第29話 鬱




紅白歌合戦が始まり、あともう少しで今年も終わる。


この刑務所に来て、あっという間の一年が過ぎていた。


翠と付き合い出して10年、こんなに長く翠を身近に感じられなかった事など一度も無かった。


僕は毎月、欠かさずに手紙を書き続けた。


その全てを翠は黙殺した。


翠は、親友の吉川和也や、大沢社長には僕と別れるとは一言も言って居ないらしい。


ならば…やり直す気持ちが無いわけでは無いと解釈して良いものだろうか…。


しかし、人間は無視される事が一番精神的に傷つき、更には相手を恨む一番の切っ掛けにもなり兼ねない。


この空白の一年を、翠はどうやって埋める積りなのだろう。


幾ら楽天的な僕の性格を以って考えたとしても、翠に僕とやり直す意思など感じる事は出来なかった。


ならば…何故翠は吉川和也や大沢社長と連絡を取り続けるのだろう。


確かに僕が刑務所に入ってる間、何か困った事が有れば吉川に相談する様に言った。


でもそれは、僕と翠の将来が続いている事が前提の話で、別れると決心をしたのなら、その相手の友達とだって関係を持つべきでは無いと僕は思う。


逆の立場ならと考えれば簡単に理解出来るはず。


このまま本当に別れたとして、僕が翠の仲の良い女友達と頻繁に連絡を取り合い、時には食事に出かける事を翠が快く思うだろうか…。


「私は良いけど貴方はダメ」


そんなルールが世の中にあって良い訳が無いのだ。


こんな筈じゃなかった…。


あの日、東神奈川のスターダストで…。


二人でお気に入りの冷えたキールとバーボンソーダを飲みながら「余程の事が無ければ二人は別れない」と言ったのは翠の方だ。


「刑務所に行く事になったから別れて欲しい…」そう言った僕に「待っててあげるから、刑務所に行って来なよ」と言ったのも翠だ。


だからこそ僕は、自分の位置情報を警察に察知されるのを分かりながら、スマートフォンの電源を入れた。


そうじゃなきゃ…僕は逃げられる所まで徹底的に逃げ、今でもまだ娑婆で面白おかしく遊んで暮らしていたかも知れない。


7年逃げ切れば事件だって時効だ。


そりゃあ尻に火が付いて警察から逃げ回っていれば、毎日が新たなる事件の時効の更新かもしれないが、僕の人生に翠や翔太が居ないのなら、僕は破滅的な人生を送る事になんの躊躇いも無い。


これでは体の良い追っ払いと同じじゃ無いか。


別れ話が拗れるのが嫌で、僕を刑務所に追い払ったのだろうか…。


それとも…貴子に対する嫉妬がそうさせたのか。


何れにしたって、こんなやり方はない。


余りにも冷酷で血の通った人間の所業とは思えなかった。


日増しに翠に対する愛情が、憎しみに姿を変え始めていた。


その一方で、僕はまだ翠を諦め切れずに居る。


確かに二度とやらないと約束した覚醒剤を使い、貴子と言うセミプロの女とキメセクにハマっていたのは紛れも無い事実。


どんなに自分を正当化してみた所で僕が有利な状況など一つもない。


大沢社長に言った「今は懲らしめるため」と言う言葉が翠の本心ならば、僕を無視し、精神的に追い詰める事に成功している今の状況は、正に翠の狙い通りなのだろうか…。


刑務所と言う特殊な環境の中、誰もがただ時間が過ぎる事だけを何もせずに待ち、余暇時間の大半をテレビを観るか、馬鹿話に花を咲かせ、成り行き任せで刑期の終了を迎える。


その中で、一握りの人間だけが将来を見据え、簿記や危険物、或いは販売士と言った資格の取得に励み、また一握りの者が職業訓練などで技術や知識を身につけ、ハローワークなどに求人募集をしている協力雇用主と話し合い、出所したその日から働ける努力をするのだ。


僕は今、翠や翔太に二度と悲しい思いをさせない為に、今僕の出来る最大限の努力をしている。


何も二級整備士の資格を取る事だけを言っているのではない。


気の短い僕の性格を鑑みて、日々の暮らしの中で一日も早く翠や翔太の元に帰らなければいけないと言う半ば義務感の様な物を抱き、殴り倒してやりたい奴にさえ笑顔を繕っている。


そのストレスの中で、唯一心の拠り所としている愛する女に、シカトを決め込まれたのでは僕の我慢など報われる物では無い。


翠の事は好きだ。


それを愛という言葉に置き換えたとしても、何の違和感もない。


しかし、ただそこにいると言うだけで精神的に追い詰められる刑務所の中で、更に追い打ちを掛ける様な事を平然としている翠を、出所後、今迄と同じ気持ちで大切に思う事は出来るのだろうか。


「待ってて貰えるだけでも有難いじゃないですか」


いつか篠崎が僕にそう言った。


その時は僕も篠崎の意見に賛成だった。


でも…翠に対する気持ちの冷めてきた今は、だからと言って僕を黙殺する事は許せないと思った。


「ただそこで待ってるだけなら、犬だって待ってるだろうが」


思わず声に出た。


「えっ、何か言いました?」


今年の自動車整備科訓練生の松崎は怪訝な顔で問い返した。


こんな時、そばに篠崎が居てくれたら…腹の中を曝け出し、ちゃんと話しを聞いた後、僕を諌める事もしてくれただろうに。


その篠崎は2ヶ月の仮釈放を貰い、8月に娑婆へと帰って行った。


最初にこの部屋から出て行ったのは松岡だ。


三級整備士の職業訓練が終了し、その直後に委員面接が有り、6月には娑婆の人となった。


8月…篠崎の仮釈放と同じ頃、急速に関係の深まった李は、夜間独居を希望しこの部屋から出て行った。


その結果僕が部屋長と成りはしたが、一年掛けて作り上げた人間関係は振り出しに戻り、新しい三級整備科訓練生の松岡と小型建設機械科訓練生の菅野の3人で、日々腹の探り合いを繰り返している。


松崎は40を過ぎて尚もアイドルオタクで、口を開けばアイドルグループのメンバーの薀蓄ばかり…たまに違う話しをしたかと思えばAV女優の話しだ。


僕には良い年をしてアイドルを追いかける趣味もなければ、覚醒剤も無い刑務所の中でアダルトビデオの話しに花を咲かせるほど女狂いでも無い。


菅野にいたっては高学歴を鼻に掛けた自慢話ばかり。


そのどれもが嘘くさい眉ツバ物で、聞いてるだけで腹立たしくさえなる。


噛み合わない他者との会話の中で、自然と僕は無口になり、鬱ぎ込む様な毎日を送り、その反動で翠の事を責め続けていた。


仮就寝の後、一人小机を出し二級整備士の試験を受ける為、問題集に噛り付いた所で全く身が入らない。


気が付けば翠への恨み言を頭の中で繰り返すばかりだ。


何よりも翠に対する愛情が強かっただけに、僕を遠ざけようとする翠が許せない。


「可愛さ余って憎さ百倍」そんな言葉が頭に浮かんだ…。


それでも僕は、翠に非難めいた手紙を書かなかった。


一言でも手紙の中で不満を口にして仕舞えば、そこから先は文句の手紙しか書けなくなった事だろう。


今となっては針の穴を通すほどの可能性しか感じ取れないとしても、僕の本心はただ翠と…そして翔太と、今度こそ本当に家族に成りたいだけだった。


男の立場から言わせて貰えば、女房と畳は新しい方が良いに決まっている。


それがもし貴子だとしたら、ここから出て電話を一本掛けるだけで、息を切らしながら僕のもとに駆け付けて来ることだろう。


例え貴子と連絡が取れなかったとしても、似たような遊び女は巷に幾らでも転がっている。


そして僕は…再び覚醒剤と窃盗や詐欺と言う犯罪に手を染め、やがて刑務所に舞い戻る。


僕がこの刑務所を出所するのは42歳。


そこから再び悪事を繰り返し、長期間刑務所になど放り込まれて仕舞えば、僕の人生は確実に終わる。


そんな事にでもなれば、好きなだけ覚醒剤を使い、好きなだけ泥棒を働き、あぶく銭で遊び狂った果てに自殺をするくらいしか道は残されていない。


翠に固執し、どうしても翠とやり直したいと思う理由は、ただ愛していると言う事以外に、僕が人として人生を真っ当な生き方に修正する為の最期の砦でも有るからなのだ。


自分の為に生き方を変える事は実はとても難しく、簡単に楽な方向へと逃げてしまう。


しかし、愛する者のために自分の生き方を変える事なら、それほど難しい事ではない。


僕が悪人で有るが故に僕に思いを寄せる貴子と新たな人生をスタートさせるのか、或いは僕が真っ当な人間になる事を心より願ってくれる翠とやり直すべきなのか、冷静な頭で考えれば答えは自ずと見えてくるだろうが、言葉に出来ない鬱憤を溜め込んでいる今の僕には、考えれば考えるほど悪い結論へと導かれてしまう。


飯山技官の好意に依って与えられた、二級整備士の資格を取得すると言う目標が無ければ、僕は果たして今回の刑期を無事故で終える事だって出来ないかも知れない。


まかり間違って誰かに手を挙げて仕舞えば、半年以上も刑期が延長される事だって珍しくはない。


そんな事だって一度待つ側の女として懲役を経験している翠が、分からない筈など絶対に無いのだ。


それなのに…それなのになぜ翠は僕を無視するのだろう。


僕はこんなに頑張って居るのに…。


何時だって翠と翔太の事を中心に考えて居るのに。


どうしてこの思いが翠には伝わらないのだろう。


「余程の事が無い限り…」


そう翠が口にした時、僕に取っては余程の事を話し合っていたつもりだった。


貴子との浮気、今回の事件、その二つを結び付けても、翠は「余程の事がない限り」と口にした。


そしてその後…僕と翠はラブホテルでお互いを求め合った。


もしあの時、咄嗟に翠が復讐を考えたのなら、あんなにお互いを労わりながら、優しさと思いやりの有るセックスなど出来なかった筈だ。


あの時翠は、本当に怒っては居なかった…。


だとしたら…僕が警察に捕まった後に、誰かが余計な空気を吹き込んだのか…。


誰が…。


僕の頭の中に浮かんだ顔は一つしか無かった。


僕は直ぐに頭を振って、その顔を僕の頭の中から追い出した。


そんな事は有る訳がない。


僕がどれほど翠を愛して居るのか、一番理解して居る男友達の、吉川和也が僕と翠を引き離すような事をする筈が無い。


だがしかし、一度浮かんだ考えは頭の片隅に居座り、気を抜けば直ぐに猜疑心を伴い頭の中に入り込む。


そして、そんな事を思い浮かべて居る自分に僕は嫌悪感を覚え、一人鬱な気分に沈むのだ。


そんな毎日が…もうずっと続いている…。

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