合って、改めて若い人だとぼんやりと思う。実年齢は不明だが、見た目から推測するに、二十代後半ほどにも見える。

――随分若い先生じゃの……。それやのに医者か、すごい人なんじゃな……。

 そんなことを考えていると、テュルスがおもむろに話を切り出した。


「ここの医師のテュルス・エルシアーノといいます。今回、知り合いに連れられてきたとありますが」

「あ、はい、知り合いが、とにかく病院に行けって……ここに、連れてきて……」

「そうですか。……あぁ、どうぞ力を抜いて、気を楽にして話してください」

「……は、はい……」

「それで、問診票を見るに、どうやら精神的疲労と頭痛が酷いそうですが」

「あ、えぇ、えっと頭痛は昔からずっとなんですけど、精神的疲労は……最近、兄のことで色々あったもので……」

「色々、とは? ゆっくりでいいので、できれば説明してくれませんか」

「あ、はい。えっと……」


 落ち着いた声色に促されて、ブルーノはぽつぽつと語り出す。身内からの協力も得られない中での兄の介護に、不審死事件に兄が巻き込まれたことに対する苦悩。そして、あろうことかそのまま見つからなければいいのにと考えてしまう自分の最悪な心境――そういった、サミュエルにも語ったようなことを時間をかけて彼女に語る。その間、テュルスはブルーノの話を診療記録に纏め、簡単に相槌を打つ程度でいたって真面目に話を聞いている様子だった。

 数分間、サミュエルに語った時よりは、幾分冷静に話を進められたブルーノは、戸惑いながらも静かに話を終えた。


「…………そんな、感じ、です」

「……なるほど」


 ブルーノの話を聞き終えたテュルスは、短くそうこぼして、ブルーノを見る。


「……そうか、貴方の状況は分かった。それは、相当辛かっただろうな。家族の協力も得られないままの介護は、終わりも見えない分苦痛が増す。……あなたはよく頑張ったと思いますよ」

「……でも、つきっきりで見てた訳でも無いのに、そんな……」

「つきっきりでなくても、ひとりで兄のことに対応していたんでしょう、ならば苦痛にも感じますし、酷いことを考えるのも仕方ない。あなたが特別酷い人間というわけではないかと思いますよ」

「ほんと……ですか。……そうですか……」


 テュルスの言葉に改めて安堵し、体から力が抜ける感覚がした。自分が考えてしまったことは決して褒められることじゃないが、サミュエルに続き医師であるテュルスにも言われると、少しだけ気持ちが落ち着いた気がして、ふぅと息を吐いた。


「……では、いくつか聞きたいことがあるんだが、答ええもらっていいだろうか。もちろん、答えるのはゆっくりでいいですし、答えたくないものは無回答でいいので」

「あ、はい、分かりました……」


 テュルスの質問にぎこちなく頷くと、少し間を置いてから、診断のためにと様々な質問が投げかけられる。家族のこと、仕事のこと、私生活のこと等々。時間を掛けつつもそれらに答えていると、とある質問でテュルスの反応が大きく変わる。


「では、普段の睡眠についてはどうですか? なかなか寝付けないとか、睡眠が浅いとか、そういったことは?」

「あー……そういうのはとーから以前からよくあります。なかなか寝付けんなんてしょっちゅうですし、睡眠は、浅いっていうか、寝てる感じが、全くなくて……そんで、寝たら、たいぎぃ……じゃない、えっと、疲れるっちゅうか……」

「……何?」


 ブルーノの話を聞きながら、診療記録を記していた彼女の手がピタリと止まった。訝しげな様子で眉間を寄せた彼女の鋭い視線にその身が硬直し、つい目を逸らした。

 確かに、寝ていないというのは問題だろうが、こんな反応を示されると少し怖くなる。

――これ、この先生怒ってないか……? 嫌じゃな、そんなん言わんだらよかった……。

 しおれるような気持ちを胸に目線を泳がせていると、悩ましげな面持ちのテュルスが改めて訊ねる。


「もう少し睡眠について聞きたい。普段の寝つきはどうです?」

「……全く良くないかのぅ。なかなか寝付けん」

「なら、夜中に目が覚めることは?」

「……頻繁に、ある、かな」

「起きる予定の時間より早く目が覚めることは?」

「……うーん、それも、結構多い、かもしれんのぅ」

「日中時の眠気はどのような感じですか?」

「それは……そんなに、ない、です。眠いときゃ眠いですけど……頭痛やら気持ち悪さやらのせいでこう、関係なくなるっちゅうか…………」


 視線を上方に向け、普段のことを思い出しながら答えていくと、次第にテュルスの顔は険しくなる。その変化に内心焦り、落ち着かない心持ちになり、だんだん言葉が弱くなっていく。

 話を聞き終えたテュルスは、そうか、と独り言を呟いて、今度は頭痛や気分の悪さについて質問をする。いつ頃からか、痛みの程度や頭痛が発生する度合いはどの程度か。ブルーノは、幼少期からの付き合いと言える頭痛等についてあれこれ思い出しながらなんとか回答した。

 それらを聞いた彼女は、眉間に皺を寄せてほんの数秒何かを考えるように黙り込む。そして、やや改まった声色で、ブルーノにとっては思ってもみなかったことを口にした。


「――イングルビーさん」

「は、はい」

「貴方には今すぐ休養が必要です。暫く休暇をとって療養してください」

「…………は? え、な、なんでじゃ……?」


 休養、休暇、療養――そんな言葉に、ブルーノは首を傾げ、自然と疑問を口にした。その言葉にテュルスは厳しく話を続ける。


「何故もなにも、貴方は言わば重病人です。精神的負荷から頭痛、不眠といった形で身体のあちこちに不調を来たしています。その度合いも重度で、放置していいものではありません。検査をし、治療していく必要があります」

「……検査、ですか」

「えぇ。そのためにも貴方には休暇が必要です。診断書は出しますから、職場で休暇の手続きをしていただけたらと」


 静かに語るテュルスの声があまり頭に入らない。昔のような大病を患っている訳でもないのに、重病人だと判断されている。それがひどく衝撃的で、すんなりと受け入れられなくて、胸の辺りでどす黒いものがぐるぐると渦を巻く。

 しかし、その診断を下しているのは医師だ。今はまだどこまで信頼できるかブルーノとしては分かりかねているが、幼少期に世話になった医師たちと比較して、まだいい方の医師だと判断した。

 そもそも、頭痛や不眠には長年苦しめられているのだから、検査で対処法が少しでも分かるならその方がいいに決まっている――そう判断して、ブルーノはその提案を受け入れた。仕事への不安はあるが、それはひとまず後で考えることにした。

 その後、診療所での一時的な入院のための手続きを行い、貴重品や日用品の準備のために一時的に帰宅することにした。ブルーノが世間を騒がせている不審死事件の被害者の関係者ということから、一人でうろつくのは控えた方がいいという提案を受けて、タクシーを呼ぶことになった。

 今回分の会計を済ませ、タクシーが来るまでの間サミュエルと少し話をした。


「……世話になったの」

「いえいえ。こちらこそ急に病院なんて言ぅたんでまずかったかなーという気はしとぅたんですけど、その、ちゃんと検査とかしてもらえるんならよかったです」


 待合室の椅子に腰掛けたブルーノは、本を読んでいたサミュエルに声をかける。彼は、手にしていた本を閉じ、安堵したように言葉を続けた。


「テュルス先生、ちょっと厳しいですけどええ先生なんで、きっとなんとかなりますよ」

「ほうじゃな……まぁ、いきなり入院てのはちょっとばかし、たまげたがの……」

「そうですか? 俺は妥当と思いましたけどね。ブルーノさん、見るからに倒れそうな顔してましたし。よぉ今まで普通に仕事してましたよね」

「……まぁ、これが普通のことじゃったからのう……」

「いやいや……」


 力の抜けた声で言葉を返すと、サミュエルが苦い表情を浮かべた。

 少ししてタクシーが到着したため、サミュエルに改めて礼を述べた。せっかくなので謝礼てして少ないが金銭を渡すと、彼は、大層驚き戸惑い、受け取りを拒否したが、ブルーノと何度かのやり取りをしたあと申し訳なさげに受け取った。


 診療所からタクシーで数分。自宅であるアパートにたどり着いたブルーノは、適当に着替え、ある程度こなれた様子で準備に取り掛かる。入院の際に何が必要かはある分かっているし、アパート近くにタクシーを待たせている。今後の事にあれこれ不安を抱きつつ大荷物を纏めたブルーノは、真っ暗な部屋を後にした。

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