第9.5話 ある家族

「ばいばい! フェリにい!」


 フェリクスがブルーノと顔を合わせた頃より、時は遡る。

 場所は病室の前。そこではウォルトがフェリクスへと振り向きながら、元気よく別れを告げていた。共にいるビルキースも彼に小さく手を振り、病室を立ち去った。続けて、姿が見えなくなってからウォルトに指摘する。


「ところでウォルター様。あまり大きな声を出してはいけませんよ」

「えー、なんでー?」

「他の方を驚かせてしまいますからね」

「そっか、そっかぁ」


 自分なりに理解したようで大きく頷いたウォルトは、笑みを絶やさず廊下を往く。何回か角を曲がり階段を昇るその道順は、ビルキースからすれば大して複雑な道程ではない。しかし、当然ウォルトとビルキースで得手不得手は異なる。ならばこの道はウォルトにとっては複雑に見えるのだろう。苦手なことや出来ないことが思った以上に多い彼のことだ。特に一人で突っ走ったとなれば、混乱も必至である。

――でも、そろそろ落ち着きを覚えてほしいものだけどなあ。

 なんてことをビルキースは漠然と考えながら、なにかに反応し走り出したウォルトを慌てて追いかける。病院の廊下を駆けるのは良くないとか、背広や革靴は運動に適したものではないとか、そんなことを気にしている暇はない。また見失っては一大事で、その先で怪我でもされては敵わない。何よりウォルトは足がとても速い。大人ほどの身長に、しっかりと備わった筋肉、更に運動センスの良さが噛み合った結果か、彼は、特段足が速いのだ。看護婦からの注意を聞き流すことに申し訳なく思いながら、他人とぶつからないよう気をつけつつ慌てて追いかける。

 ウォルトの性質を考慮すれば手を繋いだ方がいいのだろう。しかし体格のいい男同士で手を繋ぐのは如何なものかいう躊躇いもある上に、繋いだところで毎度無意味に振りほどかれるため、進んで繋ぐことは少ない。いっそ紐でもつけるべきかとすら思うが、それはまるで犬猫のようでどうなのかと悩む。

――だからって何もしないのはありえないし……やっぱり周りの目など気にしてたらいけないんだろうなあ。

 僅かに眉を顰めたビルキースは、漸くウォルトの姿を捉え、その先の光景を目にしてはたと足を止めた。

 ウォルトが見上げる先にいたのは、茶の背広を身に纏った背の高い男性。短く整えられた黒い髪と太い眉、それを際立たせる白い肌。そしてなにより左目を覆う医療眼帯が大きな特徴だ。

 ウォルトが明るい笑みを向ける相手を、ビルキースは知っている。ウォルトが反応を見せた相手が見知った相手であったことに安堵の息を吐いたビルキースは、慌てて駆け寄り彼の名を口にする。


「ご無沙汰しております、ラトヴィッジ様」

「よう、久しぶり、ビルキースくん。いつも悪いな」

「あ! ビルにいやっときた! おそいよー!」

「何が遅いだ。お前が勝手に走り出すからビルキースくんが困ってんだろ」

「あだっ!」

「おっと、ごめんごめん」


 ラトヴィッジと呼ばれた男性が、不満げに言葉を零したウォルトの額を指先で弾く。思った以上にといい音を響かせたことから、予想外に痛かったのだろう、ほんの少し赤くなった額を手で押えたウォルトの目に涙が滲む。

 慌てて様子を伺ったビルキースは、ウォルターが泣きださないことに安堵し、続けて困ったようにラトヴィッジに目を向ける。


「大丈夫ですか、ウォルター様。ラトヴィッジ様、あまりこういうことはなさらないでください」

「はは、悪い悪い、つい、な。ごめんなぁ、ウォルト」

「うー、ひりひりするー」

「どれだけ力込めたんですか」

「いや、ほんと軽くのつもりだったんだけどな……ごめんなウォルト」


 苦い笑みを浮かべてウォルトの頭を撫でる彼の名は、ラトヴィッジ・マスグレイヴ。十歳以上年齢が離れているウォルトの三番目の兄である。陽気な気質の人物だが、時々手が出ることもあり、嘗てのウォルトは頻繁に泣かされていたものだ。

 ごめんなぁ、と再度ウォルトの頭を撫でたラトヴィッジは、思い出したように話を切り出す。


「そういえば、二人ともどうしてここに?」

「私達は、アガサ様の見舞いに来たんです」

「あぁ、俺もなんだ。なら一緒に行こう」

「うん!」


 ラトヴィッジの言葉に顔を輝かせたウォルトは、額の鈍い痛みなどどこへやら。あっという間に気持ちを切り替えて足取り軽く病室へと向かった。

 因みに、余談ではあるが、ウォルトが最初走り出した理由は、『友達の姿が見えたから』だったようで、ラトヴィッジではなかったらしい上に、その友達はいつの間にか姿を消していたらしい。妙なこともあるものだとビルキースは思った。


 それから暫く三人で廊下を歩き、とある病室に辿り着いた。そこが当初の目的であったウォルトの五姉であるアガサの部屋。扉のネームプレートには、“Agatha Musgrave”と簡素な字が綴られていた。


「アギねえ、おきてるかな?」

「どうでしょう。お目覚めだといいですね」


 足を踏み入れた先は、動物のぬいぐるみなどの可愛らしいものから、友人からの手紙や寄せ書きなどの多くの見舞い品が置かれた広々とした部屋。そこにある簡素な白いベッドに一人の少女が横たわる。褐色肌に、さらさらとした青みを帯びた鮮やかなミディアムヘアの髪が枕へと広がっている。瞼は閉じられ、瞳の耀きは見られず、ウォルトはしょんぼりと顔を曇らせる。


「アギねえ……まだねてるの?」

「みたいだなぁ。こりゃ残念だ」

「なんでー? なんでアギねえおきないのー?」

「それは兄ちゃんには分かんねぇわ。お医者さんに聞かないと」


 悲しげに口にするウォルトに、ラトヴィッジが肩を竦めて返答した。

 アガサは、今年に入ってからの冬に、繁華街で発生した大規模な事故に巻き込まれ重傷となった。死傷者が何人も出た悲惨な事故は、当時紙面を大きく賑わせた。目撃者は『車が暴走し、何人もの人々が轢き殺されても一向に止まることはなかった』と証言し、現場の痕跡から意図的に誰かに危害を加えようとした可能性が示唆された。しかし何ヶ月経っても加害者は不明のまま、遺族側の気持ちも虚しく、事件は忘れ去られつつある。

 アガサは、当時学校より友人と帰宅途中だった時に巻き込まれた。命こそ助かったものの身体への影響は計り知れず、事故から幾ら経っても目が覚めることは無い。

 彼女を心配し回復を願う者たちの心境はいかほどか。そして何故この家族ばかりがこんな目に遭うのか。苦しさを胸に、ビルキースはウォルトと話すラトヴィッジに目を向けた。そう、彼もまたこの事故ではないにしろ、被害者である。


 ラトヴィッジは、嘗ては陸軍に所属する軍人であった。武勇を轟かせた父に憧れた彼は、必死に勉学と訓練に励み見事士官としての道を歩み始めた。

 しかし彼は、幼い頃から何故か異様に。日常生活に於いても訓練等に於いても、やたらと不運な目に遭う。

 ものを買うために店に行ったら自分の前で丁度売り切れになるだとか、やたらと厄介事に巻き込まれやすいだとか、そういったことは日常的茶飯事。外出すれば頻繁に轢かれそうになり、訓練に於いても大なり小なり怪我や事故が発生しやすかった。

 そのためか、何故か事故や事件に遭いやすい兄弟姉妹の中でも、彼は飛び抜けて事故に遭い、数々の負傷を経験した。故に嘗ての仲間からつけられた渾名が『ついてないマスグレイヴ』らしい。だが彼はその渾名をさほど気にせず、『なんであれ生きているのだから俺はついてる。強運だ』と軍人としての勤めを果たしていた。しかし昨年、そうも言ってられない状況に陥る。

 ある日突然、見知らぬ大男に襲われ酷い暴行を受けた彼は、数日姿を眩ませた後、命からがら生還した。まるで戦地から帰還したかのように満身創痍だった彼は、左目を失い左腕足を大きく負傷した。現在彼は義眼と眼帯を併用し、義肢も使用している。

『今度こそ本当に、死ぬかと思った』

 いつも陽気な彼が、顔を真っ青にして怯える様は、まるで別人のようだったと、彼の兄から聞いた。

 ラトヴィッジはその後退役し、現在は親族が経営する海運会社に勤めている。退役せざるを得なくなったことこそ悔しがっていた彼だが、この仕事もやり甲斐があり楽しいものだと言っていた。


 ラトヴィッジが仕事にやり甲斐を感じているのはいい事だが、何故こうも彼等兄弟姉妹には不幸なことが起こるのだろうと、ビルキースは考える。 

 ビルキースは言わばウォルトの護衛として日々同行しているが、ウォルトの性質も相俟ってか、彼もまた危険な目に遭いやすい。

 世間では、不審死事件だとかヨーロッパでの戦況とか、そういったことを大々的に取り上げているが、ビルキースとしては、一刻も早く、彼等をこんな状況に陥れた加害者を見つけて裁いてほしい気持ちでいっぱいだった。

――大事な人が死んだり、事故に遭ったりするのは、もう、見たくない。これ以上ウォルター様たち御家族に、苦しい思いをしてほしくない。

 ビルキースの脳裏に、7年前にこの世を去った最愛の人の姿が浮かぶ。その人だって、本来ならば今も夢のために努力を続けていた筈だ。

 今そこで横たわるアガサもそうだ、と彼女にふと目を向ける。事故に巻き込まれなければ、彼女は友人たちと穏やかに学生生活を謳歌出来た筈だ。それなのに、何故こんな風にいつまでも眠り続けなければならないのか。

 自分のせいでは無いとはいえ、悔しい、悲しい、とビルキースは思わず拳を握りしめる。そんな時、意識の外より聞こえたラトヴィッジの声でビルキースははっと我に返る。


「ビルキースくん、大丈夫か?」

「え、あ、はい。失礼しました。なにか御用でしょうか」

「いや、用って程ではないんだけど……なんか考え込んでるから、大丈夫かなって。もしかして、ソロモンのこととか思い出してた?」


 ラトヴィッジの口から出た名にピクリと反応したビルキースだったが、それ以上大きな動揺を見せることなく言葉を返す。


「いえ、ただ……また、ラトヴィッジ様やアガサ様のように事故や事件に巻き込まれることがあればどうしようかと、思って」

「あぁ……まぁ、なんでみんなこんなに事故に遭うのかね。不運なのは俺だけでいいっての」

「そんな……ラトヴィッジ様も不運でいいわけがありません」

「……なんにしろ、せめて俺みたいな、何があっても無事! っていうような強運が皆にもあればなあ、とは思うよ。ほんとにな……」


 物憂げなビルキースの言葉に、納得した様子のラトヴィッジは、それ以上なにも聞かずに悲しげに息を吐く。そして、ベッド脇にしゃがみこみアガサの様子を窺いつつ彼女の頬を引っ張るウォルトを止めに向かった。

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