第52話 偽物ではなく、本物の天使は翼をしまう 2

 石化したように立ち止まったハロルドのせいで、油断していたビヴァリーはあやうくつんのめりそうになったが、何とか腕にしがみつき、転がらずに済んだ。


「どういう意味だ?」


 天国に近い聖なる場所のはずだが、まるで地獄の底から聞こえてきたかのような声音で問われ、ぼそぼそと言い訳する。


「その……色々と、違ったかもと思って……指輪も交換しなかったし、証明書にもサインしていないし……本当に結婚したのかなって思ったり……?」


 ハロルドが無言でくるりと後ろを振り返ると、祭壇にまだ残っていた司祭が微笑む。


「何か懺悔したいことがあるようでしたら、お聞きしますよ? グラーフ侯爵さま」


 頷いたハロルドは、ビヴァリーを引き摺って祭壇の前へ進み出ると、跪いて俯いた。


「五年前にビヴァリーを男だと間違ったことから始まって、施しを与えるように、金貨二枚を放ったことや、話を聞かず一方的に結婚を決めたことなど、数えきれないほどたくさん過ちを犯し、間違った行いをしました。何より……ありもしない事実を勝手に信じ、ビヴァリーのことを蔑み、本当ならば愛情のもとに行われるべき神聖な行為を欲望と怒りで穢したことを深く後悔しています」


 そこまで一息に言ったところで顔を上げ、まっすぐに司祭を見つめて宣言した。


「過去にしたことは取り消せませんが、いかなるときでもビヴァリーを愛し、敬い、命ある限り、心を尽くすことを改めてここに誓いたいと思います」


 司祭は呆気にとられたような表情をしていたものの、穏やかな笑みを浮かべて茫然としているビヴァリーに問いかけた。


「ビヴァリー。あなたは夫ハロルドを許し、いかなるときでもこれを愛し、敬い、命ある限り、心を尽くすことを改めてここに誓いますか?」


「は、はいっ……誓います」


 ビヴァリーは勢いでつい、反射的に答えてしまった。


「では……誓いのキスもしておきますか?」


 司祭の問いに、ハロルドが即答した。


「もちろんだ」


 素早く立ち上がったハロルドは、ビヴァリーを抱き寄せるとしっかりと唇を合わせてキスをした。


 ビヴァリーは、思いがけないハロルドの行動に戸惑いながらも、嬉しさが込み上げるのを感じた。


 しかし、ハロルドが結婚式に相応しい慎ましやかな域を超えたキスを始めたことに慌てた。


(やりすぎでしょっ!)


 ビヴァリーがジタバタ暴れてもしばらくやめようとしなかったハロルドだが、さすがに司祭が咳払いするとようやく解放した。


「すっきりしましたか?」


 司祭の笑顔の問いに、ハロルドは貴族らしい尊大な表情で「今のところは」と答えた。



◇◆◇



 テレンスとマーゴットの結婚式が終わった後、教会の庭――庭とは名ばかりの単なる空き地で、ちょっとした料理が振舞われた。


 シーツをテーブルクロス替わりにしただけのガタガタ言う粗末な木製のテーブルには、ビヴァリーを含むマーゴットの友人たちが用意した食材を使い、孤児院の子どもたちや世話係の女性たちが作った軽食が並んでいる。


 バターを塗っただけのパン、ローストビーフとは名ばかりの絶対別の肉だと思われる代物や小さなスコーン。メインの魚がほとんど見当たらないフィッシュアンドチップス。苦い紅茶も用意されているが、砂糖とミルクを巡る争奪戦は、国境紛争以上の激しい戦いになっている。


 王宮や貴族の食事と比べれば、アフタヌーンティーとも呼べぬほどの質素なものではあったが、子どもたちが実に美味しそうに食べるので、一流の料理人が作りでもしたのかと錯覚しそうになる。


(ちょっとした異世界だな……)


 ハロルドは、見慣れぬ光景を前に、やや動揺しながらもそれを楽しんでいる自分に気付き、すっかりビヴァリーの逞しさに感化されていると思った。


 さほど空腹でもなく、また得体の知れないものは口にしないという軍隊生活の習慣から苦い紅茶を飲んでいると、司祭が話かけてきた。


「マーゴットから聞きましたが、先日のブレント競馬場のレースでは、奥様が大活躍したそうですね?」


「え……ああ、まぁ……」


「結婚式ができたのは奥様のおかげで、奥様はマーゴットにとって幸運の女神だそうです」


「確かに……ビヴァリーに賭けていたら、そう思うでしょうね」


 ハロルドがそうであったように、ビヴァリーに賭けていた人々は、あのレースで少なくない儲けを得たはずだった。


 司祭はそれだけではないと苦笑した。


「新郎との出会いも、奥様のおかげだとか。奥様と知り合ってからのマーゴットは、昔と違って幸せそうで、よき友は、よきものを与えてくれるものなのだと、改めて思いました」


「マーゴットとは、知り合いで……?」


「先代の司祭の子です」


 ハロルドが驚きに目を見開くと「いえ、血を分けた子ではありませんよ」と苦笑された。


「マーゴットは、十三歳までここの孤児院で育ったのです。ここの子どもたちは、病などがない限り、働けるようになったら孤児院を出て行きます。まだ保護が必要な子どもにパンとベッドを譲るためと言っていますが……綺麗事です。できる限りまともな就職先を世話するのですが、雇い主や同僚と上手くいかずに辞めてしまったり、仕事が辛くて逃げ出したりして、行方がわからなくなる子どもはとても多い。マーゴットも、そうでした」


 まだ若く、自分と同じくらいの年齢ではないかと思われる司祭は、穏やかな笑みを浮かべていたが、なぜかその横顔は厳しく、険しいものに見えた。


「ひと月前、結婚式をしたいと訪れてくれたのですが、先代の司祭が亡くなったと知ると、ひどくショックを受けていました。毎月、欠かさず寄附をしてくれていたのですが、司祭に合わせる顔がないと思って、足が遠のいていたことをとても後悔していました」


 マーゴットがなぜ長らく教会を訪れなかったのか、司祭は語らなかった。


「心が清らかであればあるほど、己の一点の曇りも許せないものなのかもしれませんね」


「傲慢なものほど、相手に見えるほんの少しの曇りも許せないのかもしれない」


 ハロルドが自嘲を込めて呟くと、司祭はビヴァリーに飛びつくようにしてまつわりついている子どもたちの様子に微笑みながら、頷いた。


「人の目は、前を見るようにできていますからね。横や後ろ、上や下を見るためには、わざわざそちらを向かなくてなりません。前から見ればただの汚れでも、見方を変えれば美しい模様に見えるかもしれない。もっとも……侯爵さまはどの角度から見ても、天使のごとく美しいですがね」


「…………」


 ハロルドが、からかうのはやめてくれと睨むと、司祭はくすりと笑った。


「マーゴットは、天使には見えないと言っていましたが……」


 司祭の視線の先を追ったハロルドは、新婦である黒猫マーゴットが研いだばかりの爪の威力を試しそうな形相で近寄って来るのを見て、身構えた。


 辺りを素早く見回した黒猫マーゴットは、すっとハロルドに身を寄せると、ぐいぐいとウエストコートのポケットに何かを押し込んだ。


「これ、あんたが預かって」


 怪訝な顔をすると、新婦に似つかわしくない、憂い顔で囁く。


「ビヴァリーの父さんのシルクハットの内布に仕込まれてたのよ。ちゃんと綺麗に縫われていたから、分解するまで気付かなかった」


 驚きながらポケットを探ると、折り畳まれた紙片と指輪らしきものが指に触れた。


「ビヴァリーの母さんじゃないかと思う」


 諦めかけていた手掛かりに、ハロルドが中身を確かめようと口を開きかけるより先に、マーゴットが否定した。


「中身は読んでない。でも、指輪は女物だし……イニシャルがそうだから。ビヴァリーに渡すかどうかは、あんたが決めて。私じゃ、詳しいことがわからないし……知らせるべきかどうかも決められないから」


 それだけ言うと、マーゴットはさっさと身を翻した。


 子どもたちと楽しそうに話しているビヴァリーがこちらに気付いていないことを横目で確かめながら、ハロルドはポケットから紙片を取り出そうとしたが、司祭が腕を掴んで止めた。


「うっかり風に飛ばされては大変です。熱いお茶を一杯、お飲みになりませんか?」


 確かに、誰に見られてもかまわない内容なら、わざわざシルクハットの内側に仕込んだりしいないだろう。


 ハロルドは、司祭の厚意に甘え、孤児院の厨房へ向かった。


 まるで百年前からそのままではないかと思われる厨房の様子に驚きつつ、司祭が湯を沸かす用意をしている間に、ポケットから紙片を取り出す。


 紙片と思ったものは封筒で、その乾いた質感から、シルクハットの中で発見されるのを長い間待っていたのだろうと思われた。


 折り畳まれた封筒を広げ、乾ききった封蝋を破ると、中には、一枚の便箋が入っており、ぎこちない文字が連ねられていた。


 先に署名を確かめると、マーゴットの予想した通り、デボラの名が綴られていた。


『私は、マクファーソン侯爵チャールズという男に唆され、償いきれないほど、愚かなことをしてしまいました。


ある日、チャールズに言われて馬を買いたいと言う商人の男を夫のラッセルに紹介しました。

夫は何か気に入らないことがあるらしく、その男には売ろうとしませんでした。


ところが、男はしつこく訪ねて来て、何度夫が断っても引き下がらず、とうとう売る気がないなら盗むと言い出しました。


チャールズの指示だと言って、夫に呑ませるスープに入れるよう、私に眠り薬を渡しました。


あんなことになるなんて思ってもいませんでした。


商人の男は、馬を盗もうとしたとき、妊娠していた牝馬の出産が始まり、夫に気付かれたので火を放った。夫は逃げられたはずのなのに、自分から炎の中へ飛び込んで行ったのだから、焼け死んだのは自業自得だと言いました。


その後、男から渡された眠り薬を棄てた場所で、数匹の猫が死んでいるのを見つけました。


すべては私の愚かな行いが招いたことです。


私が、夫の優しさに付け込んで、偽りの誓いを立てたせいです。


その偽りの誓いさえも守らず、手にできたかもしれない暮らしを求め、愚かな真似をし続けたせいです。


ビヴァリーは、善良で優しく思い遣り深い夫、ラッセルの子です。

冷酷で、傲慢な貴族の子ではありません。


私の罪は、私だけのものです。


神よ、


私は逃れることはできないでしょうが、負の連鎖がビヴァリーに及ばぬよう、残忍な男の手からあの子をお守りください。


どうか私の分まで、あの子に神のご加護をお与えください。 



デボラ』


 ハロルドは、詰めていた息を吐き、便箋を封筒に戻すと額に落ちる髪をかき上げた。


 探し続けていた答えがもたらしたのは、安堵ではなかった。


 なぜデボラが、上流階級の仲間入りをしたがったのか。

 金や身分に執着するデボラが、なぜラッセルのような男と結婚したのか。


 その答えがここにあった。


 デボラとマクファーソン侯爵の関係は家令も知らなかったようだし、ラッセルが誰かに話したとも思えないが、きっと疑いは持ち続けていただろう。


 ただ、迂闊な真似をすれば、逆に五年前の火事やデボラと自分との繋がりを探られかねない。


 だからこそ、遠巻きにして様子を窺っていたのに、バルクールがコルディア産の馬を売り込むという自分の利益を優先し、下手を打った。


 馬丁の男にビヴァリーを襲わせたのも、競馬場でビヴァリーを監禁したのも、バルクールの指示であり、自分は一切関わっていないと言うマクファーソン侯爵の主張は正しかったのだ。


「懺悔が必要ですか?」


 湯気の立つ紅茶を差し出す司祭に、ハロルドは尋ねた。


「……真実は、必ず明かされるべきだろうか?」


 司祭は「必要ならば」と即答した。


 ハロルドは、重ねて問いかけた。


「たとえどんなに恐ろしい罪を犯した人物でも、実の父親ならば知りたいと思うだろうか? すでに、自分を深く愛してくれて、尊敬できる素晴らしい養父がいても?」


 司祭は、少し考え込んだものの熱い紅茶を一口飲んだ後、逆にハロルドに問いかけた。


「あなたは、どうして父親を父親だと思っているのですか?」


「え……?」


「我々は、等しく神の子です。ですが、それを証明する手立てはありません。ただ信じ、祈るだけです。血を分けたものは、確かに生物学上の父親ではあるでしょう。そちらの父親を選ぶことは不可能です。しかし、誰を父親とみなすかは、また別の話です。ここに住む子どもたちの中には、私を父と思う子もいるでしょうし、この先巡り会う別の誰かを父と思う子もいるでしょう。もし誰も父と思える人物に巡り会えなかったとしても、神という父がいます。父と信じられる人物が一人でもいるのなら、そしてその人を愛することができるなら、それはとても幸運で、幸せなことではないでしょうか。……それ以上の幸せが、必要でしょうか?」


 司祭は、沈黙するハロルドに肩を竦めてみせた。


「もっとも、そこに秘密があるとなれば、人は知りたくなるものですし、真実を隠蔽するのは褒められたことではないでしょう。ただ……綺麗事を言うのも私の仕事の一つですので」


 冷めてしまう前に紅茶を飲んでしまうよう促しながら、司祭はハロルドが手にする手紙に目を遣り、それまでの穏やかな声とは違う、低く暗い声で尋ねる。


「どんな聖人であっても、墓場まで持って行かねばならない秘密の一つや二つはあるものです。お望みとあらば、今ここでその手紙を抹消いたしますが? 少佐」


 こんなところで聞くとは思っていなかった呼称に目を見開くハロルドに、司祭はニヤリと笑う。


「下っ端でしたので、直接お目にかかることはありませんでしたが、少佐のおかげでコルディアでは命拾いをしました」


「嘘は、得意ではないし……意外と鋭いから見破られそうだ」


「あなたが言うことなら、奥様は信じるでしょう。それに、嘘を吐く必要があるのでしょうか? 故人の望みを叶えるだけでも?」


「……まるで読んだようなことを言う」


 透視でもしたのかとハロルドが揶揄すれば、司祭は苦笑した。


「少佐は、油断していると顔に出るようですよ」


 ハッとして頬を撫でれば、微笑みながら手を差し出す。


「奥様に伝えてくれとは、ひと言も書かれていなかったのでは? 死を予感した人が秘密を暴露する理由の一つに、その秘密を守り続けてほしいと願っている場合もあると思いますが」


 ハロルドは、大きく深呼吸した後、読み終わったばかりの手紙を司祭へ手渡した。


 司祭は、ハロルドが止める間もなく古びた竈へ手紙を放り込んだ。


 乾いた紙は、あっという間に燃え上がり、灰になって消えた。


「人が抱える秘密の重さに押しつぶされそうになったとき、話を聞くために我々がいるのです。秘密の重さは人それぞれで、神以外の誰も分かち合うことはできませんが……ようは気の持ちようです。軽くなったと思えば軽くなる」


 にっこり笑う司祭に、ハロルドは苦笑するしかなかった。


「その時は……頼む」


「ええ。扉は、いつでも開いています」

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