四十九 板垣外遊反対運動

 板垣のヨーロッパ視察旅行を推進したのは同行者の後藤象二郎である。


 自由党常議員の土佐人で、かつて自由党副総理候補でもあった彼は明治政府元老の井上馨と度々接触。これは岐阜で板垣が刺客に刺される遭難事件よりも前のことであった。


 板垣と自分の洋行話を持ち掛けると井上馨からは外遊費の金策について三菱財閥の岩崎弥太郎に掛け合うという提案を返され、後藤は大いに喜びつつも借金によって恩を着せられたら困るので岩崎からの借用は避けたい、また金策が他の自由党員に漏れないように注意してほしい……といった要望を伝えるなど意見交換を行っていたという。


 井上は後藤が帰国後に政府内に復帰する心づもりではないかと推測し、それ自体は不都合もないが後藤には策略家のきらいがあるため真意の読みづらいことには警戒心を抱いていたようだ。


 ちなみに残された書簡によると井上と三菱の交渉はうまくいかなかったらしく、井上は続いて三井銀行と取引し、三井が持っていた陸軍用達の権利を三ヶ年延長するのと引き換えに2万円の洋行費を出させるという密約が行われたようだ。この当時の2万円は現代の貨幣価値で4億円以上に相当する。


 水面下で政府との連携を進めていた後藤は、岐阜事件の際にも“刺客は政府が送り込んだのではないか”と疑う自由党員に“そうではない”と説得したり、高知の自由党壮士80人が“板垣の身辺警護のため”として岐阜に向かうのを抑えようとするなどあからさまに政府との衝突を避け、事件で興奮する自由党員の熱量を削いでいくような方向に動いていた。



 1882(明治15)年8月25日に後藤が同じ土佐出身で自由党常議員の馬場辰猪に板垣外遊の予定を打ち明けると馬場は同じく土佐出身の自由党幹事でかつて国友会を結成した際の仲間である大石正巳と共に猛反発。馬場・大石と同じ国友会創設メンバーで自由党常議員の末広重恭も批判に加わる。


 この板垣外遊への反対運動については特に馬場辰猪の行動力が凄まじく、馬場は翌日には外遊の資金源として説明された旧徳島藩主蜂須賀茂韶参事院議官の邸宅を訪ねて家令に後藤への金銭貸借について確認し、29日には板垣に面会して“洋行の不可”を主張、翌9月16日には自由党の旧東京地方部で板垣の外遊が政府の謀略であると断定するに至る。


 「旧」と付いているのは集会条例の改正によって政党の地方支部というものの存在が認められなくなった(党本部に完全に合流するか別個の団体として完全に独立するか選ばされた)ことによるのだが、馬場の熱論を受けた「旧」東京地方部は集団の統一された意思として板垣に自由党総理の辞表を出させるという決議を行った。



 これと前後して板垣の側も疑惑のある資金を用いるのは危ういと判断したようで、9月14日に森脇直樹という人物を自分の代理として奈良に送り、資産家の土蔵庄三郎と洋行費出資の約束を取り付けて先ず3000円を持ち帰って来ることに成功する。


 吉野郡川上村大字大滝という所の林業家であった庄三郎は地域伝統の吉野林業を整理・発展させ「密植多間伐」の技法を編み出し、“節がなく・同じ太さで・まっすぐ”という良質な木材を効率的に育むことに成功。この土蔵式造林法を日本全国に広め「吉野林業中興の祖」「日本林業の父」「近代林業のパイオニア」「山林王」「造林王」と数々の異名で称えられた人物である。


 また父祖の代から吉野地方を代表する大山林地主として知られ、受け継いだ財産を巧みに運用。なんと四大財閥の三井家に匹敵する規模まで資産を膨れ上がらせ、積み上げた資金を教育や自由民権運動などの事業に惜しみなく注ぎ込んだ。


 教育では地元川上村に奈良県初の小学校である大滝小学校を自費で建てた上に生徒に文房具や当時としては全国初の洋服型の制服まで提供した他、同志社大学や日本女子大学の設立に際しては同志社大の新島襄や日本女子大の成瀬仁蔵と広岡浅子(NHKドラマ『あさが来た』のヒロインのモデル)に対し莫大な基金の寄付やさらには成瀬に広岡を紹介し引き合わせるなど物心両面で多大な貢献を行い、早くから女性への教育の重要性を説き明治期の女子教育近代化を大いに推進した。


 少し意外なところでは同じ奈良県の材木商の家に生まれたアジア主義者樽井藤吉の接触と前後して朝鮮の独立運動家金玉均と交流を深め金玉均の支援者にもなっている。


 そして自由民権運動に関しては明治10年頃から自由民権運動、特に近畿自由党や自由党系列の運動家たちの熱心な後援者であり、大阪立憲政党の機関紙「日本立憲政党新聞」の創業には「願わくば余が財産三分の一を割愛して以て畿内自由党の犠牲に供せん」と意志を固め、「五万円位マデハ出金スル覚悟ナリ」とまで明言。創業費用に3000円出した後も4000円、1500円と新聞経営が危機に陥るたびに出資を繰り返し、寄付金の総額は有言実行を超えて6万円に達したことが岐阜日々新聞に報じられている。


 「日本立憲政党新聞」の創業資金は土蔵庄三郎の3000円に加えて他の奈良民権派の人々からも2900円が提供され、合わせて5900円の寄付金は創業資金全体の43パーセントに相当する額だったという。「自由民権運動の台所は大和にあり」とまで言われたそうだ。


 また庄三郎は自由党系列の演説会では度々演壇に立つなど活動にも熱心に参加し、板垣の洋行騒ぎから数ヶ月前の岐阜事件においても病室を訪れた大勢の見舞い客の一人であった。



 ……そんな頼もしいパトロンである土蔵庄三郎から洋行費の支援と、自由党旧東京地方部からの辞表要求を受けて9月18日、板垣退助は自由党本部に出頭し、幹事の大井憲太郎や林包明も同席する前で洋行に反発を続ける馬場辰猪・大石正巳ペアと論争を行う。


 論争、とは言っても“資金は確かに土蔵庄三郎からのものである”という板垣の主張を馬場たちは全く受け入れず、“土蔵氏から受け取った資金も間接的に政府から出たものであるのは確実”と断定し、もしこのまま外遊に出発するなら「道筋に党員を潜ませて刺殺する」と脅迫するまでに至る。



 双方ともに相手の主張を全く受け入れられない水掛け論状態のまま翌日に持ち越されたが、当然ながら水掛け論は水掛け論、泥仕合は泥仕合のまま一朝一夕では何も変わらなかった。


 馬場たちは板垣の事を“井上ら政府元老の奸策に乗りわずかの金を受け取って洋行するなど自由党総理の地位にいて恥ずかしくないのか”と批判し、「馬鹿」とまで罵り、さらには口だけでなく腕をふりあげて殴りかかろうとし周囲の人物に取り押さえられるなど、口論は悪い方向に白熱した。


 ちなみにこの様子は潜り込んだ政府の機密探偵スパイに報告され、なんと『伊藤博文関係文書』に収録されてしまうなど自由党側にしてみれば散々な有様であった。


 馬場辰猪はこの9月19日の常議員会の争論でよっぽどむかっ腹が立ったらしく、彼個人の日記にまるで自分を慰めるかのように“板垣は大石と末広を責めようとしてかえって大いなる過ちを犯した”、“板垣の主張は一々成立せず、その発議は消滅した”と板垣をボロクソに貶す内容を書きつけたとか。



 しかし、費用の出所に関する疑惑や洋行中の党総理不在に対する不安等はあったものの、自由党のリーダーである板垣退助を刺し殺すとまで言う馬場に全く同意できる党員ばかりでは当然なく、(というか少なくとも洋行で党首が国内不在となるのを懸念している党員たちからすれば本当に刺殺するような本末転倒な真似はできるはずもない)1週間後の9月26日開催の自由党相談会ではむしろ馬場・大石・末広の処分が話し合われ、3日後29日には3人への脱党勧告が出されるに至った。


 勧告のために来た河野広中ら委員5人の前で馬場は“委員の勧告は少しも意味がわからない”と述べる相変わらずのぶちギレっぷりで抵抗。板垣は馬場の抵抗が自由党結党時の愛知交親社の絶交表と同様に党組織の“こはれ(壊れ?)の元”となることを懸念したらしく、脱党勧告の翌日30日には再び自由党本部で相談会が開かれ、“将来の自由党の方略”を理由に板垣が処分の再検討を提起する。


 これにより3人の処分は常議員の免職に軽減され、大石正巳も馬場を説得し馬場は常議員を辞任した。


 代わりの常議員は公選によって片岡健吉、林包明、島本仲道が新たな党幹部として就任する。


 島本仲道は幕末に土佐勤皇党に参加していた旧土佐藩士であり、維新後の新政府では兵部省や司法省の官僚となり、江藤新平の右腕として特に司法省では警察、検察、弁護士の近代機構制度確立に携わったという物凄い法律家である。


 ……要するにまた土佐国出身者ばかりが自由党幹部になったわけだが、当時の自由党の状況からすればもはや土佐人の幹部が一人二人増えようが減ろうがその人数自体には大した意味も無いだろう。



 他に後世の関心を集める人事としては、土佐人ではない築地生まれの江戸っ子な星亨がこの頃に大井憲太郎を通じて自由党へとスカウトされ、10月23日に行われた板垣と後藤の洋行送別会に顔を出したという。


 星は明治8年にロンドンにある4大法曹院の一つであるミドル・テンプルに留学して2年後には日本人で初めての法廷弁護士資格取得者となり帰国して日本の司法省付属代言人第1号として活躍したという、これまた法律関係の実力者で、それまで無縁だった自由党が引き抜きに来たのも、その名望と実力、手腕を期待されてのことだったという。


 入党後、星が概ね自由党の見込み通りに大暴れし、その辣腕とキャラの濃さから、彼の姓名をもじって「おしとおる」のあだ名まで貰ってしまうのはそこそこ有名な話だ。



 ちなみに板垣は外遊の目的について“党勢拡張に役立てるためにも、民権自由の主義を欧州の実地で確認すること”や、“国際的な認知や評価を得ること”、“海外の志士たちとも交流を活発にすること”、そして“政府の憲法調査について欧州の実地でその欠点を探り、後日伊藤博文の論を撃破する用意へと繋げる”などを挙げ、このタイミングについては“自由党にとって国家多事は今日ではなく、今こそが外遊の好機”だとした。


 政府による憲法制定・国会開設までまだ8年ほどの猶予があるという点では確かに「外遊の好機」「国家多事は今日ではない」のだろうが、板垣らの洋行で指導力が低下したタイミングに福島事件や加波山事件といった自由党員と政府側との衝突を思うと、絶好の好機や凪のように平穏な時期というわけでもなかった。



 とはいえ、大隈・福沢派への対抗で英国型民権運動からフランス型民権運動に転向した板垣が、欧州での実地調査でフランス革命の惨状にドン引きし、再び政策の転換を余儀なくされるのが国会開設前で済んだことや、この際の修正が後の立憲政友会結成など、近代日本の政治史の流れに幾何かでも影響を与えた可能性を鑑みれば、この時の洋行は板垣本人や自由党全体、日本政治全体にとってプラスマイナスではややプラス側と評価できるのかもしれない。

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東洋大快人伝 @3monnyamaji

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