第6話 アカ落ち

アカ落ち



刑事事件の刑罰が決まり、受刑者となる事を「アカ落ち」と言う。


その昔、受刑者に赤い着物を着せたのが語源とも言われている。


正確には、判決の確定後、移送先の刑務所に送られるまでの間を「アオ転」と呼び、刑期を務める為の刑務所に送られ受刑生活を始める事を「アカ落ち」と言うのだが、現在では「アオ転」と言う言葉は死語となり、「アカ落ち」と言う言葉だけが残って居る。


今回の僕が裁かれた覚醒剤使用の様な単純な事件ならば、裁判はどんなに長くても起訴から3ヶ月も有れば終わってしまう。


「起訴」…つまり、被疑者から被告人に変わる事。


被告人に変わったからと言って、直ぐに拘置所に送られるわけでもない。


拘置所の混雑具合に合わせ、1ヶ月くらいは留置場に留め置かれる。


その後拘置所に移送され、裁判の判決が決定した後、その判決に不服がなければ、14日後に受刑者となる。


受刑者となった後、早ければ一週間、遅い時は三ヶ月ほど拘置所の確定房と呼ばれる部屋で、気の遠くなる様な単純作業をしながら、最終的に送られる刑務所へ移送される日を待つのだ。


翠が別れを告げに来たのは、僕が確定房で一枚の紙から手提げ用の紙袋を折っている時だった。


裁判が確定するまで、翠は週に一度は必ず面会に来てくれた。


別れを告げに来るその日まで、別れる事を考えているなんて素振りを微塵も感じさせなかった事に、僕は今まで知らなかった、翠の冷酷さと言うものを感じ取っていた。


僕たち受刑者は、刑が確定すると直ぐに分類調査と言うものが有り、どこの刑務所に行きたいのかを聞かれる。


ほとんどの場合希望通りには行かないのだが、あてにしていないときに限って、リクエスト通りの刑務所へ運ばれる事が多いから困ったものだ。


僕は、翠のたっての願いに応え、既に東京都府中市に有る「府中刑務所」を希望してしまっていた。


刑務所は各都道府県に最低1箇所は必ず存在している。


また、北海道の様に8箇所も刑務所を抱えている地方もあり、土地柄によって務めやすい刑務所とそうでない刑務所も存在する。


更に一口に刑務所と言っても、その内容は細分化されており男子、女子はもとより、外人刑務所、長期刑務所、短期刑務所、初犯刑務所、再犯刑務所、少年刑務所、最近では半民半官の更生センターなんて呼び名の刑務所も存在して居る。


刑務所によって行われている刑務作業も様々で、イカ釣り漁船に乗れる刑務所も有れば、お祭りの神輿を作っている刑務所も有り、喜連川や佐賀刑務所の様に資格を取得する為の勉強ばかりを優先する刑務所も有る。


刑が確定した後、自分が何処の刑務所に送られるのかは一番の関心事でも有る。


それだけに、何故自分はその刑務所に行きたいのか、尤もらしい理由を移送前の受刑者はいつも考えているのだ。


「月に何回面会出来るの?」


沼津警察署の面会室で翠が聞いた。


「初めのうちは2回かな」


「あとは?」


「真面目にやって、何も問題を起こさなきゃ6ヶ月後には3回に増えるよ」


「そう、だったら面会に行きやすい所を希望してね」


「面会に行きやすいって言っても、府中か横浜だろ…どっちも最悪なくらいに厳しいとこなんだぞ」


「だって、北海道になんか送られたら、面会なんか行かないよ」


まあ、いつだって翠の言い分が正しいのは間違いない。


いくらローコストの飛行機が飛び交う時代になったとは言え、東京から飛行機に乗って面会に来ようと思えば、ソコソコの金は必要になる。


況してや、せっかく面会に来るなら、泊まりがけで2日続けて面会して欲しいと思うのも人情だ。


ホテル代や仕事を休んで来る事を考えれば、そう簡単に来て欲しいとも言いづらい。


だからと言って、府中刑務所、或いは横浜刑務所と言うのは規律の厳しさ、食事の悪さが際立っており、更にはいくら真面目に刑に服していたからと言って、仮釈放の悪さも広く知られる刑務所でもあった。


翠に言われ、僕が希望した府中刑務所は「関東近辺で事件を起こした、比較的犯罪傾向の進んだ更正の見込みが無い受刑者を収容する施設」とされ、一癖も二癖もある刑務官や言葉の通じない外国人、自分本位な受刑者達が暮らす場所でも有るのだ。


いくら真面目に頑張って刑を務めたとしても、貰える仮釈放もスズメの涙で、今回言い渡された二年二月の刑期を務めるには、僕にとって何一つ魅力的とは思えない場所だった。


ただ、翠が頻繁に面会に来てくれると言うなら、そんな事の全てが小さな事に感じられる。


そう思えばこそ「伏魔殿」とも呼ばれる府中刑務所を希望したと言うのに、直前になってボロ雑巾の様に棄てられるとは…まったく翠と言う女が、僕には分からなくなってしまった。


受刑者となって間もなく2ヶ月が過ぎようかという頃、朝一番で舎房担当が部屋の中にある荷物をまとめる様に言って来た。


こんな事に慣れっこになっている僕は、いよいよ最終目的地で有る、受刑するための刑務所に押送されるのだと言う事が分かる。


一日前に私物検査を済ませ、荷造りをする為にこうやってある日突然呼ばれるのだ。


この時、自分がどこの刑務所に送られるのかを受刑者はまだ知らない。


それを知るのは、押送される日の朝、目的地の刑務所に向かう押送バスに乗り込む直前だ。


何故なら、事前に押送先の刑務所が知れてしまうと、あそこは嫌だ、ここは嫌だと押送を拒否する者が現れるからだ。


押送当日の朝でさえ、駄々をこねて押送を拒否する者が居り、そんな場面に出くわした受刑者は、押送バスに乗るのをいつまでも待たされ、迷惑な事この上ない。


その日、僕と同じ様に私物検査の為に呼びだされている者が4名居た。


僕を入れて5名。


こうなるとバスで移動する事は確定だ。


飛行機や新幹線なら多くても3名までと決まっているからだ。


押送で飛行機を使うのは北海道の刑務所。


新幹線なら九州方面。


それ以外は大抵の場合、バスでの移動となる。


おそらく…府中か横浜だろう。


ジンクスがあるわけでは無いが、何故か行きたく無いと思う刑務所に行かされるのが受刑生活ってものだ。


逮捕時、身につけていたものや持っていた物が、次々と目の前に並べられる。


その一つ一つを確認しながら鞄の中に詰め込んでいく。


留置場や拘置所で着ていた服など、なんの感情もなく鞄に詰め込むことが出来ると言うのに、本人保管とは別の特別領置に成っていた翠とのお揃いの指輪や時計が出て来ると、ついつい見入ってしまう。


「五十嵐、何やってるんだ。確認したらどんどん指印を押して片付けないと、日が暮れるぞ」


領置係りの担当が苛立たしげに僕に言った。


「あっ、はい」と返事をしては見たが、僕の内心は穏やかでは無い。


翠との最後の面会以来、出来るだけ翠のことは考えない様にして来たと言うのに、思い入れのある品々を目にすると、またぞろ未練が顔を出し、押送の荷物をまとめる事に集中する事が出来ないのだ。


最後の面会に来た時、翠はまだお揃いの指輪や時計を身に付けていた。


今はどうしているのだろうか…。


翠が気に入るものを選んで買ったのだから、捨ててしまったなんて事は無いだろうが、あの時の翠の剣幕なら、見る度に僕の事を想い出す物など身に付けているとはとても思えない。


「淋しいもんだな…」


つい言葉に出た。


「なに?今なんて言った!」


無意識に溢した僕の独り言を聞き咎めて、若い担当が大きな声を出した。


早く荷物を仕舞えと注意した事に、僕が反抗的な言葉を言い返したとでも思ったのだろう。


「淋しいもんだなって言ったんですよ」


「何が淋しいんだ」


何だっていいだろう…と思うのだが、塀の内側ではどんな小僧だろうが刑務官様が絶対で、口答えなんか許されるはずがない。


「最近、女と別れたもんで、お揃いの物なんかが出て来るとつい…済みません」


刑務所に入って一番はじめに教え込まれること。


「良いか、担当に何か言われたら、先ずは済みませんだ。それがどんなに納得のいかないことでも、一言でも言葉を返せば懲罰を喰うんだからな。自分を守る為にも、先ずは済みませんだ。分かったか」


もう何度も経験している受刑生活。


ニキビの跡も新しいクソ若い担当に「済みません」と僕もう一度は頭を下げた。


「あなたね、今、何の時間か分かってるの?あなた一人のお陰で皆んなが舎房に戻れないんだよ。あなたが女に振られたとか淋しいとかどうでも良いんだわ。さっさとやる事やってくれないかな」


そんな言い方はないだろう…と思うのだが、ここで一言でも返してしまえば「担当抗弁」で10日は懲罰房行きだ。


懲罰になる前、一旦調査となり何故「抗弁」をするに至ったのかを取調べされる。


その後「懲罰審査会」にかけられ、懲罰が確定する。


10日の懲罰だからと言って、それに要する時間は1ヶ月近い。


どうせ刑務所にいるのだから、1ヶ月くらい押送が先に伸びたからってどうでも良いではないかと思うかもしれないが、拘置所の確定房にいる事と、受刑先の刑務所にいる事は天と地の差がある。


それはこの物語を進めながら少しづつ説明していくが、一日中薄暗い独房に押し込まれ、袋張りなんて言うちまちました仕事をさせられ、孤独と闘わなければいけない拘置所の確定房に、僕はもう一日だって居たくはなかった。


だから…ただ刑務官と言うだけで偉いとでも勘違いしているクソガキに「あなたね…」などと呼び掛けられた事にも、歯を食いしばって堪えるしかなかった。


それにしても、近頃の刑務官は「オイお前」とは呼ばない。


「誰がお前だ!」と受刑者が開き直る事犯が多い事で、受刑者を「あなた」と呼ぶ様に、新人刑務官を教育しているのでは無いか思われるが、この「あなた」と言う呼び掛けがまたカンに触るのだ。


「あなたが悪くて女に逃げられたんだろ。そんな事他の人には関係ないんだよ。ここは刑務所なんだから、やれって言われた事だけやるんだよ。頭の中は自由だなんて思わない方が身の為だからな」


「済みません、つい独り言が出ちゃって」


『なぜこんなガキにここまで言われなきゃいけないんだ』と思いながらも、ここは我慢の正念場…。


僕はもう一度、下げたくも無い頭を深々と下げた。


「あなたね、独り言って言うけど、誰が声を出して良いって言ったんだよ。雑談禁止って壁に貼り紙が見えないのか」


目の玉をひん剥いて、何時迄もネチネチと嫌味を言ってくる若い担当。


「見えます」


答えた僕は直立不動だ。


「見えてるんだったら、分かっててやってるって事だな、雑談禁止ってのはな、一言も声を出すなって事なんだよ!」


僕の顔に息の掛かる距離で、唾を飛ばしながら若い担当が怒声を放つ。


この担当は、「他のみんなを待たせる事は迷惑だから」と言う理由で僕に注意を与えたはずなのに、自分が何時迄もネチネチと懲役に絡み続ける事で、人を待たせていると言う事には、考えが及ばない様だ。


参考までに言って置くが、若い刑務官と言うのはほとんどがこのタイプだから気が抜けない。


「いいか、 俺の判断一つであなたを懲罰房に送る事も簡単なんだからな」


そう捨てゼリフを吐いて、この若い担当は漸く僕を解放した。


本当なら、刑期が確定し、落ち着き先の刑務所が決まるまでの間に、不要な物は家族や近親者に郵送で送る事も出来るのだが、一方的に翠に別れを告げられた事で、僕は荷物を送る事も出来ず、両手に余る程の荷物を持って押送される事になった。


着の身着のまま、何も荷物が無いのも惨めなものだが、大量の荷物を持って押送バスに乗り込むのも、あまりみっともいいものでは無い。


また翠を責めている僕が居た。

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