十七 逮捕された箱田派

 西南方面各地の不平士族たちの間には政府のスパイ網が構築され、箱田六輔たちがそうとは知らずに過激な行動に出ていたわけだが、不満を爆発させた士族たちの蜂起が相次ぐなかで筑前の政社に警察の手が伸びないはずはない。

 憂国の同志と見せかけて萩や筑前の士族を監視していた政府のスパイ・指宿辰次は箱田たち矯志社急進派の動向を逐次密告していた。その報告を受けて福岡県令の渡辺清も福岡警察署長寺内正員(これまたかつての加藤司書や久野将監と同様に、役職っぽいが実名であるらしい)に昼夜の別なく矯志社の全社員のすべての行動を監視するよう命じる。

 政府側がそこまでやっているとも知らずに血気に逸る矯志社や堅志社の中堅・若手社員たちは兎狩りと称した武闘訓練を続けた。西郷軍の挙兵までは隠忍自重を基本的な方針としていた強忍社社長・越智彦四郎と矯志社社長・武部小四郎は箱田六輔が政府の監視を警戒せずに過激な言動を繰り返し、同志たちを武闘訓練へと誘引していることを軽率であると批判する。

 急進派は強忍社幹部で武闘派として筑前のみならず薩摩の不平士族たちからも評判の高かった舌間慎吾を引き込もうとするが、舌間は武闘派であるだけに戦いの機を知っていた。

「我々同志の数は少なく、力も不足している。軽率に行動し失敗すれば再挙も難しいだけでなく、我々の志を継ぐ者も期待できなくなる。自分の判断では筑前有志が大挙一致して立つときは遠からず来る。諸君もその時を期待せよ」

 そして武部社長は箱田の意気を認めるとしながらも断固とした態度で箱田を矯志社除名の処分に下す。だが結果から見ればこの処分も手遅れ、あるいは不十分なものであった。


 10月28日に始まった萩の乱(余談だが後に総理大臣となる田中義一も当時13歳で反乱軍側にいたという)であるが、11月5日乃至6日には前原一誠が捕縛されてほぼ終結に向かった。直後、11月6日に兎狩り帰りの松浦愚たちが陸軍歩兵小倉第14連隊の福岡分隊と遭遇する。

 この頃の日本陸軍は鎮台という単位で編成されていた。明治4年には西海道鎮台の本営が小倉、分営が博多と日田(現在の大分県日田市)に置かれるが、これは一度廃止され熊本に鎮西鎮台が置き直された。そして明治6年、鎮西鎮台は都市名をとった熊本鎮台へと改称され第6軍管が設置。熊本には歩兵第13連隊、小倉には歩兵第14連隊が置かれる。

 この当時の士族にとって農民から戦闘要員になった鎮台兵は軽蔑の対象だった。その分営のそのまた分隊のようになった福岡の鎮台兵を松浦たちはすれ違いざまにからかってちょっとした喧嘩騒ぎを起こしてしまう。福岡県庁は箱田派の活動を監視し武部・越智の対応を警戒しつつ鎮圧・逮捕の時機を探っていたところに福岡分隊から取り締まりの強化を要求されることとなった。絶好の機会と見てかそれとも時期尚早と考えつつ仕方なくかはわからないが彼らは箱田六輔の逮捕に腰を上げざるを得なかった。

 内容に間違いが多いという『玄洋社史』では11月7日、『西南記伝』では翌月12月のことだったという。


 若手社員たちは箱田の逮捕を知ると武器を携えて矯志社に集まり、県当局と覚悟の一戦に踏み切ろうと熱を上げていく。以前から箱田派のブレーキが効かなくなった状態を憂慮していた宮川太一郎はこれに危機感を覚えた。彼は若手の暴走によって県警が踏み込んでくることを怖れ、真っ先に社の秘密書類を他所に移すと続いて頭山のもとを訪れて事の切迫を告げる。

「箱田が捕まったか……。それで他の連中も事を起こしそうだと」

「やはり元併心隊長の俺では就義隊にいた連中に心を開いてもらえなかったのだろうか……。箱田を止めようとした時も聞き入れてもらえなかった。皆も“箱田さんの矯志社除名の時宮川は弁護に熱心でなかった。今回の逮捕でも傍観していたのだ”と……皆の誤解をはらすためにも、ひとまず俺が県警に自首しに行こうと思う」

 宮川は非常に面倒見が良い性格だった。そんな彼にとって、熱を上げ過ぎた箱田を止められず、箱田の除名や逮捕にも手を打てなかった上に同志たちから責め立てられたのは余程悔やまれる出来事だったらしい。

「待て待て。ともかく落ち着いてじっくり考えようじゃないか」

 頭山はその場に寝転がって体を寛がせた姿勢でしばらく考え、やがて方針を決めた。

「迂闊に動いて手違いでも起これば世直しどころじゃない。いきなり動く前に作戦会議を開くように皆に呼びかけてみる」

 頭山のもとを発った宮川は強忍社に向かい、越智と久光忍太郎にも会って今後の対応策を話し合った。頭山は翌朝に兎狩りのメンバーを近くの山中に集め、箱田救出や対警察の作戦について論議する。ところが矯志社の徹底的な監視を継続していた警察側はこの機会を利用し、頭山満、進藤喜平太、松浦愚の留守宅を家宅捜索してしまう。

「公の警察が空き巣のような真似をするとは!」

 流石に憤慨した頭山は翌日松浦愚と共に警察署へ抗議に行くが、二人は官憲に反抗的であるとしてその場で拘束されてしまう。同日中には矯志社社員の進藤、林斧介、阿部武三郎、高田芳太郎、大倉周之助、奈良原至らが逮捕され、宮川もかねてからの決意に従い、逮捕された面々に殉じる形で自首を行う。そして彼らは福岡監獄へと収監された。翌々11日には矯志社社員の高田広次ら遠賀にいた同志たちも捕縛され小倉分営に投獄される。


 越智、久光、武部らは残党となった仲間を金ヶ嶽に集め、同志の救出を協議した。ちなみにだが、この金ヶ嶽がどこの山なのかは筆者がググっても出てこなかった。宗像と遠賀の間に四塚連山というのがあり、そのうちの一つが金山と書いて「かなやま」と読むらしいが同じ山かはわからない。

 ともかくこの残党会議を警戒した福岡警察署は70名も出動させて実力で排除させようとするも矯志社社員の猛者たちに撃退させられてしまう。県令は福岡憲兵隊に応援を要請してどうにか金ヶ嶽の協議を解散させるが、筑前政社と県当局の間には緊張状態が残った。


 これで自分たちまで逮捕されるようなことになれば西郷軍との呼応も叶わぬと武部・越智の両社長は鹿児島へ脱出し西郷隆盛の側近である桐野利秋と篠原国幹に匿ってもらうことにする。矯志社中堅社員の中でも、戊辰戦争で西郷隆盛に心酔し、薩摩との呼応を望んで箱田派と距離を置いていた平岡浩太郎などは福岡に残っていたが、幹部格や中堅社員の多くを相次いで失った筑前政社の3結社は組織の維持に不安を覚えるほどの大打撃を受けた。

 明治10年1月、3社の残された社員たちは組織を統合。荒津(荒戸谷町)というところに新たな結社“十一学舎”を結成して西郷の立ち上がる時を待った。

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