第30話 受験

受験




刑務所の中で有り余っているのは唯一時間だ。


その為、例年なら刑務所から送る年賀状は凝った絵手紙をたっぷりと時間を掛けて作成するのだが、昨年は葵さんの不幸も有った事で、今年は翠が喜びそうな絵を描いて送る事も出来なかった。


その代わり…正月休みの殆どの時間を費やし、葵さんの死を乗り越え、今年は翠にとって最高の年に成る様にと、精一杯の思い遣りを込めた手紙を書いた。


そして僕は思う。


もしかすると翠は、僕が送った全ての手紙を、読んでさえ居ないのでは無いだろうか。


確かめる方法は一つだけ。


何か送って欲しい物を手紙に書いて頼むしかない。


僕はまだ充分に残っているにも関わらず、82円の記念切手を送って欲しいと手紙に書いた。


正月休みが終わった一番最初の発信日に、僕は翠宛の手紙を送った。


10日も待たずに80枚の切手が送られてきた。


発信の為の検閲を受け、更に届いた差し入れの検閲を受ければ、その速さは間髪入れずにと言っても過言では無い。


僕は差し入れと同封で、何かしらの手紙が有るのでは無いかと期待をしたが、送られて来たのはいつも通り、差し入れの切手だけだった。


差し入れが有った旨の告知を受けた二日後、その現物が僕の手元に届いた。


その切手を見て、僕はまた沈んだ気持ちになる。


なんなの変哲も無い、白地にただ82と印刷された日本郵便の切手が80枚綴りのシートで送られて来た。


何時もなら僕が喜びそうなキャラクターや、何かしら所縁のある風景が印刷されている記念切手を、選りすぐって送ってくれると言うのに、ただ通常の切手とは違うと言うだけの無機質な白い切手を翠は送って来た。


翠の気持ちが透けて見える様で、僕はまた不快な気持ちになった。


どうやら翠は、もう僕の為に切手すら選ぶ気にならない様だ。


それに…80枚と言う数の多さもどうだ。


このまま真面目に務め上げれば、10月か11月には仮釈放でここから出られる可能性もあると言うのに、月に5通しか発信が許されていない僕に、何故80枚もの切手が必要なのだろう。


つまり、翠は何も考えていないのだ。


僕が何時帰って来るのかさえ、今の翠にはどうでも良い事なのかも知れない。


そう思うと、折角の翠からの差し入れも、ただ気分が悪いだけで、頼まなければ良かったとさえ僕は思うのだった。




行って、逃げて、去ってとは良く言うが、年が明けてからの時間の経過は驚くほどに早い。


況してや、その時間の経過の先に受験と言う不安を抱えていると有れば尚更だ。


3月の最終日曜日、全国一斉に整備士の資格試験のテストが開催される。


僕達受刑者は試験会場に行く事は出来ないが、晴見自動車整備工場の2階にある教室に、自動車整備振興会の試験官が来て、娑婆の試験会場と全く同じ条件で、試験は行われる。


実を言えば…三級整備士の試験より二級整備士の試験を受ける方が遥かに気が楽だ。


まあこれは個人的な意見なのかも知れないが、三級の試験を受けた時には、問題に出て来る例えばオルタネーターだとか、プラネタリギアなんて物が一体何物でどんな働きをするのかさえ分かっていなかったが、少なくとも白紙の状態から四年間は実務経験を積んだ今では、試験問題の中で何を聞かれ何を答えれば良いのかが分かっている。


だからと言って容易に合格出来る物ではないが、2月の終わり頃には、今年の三級整備士の試験を受ける訓練生の勉強を見てやれるだけの余裕も生まれた。


今年度の自動車整備科の訓練生は、7人全員が懲罰などで脱落する事なく、受験までこぎつける事が出来た。


その大きな理由としては、キチガイ副担当の佐藤が居ない事が一番大きいのは明らかだろう。


自動車整備工場で働いて居るとはいえ、板金塗装や況してや洗車などに整備士の資格はあまり必要では無い。


晴見自動車整備工場の中で、唯一整備士の資格を活かして働いている車検整備班の班長を任されている僕なら、どんな問題でも答えられると思っているのか、毎日入れ替わり立ち代り訓練生達が、僕の元に問題の解き方を質問に来る。


舎房に帰れば同室の松崎に付きっ切りで、算数の分数から教える始末。


試験で躓くのは殆どの場合が計算問題だ。


分数さえ分かっていればそれ程難しい事も無いのだが、それぞれの法則が分かっていなければその答えも導き出せない。


例えば電気の合成抵抗を求めるには「オームの法則」圧力を求めるには「パスカルの法則」を覚える必要が有る。


その他に4気筒4サイクルエンジンのバルブクリアランスを調整する方法など、ただ机の上で勉強しただけでは理解し難い問題の解き方を、僕は訓練生達に教え、更には自分の勉強も疎かにする訳にはいかず、結果試験当日まで慌ただしい毎日を送っていた。


翠の事であれこれと考え込んでいた筈が、気が付けば試験勉強に没頭し、一時では有るが翠の事を忘れる事が出来た。




3月の最終日曜日、予定通り整備士の資格試験が行われた。


一口に整備士の資格と言っても、その内容は幾つかに分類されている。


ガソリンエンジン

ディーゼルエンジン

シャシ

自動二輪

等だ。


府中刑務所では、三級の訓練生達はガソリンエンジンとシャシの試験を受けるが、飛び入りで参加した僕はガソリンエンジンの二級だけを受験する事になっている。


午前中にシャシの試験が有り、僕は昼からのガソリンエンジンの試験に備え、舎房での待機だった。


どんなに自信があっても、試験の直前は何時だった緊張が付き物だ。


同房の者とバカ話でもして笑っていれば気も紛れるのかも知れないが、松崎はシャシの試験で既に試験会場となっている工場の教室に行っている。


残っているのは僕の大嫌いな菅野だけ…こんな鼻持ちならない野郎と口を利くくらいなら、一人で緊張と闘っている方が余程マシだ。


僕は私物棚から写真の携帯袋を取り出し、テストの時間が来るまで写真を眺めている事に決めた。


捕まる前、僕と翠は翔太を連れて草津の温泉に日帰りで行った。


途中で寄った渋川の釜飯屋…「時代屋」と言う名に相応しい古民家を改造した店。


その暖簾の前で僕と翠が笑っている。


もちろんシャッターを押したのは翔太だ。


普通なら「チーズ」と言ってシャッターを押すのに、翔太はふざけて「はい、キムチ」と言ってシャッターを切った。


だから…その写真は僕も翠も弾ける様な笑顔だ。


幸せだった…翠も翔太だって同じ気持ちだった筈だ。


その幸せな時間をぶち壊したのは…紛れも無いこの僕だ。


目を瞑ると、その日の翠の笑い声や、車の助手席でうたた寝をする翠の息遣いまでが聞こえる様だった。


翠の今の気持ちは、幾ら鈍感な僕だって肌で感じた分だけ察しがついて居る。


それは諦めに近い…。


翔太はどうなんだろう。


僕と翠が別れる事は「もう二人だけの問題では無い。翔太の気持ちも考えろ」と言ったのは翠だ。


僕の浮気が許せないと言った翠の気持ちも分からないでは無い。


でも、翔太は男同士だ。


二度と僕の顔も見たく無い程に、僕を嫌っているとは思え無い。


何事も翔太ファーストの翠が、僕の事を父親の様に思ってくれて居る翔太の気持ちを無視し、強引に僕と別れるなんて事をするだろうか。


もし本当に僕と別れて仕舞えば、翔太は二度も父親を失うことになるのだ。


そんな事は、いちいち僕が説明しなくたって、翠ならとっくに気が付いて居るはず。


翠、翔太、吉川和也、大沢社長、僕の手の中にある20枚ほどの写真の中に映り込んだ人物達…。


一番上の写真を一番下へ、そしてまた一番上の写真を一番下へ…。


順繰り、順繰りと写真を回して居るだけで、僕の目には何も映ってなどいない。


試験の緊張を和らげるつもりで取り出した写真は、僕の胸にザワつきを感じさせるばかりで、あまり役には立たなかった。




二級整備士の試験は拍子抜けするほど簡単だった。


僕が三級整備士の資格を取った時と試験そのものの形式が変わり、いちいち答案用紙に答えを書き込む従来のテストでは無く、一つの質問に対し四つの答えの中から正しい物を選び、マークシートを塗り潰す所謂四択と言うシステムに変わっていた。


問題に対し、必ず正しい答えがそこに有るのだから、こんなに親切な事はない。


難解で分かりづらい問題も、消去法で明らかに違う答えを削除して行けば、四択が三択に、三択が二択にとなり、残ったものが答えになる為、実力以上の点数が取れるのは説明するまでも無い。


更に計算問題に至っては、電卓の使用が認められる様になり、今まで必死に覚えて来た分数や、約分をする為の素数の倍数などを、どうしてくれようか…と言いたくなるほどの呆気無さだった。


試験終了とともに、僕はこの二級自動車整備士の試験に合格して居る事を確信していた。


とても晴れやかな気持ちだった…試験が終わったその瞬間は…。


試験会場となった、晴見自動車整備工場の2階に有る教室から舎房に戻り、先ず始めた事は試験の答え合わせだ。


三級整備士の試験を受けた松崎の回答を見てやると、シャシもガソリンエンジンもまずまずの出来で、合格ラインの70パーセントは確実にクリアして居る様だ。


試験当日まで、付きっ切りで教えていた僕も、何かしら達成感の様なものを覚えた。


松崎もよほど自信が無かったのだろう。


聞いてるこちらが恥ずかしくなる程の言葉で感謝を僕に伝えてくれた。


僕の方の答案も試験会場で確信した通り、ほぼ満点ではなかろうか…と言う出来だった。


そうなると…この喜びを一刻も早く誰かに伝えたい。


その誰かとは、僕の場合、言わずと知れた翠以外には居ない。


便箋と封筒を取り出し、いざ机に向かって見たが何一つ言葉が浮かんで来ない。


一年間、必死に努力している事を伝えて来たと言うのに、終ぞ一言の励ましの言葉もなかった翠が、僕が二級整備士の資格試験に合格した事を伝えたところで、果たして喜んでなどくれるのだろうか…。


それに…どんな風に手紙に書けば良いのか…。


この一年、一言でも「頑張れ」と何かの形で僕に言葉を投げかけてくれて居たなら、僕は「翠が励ましてくれたから頑張る事が出来たんだ」と感謝の手紙を書く事も出来ただろう。


しかし、二級整備士の資格試験を受けるに当たり、翠の存在が精神的負担になる事は有れ、何かの助けになった事は一度も無かったのだ。


そんな相手に、どうやってこの喜びを伝えられると言うのだろう。


「前略」とだけ書かれた便箋を長い事見つめて居たが、僕は遂に手紙を書く事を諦め、読みかけの小説のページを開いた。

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