待ってる

 声が聞こえた気がして、目が覚めた。でも、目を開けても、誰もいなかった。



 起き上がる。窓の外はどんよりしていた。

 眼が痛い。ひりひりする。たぶん、今日も一日赤いままだと思う。昨日の夜も、結局泣いてしまった。同じ部屋のナーシャに、迷惑をかけたくなかったのに。


 隣で眠るナーシャを起こさないように、着替えて、寮を出た。外は風が冷たかった。舞う魔素も、震えて見えた。

 早足で歩いて、先生たちの住む家が並ぶあたり――ロージャの家の前まで来る。中に誰もいないことは、知っているけど、期待してしまう。扉を開くとロージャがいて、勝手に来た私に、困ったように笑って、でも私の手を取ってくれて。思い出して胸の奥が少しだけ、きゅうと温かくなる。

 鍵を開けて、扉を引く。見えた居間はしんとしていた。私に気付いて近付いてくる足音も、名前を呼んでくれる声も、何も聞こえない。……ロージャは今日も、帰ってこなかった。

 すぐに閉める。ロージャはしばらく帰ってこない。ナシトはそう言ってた。わかっている、つもりなのに。

 振り返って、家から無理やり目を離す。落ち込んでいても、何も変わらない。

 前を見ると、校舎が見えた。始業の鐘までまだ時間がある。でも、寮には帰りたくない。今は誰にも会いたくない。図書館で、読みかけの魔導書を読むことにする。集中できる気はしないけど。

 とにかく歩き出そうとして、風がまた吹いた。少しだけ雨の匂いがする。目をこらすと、たしかに青の魔素が普段よりたくさん、宙に揺れていた。

 ……雨。降るなら、庭に干したカルフェ芋をしまわないと。カルフェ芋は、北の食べ物。城都市でもたまに食べていたけど、それよりも北でしか採れない、珍しいお芋。ロージャの好きな食べ物。

 ……ロージャと一緒に食べられると思ったのに。笑った顔が、また浮かぶ。昨日も今日も、これまでと同じ日が続くと思っていたのに。ロージャが傍にいて、笑って、手を握ってくれて。

 思い出して、鼻がつんとする。目がまたぼやけてしまう。胸の、お母様の形見を握っても、少しも落ち着かない。歩き出したと思っていたのに、いつのまにかまた立ち止まっていた。


 泣いても何も変わらないことなんて、ずっと前から知っている。だからあのとき、城に独りでいたときは泣くことなんてなかった。でも、今は。

 風が顔に吹きつけて、思わず目を閉じる。いつものように隠れようとして、左手でロージャの腕を探してしまう。今、隣には誰もいないのに。涙が溢れてくる。もう、駄目だった。

 しゃがみこんでしまう。耐えられなくなる。眼は痛いのに、止まらない。どうしたらいいか、わからない。



 ロージャ。隣にいて。私は、ロージャがいないと、駄目。

 ひとりにしないで。どこにも、行かないで。



 胸の中で叫んでも、何も変わらなかった。どうしたらいいのか、何もわからなかった。





 ロージャがいなくなって、二日が経った。

 私はずっと泣いてばかりいる。


 結局、鐘がなってナーシャが迎えに来てくれるまで、私はロージャの家の前を一歩も動き出せなかった。眼は朝よりもっと赤くなった。


 それから、授業には出たけれど、いつもよりがんばれなかった。お義母様に地下へ閉じ込められたときのように、頭にもやがかかって、魔導についてうまく考えられなかった。

 ナーシャは私の隣にいてくれて、レーリクもたくさん話しかけてくれたけど、きちんと返せなかった。二人とも気をつかってくれて、嬉しいのに。初めてできた友達。一緒に勉強して、一緒に遊ぶ。城にいたころは、ずっと欲しいと思っていた友達。でも今は、ただ困らせてしまっている。自分が嫌になる。

 それなのに、授業が終わって鐘がなると、なるたびに今度こそロージャが帰ってきている気がして、落ち着かなくなる。そんなわけ、ないのに。


 気がつくと、またロージャの家に来ていた。いつ授業が終わったのかも、どうやってナーシャとレーリクと別れたのか、何も憶えてない。

 誰もいない家に入って椅子に座って、じっと玄関の、扉を見る。見ていれば、そのうち扉が開いて、ロージャが「ただいま」と言ってくれる気がした。ひどい妄想。

 でも、そうなるのをじっと願ってる。意味のない妄想でも、縋ってしまう。

 ……縋らないと、もっと馬鹿なことを考えてしまうから。



 ロージャが突然いなくなったのは、私を嫌いになったからじゃない。ロージャが私を置いてどこかへ行くのは、敵を惹きつけるときだけ。今回も、きっとそう。

 ……でも。もし、ちがったら。私が学校に入って、友達もできたのを見て、ロージャが、もう守らなくて大丈夫と、思ってしまっていたら――



「シェストリア」


 突然、後ろから声がする。ロージャのように優しくはないけど、冷たくもない声。ナシトだった。いつのまにか、すぐ傍に立っていた。


「……ナシト」


 立ち上がって、目をこする。また少し眼が濡れていた。ごまかして、ナシトを見上げる。


「……なに」


「……」


 ナシトはじっと私を見て、何も言わない。眼は真っ黒で、暗かった。

 この人のことはよくわからない。優秀な魔導師。そのことは、もうよくわかっているけど。何を考えているのか、わからない。ロージャが信頼しているのが不思議なくらい。


「お前の生は、お前のものだ。口を出すつもりはない。俺にその権利は無い」


「……」


「……だが。お前は幼い。あの時とは、ユーリとは、違う」


 言っていることも、よくわからない。

 でも。『ユーリ』は、たしか、ロージャの大切な人の名前。寝ているロージャがたまにつぶやく、女の人の名前。ロージャは、つぶやいていつも泣きそうな顔をしてた。

 ユーリと、私。よくわからない。


「ロージャは、すぐ戻ると言った。信じないのか」


 ナシトは私を見ながら、いつのまにか少しだけ屈んでいた。ナシトの顔が近づいて、よく見える。暗くて少しだけ気味が悪いけど、怖くはない、不思議な表情。


「……信じてる。ロージャは、嘘なんて言わない」


「ならば、お前は今為すべきことを為せ」


 ナシトの声はいつも通りだった。

 なすべきこと。ロージャを待つこと。魔導都市で待ちながら、仲間になれるように、魔導をがんばること。それが私のするべきこと。


「わかってる」


 ロージャは必ず、戻ってくる。そのことは信じてる。疑うわけなんてない。ロージャはいつだって、私を守って、救ってくれるから。

 だから私は、ロージャを信じて、するべきことをしないと。そんなこと、ぜんぶわかってる。


「…………でも。……もう、ひとりは、いや」


 ぜんぶわかっていても、今、ロージャの隣にいたい。傍にいられないのが、怖い。

 怖くて、ありもしない馬鹿なことばかり考えて、また怖くなる。ロージャがいないことばかり想って、動けなくなる。するべきことはわかっているのに、どうすればいいのかわからない。

 自分のことさえわからなくなって、ただロージャの傍にいたくて、結局泣いてばかりいる。本当に、馬鹿。ガエウスにガキだと笑われても、私に言い返す資格なんてない。


「シェストリア。お前はまだ、脆い」


 自分が嫌になって、また泣きそうになって、それでも目の前のナシトはいつも通りだった。

 私をじっと見て、まばたきすらしない。私のことだけを、じいと見ている。胸の奥の震えが、どうしてか少しだけ引く。


「今のお前は、縋っているだけだ。守られて救われて、なおロージャの背中にしがみつくだけの存在。それが今のお前だ」


「……っ」


 びくりとしてしまう。はじめて、ナシトの鋭い言葉を聞いたから。


「今のお前では、ロージャの隣を歩けない」


 そんなこと、ない。考えるより先に口が開いて、そう言い返そうとしたのに、返せなかった。俯いてしまう。

 わかってる。ナシトの言う通り、私はただ守られているだけ。ひとりになったとたん、するべきことも忘れて泣いているだけの、護衛対象の子ども。まだ、仲間じゃない。

 仲間に、なりたいのに。がんばらなきゃいけないのに。ひとりが怖くて、身体が動かない。


「想いは、尊い。だが、想いに潰されて、立ち竦むだけなら」


 ナシトが、しゃがむ。膝をついて、真っ黒な眼が私を覗きこむ。


「お前の夢は、此処で終わりだ」


 ナシトの声に、部屋中の魔素が一斉に、ざわついた気がした。色とりどりの星が揺れて、またたいて。



 私の夢――私は、ここで終わり?


 全身が震えた。これまでとは違う震え。ロージャとあの小さな村で踊って、抱きしめられたときのような、温かな何か。

 思い出す。ここで終わり。ロージャと初めて会ったころに私が言い続けた、諦めの言葉。あのときは心の底から、終わりたいと思っていた。でも、そのせいでロージャを怒らせて、そのおかげでロージャは私を守ると決めてくれた。

 ここで終わり? それは、駄目。私はまだ、終わりたくない。この先もずっと、ロージャと一緒に生きていたい。ずっとずっと、ロージャの傍で。

 そうだった。私はロージャと今、一緒にいたい。傍にいられないのが怖い。でも、今だけじゃない。これからもずっと、隣にいたいと思ってる。……私には、これからの方がずっと大切。ようやく思い出した。


「今、選べ。このまま、ロージャに背負われて生きるか、それとも――力を得て、ロージャを隣で愛するか」


 ナシトはまだ私を見つめている。その眼を見つめ返す。

 口を開いて、息を吸って。ぶつける。


「……私は、ロージャのことが好き。だいすき」


 ずっと隣にいられたら。私は、それだけでいい。隣で笑って、手を握ってくれるなら、それで幸せ。一緒にいられるなら、別に魔導なんて使えなくてもいい。

 でも、ロージャはきっと走り続ける。今みたいに、私や仲間に危険が迫ったら、真っ先に走り出して、盾と鎧でみんなを守る。そんなロージャの隣にいるには、私も、走り続けて、強くならないといけない。それに、私はまだ子どもで、隣に追い付けてもいないのだから。


「だから、ここで終わり、じゃない」


 まだ、ひとりは怖いけど。立ち止まっては駄目。立ち止まっている方が怖いことに、ようやく気付けた。ナシトのおかげ。

 ナシトはぴくりともしない。でも少しだけ、唇の端が歪んで見えた。


「愛したいのなら、立ち止まるな。望む道を、考え抜け。間違えたくないのなら」


「……ん」


 答えると、ナシトが立ち上がった。ローブが揺れて、ナシトの纏う黒い魔素が少しだけ零れた。立ち上がって、けどまだ私を見ている。何も言わない。よくわからない。

 わからないけど、今日私を励ましに来てくれたのは、もうわかった。お礼を言わないと。


「ナシト。……ありがとう」


 ナシトは何も言わない。頷きもしなかった。本当に、よくわからない人。


「魔導を、もっと教えて。授業の後も」


 聞いてみる。泣くのはもう終わり。ナシトはやっぱり何も言わなかったけど、断りもしなかった。なら明日から、授業の後でおしかける。もう決めた。


「シェストリア。人は、想いだけでは何も掴めない。意思だけでは、歪むだけだ」


「……?」


 ナシトが急に、またよくわからないことを話し始めた。思わず首をかしげてしまう。


「だが、力を、魔導を得てもなお人は歪む。……魔導は道具だ。それを、忘れるな」


 これまでの励ましとは違う雰囲気の言葉。魔導について言っているのかもしれない。でも、言いたいことがよくわからない。……ロージャと違って、ナシトは教えるのがあまりうまくないと思う。


「どういう意味」


 魔導の教えなら、ちゃんと理解したい。そう思って聞き直したのに、ナシトは今度ははっきり笑って、でも何も答えずにそのまま消えた。

 一瞬だけ見えた笑う顔は、ロージャがたまに言う通り、気味が悪かった。でも別に、いやな気持ちにはならなかった。




 次の日の朝。私は寮を出て、ロージャの家の前に来た。今日は空の魔素も普段通りで、雨の匂いもしない。

 家には入らずに、外で待つ。ロージャが出てくる妄想は、もうしない。今日は代わりに、ちゃんと人を待っている。

 でも、しばらく待っても、誰も出てこなかった。まだ始業の鐘まで時間はあるけど、今日はきちんと授業に出たいから、もし飲んだくれて寝坊してたら、起こしに行くつもりでいる。いびきがうるさそうだから、いやだけど。

 それからまた、少し待った。足が疲れてきたころに、ようやく扉が開いて、ガエウスが出てきた。私に気付いて、寄ってくる。


「あァ? なんだ嬢ちゃん、サボりか?」


 出てきたガエウスは眠そうだった。目の前で大あくびをしている。間抜けな顔。


「ちがう」


「はっ、そうかよ。俺ァ今日からしばらく外すから、もうこの家に来てもなんもねえぞ」


「家は私が、掃除する。きれいにして待ってる」


「そりゃあいい。殊勝なこって。ロージャが帰ってきたらどのみち勝手に片付けはじめんだから、無駄なのによ。まあ、勝手にしろや」


 ガエウスは眠そうに頭をかいて、そのまま私の横を通り過ぎていこうとする。走って、その前に立つ。道を塞ぐ。


「んだァ? ジャマすんな。言っとくが、ぜってえ連れてかねえぞ」


「……」


 ガエウスは、気を抜いてはいるけれど、格好は冒険に行くときのもので、弓も短刀も身に付けている。少し安心する。

 ガエウスはちゃんとロージャを迎えに行くつもりでいる。そのことはすぐわかった。ガエウスは馬鹿だけど、仲間のことはロージャと同じくらい、真剣に考えている。馬鹿だけど。


「……ったく、しゃあねえな。嬢ちゃん――いや、シェストリア。てめえはまだ俺らの、仲間じゃねえ。ちょっとばかし賢くても、まだ守られるだけの女の子ってこった。ガキのお守りしながらの冒険なんざ、冒険じゃあ――」


「わかってる」


「あァ?」


 言われなくても、もうわかってる。ナシトのおかげで気付けたから。


「ついていかない。私はまだ、弱いから。するべきことが、あるから」


「……はっ、んだよ、意外に立ち直り早えじゃねえか」


 ガエウスが笑う。またすぐに歩き出そうとするから、もう一度道を塞ぐ。もう少し、念を押しておく。


「そのかわり、ロージャをちゃんと、守って。ロージャが怪我したら、ゆるさない」


「言うじゃねえか。だが、んなこと、言われるまでもねえな。俺を誰だと思ってやがる」


 ガエウスががははと笑いながら、私の頭に手を伸ばそうとする。ガエウスは私の髪をぐちゃぐちゃにするのが趣味だから、ついいつも通り、触られる前にかわしてしまった。

 その隙に、ガエウスが姿を消した。一瞬ではるか遠く、前に進んでいた。『靱』で跳んだのだとしても、速すぎる。悔しいけど、ガエウスは強い。


「まあ、気楽に待ってろ。俺とロージャで、楽しんでくるからよ。まだ見ぬ冒険を、なぁ!」


 遠く、小さくなったガエウスはこちらに手を振りながら叫んで、歩き始めてしまった。向かう先は、聖都。ロージャが教会の使徒に連れられていった、知らない街。今の私にはまだ遠い街。



 私は、ロージャの傍にいたい。

 ロージャだけじゃない。ナシトも、ガエウスも、二人とも――ガエウスは、馬鹿だけど――私を叱ってくれる。私から離れずに、前で待っていてくれる。誰も見捨てずに、いてくれる。

 ロージャが作ってくれた、私の居場所。みんなと一緒に歩きたい。


 離れてみて、よくわかった。ロージャは私が思うよりずっと、遠くにいる。少し魔導ができるようになっても、追いつけないくらい。

 仲間になるには、泣いている暇なんてない。縋りつくのは、もう終わり。


 絶対に、追いつく。隣に立つ。今は追いつけなくて、寂しくても、もう諦めない。傍でずっと、ロージャを支える。私のぜんぶを救ってくれたロージャのために、生きる。

 そのためにするべきことは、もう決まってる。魔導の勉強。ロージャが見つけてくれた、私の力。



「ガエウスっ」


 最後に、声の限り叫ぶ。


「あァ?」


「ロージャに、伝えて」


 息を大きく吸い込む。かれた喉が痛かった。でも、気にしない。

 大声で、叫ぶ。



 ロージャ。

 勉強して、待ってる。でも遅かったら、迎えにいく。



 迎えにいけるくらい、強くなる。ロージャがどこに行っても、ずっとずっと傍にいられるように。

 声に魔素がこもるくらい叫んで、そう伝えても、ガエウスは何も言わなかった。

 でもいつもよりまっすぐに私を見て、まっすぐ、笑っていた。

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